天地の底ひの裏に我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ
第一章よりもかなり長くなりました。
第二章
平成二十五年、秋。
現在通っている大学に比べ、随分こじんまりしたキャンパスを緊張した面持ちで一人歩く。校舎も、グラウンドも、行き交う人の量も、高校規模程度なのに、無造作に生い茂る樹木だけは圧巻で、その本数の異様さに気圧されそうだ。
その中でも一際目立っているのが紅葉と楓である。紅に変色した葉は、それなりに人目を引いていて・・・。
人は普通、それを見て『綺麗』と評するのだろう。
だが、紅葉とは緑の色素であるクロロフィルが日照時間の減少により分解され、紅や黄の色素だけになった結果起こるものだ。光合成を行うために必要な葉緑体が抜け落ちたと言えば分かりやすいだろうか。
よって、これは葉の細胞の老化現象であり、落葉は即ち――――
その時、無数の紅い葉が風に吹かれて舞った。
向い側を歩いている女子学生数人が「見て、綺麗」と漏らすのが聞こえる。
風に煽られたのは一瞬のことだったが、視界を覆わんばかりの紅が目に焼き付いて離れない。
落葉は即ち、死。
俺はそれを見て、血飛沫のようだと思った。
カシャ。
直後、近くでカメラのシャッター音がした。
と、同時に――――
「きゃっ」
小さい悲鳴が耳を掠める。
そして、咄嗟に差し出した腕にズシリとした重みを感じた。
「ごめんなさあぁぁい!」
写真を撮るのに気を取られていたのだろうか。よろけて転びそうになっていた女性は慌てて身体を離すと、勢いよく謝罪の言葉を口にした。
そんなに必死に謝らなくてもと、苦笑気味に声を掛けようとして、息を飲む。
整えられた眉、潤んだ瞳、引き結ばれた口元、その全てに絡めとられて――――俺を離さない。
「えっ・・・と・・・ご無事で何よりです」
動揺からか、他人行儀な物言いになってしまう。恥ずかしくて、視線を下に落とすも、いきなり「あっ!」という声がして、すぐに顔を上げることになった。
「もしかして、院入試の方ですか?」
「え?ああ、そうですけど」
彼女は俺の手にしている封筒を凝視して、「私もなんです」と鞄から同様の封筒を取り出した。
大学院入試の案内だ。裏面に教職大学院入試課の文字が見える。
「あー良かった。早く来過ぎちゃったみたいで、他誰もいなくて寂しかったんですよね。入試会場はこっちですよ。一緒に行きましょう!」
さっきとは一変し、まあるい目を輝かせながら俺を見る彼女に、『直前に試験勉強をしたいので貴女の話し相手にはなれませんよ』とは、到底言えなかった。
「どこの大学からですか?私は――――」
勝手に話を進める彼女。でも不思議と、迷惑だとは感じなかった。
前を向いて歩いているふりをしながら、横目で彼女を盗み見る。その陽だまりのような笑顔を見ていると、入試の緊張もどこかへ飛んでいくようだった。
ふと、彼女のふわふわした栗色の髪に紅い葉が絡まっているのを見つけた。
一瞬、取ってあげようかと悩んだが、わざとそのままにしておく。
彼女の頭の上に乗った小さな紅葉の葉っぱが、何故だかとても愛おしくて――――。
そう、初めて俺は、その紅の葉を綺麗だと思った。
二世の契り
Presented by aika.P
※この作品はフィクションであり、実在する人物・学校、及び事象とは一切関係ありません。
平成二十六年、秋。
秋とは名ばかりの、残暑厳しい中、俺は窮地に陥っていた。
目の前に置かれたコーヒーを一口も飲まずに相手の言葉を一通り聞くも、何がどうなって、そのような結論に至ったのか全く理解できず、膝の上で握り締めた拳がわなわなと震え出す。
それでもどうにか、立ち上がりたい衝動を抑えて口を開いた。
「どうして俺だけなんですか?」
大丈夫。声は震えていない。
そのことに安堵しながら、相手の答えを待つ。
「どうしてって、自力では分からないですか?」
俺を昼一で自身の研究室に呼び出した安住信はいかにも教師然とした返答を寄越した。
まるで非力な子供を相手にしているような態度に苛立ちを覚える。
舌打ちは心の中だけに留め、無言のまま目だけで反論の意思を示すと、穏やかな笑みが返ってきた。
カウンセリングマインドというやつだろうか。
君の話を聞きたい。
君を理解したい。
椅子に斜めに腰掛け、柔らかい物腰で語るのはそういう姿勢の表れなのだろう。が、黒縁の眼鏡の奥にある瞳を覗き込めば、途端に温度を感じられないのだから、臨床心理士の資格を持っているとはいえ、この男も大したことはない。
でも、それは正しい。
誰も、俺を、正確に理解することなんてできないのだから、理解しようと努力するだけ無駄なのだ。
とは言っても、納得できない理不尽な状況に立たされている今、主張すべきことは主張すべきだろう。
俺はできるだけ正確な言葉にして相手に伝えた。
「教育はつまるところ学力をつけることだと思っています。彼は家庭を鑑みても、勉強ができるような状況じゃない。学校で勉強をさせるべきなんです。だから、放課後に遅れているところを補習させました。それの、何が間違っているんですか?」
安住はふむふむと首を縦に振って、俺の話を聞いていた。
いかにも分かったというようなパフォーマンスが癪に触る。
「確かに、当該生徒の家庭は経済的に厳しいと学校側からも聞いています。長谷部君の言う通り家庭学習ができる環境にはないのかもしれません。そのせい・・・かはともかくとして、彼は学力的に劣っています。このままの成績では偏差値の低い高校にしか行けないでしょう。そうすれば、自ずと就職も良いところは望めません。いわゆる貧困のスパイラルです。君は彼に学力をつけさせることでそれを阻止しようとしたんですよね?それは分かりますよ」
分かりますよと言ってのける目の前の男に唖然とする。
見当違いも甚だしい。
「捻じ曲げないで下さい。そんな大袈裟なこと、一言も言ってないじゃないですか。ただ私は、学校は学力をつけるための場所だから、勉強のできない生徒がいれば休み時間や放課後を使ってでも勉強を教えるべきだと」
その時、レンズ越しの安住の目に熱が籠ったような気がしてドキリとした。
