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騎士館から王の住まう宮殿までは、徒歩で三十分ほどである。
正騎士隊の副隊長が食堂を去ったころ、国王の書斎では、正騎士隊隊長シュザンが跪いていた。
朝の光がシュザンの茶色い髪を柔らかく包んでいる。
「シュザン、顔を上げよ」
「は」
国王の言葉にシュザンは無駄のない動きで立ち上がる。
「以前からそなたには相談していたことだが」
「はい」
「エストラダがフエンリャーナの王都をついに制圧した」
「…………」
シュザンの冷静な瞳がかすかに見開く。
「このところの、あの国の動きはわからぬ」
王は重い口調で言った。
「エストラダは内政問題を抱えているはず。そのなかで、他国を攻め続けているという状況が私には理解できぬ」
シュザンはゆっくりとうなずいた。
シャルム王国はベル=デュ大陸の南方の海に接しているが、エストラダ王国は北方の海に接している。
もともとエストラダ王国は、シャルム王国の半分にも満たないほどの領土しかなかったが、数年ほど前から周辺の小国を侵略しはじめ、今やフエンリャーナ王国を含めると、シャルム王国の三分の二ほどの大きさになる。
「このまま、エストラダは侵略を続けるやもしれぬ」
エストラダとシャルムの間にはいくつかの国を挟む。
竜の形をしたシャルムの領土の左翼側にはドゥランとファルファレロが、竜の頭の部分にはシュレーズとファルケが、そして王都に最も近い腹の部分にはネルヴァルとクラビソンが、それぞれ両国の間にある。シャルムは大陸屈指の大国だが、各国の領土の大きさはまちまちだ。
「万が一エストラダがクラビソン、続いてはネルヴァルを手中に収めれば、次は我が国に攻め入る可能性がある」
「はい」
「しかしエストラダはそこまでやるだろうか?」
王に問われて、シュザンはしばし逡巡してから答えた。
「現在エストラダのなかでどのような状況になっているのかは、推測の域をでません。内政の不安を、他国を侵略することによって、外側に向けているということも考えられます。とすれば内政問題が収束すれば、徐々に侵略も収まるでしょう」
「ふむ……」
「しかしながら、もし第一王子と第二王子の諍いで、どちらかが優位に立ちつつあり、さらにその者が侵略を推し進めているのであれば、これからも侵略は止まりません」
「なるほど」
「さらに、もしエストラダの侵略の目的が、北と南の海をつなぐ行路の掌握にあるなら、我が国に攻め入るかどうかはその道筋によって左右されます」
「その道筋とは?」
王は顎髭に手を置きながら、シュザンの言葉を待った。
「まず、フエンリャーナを攻略したいま、その南のブルハノフ、そしてヘルレヴィを南下する道があります。しかしこれはエストラダ本国からかなり東に逸れた行路になりましょう。もうひとつは、シュレーズ、ファルケを新たに侵略する道です。これですと、かの国から、ほぼ真南に位置する海への道筋ができるでしょう。最後のひとつが、クラビソン、ネルヴァル、そして、我がシャルムを侵略する道です。この道は、ややエストラダから西に逸れる行路になりますが、大陸の西方諸国および南に位置する島国との大きな足掛かりとなりましょう」
シュザンの説明を聞き、シャルム国王エルネストはうなった。
シャルムも、はじめから竜の形の国土を有していたわけではなかった。今の直轄領を中心とした領土を有していた小国が、何代もの王の治世を経て周辺諸国を制圧し、今の竜の形になったのである。
けれど前国王の治世からは、シャルムが積極的に侵略することはなく、国境を守るために隣国と争いを続けているのみである。侵略に歯止めがかかったのは、シャルム周辺の小国を制圧しつくし、残るは大国ばかりとなったためだ。
国境の戦況が厳しくなれば王宮の正騎士隊が動くが、小競り合い程度であれば、基本的には国境を護る辺境警備隊を中心に、場合によっては貴族の私兵も加わって争いを収めた。
「シュレーズ方面から、我が国に攻め入ることはないか?」
「それも考えられなくはありませんが、我が国とシュレーズが国境を接しているのは、竜の頭の一部に過ぎません。そこから大軍を指揮して侵略するのは、困難でしょう」
「ネルヴァルが墜ちれば、竜の身体に、鷹のくちばしが食い込むか……」
エストラダが、北方の周辺諸国を征服し、ネルヴァルまで進行すれば、その国土の形は、鷹が翼を広げたようになる。それは、大国シャルムの竜の腹に襲いかかる鷹の絵のような国土図となる。
「ネルヴァルは、エストラダが今まで侵略してきたような小国ではありませんので、戦いとなったら苦戦を強いられるでしょう」
「ふむ、しかし彼の国がフエンリャーナの王都を制圧したのは予想以上に早かった」
「仮にこのままの勢いでエストラダが侵略を続けたとしても、我が国に至るまでにはかなりの年数を要するはずです。今、我が国を守るためにできることは外交と強兵です、陛下」
「外交と強兵か」
「微力ながら、私は強兵に力を尽くす所存です」
「おまえがいれば頼もしい。しかし外交についてはいかがしたものか。彼の国が動く前にどのような策を打っておくのが有意なのか、現時点では判じかねる」
「周辺諸国をはじめ、大陸の国々は皆、我が国と同様の状況でしょう。エストラダと他国がどう動くのか様子をうかがっています。まだ時間はあります。正確な情報を得るごとに、策を練っていけばよいのです」
「そうか」
シャルム国王は、朝のさわやかな陽気に似つかわしくない足取りの重さで、シュザンの前まで歩みよった。
