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 以前と変わらない毎日があった。


 夏のあいだは青々としていた木の葉は、今は黄色く色づき、しだいに庭の地面に舞い始めた。

 突き抜けるように青かった空は、シャンティの瞳の色のように、淡い水色になった。


 毎年、訪れる季節の変化。今年もそれが来る。今年も、去年と同じことが繰り返される。そのはずだった。


 しかし、トゥーサンには、あの嵐の日以来、シャンティとカミーユの様子が変わったように感じられた。なにが、というわけではない。この数カ月、二人は以前と同じように、庭で駆けまわって、剣を交え、馬に乗り、かくれんぼをし、兎や狐を追いかけている。


 しかし、なにかが違う。昨日と今日の空が同じように見えていたのに、どの瞬間からかもの悲しい淡い水色になり、そして気がつけば冬が近づいている。そんなふうに、いつのまにか、カミーユを包む幼いがゆえの明るい空気も、シャンティの水色の宝石の瞳も、哀しい冬色に代わっているように思えた。


 紅い夕陽が、デュノア伯領の農地の地平線に沈みきったころ、デュノア伯爵を乗せた馬車が館の門の前に止まった。

 門がゆっくり開く。

 重苦しい音を立てて、馬車の車輪は玄関の前の砂利道を転がった。


 その音を聞きながら、シャンティとカミーユは食事を口に運んでいた。

 二人の母である伯爵夫人、ベアトリスは食卓にはいない。ベアトリスは身体が弱く、カミーユを産んだあといっそう体調を崩して、一日のほとんどを自室で過ごしていた。


 もともと彼女は、この伯爵家とは比べ物にならないほど位の高い公爵家から嫁いできたため、ここの空気もあまり肌に合わなかったのかもしれない。

 なぜこのような身分違いの婚姻が成立したのか、その経緯を二人の子共は知らなかったが、もう子供を産めないとなると最後に産んだ子供がかわいいのか、ベアトリスはどちらかといえばカミーユに甘かった。


「父上がお帰りになったね」


 カミーユは隣に座る姉に話しかけた。


「そうね……」


 兎の肉にも、添え物のインゲンにも手をつけないまま、シャンティはフォークを片手にぼんやりと返事をした。そういえば、前菜のスープにもシャンティは手をつけていなかった。


「……食欲ないの?」


 心配そうにカミーユが聞いた。傍らでほぼ同じものを食べていたトゥーサンも、顔をあげてシャンティを見る。


「うん、まぁ……」

「だいじょうぶ?」

「うん」


 あの嵐の日に起こったことを、カミーユはなにも聞かなかった。

 シャンティもなにも話さなかった。

 あの日のことは、なにもなかったかのように。

 全ては悪い夢だった、少なくともシャンティはそう思うことにしていた。


 けれどカミーユはあの日以来、妙に心配性になった。シャンティが転ぼうものなら、自分よりも背の高い彼女をおぶって館に連れ帰ろうとする。咳きこめば、女中にさせずに自分で水を取りに行って持ってくる。暑いと言えば扇子であおごうとし、寒いと言えば自らの上着を脱いで肩にかけた。それほどまでに過保護になった。カミーユなりに、あの日守れなかった姉を、今度こそ自分が守りたいという気持ちの表れだったのかもしれない。


 だいじょうぶだとは言いつつも、食事を口にしないシャンティをカミーユは真剣な眼差しで見つめる。あいかわらず彫刻のように美しいが、顔色は悪かった。ここ何日か、食事を食べ残すようになっていたので、少し痩せたようにも見える。


「本当に大丈夫なの? 食べないと元気出ないよ」


 心配性になった弟に、シャンティはようやく少しだけ笑みを浮かべた。


「ありがとう。ちょっと疲れているせいかな、食欲がなくて……でも、元気よ、大丈夫」


 シャンティは弟を安心させるために言った。けれど心中では、ひどく暗い不安や焦りのようなものが広がっていた。


 ――わたしは一体どうしたの?


