ケンタウロスの郵便屋さん
1
「はい、確かにお渡ししました。今後もどうぞご贔屓に」
まだ自動二輪車が一般的でない頃、人と寄り添うように存在し続けた種族である人馬族。その一人である青年は、その体を生かして郵便配達を生業としている。今日も今日とて、人々に手紙を配達し、暮らしていた。
「戻ったよ、じいさん」
「おぉ、お疲れさん。今日は追加はなさそうだから、あがっていいぞ」
「あいよー、んじゃ、お先に」
昼を少し過ぎたところで、青年は職場の郵便局を後にした。もちろん、赤と黄色の目立つ制服は人馬族用のロッカーにおいたので、今はただの人馬族でしかない。
軽快に歩き、町の外れの小高い丘に青年はやってくる。そこは全力で走れあっという間に両端にたどり着く程に小さい町を一望できる、お気に入りの場所だった。
そこに座り込み、一息ついたところで青年は頂上に一本だけ生えた樹によりかかって呟くのだった。
「空を飛ぶって、どんな気分なんだろうなぁ」
「ペガサスにでも、なりたいのかい?」
不意、頭上から声をかけられて青年は驚くが、それが馴染みの声で安堵する、
「お前、いたのか」
見上げると、そこには一人の男。
飛行機を使った高級配達をする飛行士の男が上半身を白い肌着一枚にして、太い枝にごろりと転がっていたのだった。
「あんよ、ついてるぜ?」
はぁ、と青年はため息をつくと「おかえり」と言い、茶色い無精髭をはやした男はニヤリと笑って「おう、戻ったぜ」と言う。
青年は古書屋で狩った小説を木陰の下で読み、男はパイプをふかしてそれぞれ仕事終わりを楽しむ。
「なぁ」
「ん?」
その合間、視線を本から離さずに、青年は男に問う。
「空を飛ぶってどんな感じだ?」
太い枝から男は顔をのぞかせて青年を見やり、青年は交わらせない。
僅かな間の後、男はニヤリと顔を歪ませて言う。
「お前の広い背中が恋しくなるくらいにゃあ、心許ないね」
「オレの背中は、アンタのもんじゃあ、ない」
話にならない、と青年はぼやく。
地の一人と、空の一人。二人は小さな町の郵便屋さんだった。
2
一人は町の郵便を配達し、一人は特急で国の配達をする、そんな毎日。だらしない飛行士の男はふらりと現れては気の向くまま、風のように仕事を選んでゆく。反して青年は毎日規則正しく職場に現れては、小さな町に運ばれる手紙や荷物を見知った人達に配達をする。
そんな正反対の二人は、小高い丘の上にある樹で時々落ち合っては他愛もない話をするのが、不規則な日常。
最初の会話は決まっていて、規則的。けれど、内容は不規則。
「なぁ」
「ん?」
大抵青年は古書屋で買った小説から顔を上げることもなく問い、大抵男は木陰と木漏れ日が午睡を誘う枝の上で寝ころんだまま答える。
「アンタって、貴族なのか?」
くつくつと男が笑い「どうだろうな」とはぐらかす。
「答えたくないなら、いい」
ペラリとページをめくって、無かった事にする青年であったが「何でそう思ったんだ?」と男は引き留めるように問う。
「あの飛行機、協会じゃなくてアンタのだろ?」
まだまだロバと馬が現役のご時世、自動二輪どころか飛行機を個人でもてる人間など商人、軍人、そして貴族ぐらいなもの。言葉で補強して返すと,男は笑った声で「当たり」と答えた。
「貴族って働かないもんだと思っていたけどな」
ペラリと、またページを進めて青年は呟く。
「一口に貴族と言っても、ピンキリなのさ」俺はキリだけどな、と男は得意げに答える。
「ピンだったら、飛行船だろうね」
軽口には、軽口。
男に合わせるように青年は言葉を返し、男はそれにケタケタと笑う。
「まったく、お前は人馬族らしくないな」と呟いて。
二人は小さな町に住む郵便屋さんだった。
3
「なぁ、まだかかるのか?」
トントントン、と金槌が叩く小気味よい音が響く小屋の外、人馬族の青年は屋根の上に乗る同僚の飛行士に声をかける。
「そう簡単にゃ、直らねーよ」
週に一度の休日、珍しく郵便屋さんの二人は一緒の時を過ごしていた。目的は青年の自宅である小屋の修理。先日の嵐でラジオのアンテナが壊れたから。それを機械弄りの得意な飛行士の男に頼んだのである。
