あの街
忘れていたことを、ふと、思い出す夜がある。自室で一人、あまりの恥ずかしさに死にそうになる。又は、苦い思い出に叫びだしそうになる。あるいは、にやけて目を細めている自分を鏡の中に発見する。
私は、ある街のことを思い出す。それは当時の彼の住んでいた街で、閑静な住宅街である。少し歩けば、ぽつりぽつりと公園があり、公園の脇を通る電車の音や小さなこどもの笑い声が聞こえる。
私が彼の家に泊まった翌朝、私たちは住宅街を歩く。坂道を上り、近くのコンビニエンスストアでコーヒーを買う。私がホットコーヒーで彼はアイスコーヒー。大概の人たちは平日で、スーツで出勤する人や保育園へ向かう親子とすれ違う。
公園まで来て、ベンチに座り、そうして何を話しただろうか。新緑の中、鳩に餌をやる、いわゆる浮浪者を見ながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
私たちの時間は、私たちだけのもので、他の人とは時間の流れ方が異なるようだった。
でも、今は違う。
私は、散歩をしなくなった。散歩をする時間がないから。そして、一緒に散歩する人がいないから。毎朝六時半に家を出て、駅までの最短距離をせかせか歩き、電車に乗って会社へ向かう。帰ってくると、まず床にへたりこみ、にんじんやじゃがいもの入った買い物袋を肩から下ろす。冷蔵庫の残り物をつまみながら、そうして夕食を作るのを諦める。休日は朝とも言えぬ時間に起きる。ぼんやりとワイドショーを見て、もて余した時間を消費する。
テレビを消すと、外からこどもの声が聞こえてきた。こんな時間に。時計は夜の十時五十分を回ったところである。きゃっきゃっという高い笑い声、続けて母親らしき女性の諫める声。
私はいつか母親になるだろうか。私と誰かとそのこどもと……わからない。先のことは何もわからない。
あの街を歩いてみよう、と思う。いつかの休日に。
夜、静かな部屋でひとりになったとき、こんな風に、忘れていたことを思い出す瞬間があります。
読んでいただき、ありがとうございました。