「じゃあどうして、彼だけだったんですか?」
案の定、突かれたくない質問が飛ぶ。
「それは・・・」
「経験則から、ですか?」
どこまで察してのことかは分からないが、安住が俺の生い立ちとの関係性を示唆しているのは間違いなかった。
何も言い返せないでいると、「別に長谷部君の言っていることが間違いだとは言いません。でも、教育は学力をつけさせることだけでしょうか?」という意地の悪い投げ掛けが来た。
「そうだぜ。教育ってのはお勉強を教えるだけじゃねぇーの。あんた、おつむ大丈夫か?」
突然話に割って入ってきたのは、同じく安住研究室に呼び出された吉津秀彦だ。
「いや、お前の頭が大丈夫じゃないだろ」
吉津とは同じ中学校で実習を受けた。実習中はさすがに黒髪だったが、今はもう金髪に戻っている。その髪色に見合う低能な中身に呆れながら言い返す。
「生徒を竹刀でしばくような暴力沙汰起こすとか、お前一度医者に診てもらった方がいいぞ、その頭」
吉津が安住に呼び出されたのは、そういう理由だ。
「しばいてねぇよ!手本見せてやっただけだ」
「体育館の舞台の上から飛び降りて竹刀叩き込んだんだろ?何の手本だよ」
「あれは、龍槌閃って技なの。知らねぇのか?」
「いや、知ってっけど架空の技だろ!お前それ試そうとしたのか?中学生かよ!?」
言い争いがヒートアップしてきたところで、まあまあと安住が仲裁に入る。
吉津は最後に吐き捨てるように「何だよ、自分だけ生徒の保護者に謝りに行かなきゃならなくなったからって気ィ立ってんのか?」と零した。
それは、俺にとどめを刺すには十分過ぎる言葉だった。
俺達はそれぞれ、実習中に問題を起こした。しかも、同じ生徒に。
俺は勉強が遅れていることを理由に独断で居残りをさせた。
吉津は剣道部の指導中、竹刀でしばいて怪我をさせた。
学校側には二人揃って既に謝罪しているが、どちらの罪が重いかは一目瞭然だろう。
それなのに――――。
その生徒の保護者は俺だけに謝罪を要求してきた。
「まだ、納得できてないみたいですね?」
安住の声が重く肩の上に落ちてくる。
納得できない。
できるはずがない。
「その保護者おか」
「保護者じゃないですよ。そういう場合もありますが、今回に限って言えば、生徒本人の要望です」
保護者がおかしいと言おうとして、すぐさま口を塞がれる。
「長谷部君は、福永君のことをもう少し考えた方がいいです。どうして彼が怪我を負わせた吉津君ではなくて勉強を教えてくれていた君に謝ってほしいのかを」
二瀬中学校二年二組、福永有。
大人しく、無口な男の子だった。
授業中は勉強についていけないためか、ずっと上の空だったが、決して授業妨害をするような子ではない。
放課後の勉強会も嫌な素振りは一切しなかった。『貧困から抜け出すには勉強しないといけない』そう言えば、うんと頷いていた。
それなのに・・・どうして・・・?
「分かりません」
人の考えていることなんか、分かるはずがない。
俺が他人に理解されないのと同じだ。
「そうですか・・・でも、考えて下さい、子どものことを。そうすればきっと長谷部君もなれますよ、標に」
安住はヒントを与えるどころか、嫌なプレッシャーだけを掛けて話を切った。
――――瓦解した教育現場の標となれ。
それが、安住の口癖だ。
瓦解しているのは、安住の方だと思う。安住自身が学生の標となれていないのだから・・・。
でも、さすがにそれは心の中に仕舞っておく。
二人して研究室を後にする。
「失礼しました」と扉を閉めて外に出れば、心配そうな顔をした市村夏希が待っていた。
「安住先生、何だって?」
その問いに何て答えようかと迷う間もなく、吉津が夏希の手を両手で包み込んだ。
「そんな心配するな、俺は大丈夫だから」
「俺はって・・・じゃあ、政文は?」
夏希は顔をますます青ざめさせて、こちらを見た。その視線に耐えられなくて下を向くと、否応なしに吉津に握り締められた手が目に入る。
劣等感。
自尊心。
そんなものが同時に押し寄せて、気づけば笑っていた。
「何て顔してんだよ。俺も、大丈夫だよ」
そして、半ば強引に吉津の腕を引っ掴んで足早にその場を立ち去った。
階段を降りて、適当な空き教室に入る。
「で、何だよ?」
掴まれた腕を振り払い、静かに切り出す吉津に目を向ければ、冷ややかな笑みを湛えた顔とぶつかった。
「口止めか?夏希には保護者に謝罪しに行くことになったことは言うなって?」
吉津から目を逸らして拳を握り締め、やっとの思いで首を縦に振る。
「惨めだな」
辛辣な、嘲笑。
吉津は俺より随分と背が低いが、その嘲りは頭上へと落ち、鈍い痛みを与える。
言い返せない。
吉津の言う通りだ。
あの場から逃げ出した時点で、俺のなけなしの自尊心は粉々に砕けていた。
「ほんっと、何であんたみたいなのが教師なんか」
でも、
「うるせぇよ。お前には関係ないだろ」
それを、別に理解されたいとは思わない。
無残な心情も、自分勝手な意地も、癒えることのない傷も。
理解されたくはない。
キッと睨みつければ、吉津はそれ以上何も言わなかった。
暫くの沈黙。
それを破ったのは、俺のスマホの着信音だった。
「政文」
ポケットをまさぐる俺に吉津が呼びかける。
「福永はさ、教師の前では大人しく振る舞ってたかもしんないけど、あいつ、影ではカツアゲとかしてたんだぜ」
一瞬、吉津が何を言っているのか分からなかった。
福永がカツアゲ?
だが、取り出したスマホの画面に映し出された名前を見た途端、全ての思考が止まった。
見渡せば、もう吉津はいない。
俺は静かに、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『政文か?』
苛立った、荒々しい声。
『婆さんが死んだ。明日、通夜だから』
どうやら、長年認知症で施設に入っていた母方の祖母が亡くなったらしい。
『それから、式には俺の関係者が来るからお前は通夜だけでいい。ああ、分かっているとは思うが、あの女は通夜にも呼ぶな。まだ頭がイカれたままなんだろ?通夜に来られても迷惑だから絶対に連れて来るな、いいな!』
そして、一方的に電話は切れた。
言い返す暇もなかった。
いや、時間があれば言い返せたか?