「全部取り替えた方が早いぞ、こりゃ」
昼も過ぎた頃に降りてきた男の言葉に青年は「そんな」と呻く。一年の稼ぎをつぎこむ程に高価な物品の故障ともなれば、そうなるもの頷ける話。そして小説や新聞、そして年に数度の催しで来る劇団、兎に角娯楽に目のない青年にとってラジオは生活に欠かせない物で、情けない声を出すのもしょうがない。
「これで我慢しな」男が青年に投げてよこした物は、懐に収まる程に小さい。
「おい、土精印のこれって」
「おう、王家御用達の髭族謹製の螺子巻ラジオさ」
茶目っ気たっぷりに片目閉じしてみせる男であったが「おいおい、これって高価だろうが」と青年はあわてて返そうとする。
「お前の湿気たツラほど、飯がまずくなるものはねーよ」
男はそう言うと高価で珍品の自動二輪車にまたがり、あっという間に去ってしまう。後に残されるのは呆然とした人馬族の青年だけであった。
4
その日は、とても騒がしかった。
午前の配達を終えて職場に戻った青年は、一つの木箱の前に困り果てる局長のおじいさんに事務のおばあさん、それに諸々の仕事をする職員達がいた。
どうしたんですかと青年が問えば、宛名が無いんだと答えが帰ってくる。そしてどうやら送り主も無く、どうやってここまで来たのかもわからない荷物のようだった。
「”荷物検め”をすればいいんじゃねーか」と、いつの間にか戻った飛行士の男が声をあげる。
「あれは面倒なんじゃ」と、局長のおじいさんは難色を示すが、男はニヤリと笑って「俺がやってもいいぜ?」と言う。
局長のおじいさんは頭をぼりぼりかくと「しょうがねぇ、とっておきを一本くれてやる」と答える。
そうして鼻歌まじりに難解な書類と手続きを済ませた男を見て、青年は男に対する疑問符を増やすが、あえて口にする事は無かった。
宝箱を開けるような、子供っぽい表情をしながら木箱を開けた男は表情を曇らせる。
「人、形?」
中にあったのは、とびっきりかわいい少女のような人形。
亜麻色というには透き通った色をもつ、金に近い髪。それに病的とも思えるほどに白い肌。なのに血色のよい、瑞々しい唇。そして錯覚の原因となっているのは、その背中に生えた一対の小さな白い羽だった。
「違う!おいおい、生きているぞこの子!」
あまりの現実感のない事態に全員がポカンとしてしまったが、いつもはだらしない男が緊張感のある声をあげた事で正気を取り戻した。
「どこか寝かせる場所!」
「作業机は、だめだ壊れものが!」
「食堂のテーブルってああ、食器おいたまま!」
正気から今度は混乱に陥った中、振り返った男が青年と目が合った。
「背中かりるぞ!」
「ちょっとまっ!」
人に比べて広い背を持ち、ちょうど配達員の袋をかけていた事で少女を寝かせられるスペースをもった青年の背に、男は横たわらせる。そしてそこに事務のおばあさんが温くしたさ湯を持ってきた。
「これで飲ませなさい」
いつものぼんやりとした様子とは正反対に、きびきびとした動きでさ湯で湿らせた布を男に渡す。
「おう、助かる」
慎重に少女の口を開け、そこに布を入れるとヂュウウウーと間抜けな音が響いた。
安堵の息をその場にいる全員が吐き、器に入ったさ湯の殆どを飲みきった少女は目を覚ました。
「あーう?」
歳とは全く一致しない、赤子のような言葉ではない声を出しながら。
5
少女は青年の預かりとなった。
当初は局長夫妻が面倒をみようとしたのだが、少女の脚はまるで人形のように固く、歩くこともままならなかったのである。
町には車いすという上等なものはなく、せいぜいが荷車に乗せるの限界であったし、なにより少女が青年を殊更気に入ってしまったのである。
馬のようでありながら人であり、誠実な青年の性格もあって、何かあればすぐに助けを求めるように言って世話を任される事となったのだ。
それを気に入らないのは、あのだらしのない飛行士の男だった。「その背中は俺がねらっていた」だの「まだ一度も乗せてもらってない」だの、子供じみた事を言って少女を青年から離そうとするものだから、すっかり少女は男の事を警戒してしまっている。
