表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八百万物語 ~二世の契り~  作者: 哀ノ愛カ
6/9

我が世

黒幕の登場です笑



 我が世





 平成二十六年、冬。

 身を刺す様な寒さに耐えながら、足早に帰路を急ぐ。

 もう時刻は二十三時を過ぎていた。

 大学周辺は閑静な住宅街で、夜中にもなると人っ子一人見られなくなる。こんな時間まで大学に拘束した安住教授に悪態を吐きたくなるが、来週に迫ったゼミ発表の進み具合がよろしくない自分にも非があるのだから仕方がない。

 ああ、でも、

「何で私が」

 大学院にまで進学して、普通の学生生活なんて送っているのだろう。

 頭に浮かんだ疑問は徐々に波紋を広げ、一抹の不安を私に与える。

 市村夏希と長谷部政文が付き合い始めて約三カ月。

 彼らの仕合わせは初めから決まっていたとはいえ、計画を早めたいがために手を貸した。

 だが正直、躊躇いもあった。

 二人の仕合わせは決まっているはずなのに、いや、決まっているからこそ私が何を思おうとどうすることもできないのだが・・・。

 あの時、政文が伯父からの電話を受けて酷く取り乱していた時。私が教室に入った瞬間目に飛び込んできたものは、殺意を秘めた目と・・・不気味に両の端を釣り上げた口元だった。

 そう、彼は笑っていた。

 憎しみ、怒り、悲しみ―――そんなものは一切感じなくて、殺意を内包した目であることは確かだが、『人を殺しそうな目』という意味ではなく・・・あれは、『人を殺した後の目』だった。

 恐らくは本人も気付いていないのだろう。自分が瞬間的に頭の中で相手を殺していることには。

 無意識の内に抹消する。自分さえ欺いて、殺した時のことを想像する。

 それが、どんなに恐ろしいことか。このままではきっと、彼は抜けられないところまで落ちていくだろう。


 ああ、だから――――


 ふと、頭の中でパズルのピースが嵌った音がした。

 だから、彼女がいるのだ。

 彼女が要るから居るのだと、納得する。

 なんだ。

 あの二人は心配いらない。初めから心配する必要もなかったのだ。


 ならば――――


 私は、私の問題に向き合うべく、思考を変えることにした。


 想い人。

 私にとっての重い人。


 夏希と政文の件が片付いた今、もうそろそろ事を起こすべきだというのに、一向に気が乗らない。

 その理由を考えて、思考をぐるぐると巡らしていると、コートのポケットに入れてあるスマホのバイブが鳴った。

 一気に意識が現実世界へと引き戻され、即座にメッセージを確認する。


『今度、近江八幡に遊びに行こうぜ』


「はっ」

 思わず鼻で笑って、スマホをポケットに突っ込んだ。

 吉津秀彦は最近やたらと私をデートに誘う。

 しかも、趣味の悪いデートに。

 近江八幡といえば、豊臣秀吉の甥・秀次が築いた城下町だ。秀次は悲運にも何の罪もなくして死に追いやられることになるのだが、それを企てた張本人こそが実の叔父である秀吉である。

 そのことに関してあの男が罪の意識を感じているはずもなく・・・贖罪以外の目的で近江八幡を訪れるのだとすれば、悪趣味以外の何物でもない。

 前回は耳塚だったが、その時の奴の様子ときたら人権意識の欠片もなく、教師になってくれるなと頼み込みたいほどだった。

 それなのに、毎回ついていっている私も私だ。


 毒されている。


 彼のペースに完全に呑み込まれてしまって、身動きが取れない。私が望む形ではないというのに、これも悪くないと思ってしまう。

 でも、それでも――――

 今回のは悪くないパターンだ。


 今までに九十九(つくも)の世を渡ってきた。

 その全ての記憶を私は持っている。だが残念なことに、彼はいつの世でも豊臣秀吉としての記憶しか留めていない。

 結果、二生でも三生でもかけて私の気持ちを理解してほしいという目論見は外れてしまった。が、災い転じて福と為すというか何というか、拗れに拗れた関係も次の世ではリセットされるのだから、私にとっては逆に都合が良かった。

