第八話 視線の先
「幹斗……起きて」
声とともに体を揺さぶられて、幹斗の意識が回復し始める。
まぶた越しでも強すぎる光が当たって、より固く目を閉じた。
「夏休みなんだから、もう少し寝かせてよ、母さん。っていうか眩しいからカーテン閉めて」
「起きて、ください……幹斗」
――ん、母さんの声じゃない?
そのことに気が付いて、幹斗は飛び上がるように状態を起こそうとした。
勢いよく上がった顔が、柔らかな何かにぶつかって止まる。
押しのけようと手を当てると、それが二つの膨らみだと分かった。
幹斗が驚いて見開くと、緑の瞳と目があう。
「ご、ごめん!」
慌てて胸部を掴んだ手を離すと、シュメルは首をかしげた。
「……? 大丈夫、です。シュメルですから」
シュメルはあどけない顔と細い体から予想していたよりも、局所的に肉付きがよいらしい。
幹斗にとってかなり大きな発見ではあったが、それ以上に注目すべきことが別にある。
「これ、まじで夢じゃないんだな」
「夢、ですか?」
「うん」
すべて夢だったなら、少しだけ寂しい気もするが、それ以上に一人の少女が辛い立場におかれていない方が、よかったと思える。
幹斗がそう考えた時、澄んだ声が聞こえた。
「先ほどから会話が聞こえているが、起床しているのか?」
幹斗が立ち上がって、声のした方へと向かうと、青い布がある。
それをめくり上げると、百六十センチ後半程度の背丈の女が立っていた。
「紀州、幹斗だな」
そう言ったのは、同い年か少し上程度の年齢の、すらりと伸びた手足が印象的な人物だ。
後ろで結ばれた黒い髪は、癖のない髪質をしていた。
やや縦長の輪郭をなしているのは、特徴的なものがない代わりに、欠点がなく、高い次元で整っている顔だった。
「そうだ」
「私はクシリナ・フュールド。階級は准尉だ。大佐がお呼びになっている」
「分かった」
幹斗は頷く顔の動きを利用して、クシリナの黒い瞳から数十センチ下のなだらかな丘を一瞬だけ見た。
――シュメルよりは小さそうな雰囲気があるけど、服の上からじゃ分からないらしいから確証はないな。
すぐに黒い瞳の方へと視線を戻すと、目頭から並行に伸びていたはずの目尻が、やや上がっているように見える。
――落ち着け、あの一瞬の動きを見切れるはずがない!
「それならついてこい」
平坦だった第一声よりさらに感情のこもっていない口調で言われ、幹斗に若干の迷いが生まれる。
――胸見たのがバレてるとしたら、素質的にはAランク以上だな……。
幹斗は、白い石づくりの廊下を、意識して上方を見つめながら歩いた。
クシリナの体にぴっちりと張り付いた黒い軍服に描かれる、腰から腿にかけての綺麗な曲線を見ないようにするためだ。
この星の軍事基地にどんな設備があるのか、まだ把握していない以上、歩くたびに僅かに振動している部分に視線が集中しているのを、どんな形で知られるか分からない。
たとえば、等間隔に鏡のようなものが設置されているなら、スリムな体型に対して少しだけ安産型であることを注意深く観察している様がクシリナに伝わってしまう。
あるいは、監視カメラのようなものがあるとすれば、下がることなく形を保つ綺麗な桃形を目に焼き付けていることが記録されてしまうだろう。
そういった理由で、幹斗は意識してクシリナの細く美しく伸びた首から下、いや、アーチを描いた背中、いや、長く伸びた足より下を見ないよう、視線を上に保ちながら歩いている。
他の部屋の入り口に掛けられた布とは違う、木製の立派な扉の前でクシリナは立ち止まる。
「ネイダー大佐、紀州幹斗を連れて来ました」
どうやらここがネイダー大佐の部屋のようだ。