「人馬族なんて、帝都にもいるだろうに」
そうぼやいて、青年は妙に大人げない飛行士の男に思いをはせる。今頃は局長に押しつけられた配達で帝都に向かっているはずだ。
「うーうっ」
ライバルと認識しているのか、相変わらず言葉を発する事はないものの少女は男の事となると、途端に機嫌を悪くしてしまう。
「はいはい、食べ終わったんだな?そしたらこれでブグブグして、ペッだ」
少女の前で口をすすぎ、それを地面に吐き捨てる。それを見て少女は真似をして口をすすぐ。
「はい、次はイーだ。イー」
イー、と口を開けた少女の歯をしっかり確認した青年はよくできました、と言って頭をなでてやる。すると気持ち良いのか、うーうー、と唸っては頭を突き出すのだった。
まるで犬みたいだな、なんて失礼な事を青年は考えるが、可憐とも言える容姿を持つ少女に懐かれるのは悪い気分ではない。
ひとしきりなでた後は、いつもの丘の樹の下で緩やかな時を二人で楽しむのが二人の日課だった。
「明日のお天気はどうですか、っと」
青年は首にかけた螺子巻ラジオをいじって選局をする。
一つはニュースを中心に番組を流す局。
一つは古くさい曲を流す局。
そして一つはノイズ混じりではったが、巷で流行る曲を流す無認可の局。
青年は三つ目の無認可の局が好きではあったが、警察などから逃げるためなのかちょくちょく放送の域を変えてしまうので、それを見つけるのはちょっとした手間であり、ちょっとした楽しみだった。
「今日は運がいい」
大して時間をかけず、目当ての局を見つけた事で青年はほくそ笑む。
「歌っておくれ小さな歌姫さん」
音量を程々にして、青年の背に腰かける少女に声をかければ、心得たとばかりに歌い出すのだった。
少女に知性の欠片はない。けれど、この歌声だけで十分だと青年は感じるのだった。
6
そんないつもとは違う平穏が幾日か過ぎた休日、帝都から帰ってきた男は飛行士の服のまま青年の家にやってきていた。
一つしかない人間用のテーブルに少女と男は向かい合うように座っているものの、互いにむっつりと黙ったまま。やはり、仲良くは出来ないようである。
「で、わざわざ来たって事は何かわかったのかい?」
一つしかない椅子に座る少女には、シナモンをふりかけたホットミルクを。椅子の代わりに箱に座る男にはとっておきの茶葉で出したお茶をふるまいながらうながす。
「オルゴールだ」
香りを楽しむのでなく、逡巡の表情で茶を飲み干した男は呟く。
「この娘は、人ならざる人、奇跡を再現する機械。オルゴールだ」
「お前、何を言っているんだ。この子は生きている。どこが機械なんだ」
突拍子もない男の言葉に青年は驚き、そして怒りを覚える。だが、男は臆する事なく言葉を続けた。まるで青年にではなく、他の誰かに向けて。
「あんたの事だ、どうせご高説をたれてくれるんだろう。博士、いや”再来の賢者”って呼べばいいのかな?」
男がそう言うと、部屋は突然静かになる。それまで、少女の首にかけられた螺子巻ラジオから静かに流行の曲が流れていた、のにだ。
『これが流れるということはあの生意気なガキが”解いた”のだろうな』
代わりにラジオから、知的さを感じさせる老人の声が流れる。
「へ、なんだいきなり」
「静かにしてろ」
『本来はまだ見ぬ"最善"の先にいる誰かに向けて発したモノも用意したのだが、役に立たなくなるとはな』
ぼやく口調からは、男が言った賢者だと言う雰囲気を青年は感じられなかったが、とりあえず指示された通り口を挟まずにいた。
『細かい説明はそいつに聞いてもらうとして、だ。とりあえずさっさとそこから逃げてくれたまえ。これを聞いた事で鉄の冠を欲しいままにするあの"魔女"に見つかる未来が近づくのだから』
「だろうと思ったよ、このクソジジイ」
予想が的中したらしく、ガシガシと頭をかきながら男はうめく。対して老人は男の様子がわかるのか、ラジオから少し含んだような笑い声が聞こえるばかり。
『では、最後になってしまったが本来最初に言うはずだった言葉を告げよう』