 蓄積された経験から彼の扱いは心得たつもりだ。だから、近年では上手くいくパターンが増えてきている。

 しかし――――

 幾度となく繰り返される中で、出会える確立は半分といったところか。生まれる前に、生まれてすぐに、その生を終えることも昔の時代は多く、そうでなくとも短命の身。

 いつも、そういう巡り合わせの元に生まれてしまう。彼とは、ちゃんと生きられれば出会える(えにし)であるというのに・・・。

 病気で、事故で、あるいは殺されて。

 あと一歩というところで、短命故に結ばれることなく死に別れる。

 そう、決まって今のように温いしあわせに浸っている時に、それはやって来るのだ。



 見上げれば、灰の雲が空を覆っていた。その重い塊に押し潰されていくような感覚に襲われ、身震いする。

 嫌な思考を打ち祓いたくて頻りに冷たい手を擦り合わせ、歩くスピードを上げる。

「百瀬さん」

 丁度、神社の脇を通り過ぎようとした時だった。

 後ろから声を掛けられ、反射的に振り向くと、パーカーのフードを目深に被った細身の男が目に入った。

 そして、危機感を脳が身体(からだ)に指令する間もなく、何かが腹の中央へと沈み、浮上した。

 ドサリと仰向けに倒れ込めば、厚い雲が今度は遠ざかっていく錯覚に陥る。

「次の、貴女のしあわせを祈っています」

 男は意味の分からない台詞を吐いて私を見下ろしている。

 聞き慣れた声のはずだが、誰だか思い出せない。

 視界がどんどん狭まって、こんな暗がりでは顔の判別もつかない。

 ただ、次を願って、またあの歌を口ずさむ。

「亥・・・い、子・・・・も、ち・・・・」

 肺に血が溜まり、上手く言葉を紡げなくとも、

「・・・め・・・・・・祝わん・・・は・・・」

 恐らく、次の世も無駄だと心の隅では思っていても、

「か、ら・・・・い、・・・・り」

 この歌が祈りではなく、呪いだと薄々気付いていても、

「次の、()・・・・(ももと)()・・ち、ぎり・・はた・・・ん」


 千歳――――


 その名さえ、あの方が掛けた呪いだと思えばこそ、

 千の世ではきっとしあわせになれるはずだと希望を持てるから、



 ――――死ぬことが、こんなにも嬉しい。




 *         *           *




 生暖かい液体が手の甲を伝う感覚に、気温とは関係なく寒気を感じた。

 彼女の身体から溢れ出す鮮血は闇に紛れてどこまでも黒い。自身の吐く息の白さとのコントラストに目眩がして、ナイフを持つ手とは反対の手で頭を押さえる。


 どうしてこうなった。

 どうしてこうなってしまう。


 そんな自問自答を繰り返し、熱くなった目頭から涙が零れた。

 彼女が千歳となる以前から、僕はずっと彼女のことを想ってきた。その最初の記憶はもはや朧げで定かではないが、永遠とも思える時 を生きてなお、彼女を想う気持ちは薄れない。


 それなのに、どうしても、どうしても、どうしても!


 彼女を前にすると、心の奥底から黒い靄が噴き出して、悲しみと憎しみに支配されてしまう。

 絶望と言ってもいい。

 自分だけが自分として生まれ、彼女を探す日々が何千何万と繰り返される中で、彼女としあわせになることは一度もなかった。彼女はいつも他の誰かに恋をしていて、ほんの僅かさえ僕を見ようとはしなかった。

 その恨めしさに耐え兼ねて、亥の子歌を教えたのは今となっては失敗だったとしか言いようがない。

 僕と同じ苦しみを味わうことになった彼女を見て慰められたのは束の間で、結局は僕ではない男を想い続けていることに変わりはなく、むしろその相手がずっと同じであることに焦燥感と妬ましさを覚えた。