あの伯父に。
「畜生!!」
近くの机を蹴る。
頑丈な長机はびくともせず、沈黙したままだった。
「荒れてるね~」
その時、神経を逆撫でするような呑気な声が聞こえてきた。
反対側の扉から教室に入ってきた小柄な女が腕を組んで俺をじっと見ている。
「何か用か?百瀬」
「べっつにー。でも、夏希が心配してたからさ、様子見に来てあげただけ」
夏希の名を聞いた瞬間、身体がビクッと跳ねた。
「夏希、そんなに心配してたか?」
「顔には出してなかったけど、まあ」
俺や吉津と同じゼミ生である百瀬千花は夏希の高校時代からの友人らしい。
夏希と付き合いの長い彼女が言うなら確かだろう。
しっかりしなければ。しっかりしなければ。しっかりしなければ。しっかりしなければ。しっかりしなければ。
もはや呪いのように、自分に言い聞かせていつものように笑顔を作る。
「そっか。悪かったな。でも全然平気だから、俺も自習室戻るわ」
何でもない振りをした仮面を被る。
だが、次の瞬間。
「そういうの、気持ち悪いんですけど」
百瀬が吐いた言葉が仮面を砕いた。
「何、だって?」
「気持ち悪いつったの」
「なっ!お前に何が分かん」
「分かりませんが、何か?」
「っ!!」
分からないと切り捨てられればそれまでのこと。
言い返す材料をなくした俺は歯噛みして、百瀬を睨むしかない。
「ただ、一つ言えるのは、」
百瀬は一歩ずつ俺に近づいて、ちょうど机一列分を挟んだところで立ち止まると、無表情な顔を向けた。
「さっきの貴方の目には、確実な殺意があったってこと」
瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
百瀬の真っ直ぐな瞳に動揺した自分の姿が映っている。
「はあ?な、に言って・・・」
「誰かを殺したいの?」
追い打ちを掛けるような質問を何食わぬ顔でする百瀬が怖い。
「まさか・・・違う」
平静を装え。
脳が発した命令に従い、俺は否定の言葉を唱える。
そうだ。
いつものように平気な振りをすればいい。
いつものように嘘をつけばいい。
「そんなこと、俺は」
「ここで否定したら、自分を殺すことになるよ?」
百瀬の鋭い言葉に息を飲む。
『いつも』が通じない相手への恐怖に――――負ける。
そして、
「ちょっと、話に付き合ってくれるか?」
俺は肩の力を抜いた。
百瀬はただぶっきら棒に「別にいいけど?」と言って椅子に腰掛けた。
その、いかにも興味がなさそうな態度が無性に有難かった。
俺の家は言わば貧乏というやつだ。
父親は稼ぎのない人だった。
過去形なのは、その父はもうこの世にいないからだ。俺が小学生の頃に死んだ。
それで、ますます生活が苦しくなり、母はパートで昼夜働くことになった。母は気丈な人で、自分の両親からの援助を一切断り、ここまで俺を育ててくれた。
そのことには感謝しているし、尊敬もしている。
だが、とにかく金がなかった。
当然の如く小遣いなどはない。学校の友達がいつも話題にしている漫画やゲーム。学校帰りに立ち寄るファストフード店やカラオケボックス。どれも俺には無縁のものだった。
そのせいで・・・とは認めたくはないが、俺は孤立を選ぶようになった。中高時代は、グループを作れと言われれば困るほどには、独りであったと思う。
でも、代わりに俺は猛勉強した。塾に行っている奴に負けないくらいの努力をしてきた。
だから、奨学金で進学校と呼ばれる高校へと進学し、有名大学への入学を果たし、今、この教職大学院に通っているのだ。
ここまで話して、百瀬は口を挟んだ。
「教師を目指したのは、安定の公務員だから?それとも自分と同じような子供を教育で救いたかったから?」
「いや、どっちも違う」
その問いに俺は即答した。
「安定性で公務員を選ぶなら、教師である必要はないだろ?それだけが理由なら県庁勤めとかの方がよっぽど気楽だろうし、そっち選ぶよ。かと言って、百瀬が言うような崇高な考えで教師を目指したわけでもない。安住もお前と同じようなこと言ってたけど、そんな理由じゃないんだ」
「じゃあ、」と百瀬は聞く。
俺は一息ついて、一思いに吐き出した。
「復讐だよ」
復讐。
言ってしまって、仄かな後悔が浮かび上がるも、それはすぐに霧散した。
「長谷部君の殺したい相手への?」
百瀬が静かに口を開く。それに俺は頷いた。
「俺の母さんの兄貴ってのがさ、ほんっとにクソみたいな奴で―――――――」
そう、五年前のあの日も。
祖父の遺体の前で泣き崩れる母に向かって、そいつはずっと金の話をしていた。
何やら理屈を並べてまくし立てていたが、要するに葬儀の費用は一銭も出したくないということだった。
互いに行き来できるようになっていた二世帯住宅はいつの間にか壁が作られ、認知症の祖母の世話も祖父に任せ切りだったその家の長男は、嫁に出た妹に「金を出せ」と言う。母が嗚咽を殺して「出したくても金がない」と訴えれば、「じゃあ、そこら辺に遺体を捨ててこい」と怒鳴る。
母の慟哭に伯父の怒号。
「泣くしか脳がないのか!はあ?あんな男のために俺が葬儀代払うわけないだろ!?お前に金がないなら仕方ないだろうが。はっ、何だよその目は。恨むなら社会の負け組だった死んだ自分の亭主を恨めよ。いい加減泣くの止めろ!鬱陶しい。お前みたいな卑しい奴が妹だと思うと反吐が出るわ!」
一言一句、鮮明に覚えている。
母は全身に罵声を浴びて、小さな身体を震えさせていた。
俺は堪らず叫んだ。
薄情者と。
だけど、ガキが口出しするなと大声を上げられて身が竦んでしまった。次の瞬間殴り掛かってきた伯父に、咄嗟に対応できないほど俺の足は情けなくも動かなかったのだ。
そう、
伯父は、俺ではなく、母に手を上げていた。
それを止めたのは、母が呼んだ葬儀屋の人達だった。
当時、高校生で伯父の言う通りガキでしかなかった俺はその光景を黙って見ていることしかできなかった。そして、それ以上何をどうすることもできなくて・・・ただ、祖父の遺体に縋り付いて泣き叫ぶ母の背中を摩るのが精一杯だった。
結局、祖父の葬儀は祖父の残した貯金で執り行われた。そして祖母はすぐに施設に入れられ、母は心を病んだ。
精神的な心の支えであった祖父の死。長年に渡る働き過ぎによる心身の疲労。そして実の兄との不和。
医者は全てが重なって精神に不調をきたしたのだろうと言っていた。だが、母の病気の原因として、俺が恨むべきものは一つだった。