その言葉はとても穏やかで、少女の事を想う親のようだと青年は感じるのだった。
『私の声を聞いているであろう誰か。君に”極楽鳥”の雛を託す』
7
「とりあえずお前とソイツは別の町に行くんだ」
「別の町って言われても……」
あの老人の予言を受けて男と青年、そして少女の三人は町からそう遠くない所にある飛行場へと来ていた。
「そもそも、魔女とやらがここに来るかなんてわからないじゃないか」
そう、せいぜいこの飛行場がある位で、目立った観光も産業もないごく普通の町。そこから身動きをとることが危ないように青年には思えたのだった。そして男といえばそんな青年をみて「はん」と一笑して言うのだった「魔女は魔女でも"鉄の"は別格だ」と。
「"鉄の"っていうと、えぇっと」
「飛行機やら飛行船を開発した奴さ」
コンコン、と男は青に塗られた相棒を示しながら言う。
「千里を見通すって有名な?」
「もしかしたら未来も見通しているかも」
男はいつになくニヒルな調子で答え、後部の荷物入れから青年に資料を渡した。
「"野に下りし魔女"とか色々言われるが、その実力は本物だ。そして賢者もといクソジジイは魔女達にすら出来なかった"魔法の再生機"を偶然とはいえ、作った。んで」
「それがこの子、なのか?」
「そういう事だ。間違いない」
そこには午睡を楽しむ時のようなだらしのない表情などなく、嘘をつく時のような片眉をあげた表情もなかった。
「ともかく、俺はまず帝都に行って動向を探る。少なくともあと五日は余裕があるはずだ」
飛行服のベルトを締め直しながら男は言葉を続ぐ「だからお前は山向こうにある町へ行くんだ」と。
「動向を探るってお前、なんでそんな事」
出来るのか、と問う事は最後まで出来なかった。何故なら、操縦席についた男が血の気が引いた表情をしていたからだ。
「魔女め、いつの間に……」
うめくようなその言葉に、視線に導かれるように前を向けば、一人の黒衣の女がいた。
「やぁ、ごきげんよう。届け物があると聞いて、やってきたよ」
背後の綺麗にならしただけの地面である滑走路には、鯨のように巨大で、暗い影が落とされていた。
8
「飛行軍が動くとは思ってなかったな」
「おや、君らしくもない事を言うもんだ。これは私の個人所有とする飛行船フラスコ号だよ」
空を覆ってしまうかのような巨大な飛行船が個人のものだと聞いて、青年は空を向いてあんぐりと口を開いてしまう。どれだけの資産があれば手に入れられるのかなど、想像の外だった。
そんな様子の青年を見て機嫌が良くなったのか、魔女は杖に体重をかけながら言う。
「ケンタウロスの青年くん、気に入ったかな?」
「え?」
何故驚いたかではなく、気に入ったのかを問うたのか青年には理解出来ずにいた。
「君は空を飛びたいのだろう?だったら飛行船が一番だ。このフラスコ号のように大きなモノは軍だって持ちはしないよ」
顔を合わせたばかりの黒衣の女は易々と青年の夢を言い当てた事に恐怖した。
「俺を通さず話さないで欲しいもんだがね」
「おやおや、君がそんな事を言うだなんて珍しい」
「はん、お前みたいな人でなしに、言われたかないね」
子供をみるかのような言い方に男はイラついている様子ではあったが、軽口を返すだけの余裕はあるようで、それを聞いて青年は幾ばくか心を落ち着かせる事が出来た。
「君がそんな事を言うものだから、彼にすっかり嫌われてしまったじゃないか。どうしてくれるんだい?」
「帝都で研究に戻っていれば良いと思うが?」
「ふむ、それなら荷物をもらわないと」
「送り主も届け先も不明なもんで、渡せないな」
「どうしても?」
魔女が杖を持たない片手をあげると、三人を囲むように金属の杖を構えた術師が六人、音もなく現れる。
「それって強奪する、って事でいいのかい魔女さん?」
「強奪も何も、私のモノですよ郵便屋さん?」
脅しは一切きかず、交渉は決裂。術師達が攻撃を加えようとしたところで、閃光と濃密な煙があたり一帯を支配。すかさず魔女がそれらをはらったが、そこに残っていたのは青色の飛行機のみだった。