 しかもその相手というのが――――


「苦しい」

 涙に濡れた呟きは案外乾いた響きを伴って夜の町に放たれた。

 いつの間にか降り出した雪に彼女の身体が覆われていく。

 その白で全てを隠すことができるなら、どんなにいいか。

 だが、この罪を(そそ)ぐには自分の心は黒に染まり過ぎている。

 冷たくなった亡骸を抱きかかえて、神社の(やしろ)を目指す。

 鍵が掛かっていないのは確認済みで、躊躇なく中へ入ると、御神体の前にそっと骸を横たえた。

 そうして、いつものように彼女の死を弔うための歌を詠もうとして、踏み止まる。

 自分が殺しておいて、悼むなど。

 亥の子の呪いをかけておいて死後の安寧を祈るなど。

 良心の呵責に耐えられそうになかった。

「苦しい」

 代わりに口をついて出たのは、そんな自分本位な言葉。

 それでも――――

 こんな世界で生きるのは苦しい。

 死してなお、再び生み落とされて、生きなければならないのは苦痛だ。

 僕の世界はいつも僕に厳しくて、決してしあわせになどなれないのだから。


 この世とて、そう。


 その時、ポケットに入れてある携帯が社に鳴り響いた。

「もしもし」

(まこと)君?何かあった?』

 通話ボタンを押すと、聞き慣れた柔らかい女性の声がした。

 いつも連絡をする時間に電話をしなかったから、自分から掛けて来たらしい。

「イヨさん、どうしていつもこうなんですか?」

 恨みがましく言うと、安住信の臨床心理の師匠である百瀬イヨは『これが貴方達の仕合わせなのよ』と答えた。

 ああ、そんな聞き飽きた台詞を言わないでくれ。

 それでもイヨは耳を覆いたくなるような言葉を続ける。

『何回も言っているけど、今回は早々に諦めなさい。とても間が悪いのよ。まあ、間が悪いのはいつものことだけど・・・とにかく今回は役者が揃い過ぎたわ。だから、孫と貴方の縁はもう――――』

 聞きたくない。

 そんな思いが先に立って、思考する間もなく口が動く。

「孫、でしたっけ?貴女にとって彼女は姪では?あ、いや・・・そうですね。今は、孫でしたね・・・」

 頭痛がする。今がいつの世か分からなくなる。自分が誰かも分からなくなる。

 そんな曖昧な意識の中で、ただ優しい声だけが耳に届いた。

『信君、しっかりしなさい。まずは、安住信として生きるの。分かった?そういえば千花はどうしてるの?昨日の話では、確か・・・今日、千花と個人別のゼミがあるって言ってたわよね?・・・信君?聞いてる?――――まさか』

 傍らに横たわる死体を見つめながら、「ええ」と覇気のない返事を返す。それだけで、イヨは全てを察したようだった。

「イヨさんは無駄だからと言って止めましたが、やはりあのことについて調べてみました。結果、百瀬千花の父親は吉津教育長でした。認知していないみたいですが、接待で酒をしこたま飲ませて貴女の娘さんとのことをそれとなく聞いてみたんですよ。もちろん、子供のことは否定していましたが、関係があったのは確かなようです。それで、極秘にDNA鑑定させてもらったんですけど、見事一致しましてね。つまり、百瀬千花は吉津秀彦とは腹違いの兄妹。ほんっとに嫌になりますよ。どうして、いつもいつもいつも、彼らは生き別れの兄妹で生まれてくるんですかね」

『血を固定させてしまったのは貴方よ』

 イヨは力なく呟いた。

 四百年前、亥の子歌を彼女に教えてしまったことを咎めているのだろう。

 しかし、亥の子の祈りは単に来世での(えにし)を作るもの。血縁までの縁を作るほどの効力はない。ましてや、記憶まで留めて生まれ変わるなど、思いもしなかったのだ。

 それほどまでに、彼女の想いが強かったということだろうか。それとも、『祈り』が『呪い』になってしまったのか。

 僕と同じように・・・。


 幾千回目の再会だったろうか。まだ幼い女児であった彼女が、兄者(あにじゃ)のところに連れていってほしいと願った時のことを思い出す。

 身なりの汚い、いかにも親に捨てられたのだろうと思わせる子供に、従者達は顔を顰めたが、僕は話を聞いてやった。すると彼女は、最近小者として仕えるようになった木下藤吉郎――後の羽柴秀吉を追って織田まで来たのだと答えた。