「ところで、我が国も内政問題を抱えておる」
その語調には危うい響きがある。
シュザンは、己の感情を胸の奥に押し隠すように、視線を床に落とした。
「リオネルは立派な青年になったな」
「は……」
「我が国は大国だ」
「仰せのとおりです」
「だが内政問題を抱えたまま他国と戦うのは、国が滅びる所以だと思っている」
「…………」
「私はそなたのことを信頼しておる」
「身に余るお言葉――」
「そなたをこの役職につけたのは、そなたの腕と、知略と、忠誠心をかってのこと。そのことを忘れるなよ」
「……御意」
シュザンは頭を下げながら、ある面影を思い出した。
王の言葉はその全てが真実とは限らないことを、シュザンは知っていた。
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小さな木の杯を使って、アベルは赤ん坊に乳を飲ませている。乳はアベルの身体からでることはなかったので、エレンの知り合いの母親から、毎日もらってきていた。
アベルは、ベルリオーズ家別邸に戻ってきたのち、最初の四日間は、弱りきった身体を寝台で休めていたが、五日目日からは赤ん坊の世話をはじめた。
ドニがまだ動かないほうがいいというのを、アベルは落ち着かないと言って、なにやら仕事を見つけては動きまわっている。
慣れない手つきで赤ん坊の世話をする少女を、エレンはそっと見守った。
少年の恰好をしたままだが、アベルはまるで妹のようだ。そして、その子イシャスはエレンにとって我が子のように感じられた。
「アベル、そろそろ休んだら? あとはわたしがやっておくわ」
赤ん坊の服をたたみながらエレンは言った。
アベルが視線をイシャスからエレンの背中へと移す。
「エレン」
「なに?」
アベルは深く考えこんでいる様子だったが、エレンは洗濯物を畳むことに集中していて気づかない。
「……わたしは、ここにいていいのでしょうか」
アベルの質問に、エレンは作業する手を止めた。
振り返ると、アベルの水色の眼差しとぶつかる。
エレンは一連の出来事を思い起こした。
イシャスを産んで意識を失っていたはずのアベルが、突然失踪した日の朝。急ぎ王宮のリオネルに知らせてから、エレンがやきもきして過ごしていると、信じられない速さで、リオネルは館に戻ってきた。その顔は蒼ざめていた。
あのときほどリオネルが顔色を変えたところを、エレンは見たことがない。
ほとんど休憩もとらず、そのままリオネルとベルトランはアベルを探しに出かけた。
翌日も、その次の日も、二人はアベルを探し続けた。
毎晩遅くに戻る二人はひどく寡黙だった。
そして、弱り果てたアベルを抱きかかえるようにして連れて帰ったのが、失踪してから五日目の夜。
エレンは、そのときのリオネルの表情が忘れられない。
一番近くで二人を見守ってきたからこそ、そして女性であるエレンだからこそ、気がついてしまった。
――――リオネル様は、アベルに恋をしている。
そのときエレンは確信を持って悟った。
エレンは二人のことを心から慕っていたので、喜ばしいことであるはずだった。
けれど純粋に喜んでばかりはいられない現実がある。
身元のわからぬ少女を、ベルリオーズ家の跡取りであるリオネルが好きになってしまったこと。加えてリオネルは騎士叙勲後に、父親の定めで侯爵家の令嬢と婚約するという話があること。
これらのことが、この先、この二人をどれほど苦しめることになるか、エレンは想像すると胸が苦しくなった。
こちらを見据える、まっすぐな視線に、エレンはどうにか笑顔をつくって返した。
「あなたはどうしたいの?」
「……わたしは、迷っています」
「そうみたいね」
「何度もリオネル様に助けられました」
「そうね」
「そのうえ、ここに居ていいと、おっしゃってくださいます」
エレンはうなずいた。
「わたしも、あなたたちに、ここに居てほしいと思っているわ」
その言葉に、アベルがほほえむ。
館に戻ってきてから、時折見せるようになったその笑顔が、エレンは好きだった。
アベルはリオネルを変えたが、リオネルもたしかにアベルを変えた。
「なにか、リオネル様のお役に立てることがしたいと、思っています」
「…………」
「わたしのようになにも持たない者が、おこがましいことを言っていることは、重々承知のうえです……」
「役にたつこと、ね」
「ですが」
アベルはうつむき、思いつめたような表情になる。
「わたしは、身元を明かせない者です。そのような人間が、このベルリオーズ家に、そしてリオネル様のおそばにいてはならないということも、わかっています」
アベルが言うことは、もっともだ。
別邸にいるあいだはともかく、ベルリオーズ領の館に戻れば、拾われてきた、どこの馬の骨ともわからぬ少女を、大切なベルリオーズ家の嫡男のそばに置くことを、周囲が許すかどうか。
返答できずにいると、アベルが話を続けた。
「ご恩をお返ししたいという思いと、ここを出たほうがいいのだという思い――今は、その二つの思いがあります」
「もう二度と、黙っていなくなってはだめよ、アベル」
エレンが慌てて言うと、アベルは首を横に振る。
「わかっています。これ以上ご迷惑はかけられません」
アベルは、自分が失踪してから五日間ものあいだリオネルが探し続けてくれていたことを、エレンから聞いていた。
答えが出ぬまま、二人がそれぞれの考えに耽りかけたとき、扉を叩く音がする。
エレンが扉を開けに行くと、そこにはリオネルとベルトランが外套をまとったまま、扉の前に立っていた。