こうなると分かっていたら、昨日この基地に到着し、部屋の希望を尋ねられた際に『特にない』とは言わず『一番新人なわけだから、一番の末席、もっとも大佐の部屋から遠い部屋でいい』と伝えるべきだった。
そうしていれば、この精神鍛錬ともいうべき時間をより長く取ることができ、機体の操縦技術も上がっていた可能性がある。
「通せ」
ク尻ナの後に続くと、燃えるような赤い目が待ち構えていた。
昨日はそれどころでなかったため、ネイダー大佐については断片的にしか把握できていない。
凹凸の激しい肉付きをしていた記憶はあるから、かなりのものを持っている可能性がある。
ただ、この女の顎より下を見るのは、リスクが高すぎる。
機体にさえ乗っている状態なら、最低でも逃亡できる自信はあるが、生身だと命に関わるだろう。
そのため、幹斗はやむを得ず、赤い虎のような目に視線を固定している。
「お前の経歴が固まった。
六月四二日、カルカダ周辺の情勢把握を目的に、現地にて一時徴用。
翌七月一日、逃亡した正規軍人に代わり、独自の判断で整備中の機体を操縦し、所属不明機四機を撃破。
同七月一日、王都への移動任務中にさらに四機の所属不明機を撃破。
翌七月ニ日、戦功および機械仕掛けの神の卓越した操縦技術を検討の結果、正式に任官を命じる」
「つまり俺は、
あの街の人間で、一昨日から軍の手伝いしてたが、
逃げた軍人に代わって街を守った。
その後は実際に起こったこととほぼ一緒ってことだな」
「そうだ。お前は今この時をもって、メディオ王国の正規軍人となった。何か疑問はあるか?」
「俺の待遇はどうでもいい。シュメルはどうなる?」
「本当にその娘のことが気になるようだな。しばらく身柄をこちらで預かる。少しでも情報を話せば、その功によって特赦と市民権をくれてやる」
「手荒なことをして情報を聞き出したりしないだろうな?」
「安心しろ。戦奴が知らされている情報など、大して期待していない。何ももっていなければ、適当にでっち上げて功にしてやるさ」
「分かった」
「期待しているぞ、紀州幹斗曹長。他に不明点があればクシリナに聞け。以上だ。下がれ」
この国の階級制度はまだ把握できていないが、『長』がつく以上、何階級か飛び越えて任官したのかもしれない。
幹斗が頷いてから、既に扉を開けているクシリナのあとに続こうとすると、後ろから声が掛かった。
「クシリナの察しの良さは、部下の中でも群を抜いている。行儀よくすることだな、曹長」
幹斗はそれに直接返答せずに、視線を数十センチ上げることで答えた。
ネイダーの部屋を出てからしばらく歩いた時、前方のクシリナが突然立ち止まると、こちらを振り返った。
黒い瞳は、ネイダー大佐ほどの迫力はないものの、強い圧力を発している。
――ここは言われる前に謝るべきか? いや、墓穴を掘る可能性もある、まずは様子をみるべきだろうか……!?
「大佐は能力を認めた者に対しては寛大かつ公正なお方だ。だが、他の軍人はそうではない」
――まずいまずいまずい。怒られる流れだこれ。完全にバレてやがる。ここはもう謝るしか――。
「ごめ」
「私もお前の事情を知っている。だから、特に気にすることもない。だが、他の上官に対しては、相応の口調で対応しろ」
――ああ、なんだ口調の話か。あぶねえ。
「了解」
「それでいい。戦場でお前に銃口を向けるのは、敵軍だけとは限らないからな」
「気をつける」
幹斗は頷く。
先ほどはシュメルに比べて大分、平に見えたが、再度確認したところ、多少は膨らんでいる気がしてきた。
「それから――」
クシリナがこちらから視線を外し、左斜め上を見た。
「見ている本人は悟られていないつもりかもしれないが、女は気が付いているものだぞ、曹長」
幹斗の視線は、頭ごと急激に下がっていく。
「ホント、すいませんでした。准尉」