「圧縮の解放を三つもするなんて、あの子も豪気なものね」
「お前、俺と一緒に来なくてもいいだろーに!」
「ああ、なんだ、聞こえないぞ!」
男はあの時、どこからともなく自動二輪車を取り出して一目散に逃げ出したのだった。それも、青年の背に乗せていた少女を奪って、である。
肝心の少女といえば、実のところ魔女が来る直前から深い眠りについてた。声をかけても、揺り動かしても目を覚ますことはなかった。
「たぶん、あの飛行船に"力"を奪われて起きれないんだ」
「どういう」
問いかけを全て口にする前に、男は自動二輪車の脇に差し込んであった金属製のパイプのようなものを背後に向け、振り替えもせずに閃光を放つ。
「もう追いつきやがった」
青年が振り返ると、飛行場で三人を囲んだ術師が二人、杖を片手にもって飛んでいるのだった。
「魔女特製の杖があれば空も飛べますってか!」
色々とあてが外れたようで、男は自動二輪の速度をさらに早めた。
「まて、それ以上はオレが追いつけない!」
「つまんない意地はってないでお前は逃げろよ!」
「つまらないってなんだ!」
「んだよ!」
二人して高速移動しながらの口論を始めたところで、地面が炸裂する。どうやら後方の術師が某かの攻撃をしたらしい、とわかった瞬間に男は前方に乗せていた少女を青年へと投げてよこしていた。そして男は炸裂するそのただ中へと自動二輪ごとつっこむのだった
「お前は逃げろッ!」
つっこむ瞬間に聞こえたその声のとおりに青年は振り返ることなく、樹海と呼ばれる森へと少女とともに逃げ込むのだった。
9
人馬族の生活の場は、平原であった。
それはもちろん馬としての性質を兼ねていたためでもあったのだが、彼らは同じ平原に住む馬達の守護者であり、群の統率者であったからだ。
人間とやりとりをする中では食料や道具といったものと馬を交換する事もあった。つまり、ケンタウロスは古来より馬商人でもあったと言えた。
そのため、狼などの獣から始まり徒党を組んだ人間に襲われる事は彼らにとって日常茶飯事の問題。単に応戦したり、平原を逃げ回れば終われば良い方で、あえて苦手とする場所に逃げ込む場面もあった。
狩人であれば、獲物が苦手とする場所に追い込むのは基本。であるなら、彼らケンタウロスはどうしたのか。
答えは、彼ら独自の"魔法"を使ったのだ。
体中をめぐる"力"が森の木々を、岩を、苔を、水を、全てを除けてゆく。
残るはひたすらに土、土、土。何者にすら邪魔をされない純粋な"道"が目の前に広がっていた。
青年は今までにない高揚感と開放感に浸っていた。
その力の残滓を見て、魔女は静かに舌打ちするしかなかった。魔女と言えど"魔法"に対抗する力は持ち得ていなかったのである。
10
カチカチとオルゴールのように規則正しい音を鳴らす懐中時計のフタをパチリと魔女は閉じた。
「仕方ありません。アレがここにあるのが最上ですが、環境条件だけで進めましょう」
「姉妹達だけで、ですか?」
白衣を着た研究者が不安げな表情で問うが、魔女は「分割された円盤で十分に迫れます」と冷たく突き放す。
不承不承、といった様子で離れていく彼を視線で追う事もなく魔女は立ち上がる。
実験区画の丸い窓から見える満月を見上げながら、鉄の魔女は「最後の機会なのだから」という言葉を飲み込んで部下に指示するのだった。
「はぁ、はぁ、ここまでくれば、もう大丈夫か……?」
体内に巡らせるだけの”力”を失ってしまった青年は速さを落として、
森をゆっくりと抜けようとした所でつんのめるように立ち止まる。
「飛行船……こんなところに……」
森の先にある草原。その上空で軍をつれてきたあの巨大な飛行船が待機していたのである。
月明かりだけを頼りに走り回ったせい、そして頭上を確認するのを怠った自身の迂闊さに毒づく。
木の影に隠れて飛行船の様子を伺うが、どうやら青年を見つけた訳ではないようで、静かに息をはく。
「さて、どうやって逃げようか」
飛行場はすでに押さえられているはず。しぶとく生きているはずであるが、飛行士の男もあれからどうなったかもわからない。再び”力”を巡らせるにはあと半日はかかる……。そういった細かい事を指折り確認しているところで異変は起こりはじめた。