「本当にクソだろ?それがまた、有名私立大の教育学部の教授やってたりするわけだ。あの人は、金がないわけじゃないんだよ。心が、ないんだ」
心を失くした理由を知らない訳ではないが、俺には関係ない。
そして、母にも責任はないはずだ。
祖父の葬儀に来ていた親戚が声を潜めて話していた。
教師だった祖父に伯父は大層厳しく育てられたと。
実は伯父の上には文武に秀でた優秀な兄がいたらしく、年は離れていたものの、いつも比べられていたそうだ。しかし、伯父が中学に入るか入らないかという頃に、その兄は事故で死んだ。そして長男という重責を背負わされることになったのだ。優秀だった兄の代わりという重みを。
昔のことだ。躾と称した折檻、暴力などは、当たり前だったのではないだろうか。
一方俺の母は女ということもあり、随分と甘やかされ、可愛がられて育てられたという。
そんな事情で伯父は随分と歪んで大人になってしまった。
教育学の研究者として成功しているようだが、伯父の二人の子どもは大学進学を機に家を出て、そのまま就職し全く家に寄り付かないという。
はっきり言って伯父の家庭は破綻している。
親戚達が噂するほどに目に見えて。
だから、母を罵倒するのは妬みだと初めから分かっている。
だが、そんな伯父の自分本位な事情は俺の家族を傷付けていい理由には決してなり得ない。
「そうだろ?」と聞けば、百瀬は「まあね」と素っ気なく応えた。
「俺は、伯父を見返すために教師を目指すことにした。行く行くは現場上がりの研究者になる。そういうの少ないだろ?机上の空論ばっか言ってる研究者なんか大したことない。俺は現場目線で研究する。それで、伯父よりも上に立つ。復讐だよ、復讐。俺は伯父を」
ああ、でも本当は――――
伯父の哀れで惨めな事情を知っていてもなお、
殺したい。
「超えたいんだ」
真意を隠して口にした最後の言葉に力はなかった。
百瀬の俺を見る目が痛い。きっと心の中を見透かされている。
でも彼女は「そう」としか言わなかった。
「まあ、でも。いつも教授陣に立てついてる理由がよおく分かったわ」
百瀬の軽い口振りが重い空気を引き裂く。
「安住先生とか特に嫌いでしょ?ゼミの時とか敵意丸出しだもんねー」
「別にそんなには」
「いーや、敵意半端ないよ?男前だから、僻んでるのかと思ってたわ。かっこいいし、東大卒だし、四十そこそこなのに文科省から派遣されてるすっごいキャリアの持ち主だし、かっこいいし?」
「おい、かっこいい二回言ってんぞ。お前、ああ言うのが好みなのか?」
「全然」
至極真面目に答える百瀬が何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。
張り詰めていた心が溶ける。
このまま、殺したい衝動も和らげばどんなにいいか。
でも。
そう簡単にはいかないだろう。
「まあ、そういうことでさ。しんどいんだ、俺も。さっき伯父からばあちゃんが死んだって電話があった。それだけでも辛いのに、葬式には大学関係者が参列するから来るなとか、神経病んでる母さんは通夜にも出させるなとか・・・百瀬が入って来た時に俺が荒れてたのはそういう理由。加えて、実習でトラブっただろ?もう、人伝に聞いてると思うけど、あれさ、自分の力をただ示したかっただけなんだよな。貧乏で勉強のできない子どもを俺の力で学力アップさせられたら凄いだろ?だから、俺みたいな子どもを助けたいなんて、これっぽっちも思ってなかった。子どものことなんて何一つさ。それで、罰当たったのかなー。保護者に謝んないといけなくなったわ。確かに担任の許可得なかったのはまずかったかもしれないけどさ、吉津も問題起こしただろうが。何で俺だけ・・・でも、ま・・・仕方ないか。吉津って、人の懐に入り込むの上手いしな。馬鹿だけど、馬鹿なりに。しかも吉津の親父さんって県の教育長なんだろ?性格も、家庭も、俺とは正反対だよ。だからかな、吉津ととことん反り合わないのは。実習中でも、ゼミでも、他の講義でも衝突ばっかで・・・ホント、参るわ」
言葉にすると、深く心に沈み込む。
辛いという事実と、自分本位な醜さが重く重く圧し掛かる。
突然、目元に熱い感覚が込み上げてきた。今まで抑え込んできたものが、溢れ出しそうになって―――――
「それは、私の前で流していいものじゃない」
だがその時、百瀬の諭すような声が聞こえ、顔を上げた。
「私じゃないでしょ。聞くぐらいは聞いてあげたけど、そんなの右から左に流してるっての。重すぎ。いくらなんでも受け止めきれないわ~そんな義理もないし」
突き放された言葉に喉がつかえる。寸でのところで涙を押し留め、黙ったまま相手を見つめる。
確かに、俺が勝手に話したことだ。認められたいとか、分かってほしいなんて思ってもいない。
はずなのに。
「俺が悪いのか?」
震えた小さな声が教室に反響する。
そんな情けない声に僅かに目を伏せた百瀬は、呆れたように息をついた。
「本当に私に受け止めてほしいわけでもないのに、被害者ぶらないでくれる?私に話したのは、単なるタイミングでしょうが。たまたま、伯父さんからの電話の後に現れたから、たまたま、心の内を見透かされたから、話しただけのこと。そんなたまたまの人間に慰めなんて求めんな。この院で、長谷部君と一番仲が良いのは誰?その人なんじゃないの?貴方が、自分を理解してほしいと望む人は。自分の気持ちを受け止めてほしいと心から思う人は。貴方の涙はその人が拭うべき」
だから、「私の前で泣くな」と、念を押すようにして百瀬は呟く。
夏希のことを言っているのは嫌でも分かった。
入試の時に既に知り合っていたためか、大学院で一番親しいのは確かに夏希だ。それは自他ともに認めることである。
それでも、
「言えるわけないだろ」
言えない。
「どうして?」
それは、
「心配かけたくないから」
「もう、とっくに心配かけてんじゃん」
だとしても、
「巻き込みたくないんだよ」
仲が良いならなおのこと、夏希に知られるわけにはいかない。
俺の頑な態度にうーんと唸った百瀬は何の前触れもなく爆弾を投下した。
「結婚しても?」
「はあ!?」
突然の話の飛躍に素っ頓狂な声が出る。
「仮の話。結婚しても、家の事情は言わない気?」
意味の無い空想に付き合う義理もないのだが、戯れに夢想してみる。
ああ、それでもやっぱり俺は――――