 風邪をひいたわけでもないのに、身体は食べ物を受け付けようとしなかった。

 大好きだったジャガイモのポタージュでさえもが、喉を通らず、時折、頭が痛くなるような吐き気におそわれた。


 そんなシャンティの様子を見て、トゥーサンは眉間にしわを寄せた。

 なにかが違う。あの日からなにかが変わった。

 太陽が沈むのが、気づかぬうちに早くなっていくように、少しずつあの日からなにかが違う。


 重く堅い足音が扉の向こうからゆっくり近づいてくる。それは、まるでなにか恐ろしいものが徐々に迫ってくるように、シャンティには聞こえた。


 足音が扉の前で止まり、女中が扉を開けたときだった。

 シャンティはこみ上げてくる恐怖と吐き気に、口元を両手で押さえた。

 ううっ、と吐き気をこらえつつ、椅子から倒れる。


「姉さん!」


 カミーユがシャンティの肩を支えた。

 トゥーサンも腰を浮かせるが、部屋の中に刺すような空気が流れるのを感じて、シャンティ以外の一同は扉のほうを向く。


 姉弟の父で、デュノアの領主である、伯爵がそこには立っていた。


 その顔には見てとれるような表情がない。

 そのことが、ここにいる全ての者にとって恐ろしい。

 シャンティの様子など気にするふうでもなく、ただ一言、伯爵は言った。


「アベラール邸に行ってきた」


 床に沈みこむような重さで、食堂に声が響いた。〝アベラール〟という言葉にシャンティがはっとする。


「婚約を解消したいそうだ」


 室内は静まり返っていた。

 どれほどの時間が流れたのか分からない。

 どうして、という声も出せずに、シャンティの肩が大きく揺れ、吐き気と衝撃でその場に倒れた。

 トゥーサンが駆けより、その身体を支える。


「医者を! だれか医者を呼べ!」


 女中があわてて走って行くのを見送ると、室内にはまた静寂が訪れた。

 恐ろしいほどの静けさだった。

 風の音もしない。だれかの心臓の音が聞こえてきそうである。

 息をすることでさえ苦しくなるような重苦しい空気だった。

 それを唯一破ったのが、カミーユの声だった。


「姉さん……っ」


 カミーユはできるかぎり優しく姉の身体を抱きしめた。





 本当の嵐が訪れたのは、医者がシャンティの身体を診たあとだった。


「ご懐妊されております」


 その一言を、伯爵は、だれよりも先に、書斎で告げられた。書斎からシャンティの部屋までは、いくつかの部屋や廊下を通り過ぎなければならない。

 だれがどこで何をしていようが構わず、伯爵は周囲を蹴散らす勢いで、シャンティの部屋に向かう。

突き飛ばされて倒れた女中は、その場で膝をついて謝罪したが、そのときには伯爵の姿はもう視界から消えていた。そうして何人もの使用人や女中が圧倒される中、伯爵はシャンティの部屋の扉を払いのけるように開ける。