といっても飛行士の男ならいざしらず、ただの郵便屋さんの青年にとって飛行船の明かりが暗くなったりするのは異変とは、わからない。
ようやく気がついたのは、眠ったままだった少女が目を覚ましたところだった。そして、それは恐怖の瞬間でもあった。
「アァアアアァァアァイアゲガガゲゲッ!!!」
少女の口から、不快という不快を詰め込んだ絶叫が響いたのだ。
『魔女は、失敗したようだな』
沈黙を守ったままだったラジオからボソリと呟きが流れる。
ギギギ、と空に浮かぶ飛行船から獣のような断末魔が響いたかと思うと、その中程からベッコリとへの字に折れてしまう。
そして夜空に、夜よりも暗い闇が炸裂した。
11
「お願いだ、戻って、戻ってくれ」
まるで生き物ではないかのような、不快を詰めこんだ叫び声をあげる少女に青年は必死に声をかける。
『きっとこの声を聞いたというならば、想定される中で危険な事態になっているのだろう』
少女の正体について語った、あの知的で、しわがれた老人の声がラジオから発せられる。
「何が起こっているって言うんだ!」
藁にも縋る気持ちで、青年は手元のラジオを掴んで叫ぶが、その意図を汲んだ返事などなかった。
『だが、これはまたとない機会だ』
どう見てもまともではない少女と状況に、喜色を滲ませて力説する老人の声に対し、青年の精神は一瞬で怒に染まってラジオを叩き捨てる。
「再生機だの、極楽鳥だの、お前ら、何で何で……!」
少女を抱きしめながら、青年は慟哭し、憤怒した。
言葉にならぬその感情に身を任せて青年は叫び、この世の不快を詰め込んで少女は叫ぶ。他人が見れば狂っていると思っただろうが、そう思う他人はここにいない。
ひとしきり叫び、最後に残ったのは、無力感と絶望。そして叫ぶだけの気力が無くなった人形のような少女。
落雷のような閃光に気を引かれ、見上げれば頭上に浮かぶ飛行船はいよいよその形状をへの字から、無惨な二つの鉄塊へと変貌させてゆくところだった。
中程から分散してゆく部品はあたかも生き物の内臓のようで、酷くグロテスク。そしてそれがさらに上空に広がる暗い穴に吸い込まれる瞬間に閃光となって明滅するのだと、ぼんやりとした頭で青年は理解する。
このまま、全てが吸い込まれればいい。
疲れ果てた青年は調子外れな鼻歌を口ずさみながら、ノイズを吐き出し続けるラジオを拾い上げる。
「明日の天気はどうですか、お天気おねえさん♪」
片手で選局の螺子を回すが、どれもノイズしか出さない。
「ははん?」
何がおかしいのかもわからなくなった青年は小さく嗤い、選局を続ける。しかし、いつものような音が流れる事は無い。
そうして知る限りの選局の全てを終え、ノイズだけが残った。
逃避し続けていた青年の精神は、これが現実なのだと、全ての果てなのだと目盛りを振り切れた針によって突きつけられる。
「ごめんな、助けられなくて」
ついに膝を折り、座り込むと青年は柔らかな草地に少女の体を横たえる。
息も、鼓動も、その全てがかすかな少女にこれ以上負担をかけるのは、あまりにも酷だった。
夜空に月と星々はなく、今や闇と雷のような瞬きと轟音が響くばかり。
古書店で購入した小説に描かれた最後の場面にある世界の終焉とは、きっとこんな事を言うのだろう。そう思いながら、青年はせめての慰めにと少女のお気に入りだった、果てを示すラジオを胸元に置く。
その時だった。
『いかなくちゃ』
少女の声が闇の中に、響いた。
12
少女が明瞭にしゃべった事はなく、青年が聞いていたのはラジオから流れる流行の曲を真似したもの。すなわち、意思のあるものではなかった。
『いかなくちゃ』
地獄か、それとも終焉か。
今まで青年が信じてきた世界の背骨が音を立てて折れてゆくような状況の中で、その声はどこまでも澄んでいた。それこそ違和感を覚える程に。
「いくって、どこにだよ」