「言わない。俺は夏希にしあわせであってほしいから」
キッパリと言い放つと、百瀬の瞳が揺れた気がした。
「俺の事情に夏希を巻き込みたくない。俺のことで悩ませたくもない。知らないで済むことならば、言わない方が、彼女もしあわせだろうと思うから・・・俺は言わないよ。だから、百瀬も黙っていてほしい」
最後の懇願に百瀬の長い睫毛が震える。彼女らしくない態度を訝しんでいると、直後、静かな、けれど強い声音が耳を刺した。
「前もそう仰って、結局しあわせにはできなかったではありませんか」
いきなりの敬語に戸惑いつつ、百瀬の顔を覗き込めば鋭い眼光が飛んだ。
「それではしあわせにはできない。幸せを強いてしあわせになどなれやしない。分かりませんか?」
「も、もせ?どした?」
「女は貴方が思ってるほど弱くないんです。少なくとも夏希はそんなこと、望んでない」
「は?どういうことだよ・・・」
百瀬千花という人間が分からず、その輪郭がぼやけそうになる。
目の前の人物は一体誰だ?
頭の奥で何かが閃きそうで閃かない。同時にこれ以上考えるなという警告が鳴り響いて、耳痛がする。
「告れ」
しかし次の瞬間には、いつもの調子で無茶振りを寄越す百瀬がいた。そのことに安堵しながらも安心できない状況に息を飲む。
「え?何の話だよ」
「知らないとでも思った?夏希のこと好きなん」
「ダアァァァー、れがッ」
「その動揺振りで誤魔化せられると思ってんだったら、重症だよ」
厄介なことになった。
非常に厄介なことになった。
友達同士でよく「告れよ~」と言ったりしている場面を見るが、そんなノリではない。
そもそも俺と百瀬は夏希を介してでしか今まで話したことがないのだから、そんな和やかなおどけた雰囲気になるはずもない。
だとすれば――――
「告れ」
再び放たれた短い言葉。
それはきっと命令で、俺がうんと言うまで続くのだろう。
それでも頑なに渋っていると、更なる無茶が飛んで来た。
「月が綺麗ですねって言え」
「は、ぃ?」
夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳したという逸話をどこかで聞いたことがある。百瀬はそのことを言っているのだろうが、そんなものはネタでしかない。
「知らないの?月が綺麗ですねっていうのは」
「いや、知ってっけどネタだろ完全に。お前、それ自分が告白する時使うのか?厨二かよ!?」
つい最近・・・というかついさっき、どこかの馬鹿と似たようなやり取りをした気がする。
だが、強烈な既視感を覚えつつ放った俺の冷静なツッコミに百瀬はしれっとした表情で「私は言わない」と返した。
だったら人に言わせようとすんじゃねぇよ!!
心の叫びが出かかったが、百瀬が次に零した「私は気持ちを伝えない」という言葉に興味を持ち、どうにか堪えた。
「何で?勇気が出ないから?」
俺の問いに百瀬は首を振る。
「叶わないって諦めてるから?」
一層強く首を振る。
「あ、もしかして、相手に告らせる系?いるよなーそういう女」
俺の嫌味は通じているのかいないのか。恐らくは通じていないのだろう。百瀬は、遠くを見て呟いた。
「私からじゃ、ダメなの。そういうのは全部ダメだったから」
何故だかその台詞は真に迫っていて、安易に受け答えしてはならないような気がした。
再び彼女という人間が分からなくなる。
「貴方達の場合は、素直になることだよ。特に貴方がね。あの時もそう思ってた」
あの時っていつだ。
いつから百瀬は俺が夏希を好きだと気付いていた?
次々に浮かび上がる疑問に彼女は答えてくれるだろうかと顔を覗き込む。
黒目がちな切れ長の瞳の奥は深過ぎて、何の感情も読み取れない。
「言わないと、伝わらないよ。理解されないのは言わないから。言葉で伝えもしないで分かってくれなんて、無理な話。私の場合は特殊だけど」
百瀬が最後に付け足した『特殊』という言葉は暗に、『私は誰にも自分を見せるつもりはない』という拒絶の意思表示のようでもあった。
きっと彼女は何も答えない。
そう確信した俺は、ひとまず自分の問題に向き合う決心を着けた。
「夏希に言ってみる」
「月が綺麗ですねって?」
「バカ、違うわ!」
百瀬は「じゃあ、何を?」だなんて、いたずらっぽく笑ってみせる。
その顔が妙に腹立たしかったから、俺はだんまりを決め込んだ。
そんな、分かり切ったことを。
俺のこと、全部だ。
知ってほしい。
分かってほしい。
そんな欲望をぶつけていいものかどうか迷いもあるが、女は弱くないという百瀬の言葉を信じてみよう。
何よりも、夏希のことを、信じてみようと思うのだった。
* * *
眩しさに目が眩み、顔を顰める。窓から差し込む光は随分と傾き、腕時計を確認すれば午後四時になろうとしているところだった。
(もう、こんな時間か)
パタンと本を閉じる音が静かな図書館に響く。
まだ講義まで時間があるが、一旦自習室に戻ろうと腰を浮かせる。
きっと、全てが終わった後だろう。
私には、長谷部政文がどうなったのか確認しておく必要があった。
だが、嗾けておいて言うのも何だが、これで良かったのかという思いもある。
あの目。
「殺意があった」とは言ったが、それだけではなかった。だが、それ以上のことを口にするのは正直憚られ、あえて指摘しなかったのだ。
彼のことは話を聞くまでもなく理解しているつもりだったが・・・。
あの男は、やはり私の知る彼ではないということなのだろうか。
それとも――――
その時、目の前に現れた獣に目を奪われ、思考は強制的に遮断された。
図書館を出て、屋内から大学院棟へと行ける通路は大学院生しか利用しないので、人通りが少ない。
今は私と、息を切らせながら鋭い眼光を向ける獣が一匹。
「どうしたの?随分な身なりだけど」
「うるせぇ!」
獣が吠える。
だが、埃を被った服に身を包み、金の髪に緑の液体を付着させ、頬に引っ掻き傷を拵えながら吠えたところで怖くもなんともない。
「吉津君って、見るからに頭悪そうだよねー」
そう言ってニコッと微笑む。
吉津秀彦は憤慨した様子だったが、「今はあんたの喧嘩買ってる暇ないんだよ!!」と、喚いた。
秀彦の焦り様から想像するに、これは夏希絡みだ。もしかして、自分のことを話すだけと言っていた政文が勢い余って告白までしたのだろうか。それで、二人が付き合うことになったとか?
