19
簡単な医療道具が置いてあるという部屋に寄り、木箱を持って、三人は食堂に入った。
食堂には、まだ比較的たくさんの蝋燭が灯っている。
リオネルは当初、少女の申し出を断った。彼女の身体が心配だったからだ。けれど引きさがる気配がなかったので、受け入れたほうが早くこの子を休ませることができると考えた。
消毒用のアルコール液や、布を取り出し、少女はリオネルの手を取る。
以前のアベルであれば、手当のしかたなど分からなかった。けえれどデュノアの館を出されてから、身体のあちこちに傷を作るようになったので、簡単な処置の方法くらいは見よう見まねで習得していた。
それでも他人を介抱するのは初めてのこと。必死だった。
そんな少女の姿を、リオネルとベルトランはまじまじと見つめる。
明るいところで見れば、リオネルの手当てをしているのは、彫刻を思わせるような、美しい少女だ。
少年の姿のときはひどく汚れていて気がつかなかったが、身なりを整え、白い夜着をまとえば別人のようだった。
水色の瞳は蝋燭の炎に神秘的に輝き、肌はなめらかで、暗い部屋に浮かび上がるように白い。整った顔立ちは、熱で頬が紅潮しており、真剣そのものの表情でリオネルの手に薬を塗っている。耳より下ほどまでの長さの髪は、月明りを編み上げたような金色だ。
細い肩には、ベルトランの上着がかかっている。夜着一枚の姿だったので、リオネルがなにか持ってくるように指示したのだった。
黙々と手を動かしていた少女に、リオネルは声をかけられずにいる。
すると、先に口を開いたのは少女のほうだった。
「あの……」
視線を上げないままの少女に、リオネルは黙って続きを待つ。
「昨日、助けてくださったのに……ごめんなさい」
「昨日?」
「……街で」
「ああ、きみが謝ることはないよ。さっきは怖がらせてしまって、こちらこそ悪かった」
正確には、昨日ではなく、三日前のことだった。アベルは、あれから二日以上眠っていたので、時間の感覚が失われているのだ。
「それに、この手は自分でやったんだよ」
リオネルはそう言ったけれど、アベルはうなずかなかった。自分が剣を振り回したりしなければ、こんなことにはならなかったという気持ちもあったし、心のどこかで、この青年の優しさが怖かったからだ。
「……どうして、助けてくださったのですか? ここは、どこなのでしょう。あなたがたはだれ?」
アベルは、先ほどからずっと疑問に思っていたことを口にした。
一度にいろいろ聞かれて、リオネルはどこから答えようか逡巡する。
少女が口にした最初の質問が、最も答えづらかった。
「助けたのは……。やはり、この話は明日にしないか。今夜は疲れているだろうから」
「…………」
「おれの名前はリオネル。この人は、ベルトランだ。きみは?」
「……アベル、です」
「アベル……」
ベルトランは、その名を納得がいかないというように呟いた。アベルは男の名だ。
けれどリオネルは笑顔で言う。
「アベル、手当てしてくれてありがとう」
アベルは、そのとき、初めて顔をあげてリオネルを見た。
二人の視線が絡み合う。
しばらく見つめあったあと、アベルは紫の瞳から逃げるように視線を逸らした。
リオネルに名を呼ばれて既視感があった。
自己紹介をし、名を呼ばれ、生まれたときからそんな名前だったような気がしたことがあった。その名を呼んだのも、こんな、紫色の瞳の持ち主だった。
陽に焼けて豪快な雰囲気のサミュエルと、白く秀麗な顔立ちと柔らかな物腰のリオネルでは、まったく印象は異なるというのに、どうしてか胸の奥がひりひりした。
春の梨の果樹園。
果たされない約束は、アベルの心に、優しい棘となって突き刺さっている。
アベルは手当てを終えると、リオネルの手を放し、
「あまりこちらの手は使わないでください。大事にしていれば、治るまでにそんなにかからないと思います」
と、小さな声で言った。リオネルが微笑む。
「お医者さんみたいだね」
アベルは、自分が負った怪我の経験からそう言ったのだった。
「ありがとう。では、部屋に案内するから、もう休んでほしい」
リオネルが立ち上がる。次いで、アベルも立ちあがろうとしたとき、しばらく感じていなかった眩暈に襲われた。
「アベル!」
緊張の糸がきれたように、アベルはその場に倒れる。
床に落ちる寸前に、リオネルはその身体を受けとめ、ベルトランに告げた。
「ドニを、呼んでくれ」
長身の若者は指示されるより前に、すでに扉へ向かっていた。
真夜中に呼び出されたドニは、少女の身体を診て、命に別状なしと診断した。
「しかしながら、動き回る体力は残されていません。剣を振るうなんて、もってのほかです。この少女を助けるつもりでしたら、決して今後、そのようなことをさせてはなりません」
それとなくドニに非難されて、二人は肩をすくめた。