 だが、おかしなことに藤吉郎自身に問うても妹などはいないという。それを彼女に伝えると、とにかく藤吉郎の傍にいたいから屋敷に置いてくれということだった。

 その女児が彼女であることに気付いていた僕は、家来の反対を押し切って、屋敷に囲うことにした。

 そして、『千歳』の名を与えたのだ。

 藤吉郎の件は、孤児だった彼女が何か理由をつけて織田に仕えようという魂胆で言っただけだろうと、その時は思っていた。

 だが――――

「百瀬さんは知っていたんですかね?今回も」

『知っていたと思うわよ。娘はそういうところきっちりしてたから・・・父親が誰かくらい言っていたと思う』

 千歳と藤吉郎は実の兄妹だったと思う。

 確証はない。

 千歳はそれ以降藤吉郎のことを兄とは呼ばなかったし、藤吉郎自身、本当に心当たりはないようだったから。

 しかし、似ていると、思う時が度々あった。

 今回もそうだ。

 百瀬千花と吉津秀彦は似ている。

 そして、やはり兄妹だった。

「はっ」

 思わず鼻で笑って、上を向いた。

 流れ落ちる熱い雫は一体何を思って溢れてくるというのだろうか。

「狂っている。知っていて好きになるなんて。分かっていて、ずっと思い続けるなんて!」

 怒り?倫理に反することに対しての?

 違う。

『怖いんでしょ、それが。それでも彼のことを思える彼女のことが』

 鋭い、冷やかな声が耳を刺す。

 そうだ。

 怖い。

 怖くて――――魔が差した。


 ――――自分とでは決してしあわせになれない相手を望んでしまった時はどうしたら良いのですか?


 千歳が兄である藤吉郎のことを言っているのは嫌でも分かった。

 しかし、彼女の言う『決してしあわせになれない』理由として、『兄妹である』ということが頭の中に入っていたかは怪しい。

 よく似た兄妹と雖も、彼とは決定的に『自覚』という点で違いがあったから。

 そう、彼女は彼とは違って『無自覚』だった。

 あえて悪役を選ぶ彼は、その自身の自虐性を意識している。道を外す時も、それが道理に反していることを知っている。

 生を繰り返す中で、徐々に彼女と彼が上手くいきそうになることも増えてきたが、いつだって彼は兄妹だと分かった時点で身を引いていたし、彼女によって「好き」だと思わされているだけで、彼が彼女に対して本当に恋愛感情を抱くことはなかった。

 そういう点で、僕は彼に感謝している。

 その健全さを重宝さえしている。

 だが、彼女は・・・――――。

 自分とでは決してしあわせになれない相手を望んでしまった時はどうしたら良いかと問うてきた千歳の目には、僕の妹・市への言い知れない羨望と嫉妬の色しか滲み出ていなかった。

 彼女の道徳観念や倫理観は自覚無しに壊れている。

 その狂気に、足が竦むほどの恐怖を感じた。

 それでも、彼女との縁を求める自分がいることに焦りを感じて、逃げたくなった。

 でも、逃げられない。

 自分の心からは、そして重ね続けた亥の子の呪いからは逃げられはしない。

 そう思った瞬間、僕の(たが)が外れた。

 僕は道を、外れてしまった。

 彼女にも、亥の子の歌を教えてしまった。

「僕はね、イヨさん。自分の罪を償いたいんです。彼女に亥の子歌を教えてからというもの、彼女は過ちを犯し続けている。僕はそれを(ただ)したい。だから僕は何度だって、彼女の元に行くんだ」


 それは即ち、『死』を意味しているのだとしても。


『そう、貴方はそのために何度も彼女を殺しているってわけね』

 イヨさんにしては珍しく、刺のある嫌味を言う。

 いつも彼女と血縁関係にあるから、詰りたくなる気持ちも分からないではないが・・・。


 そこでふと、思う。

 イヨと彼女が、いつも血縁関係として生まれてくるのは何故だと。

 彼女達の血を固定させてしまったのはいつだと。

 否、故意に仕合わせを作ったわけではなく、初めから強い縁で結ばれていることもある・・・例えば、市村夏希と長谷部政文のように。

 僕があの時、市村の背中を押しても押さなくても、二人はいずれ結ばれていた。時期を早めようと思ったのは僕の気紛れでしかない・・・いや、全ての物事が彼女の手で進められていくわけではないことを単に示したかったのだ。