思い通りに事が運んでいることに内心ニヤつきながら、眼前の捨て犬風情を見据える。
それにしても、その身なりはどうしたとツッコミたい衝動を抑えて。
「おい、退けって!」
真正面を向いたままの私に秀彦は噛み付いた。
普通の廊下とは違って、人一人がやっと通れる狭い通路なので、すれ違おうと思えば身体を横にしなければならないのだ。
「何で?」
「何でって。俺は政文と夏希を探してんの!図書館の方行ったから、先回りしねぇと」
まさか、あの意気地なしが夏希を連れて逃避行とは驚きだ。
これはいよいよ告白も済ませたと考えていいだろう。
だが、
「何でそんなことになってんの?」
その問いに意味の分からない返答が飛んできた。
「夏希が政文の逃亡を手助けしやがったんだよ!」
「は?」
「だから、夏希があいつの手掴んで走っていっちまったから・・・もう、二時間くらい追いかけてて・・・」
あれ?と、心の中だけで首を傾げる。
二時間前と言えば私が政文と別れてすぐのことではないだろうか。
それではきっとまだ話をできていない。
しかも、夏希が政文の手を引いて?
私の知る限り、夏希はそれほど積極的なタイプではない。
戸惑いが疑心へと変わる。
一体何が、いや、誰が、夏希を焚きつけたというのだろうか。
ともあれ――――
私はお構いなしにグイグイと進み、鞄を盾にして、秀彦を出口まで追いやった。
「は?おい、百瀬!」
最後は力いっぱいに押し出すと、二人して開けた廊下へと出る。
「貴方みたいな身長も心もちっちゃい男が、夏希と釣り合うわけないっての」
そう吐き捨てれば、眼前の男は牙を見せて不敵な笑みを浮かべた。
「言ってくれるねぇ?」
同じ轍は踏まない。
直後、足を踏み出したのは私が先だった。
* * *
遡ること二時間前――――
風が頬を裂くような感覚がする。
こんなに全力で走ったのはいつ以来だろう。
小学校の運動会でさえ、ここまで必死に走ったことはない。
こんな・・・死にそうな・・・
「もう、だ・・・め」
「え!?」
夏希の驚いたような声が遠くに聞こえ、漸く、息ができないほどの疾走感は消えた。
スピードを落とした夏希は校舎裏の細い路地へと入っていく。そして二人して古い物置の陰に隠れた。
「大丈夫!?」
声を潜めているのに、夏希のその声は思いの外頭に響く。
いきなり止まったからだろうか。胸と喉の奥がじんじんと痛み、軽い吐き気までする。
「だ、いじょ・・・」
「大丈夫じゃないよね。ごめん。私、全力で走り過ぎた」
その時、握られたままだった夏希の手にキュッと力が籠った。
そう俺は、ここまで夏希と手を繋いで走ってきたのだ。そのことに初めはドキドキした。握られた手が熱くて息も儘ならぬほどに。でも、息が儘ならないのは別の要因だとすぐに気がついた。
夏希の走るスピードが想像以上に早かったのだ。
体感としては秒速十メートル。日頃何も運動していない俺には酷なんてものじゃない。死ぬ。
「振り切れたかな」
「振り切れ、たんじゃない、か?」
(というか、振り切れててくれ!)
もう、走りたくないという思いから、そう強く願う。
だが、
「いーや。俺はあんたみたくやわじゃないもんでな」
俺の思いとは裏腹に、野暮ったい声が頭上に落ちてきた。
「観念して、土下座しろ!んで、賠償しろってんだ!」
吉津秀彦は、物置の上から飛び降りて行く手を阻む。
どうやって、物置の上に登ったのかは知らないが、その身のこなしには感心する。
「猿かよ」
「はあ!?」
思わず出た言葉は侮蔑以外の何物でもなかったが、これは俺の精一杯の賛辞だ。
「まあ、いい。夏希の手前、今の発言は許してやるよ。だがなぁ、俺の嫁を汚した罪は償え!!」
直後、吉津が突進してきた。
「人聞きの悪いこと言うな!あれは――」
「あれは、ただのフィギュアでしょ!」
瞬間、ガシャンという鉄の板が倒れる音が耳に届いた。見れば、錆びて外れかけていた物置の扉と共に、吉津の姿が消えている。
辺りに舞う埃のせいで、ほとんど見えないが、物置から僅かだけ出ている足が見えた。
ひょっとしなくても、吉津だ。
恐る恐る安否を確かめようとした俺の手を夏希が勢いよく引っ張る。
「行くよ!」
「え?ちょっ、でも」
「いいから、今のうちに!」
混乱した頭のまま、俺は再び走ることになった。
恐らく吉津は、扉ごと物置の中へと倒れ込んだのだろう。
当たり前だが、俺がやったわけではない。吉津のあまりの迫力に目を閉じて身構えることしかできなかったのだから。
では、独りでに?