返事を期待して言葉を口にした訳ではなかった。もう聞くことはできないけれど、狂気を孕んでいたあの老人の声は決してこちらの声に耳を傾ける事は無かったのだから。
『空に』
けれど、少しの間をおいて、答えが返ってくる。
『このままだと、飲み込まれるの』
会話が出来る事に驚くが、それもすぐに消え去り、流れるように疑問を口にする。
「あの”穴”に?」
『うん』
雷の如き明滅と、轟音が振動となって伝わる世界の終焉。そこに向かうのは、とても正気とは思えなかった。
「いなくなるんだろ?」
暫くの沈黙の後、少女は肯定とも否定ともつかない、うやむやな言葉を返す。
「だったら、このままでいい」
『私はいや。だって、生きていれば、また会えるはずだもの』
「……どうして、そう信じられるんだい?」
『夢みてたの』
学校に通って、友達と遊んで、みんなで買い物して、笑う。そんな普通にあるはずの夢を、少女の胸元に置かれたラジオから、拙い詩のように切実な望みが流れる。そして青年はそれをうん、うん、と肯定し続けた。
『でも、叶わなかった』
スッキリしたような、あっけらかんとした調子で夢の結末を少女は語る。だけどね別の事が起きたんだ、と言葉を続ぐ。
「何が起きたんだい?」
緩やかに冷えてゆく少女の指先を握りながら、青年は促しの言葉をかける。すると、ごにょごにょと言葉を濁してしまう。
『貴方に会えた』
その言葉が、青年の胸をうった。
『いろんな所につれていってくれたし、お話してくれた。あの丘で食べたご飯はおいしかった。それに、それにね――
十日にも満たない僅かな平穏。
それを少女は知る限りの言葉で語り、その全てを青年はうなずいてやった。
――そっか、そっか。そうだったか」
泣いてはいけないとわかっていても、青年の目からぽろぽろと涙が滴となって落ちてゆく。少女も泣いているのはわかっていても、それを指摘する事はなかった。
どれだけの時がたったのだろうか。短くもあったし、長くもあったように感じられたが、終わりがきた。
『いってきます』
そう言って、ふわり、と横たわったまま少女の華奢な体が浮かび上がる。
輪郭は燐光のように淡く発光していて、どこまでも現実感の薄い光景だった。
『さようなら』
持っていて欲しいと頼まれたラジオから伝わる少女の声はどこまでも儚く、返事をしようと口を開けても、言葉になる事はなかった。
『大好きな貴方』
少女が一つの光になったとき、音が、世界に響いた。
13
少女は、音にならない音を奏でる。
夜空にあってもわかるほどに黒々とした穴に向けて、飛び立つ。
「いけ」
青年は知らず口を動かす。
今更、別れの言葉は違う気がした。
小鳥の少女は、飛ぶにはか弱い小さな羽をバサリ、と羽ばたかせる。
そのたびに宙を狂ったように踊る小さな明滅が小鳥の元へと集う。そのたびに姿は一回り、また一回りと大きく育つ。
「いけっ!」
まるで雛鳥が初めて空を飛び立つのを鼓舞するかのように。
せめて憂いなく進めるように、背中を押してやるのが青年の役割だというように、叫ぶ。
少女は今まで青年に聞かせた事のない歌を声たからかに歌う。それは、奇跡の再現機が起こす旋律ではなかった。息を継ぎ、音色を歪ませる、生きた音。
それは、青年にとってあまりにも眩しかった。
生きるとは、これほどまでに目がくらむ事だったのだろうか、と思う程に。
そこから青年の記憶は曖昧になる。
酷く幻想的だったという気持ちを持ったのは、全ての事柄が終わってから。
結論から言えば、墜落しかけていた飛行船と共に少女は消えてしまったのだ。まるで、少女がいたことの全てが嘘だったかのように。火事という事実、すなわち火と建物そのものが無くなってしまったかのように。
「壊れちゃった、な」
ぽくぽくと、ゆっくりと歩きながら青年は小さく呟く。
ピカピカに磨かれていた金属の蓋はすっかり歪んで傷だらけになり、その内側にあった硝子の曲面には大きなヒビが入っている。
ねだられては聞かせていたラジオも、全く聞こえない。それに、歯車がズレてしまったのか螺子を巻くことさえできない。
「あーあ、気に入っていたのに」