 僕の彼女へのせめてもの抵抗、反抗、復讐・・・そんな類の黒い感情で、僕は市村を焚きつけた。

 そんな必要も権利も僕にはないのだが・・・。


 とにかく、強い縁によりいつの世も夫婦となる者達がいるのだ。常に血縁者として生まれる者達がいてもおかしくないのだろう。


 それに、あともう一つ。


「では、イヨさん。また来世でお会いしましょう」

『ええ、私も歳だから、もう直に会えるでしょう』

 僕とイヨも、いつも巡り合う。

 もう、最初に出会った記憶は思い出せないが。彼女がどうしてずっと『イヨ』として生まれてくるのかも分からないが。そういう縁も確かにあるのだ。

「さようなら」

 血に染まった赤の手で、僕は通話終了のボタンを押した。


 (あらかじ)め社の中に用意しておいたポリタンクを手にして中身を周囲にぶちまける。

 何年も掃除をしていないであろう社の埃っぽい(かび)た匂いが灯油のそれに打ち消されていく。

 そして空になったポリタンクを放り投げ、殻になった彼女の傍らに座った。

 その近くには誰が持ち込んだのだろうか、ワンカップの酒瓶がいくつか散乱している。そこに一つだけ未開封のものを見つけ、引き寄せた。

 一口呑めば、喉に熱い感覚が走る。

 ふと、薄明かりの中でラベルに書いてある酒名が目に入った。

「『色匂う』か・・・」

 今から散る人間が呑むのには、到底相応しくない名前だった。

 ことりと脇に瓶を置いて、彼女を刺したナイフを取り出す。

 血に濡れたままのそれを何の躊躇いもなく腹部へと沈めれば、咳と共に血が吐き出た。

 身体(しんたい)の痛みはない。

 この世で生きることに比べれば、

「・・の子、亥の子、もちついて・・・」

 彼女と結ばれないことに比べれば、

「親うめ、子うめ、祝わん・・・ものは・・・鬼うめ、蛇うめ、角生えた子う、め」

 殺して死ななければならない仕合わせに比べれば、痛くはない。

身体(からだ)は・・・朽ち・・も、亥の血はつ、づ・・・(めい)は尽き・・・亥の血、ある・・ぎり」

 例え、この世を越えた先の世さえ絶望だとしても、

「次の()・・・で、契りを果、たさん」

 幾千、幾万の()の先で結ばれる可能性があるならば、何度でも姿を変えて彼女を探す。


 きっと、それが、あの時に決まった僕の仕合わせ。


 だが――――

 根底では蟠りが燻っている。


 死の間際にイヨと話したからだろうか。蟠りがいっそう膨れたような気がする。

 そもそも、どうしてこんなことになってしまったのか。

 最初の僕に何があった?

 誰が、こんな苦行を僕に強いた?

 亥の子歌を詠ったのは誰?僕か、あるいは他の誰かか。いや、亥の子歌ではない可能性もある。

 でも僕を、堂々巡りの仕合わせに追い遣った何かが最初にあったのだろう。


 その何かとは?


 しかし、もう良くは回らない頭で考えても一向に答えは出てこない。 

 いよいよ、意識も曖昧になってきたので身体が動く内にと、胸ポケットからマッチを取り出し火をつける。

 瞬間、揺らめく炎に意識を吸い込まれて、彼女と僕のしあわせな姿が脳裏に浮かんだ。

 酒はまだ半分以上も残っている。それに元から酒には強い方だ。

 この程度の量では・・・。


 酔ってもいないのに、こんな淡い夢を見るなど――――


 虚しい。


 指先まで迫った炎を投げ捨てれば、それは赤の弧を描いて地面へと落ち、広がった。



 ああ、これで。

 教育に心血を注いでいた安住信の生も終わり。

 生きているうちに、文部科学大臣ぐらいにはなりたかった。

 だが、仕方ない。

 そういう仕合わせなのだから。

 いつの世も、僕は天下を掴めない。

 彼女を見捨てたあの時でさえ、結局天下人にはなれなかったのだから。


「はっ」

 自嘲の笑いを飛ばして、僕は最後の力を振り絞り、酒瓶を一気に傾けた。



 色は匂へど散りぬるを

 我が世誰そ常ならむ

 有為の奥山今日越えて

 浅き夢見じ酔ひもせず


 詠み人知らず

『我が世』の最後からプロローグへと続く形になっています。

本能寺の変の描写ではありませんが、信長は信長でした。

今回も彼は天下も愛する人も手に入れられなかったわけです・・・。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