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 長い、長い、夢を見ている。

 覚めることのない、長い夢を。


 ……地面を、木を、草を打ちつける夏の雨。

 正体の分からない恐怖。

 父だった、伯爵の冷たい瞳。振り下ろされる拳。

 少年の悲しみに満ちた泣き顔。

 短く切られていった、陽に光る金色の髪。

 堅い寝台。身体のだるさ。

 朦朧とした意識と、サミュエルの笑顔。

 ナイフを手に切りかかる男たち。

 扉を堅く閉ざす、町の人々の顔。堅い床の上。家畜の匂い。

 足の裏から伝わる冷たい雪の感触。


 雪が舞っている。


 体中を蹴る足。周囲に立つ大勢の人の目。

 消えていく意識のなかで、最後に見たと思ったのは、深い紫色だった。

 サミュエルの幻を、見たのかもしれない。

 あの、コカールの夕暮れ時のように。

 そして、目の奥に浮かんだのは、遥か彼方に霞む春の果樹園。

 夢のなかでなら、泣けるだろうか。

 覚めることのない悪夢なら、いっそ、そのなかで正気を失ってしまいたい。

 闇のなかで伸ばした手が、だれにも届かない。そう思ったとき。

 ふと、手に触れる柔らかい感触が、意識に入り込んだ。


 ――柔らかい。


 指先を動かすと、さらさらとその感触が伝わってきた。

 指先に力を入れ、それを掴んで引き寄せる。

 すると足に寒さを感じた。

 アベルはそっとまぶたを開く。

 なにも見えない……いや、ほんのかすかな黄色い光が目の端に映る。

 そちらへ顔を向けると、消えかけの蝋燭の灯が、弱々しく揺れていた。


 ――ここは天国、それとも、地獄……。


 アベルは、ぼんやりと思う。

 天国にしては暗かったし、地獄にしては、ここは心地よく、暖かかった。

 手に触れていたのは布団。さっきはそれを引っ張ったので、足元が外気に触れたのだ。

 自分が寝台の上にいるのだと分かるまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 けれどそれ以上は、どれだけ考えても、記憶を辿っても、自分がどうしてここにいるのか思い出すことができない。


 鳴り響くような頭痛と眩暈を感じながら、ゆっくりとアベルは寝台の上で上体を起こした。

 暗闇に慣れてきた目が室内の景色を捉える。

 揺れるかすかな炎が照らしだすその様子は、信じられないものだった。


 豪奢な肘掛椅子と円卓、飾り鏡のついた小机、細やかな彫刻が囲む石造りの暖炉、壁に掛けられた大きな額縁、窓にかかる厚手のカーテン。

 アベルのいる寝台は、デュノア邸にもなかったような大きさだ。寝台にかかる天蓋にも、細かい絵柄と、透かしがほどこされている。

 夢をみているのだろうかと、アベルは思った。

 長い、長い夢。

 その続きを見ているのか、それとも、今までの全ても、目の前の風景も、全て現実なのだろうか。どちらにしろアベルは混乱していた。


 必死に辿る最後の記憶。

 アベルは、雪が降る街で、店先に座っていた。


 ――そして……?


 身なりのよい男に殴られたような気もするし、そうでなかったような気もする。

 紫色の瞳が、アベルの顔を覗き込んでいたような気もするし、そうでなかったような気もする。

 アベルは、心臓が早鐘を打っているのが、体調が悪いせいなのか、他の理由のためなのか分からなかった。

 手の平を眼前に持ってきて、まじまじと見つめる。

 自分の手だ。

 そう、以前は「シャンティ・デュノア」と呼ばれていた、そして、今は「アベル」という名の者の手。その手を頬にやれば、確かに触れる感覚がある。アベルは、少しずつ、現実感を取り戻していった。


 足に力を入れてみれば、動いた。

 街にいたときは、指一本さえ動かせなかったのに、今はなんとか身体に力が入るまで回復している。

 自分の足ではないような錯覚にとらわれつつ、足を寝台から降ろすと、アベルの着ている、白く、薄い、夜着がふわりと揺れる。ぐっと全身に力を入れ、立ち上がった。すると急に足から力が抜けていくように、がくりとその場に落ちる。