修理に出せば再び聞こえるのだろうけども、とてもそんな気持ちにはなれなかった。何故なら、少女が存在した事の証がたったこれだけしかないように思えたから。
気持ちを沈めていた青年であったが、自分の背から聞こえる「うへへ」だの「あったけー」などと寝言にすっかり台無しになってしまう。
今回、事件の影で走り回った男は念願かなって青年の背に乗っていた。
一番の功労者である同僚の男のだらしのない声と、背中に感じる重みをしっかりと感じながら、青年は町へと帰るのだった。
喧々囂々と騒がしい様相となって、その全体を朝焼けの色に染まっている住み慣れた、そして寂しさの残る町へ、と。
14
「それじゃあ、行くよ」
あの事件から暫くして、青年は町を後にした。身を包むのは赤と黄の制服とは真逆の青い服。それはまるで飛行士のように、カッチリと姿を整える。
「手紙出せよ、お前」
夜が明け切らない町の外れにある、あの樹の下で旅立ちを見届けるのは、元同僚の男。寒いのか、飛行士の服をしっかりと着込んでいる。
「お前の住所なんて、知らないけど?」
「お前の自宅に送ればいいさ」
つまり、男は青年の家に住むという事だろうか、と疑問に思ったところで青年は苦笑して「わかった」と答える。
「必要な物があれば届けてやるさ」
「特急料金で?」
「特急料金でだ」
冗談を交わす二人の間に寂しさといった気配はなく、何に対しても気兼ねのないカラリとした気持ちで青年は憩いの場所を後にするのだった。
日がその高さを中天にまで昇らせたところで、青年は脚を止める。
その時になって初めて後ろを振り返るが、もちろん町が見える事は無い。丘や林、広々とした農地にそれを区切る生け垣。それらによって輪郭すら隠されてしまった。
道の脇にある木の下に座り込み、腰にかけた袋から水筒とお弁当を取り出して休憩をとる。思えばこの装い一式もあのだらしのない男から半ば押しつけられるようにして渡されたが、なかなかどうして使いやすい。
あの男は何かと青年に手助けをしていた。それはまた何でなのかはかわらなかったが、気まぐれなあの男の性分は青年にとって理解しがたいものだったため考えるのを諦める。猫は唯一苦手とする動物だったのだから。
ペロリと弁当のソースがついた指先を舐めとって荷物を片づけると、ワクワクとした表情でもって上着の懐から小さな手帳と鉛筆を一本、取り出す。
この旅の中で、青年は手帳に己の文字を書き込む事にしていたのだ。
しかしベージュの優しい色合いを持つ無垢な紙は、まるで青年の一筆を今か今かと待ちかまえているかのようで、たじろいで書き出せない。
今まで散々娯楽として受け取るばかりであったが、文字にするとは何て難しいのだろう、と初めて青年は思った。
座り込んでうんうんと小さな手帳の前でうなっている人馬族の姿は、きっと端からみたら奇異で、とてもかわいらしかっただろう。けれど青年にはそういった事に気を回す余裕は無い。
ついに諦めて手帳を閉じようとした時、サァッと吹いた一陣の風が青年を通りすぎる。
ぱらぱらと頁が捲れるのを優しく押さえた後、首にかけていた小物を、あの壊れた螺子巻ラジオを何となしに持ち上げ、そっと耳にあてる。
歯車の音も、小さな鉱石達の囁きもない無音の向こうで、少女が楽しげに歌っているかのように思えた。
暫くの後、耳を離した青年は上着の胸ポケットにそれを丁寧にしまいこんで、捲れた頁を一番最初へと戻して、今までのためらいが無かったかのようにすらすらと文字を走らせる。
そこに、迷いはなかった。
書き終えると満足げにひとつ頷き、駿馬のごとき速さで走り去ったのだった。
青年が希代の冒険家として名を馳せるのは、まだまだずっと、ずうっと先の話。
そして数多出版された冒険記の出だしには決まって、この言葉が書かれていた。
『ねえ、きみはどこにいる?』
友人が制作したケンタウロスの人形の出来が素晴らしく、それを見て思いついた話を形にしてみました。
追加できる要素などはあったのですが、ここはそのままいくべきだろうと考えなおし、投稿しました。
プロット状態ではあるので、いつかもう一度取り組んでみたい作品。