 眠るシャンティの傍らで、カミーユが椅子に座っていた。その横にはトゥーサンが立っている。

 乱暴に開いた扉に驚いた二人は、大きく目を見開いた。


「父上……?」


 恐怖に肌が泡立つのを感じながら、カミーユは小さな声で言う。その声は、伯爵の怒りの形相にぶつかって、板張りの床に落ちた。


「どけ、二人とも」


 伯爵の言葉に、カミーユは腰を浮かす。


「なにを……?」


 不審に思ったのは、ほんの一瞬だった。

 次の瞬間、カミーユは信じられない思いで叫んでいた。


「父上!」


 カミーユがあわてたのは、静かに眠るシャンティの腕を、伯爵が乱暴に引き寄せたからだった。


「父上、やめてくださいッ!」


 瞳が開けきらぬシャンティの身体を引きずるように布団から出し、ベッドの外へ投げ出した。ぱさりと、シャンティの細い体がじゅうたんの上に落ちる。

 うつぶせに起き上がろうとするシャンティは、なにが起こっているのか判断できないでいた。


 目の前には、絨毯の模様。

 カミーユの声がする。

 そしてカミーユの手がシャンティを支え起こそうとしている。


「カミーユ……?」


 つぶやいたと同時に、大きな手で両腕を掴まれ引き起こされた。

 あまりの力と速さに息が詰まる。


「父上!」


 カミーユの悲鳴に近い声が、どこか遠くで聞こえるような気がした。

 激しい痛みが頬から伝わって背筋まで流れ、シャンティの身体はベッドに投げ出される。なにが起こっているのか、まったく分からなかった。

 シャンティの頬を殴った伯爵の呼吸は荒かった。


「だれの子だ」


 短く問う声は、激しい怒気をはらんでいる。

 その言葉に、シャンティだけではなく、カミーユやトゥーサンも動きを止めて身を固くした。


「――え――……?」

「この、淫らな……売女め……!」


 一言口に出れば、伯爵の言葉は止まらなかった。


「いつからだ! いつからおまえは、私の知らないところで男と交わっていたのだ! おまえが……おまえが……こんな娘であることを、アベラール侯爵殿はご存じだったのだろう。いやそんなことはもはやどうでもいい、こんな娘を侯爵殿に差しださずに済んだのがせめてもの救いだ。この淫乱な娘が……! 私に恥をかかせるつもりか! 汚れた女だ!」


 もう一度頬を叩かれたが、頬の痛みよりも、伯爵の言葉が鋭い刃のようにシャンティの心を切り裂き、血を流させた。

 自分が、泣いているのか、泣いていないのかも、分からない。

 今、父の言葉が、父の暴力が、泣き叫ぶカミーユの姿が、その全てが現実なのかどうか判断できない。

 呆然としていたシャンティは、身体に巻きついてきた温もりに、はっとした。


「……カミーユ――」

「やめてください、父上! 姉さんは襲われたんです。無理矢理に……。お願い、これ以上姉さんを傷つけないで!」


 泣きながら叫ぶカミーユの腕を、伯爵は片手で掴んでシャンティから引き離した。


「カミーユ、どいていろ」

「伯爵さま! どうかおやめください!」


 再び拳を振り上げる伯爵の腕を今度はトゥーサンが止めに入るが、振り払われる。その勢いでトゥーサンが後ろの飾り棚にしたたか身体をぶつけ、上に飾ってあった花瓶が落ちて派手に割れた。

 その音に、一瞬、静けさが戻る。


「よかろう」


 血の味がした。叩かれたときに、口のなかを切ったのかもしれない。


「シャンティよ。この館から出ていけ。二度と私たちの前に現れるな」


 頭を鈍器でなぐられたような衝撃を、シャンティは感じた。今まで受けたどんな暴力よりも、それは強烈な痛みだった。


「伯爵さま……」


 みなが唖然とするなか、トゥーサンがかすれた声で呟く。

 そして、そのときはじめてシャンティは声を発した。


「今……なんて…………」

「聞こえなかったのか。おまえをデュノア家とこの領地から追放する。おまえの名前を語ること、そしてこの地に足を踏み入れることを永遠に禁じる。聞こえたなら今すぐに出ていけ」