いや、違う。
しかし、次の可能性を考えるのは止めにした。
夏希の提案で、俺たちは部活棟に身を潜めることになった。
二階に上がったところで、こっちこっちと、夏希が手招きする。既に夏希は俺と手を離していた。少し残念な気もするが、仕方ない。ここは人が多すぎる。
夏希は『茶道部』のプレートが掛けられている扉をそっと開け、中に入った。
続いて中に入ると、奥の茶室に部員らしき着物姿の女性が座っているのが見えた。
「いらっしゃい。珍しいね、夏希ちゃん」
落ちついた佇まいとは裏腹に、とても元気の良い声でその人は駆け寄って来た。
正直な感想を言えば、かなり美人だ。
「梅美ちゃん、悪いんだけど、しばらくここに居てもいいかな?」
「ん?見学?」
「そうじゃないんだけど、ちょっと人に追われてて・・・」
「いいけど、何でそんなことになったの?」
夏希が梅美と呼ぶ女性は俺をじっと見ながら、問い掛けた。
あ、この真面目な表情、見覚えがある。
「茶園議員?」
思わず出た声にしまったと思った。
しかし彼女は「ああ、私、ママに似てるから」と言って軽快に笑う。
「茶園初美は私のママなの。よく言われるわー。笑わなかったらママにそっくりだって」
「確かにあの人、美人議員で有名なのに愛想笑いの一つもし、ぐっ!」
夏希に横腹を小突かれた。
「で、学部生なのにどうして夏希と知り合いなんですか?」
人数の少ない大学とはいえ、学部生と大学院生が交流する機会はほとんどない。それなのに、一体全体この二人はどうやって知り合ったというのだろうか。しかも、会話の雰囲気からして、かなり親しい関係だと推測される。
「ああ、それはね」
梅美に代わり夏希が口を開く。
「私がキャンパスで見かけて声掛けたの。『良かったら友達にならない?』ってね」
理解するのに、数秒掛かった。
「夏希って、そこまで積極的な人だったっけ?」
社交的で明るい性格だとは思う。
でも、すれ違っただけの人間にいきなり友達になろうと言い出すほどパワフルな性格だったか?
「あの時はびっくりしたよねー。でも、あれ。私が茶園初美の娘だって分かってて声掛けたんでしょー?」
「あ、バレた?確信はなかったけどね。でも気になったのは確か。教員の賃金下げる改革推し進めてる議員の娘が教育大学に通ってるんだよー!ぜひ話を聞きたいって思って」
なるほど。
好奇心旺盛な性格であることは認める。
それにしても大胆だとは思うが。
「まあ、また夏希ちゃんに話したいことはいっぱいあるんだけどさ、今は、二人が置かれてる状況を教えてよ。ね、彼氏さん?」
「え!?」
突然降って来た『彼氏』という言葉に一瞬息を飲む。
「彼氏じゃ――――」
「こっち来て!」
慌てて否定しようとしたその台詞は、切迫した様子の梅美に遮られた。
「どうしたの、梅美ちゃん」
梅美は俺達二人の腕を引っ張り、部室の奥にあったもう一つの扉を開いた。
「この中入って」
「え?ここに?」
入れるわけがない。
そこは茶道部の物置らしく、ありとあらゆる物が積み重なっていて、人が入れる隙間などないに等しかった。
「入って!ほら!」
しかし、梅美は夏希をどーんと押し、手前にいた俺ごと無理やり押し込めた。
途端に荷物が落下してきて、埃が舞う。
咄嗟に夏希の頭を抱え込んだが、頭上に何かが落ちてくる気配はなくて安心した。
安心?
「ごめん。ありがと」
下を向いている夏希の表情は見えない。
だが、耳が赤かった。
それを見た瞬間、二人がこの上なく密着していることに気が付いた。
胸が――――当たっている。
直後、
「ここにいる!俺の勘がそう言ってるんだから間違いねぇ!」
不審者が入ってきた。
「あー吉津君か・・・。梅美ちゃんの勘が吉津君と同じぐらい冴えてて良かったね」
夏希の吐息交じりの声が頬を掠め、不覚にも心臓が大きく跳ねた。
懸命に外の声に耳を傾け、意識を反らす。
「誰ですか?」
「吉津秀彦、教職大学院教職開発専攻一回生、二十三歳独身獅子座の」
「もういいです。何のご用ですか?」
「はー連れないねぇ・・・ここに、来てんだろ?」
「誰が?」
「長谷部政文だよ!」
「知らないです」
「名前は聞いたことないかもしんねーけど、見ただろ?こう・・・ぼやけた雰囲気の冴えない顔した、長身・・・ってほどの長身でもないけど、俺よりちょっっっと高いだけのいけ好かない野郎を」
「貴方よりちょっと高いだけ?そんな小さい男の人は見ていません」
「何?それ、暗に俺に喧嘩売ってんの?言っとくけど、四捨五入したら百七十あっから」
初対面で、よくもまあ、ここまで険悪な会話ができるものだ。
「で、その長谷部さんがどうしたって言うんですか?」
「よくぞ聞いてくれた!長谷部はな、俺の・・・お、れ、の、倉式いろはちゃんにコーヒーぶっかけた冷酷非道の男で、あんな犯罪者を野放しにしたらいけねぇと思って、俺はとっ捕まえに来たってわけ」
暫くの沈黙。
「・・・・生憎、長谷部さんはここには来ていません。倉式さんでしたっけ?今は彼女の傍にいてあげた方がいいんじゃないですか?そんなに大切な方なら」
再び沈黙。
「あんた、もしかしてだけど、倉式いろはを知らない?」
「知りませんけど、それが何か?」
「はあ!?それはないわ!!政文はともかく倉式いろはを知らないなんて、ヤバいよ!無知過ぎて!」
「お言葉ですけど、院生の知り合いなんて――――」
「馬鹿!倉式いろはちゃんは小学生です!魔法少女リリカルいろはの主人公で、決め台詞は前言撤回!ポニーテールの黒髪が超絶キュートな女の子!つまりは俺の嫁!!分かったか!」
三度目の沈黙。
「・・・貴方が変人であることを理解しました」
ずっと耳を澄ませていた俺は思う。何て酷い会話なんだろう、と。
だが、おかげで幾分か気持ちの高鳴りを沈められた。そのことには、あのオタクに感謝しておこう。
否。
そもそもの原因はそこにあるのではないか?