 もう一度、さらに力を込めて立ち上がり、震える手足で、踏みしめるように、扉に近づいた。

 取手を下げれば、扉は低い音を立てて開く。


 アベルは目の前に現れた長い廊下に、眩暈を覚えた。

 やはり自分はまだ長い夢のなかにいる、そう思った。

 この廊下の先にいるのは、天使だろうか、悪魔だろうか。

 規則的に灯されている燭台が映す光と影が、アベルが歩くたびに大きく揺れる。

 永遠に続くような廊下は、どこまで進めばよいか分からなかった。

 自分がどこへ行きたいのかも分からない。

 静まり返った廊下を歩いていると、自分の手足から感覚が失われていくような気がしてくる。

 そのとき。


「きみは……?」


 突然聞こえてきた声にアベルは振り返る。

 今、歩いてきた廊下の向こうに佇む姿があった。

 光の届かない闇にまぎれてしまいそうな、濃い茶色の髪の青年。

 アベルはあとずさりする。この夢のなかで出会うものはとても恐ろしいもののように思えた。

 その様子を見てとった青年は、戸惑いを浮かべる。


「……きみは……」


 アベルは踵を返し、走り出そうとした。


「待って!」


 青年が後から追ってくる。足取りもおぼつかず、ほとんど走ることのできないアベルはすぐに青年に追いつかれ、腕を掴まれた。


「…………!」


 恐怖がかけぬける。

 腰に手をやるがナイフがない。自分が、女性用の夜着一枚という姿であることに、そのときようやく気がついた。


「離して!」


 咄嗟に目に入った相手の長剣に手を伸ばし、それを引き抜く。

 思いもよらない事態に目を見開く青年。その紫の瞳に、燭台の炎を反射して光る鋭い刃と、白いアベルの姿が映っていた。


「それ以上近づかないで……」


 アベルは、青年の喉元に剣先をつきつける。


「近づいたら、その首を掻き切るわよ」

「その前に、おれがおまえの腕を斬る」

「…………!」


 青年のものではない別の声が聞こえた瞬間、アベルの腕はしたたか剣の柄で叩かれ、長剣は手から落ちた。

 腕を押さえながらアベルは声のほうを向く。

 長身の男がいた。その髪は、燃えるような朱色だ。

 彼の発した台詞とは裏腹に、腕は叩かれただけで斬られてはいなかった。

 アベルが再び剣を拾おうとすると、長剣はその男の靴先に蹴られて、青年の足元まで滑って止まる。

 アベルは恐怖に身を震わせながら、赤毛の男を睨んだ。

 嵐の日の記憶がよみがえる。

 今のアベルは女の姿である。武器を持たぬ自分には対抗する術がない。

 瞳に、怒りと敵意をみなぎらせて、アベルは男たちを交互に睨んだ。


「わたしに触れたら、舌を噛み切ります」


 青年の表情が、さっと変わった。


「待って。すまない……驚かせて」


 静かな声が、夜の廊下に響く。青年は赤毛の男に目で合図して、アベルを牽制していた剣を下ろさせる。


「怖がらせるつもりはなかったんだ。おれたちは、これ以上きみに近づかないし、触れたりしない。だから、そんなに怯えないで」


 アベルにきつく睨まれていても、青年は柔らかい表情を崩さない。


「きみはサン・オーヴァンの街なかで倒れていたんだ。覚えている?」


 アベルは青年を睨み返しただけだった。

 雪のなかにうずくまっていたのは覚えているが、そのあとの記憶は曖昧だ。


「……その様子だと、覚えてないみたいだな」


 アベルを見て、苦笑しつつ言ったのは、赤毛の男のほうだった。


「リオネル、恩は仇で返されるものだ」


 青年は、ちらりと赤毛の男を見て、複雑な表情をつくる。

 その瞬間、アベルはリオネルと呼ばれた青年の足元にある長剣を、再びつかみあげようとかがんだ。赤毛の男がそれを阻止するよりも先に、アベルが柄を握り、振り向きざまに斬り込む。