 ――これは……これは、夢だ。

 ――全てが、夢だ。

 ――あの嵐の日から、わたしはずっと夢を見ている。

 ――とても、悪い夢を――。


 シャンティは、目の前の光景から意識が遠ざかって行くのを感じた。

 まさか、これが現実であるはずがない。産まれ育ったこの家を、場所を、そして名前を、全て失くすなんて。そんな現実がありうるはずがない、シャンティはそう思った。

 手放しそうになる意識を現実に戻したのは、伯爵の平手だった。


「ぼんやりしているなら、私が引きずり出してやる」


 そう言ってシャンティの腕を掴み、言葉通りその身体を引きずるようにして扉へ向かって歩み出す。


「い……や……! いや! カミーユ! カミーユッ!」


 ようやくシャンティは叫び声をあげた。


「姉さん!」


 カミーユの絶叫にも似た声が、引きずりだされるシャンティを追いかけた。

 伯爵の足にしがみつこうとするのを、その足で蹴られて、カミーユは勢いよく後方へ飛ばされる。


「カミーユ!」


 もはやシャンティがひきずられながら伸ばす手も、カミーユには届かない。

 涙でぐしゃぐしゃになったカミーユの顔が瞼に焼きついた。

 玄関を過ぎ、外門の外まで連れてこられ、シャンティの身体は放り投げられるように地面に落ちる。

 けれどシャンティはなおも父の足元にすがった。


「お父様……お願いします……っ。下女でも、馬屋の番でも……なんでもやります……わたしをここに置いてください」

「…………」

「……豚や牛の小屋の中でもいいです、わたしを追い出さないで……っ」


 とうとうと流れる涙に気づく余裕もなく、シャンティは父の足にすがりつく。

 けれどシャンティを見下ろす伯爵の目は、すでに父親のものではなかった。


「シャンティ・デュノアは死んだ。二度とその姿は我々のまえに現れることはない」


 シャンティは泣き崩れた。

 外門を衛兵に閉めさせて去りゆこうとする父の背に、シャンティは最後の懇願をする。


「……せめて……お母様に……最後お別れをさせてください」


 その言葉に、伯爵は足を止める。

 そして後ろ姿のまま、会わなくていい、とぴしゃりと言い放った。


「会わせないことが、死にゆく娘に対する、父の最後の親切だと思え」


 伯爵の背中が、玄関の奥へ消えていく。

 衛兵も、なにが起こったか理解できないまま、命じられた通りかたく門を閉ざした。


 見慣れたはずの門や、玄関。白い壁に彫刻のほどこされた館の屋根。

 その全てが、ひどく大きく見えた。

 こんなにこの門は大きかっただろうか。

 自分は、いったい今までなにをしていたのだろうか。


 シャンティは、呆然と座ったまま、館のほうを見ていた。

 目からは滂沱と涙が流れ続けているが、そのことに気づけないでいた。


 扉の向こうに、カミーユがいる。父も、母も、トゥーサンも、乳母のエマも、いつもの女中も、使用人も。

 扉の向こうには、シャンティの知っている現実がある。

 けれど今、シャンティがいるのはどこなのだろう。

 この地面の砂の感覚、秋の匂いがする風、これは現実のものなのだろうか。


「だれの子だ」


 不意に、父の冷たい声が聞こえた気がした。


 ――お腹の子……?

 ――わたしのお腹に子供がいる? このわたしが?


 ここにきてようやくシャンティは、その事実にぼんやりと思い至った。

 言葉としては理解できたが、現実としてはまだ理解できない。

 あの日の事件のときの子。

 信じられなかった。

 顔も名前も分からない男とのあいだの子。

 まだ形もないような存在に対して、恐怖のような、憎しみのようなものさえ覚えた。それはあの日の感情と混じりあっていた。

 けれどお腹の中の子供はなにも知らない。その子に罪はない。

 悲しさ、悔しさ、怒り、それらのやり場のない感情の波が、シャンティに押し寄せてきた。


「カミーユ……」


 助けを求めるようにその名を呟く。

 つい今しがたまで一緒にいたのが、遠い昔のように感じられた。


「カミーユ、カミーユ……」


 けれどその温もりはもうない。

 手を伸ばしても、もう触れることはない。

 シャンティは言葉にならない感情の分だけ、ひたすら涙を流しつづけた。



 ――助けて……。

 ――だれか……わたしを……――。







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