 赤毛の男は、それを正面から受け止めた。


「おまえが拾ってきたのは……とんだお転婆娘だな!」


 文句を言いつつ軽々とアベルの一撃を撃ち返す。

 あれほど衰弱していたのに、このように立ちまわる力が、この少女の細い身体のどこに残されていたのだろうと、二人は驚かざるをえない。

 アベルが剣を振り上げ、赤毛の男が構えたそのとき、背後の青年がアベルの持つ剣の刃を素手で握った。

 突然剣を振り下ろせなくなり、アベルは咄嗟になにが起こったか分からない。


「リオネル!」


 赤毛の男が、厳しい声音で叫んだ。


「大丈夫だよ、ベルトラン」


 アベルの握る長剣の刃の側面を、リオネルと呼ばれた青年の血が、黒い線を描きながら流れる。


「あ……」


 アベルは、その瞳を眼前に見て、はっとした。

 したたる血。

 紫色の瞳。

 アベルの脳裏に、ある光景が浮かぶ。

 それは、雪降るサン・オーヴァンの街。

 記憶のなか、男の頬と手の平から流れる血が白い雪の上に赤い染みをつくっている。

 そして、その男は怒り狂っていた。

 突如、アベルと男の間に入ってきたひとりの青年。

 ……最後に見た、深い紫色の瞳。

 たしかに意識を失うまえの記憶だ。

 今まさに目のまえにあるその紫色の瞳は、心配そうにアベルを見ていた。


「怖がらせたのは、おれたちのほうだ。すまなかった。きみの身体はもう限界のはず……お願いだから、剣を放してくれないか」


 アベルは、剣の柄を放した。

 リオネルの手に、長剣の刃が握られたまま残る。

 アベルは、二人の顔を見比べた。

 ベルトランと呼ばれた赤毛の男は眉間に皺を寄せて、リオネルを見ている。


「早く手当てしたほうがいい」

「大丈夫だよ、これくらい」


 青年は、剣の柄をもう片方の手で掴みなおし、鞘に収めた。


「リオネル」

「わかったよ。あとで自分でやる」


 サン・オーヴァンの街での出来事を、アベルはほとんど思い出していた。

 アベルを助けてくれたのは、おそらくこの青年だ。

 それなのに、アベルは、その人に剣を向け、手を負傷させてしまった。

 この状況に気がつき、どんな顔をしてよいか、なにを言えばよいかわからず、アベルは唇を軽く噛んでうつむく。


「大丈夫?」


 リオネルは、下を向いてしまったアベルに話しかけた。


「おれたちはきみに危害を加えたりしないと誓うから、心配しないで。とにかく、きみは病気なんだし……」


 そのうえお腹に赤ん坊がいる、とは言えずに、リオネルは少し言い淀んだ。


「体調も悪いだろうから、夜が明けるまで、寝台で横になっていたほうがいい。きみがここにいる経緯などは、明日の朝、もし体調が落ち着いていたら話そう……部屋を案内するから、休んでくれないか」


 アベルはうつむいたままだった。

 近づくことも、触れることもできないので、リオネルとベルトランは、ただ目の前の細い少女がなにか言うのを待つ。

 アベルはうつむいたまま、けれどゆっくり二人に歩み寄った。

 ベルトランが、再び長剣の柄に手をかける。

 それを確かにアベルは目の端で見ていたが、動揺はしなかった。この赤毛の男が、青年を守ろうとしていることは、わかっていた。

 リオネルの前まで来ると、アベルは、暗い床に視線を落したまま言った。


「手……」


 それは、二人が初めて聞く、少女の普段の声音だった。剣をふるっていたときからは想像できないような、鈴が鳴るように、かわいらしい声だった。


「怪我……」

「平気だよ」

「……わたしに、手当てさせてもらえませんか」


 二人は顔を見合わせる。まさか、先ほどまでは剣を向けるほど敵意を見せていた少女が、このようなことを言い出すとは思いもよらなかったからだ。

 どのような心境の変化かと、少女を見やる。


「ごめんなさい」


 少女は、さらに深くうつむいたので、その表情はまったく見ることができなかった。




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