吉津の熱狂的なまでの二次元キャラへの執着が、今回の騒動を引き起こしたのだ。
発端はそう、吉津が自分の嫁だと言って憚らない倉式いろはのフィギュアにコーヒーが掛かったことから始まった。
あの時――――
百瀬と別れた後、夏希に全てを話そうと自習室に戻った俺は、自分の定位置の席で夏希を待っていた。しかし、何を話そうか、どこから話そうかと考えているうちに緊張してきて・・・一旦落ち着こうとコーヒーを入れに行ったのだ。
そして、運悪く零した。
緊張からか、なみなみ注いでしまったコップを運ぶ途中で。
それがあろうことか、吉津が自習室に飾っている美少女フィギュアに掛かってしまったのだ。
正直、拭けば問題ない感じだったのだが、吉津は許せなかったらしい。「俺の嫁が政文に汚された!」と叫んで、詰め寄ってきた。そのタイミングで戻ってきたのが夏希で・・・。
事情を察した彼女に手を引っ張られ、吉津との追いかけっこが始まったというわけだ。
「ああ!?俺の、どこが、変態だって!?」
「いえ、変態とまでは言ってません。変人だって言ったんです!あーもう!貴方、神聖な茶室で騒がないでくれますか?しかも、何か埃っぽいし!出てって下さい!」
「はあ、おい、痛っ。何が、神聖な・・・って痛い!暴力女!」
「あ!今、体触った!?変態!」
吉津と梅美の声が段々大きくなる。
仲裁に入った方がいいんじゃないかと思ったその時、部屋の奥、散乱した物と物との間にドアのぶらしきものを発見した。そして夏希もそれに気付いたようだった。
「もしかして、あそこから出れるんじゃない?梅美ちゃんが引き留めてくれている今なら」
それは、俺も思った。
「今のうちに逃げよう!」
だけど、
「いや」
もう、これ以上彼女を巻き込むのは憚れた。
「俺が謝れば済む話だし、もういいよ」
言った瞬間、夏希の大きな目が更に見開かれた。
「何言ってんの?謝って済むなら私もこんなことしないって!一発殴らない限り吉津君の気は収まらないよ!?あのフィギュア毎日磨いてたぐらいだし。でなくても、吉津君と仲悪いじゃん。これを機に何されるか分からないって!」
その推測はあながち間違ってはいない。吉津は大方の人間とはそれなりに上手くやっているようだが、大学院で唯一、俺との関係だけが悪い。嫁とまで称しているフィギュアにコーヒーをぶっかけられ頭に血が上っている今、正直殴られるだけで済むとも思わない。
だが、それぐらいのことは俺も覚悟している。
「別にいいよ。そもそも、俺の不注意が原因なんだ。夏希が一緒になって逃げることないし、夏希の友達のあの子にも申し訳ない」
自分の問題に彼女を巻き込みたくはない。
自分から彼女を遠ざけることで、彼女が安全ならその方がずっといい。
あれ、でも。
それを誰かに諭されたのではなかったか・・・?
「却下」
その時、強い声音が響いた。
「おい、そんな声出したら」
出したら?
「ほらね。気づかれちゃまずいって思ってる」
そうだ。
大きな声を出して、吉津に気づかれることを恐れている自分もいる。夏希を巻き込みたくないと言っておきながら、逃げたい衝動に駆られている。
「そんな中途半端な気持ちで、もういいなんて言わないでよ。そんなの私が許さない。逃げてるだけじゃダメなのは分かってるけど、逃げながらその方法を考えるのも手でしょ。だから、一緒に来て!」
「・・・いいのか、それで」
「いいに決まってる!」
俺の問いに彼女は即答する。
そして、俺は――――夏希の手を取った。
幸い、梅美との言い争いがヒートアップして、吉津はこちらの声には気づいていないようだった。
物を上手く避けながら、反対側のドアを開ける。
「行こう、一緒に」
その、強い声に、目に、意志に。
俺はどこまでもついて行くことにした。
* * *
――――本当は、フィギュアのことなんてどうでもいいんでしょ?
俺のことを見透かしたかのように、その女は言った。
「上手く逃がしたつもりか?」
「別に。気付いてて見過ごしたのは貴方の方でしょ?」
確かに、部室の奥の部屋に二人がいることは分かっていた。そして、今し方そこから逃げ仰せていったことも。
「どうして?早く追いかけたらどうなんです?」
本当はそうしたい。でも――――
「茶室に興味があって」
「へー」
「そんな、気のない返事するなよ。そこは茶でも立てるのが礼儀だろ?」
「貴方に礼儀云々言われたくありませんが・・・そうですね。いいですよ」
学部生でも下の回生なのだろう。まだあどけなさの残る幼い印象の横顔を盗み見ながら、通された茶室に座る。
「にしても質素だなー。金箔で埋め尽くせばいいのに」
そんな俺の戯言を無視して、女は準備を始めた。
お椀に添えた指先、俯いて肩に流れた黒い髪を目で追う。
茶を立て始めた瞬間、一見冷たそうな目に光が灯ったのも見逃さない。
一挙手一投足に気を配る。ついつい人を観察してしまうのは、生来の性だ。これだけは止められない。
人を見誤れば、自分に危害が及ぶし、誰も何も守れない。
これは、浮気性の父に長年悩まされてきた母の遺言でもある。
――――秀彦は良い人を見つけるんだよ。
それが、母の最後の言葉。
で、見つけたのが二次元キャラだなんて口が裂けても母の墓の前では言えないが。
二次元なら傷つけられる心配もないし、可愛いし、従順だし(頭の中で)理想だと思う。でもそれは『逃げ』でしかないと分かってはいる。
とは言っても、本当に欲しいものは――――俺を傷つけてばかりだ。
「はい、どうぞ」
目の前に差し出された茶碗に泡立った抹茶が入っている。目線を移して女を見れば、意外にも穏やかな顔をしていた。
茶を立てて心が落ち着いたのか?
いや、それよりも、この表情・・・
誰かに、似ている?
「あー!」
「な、何!?」
「そうだ、あんた、似てるんだよ!いろはちゃんに!」
「はあ!?」
いろはちゃんに激似の女はギョッとして俺を見た。
「あ、驚いた顔も似てるね!いや~こんなとこで理想の三次元美少女に出会えるとは思ってなかったわ~。リアルいろはちゃん!あんた、俺の嫁になら――――」
「死ね」
頭にねっとりとした感覚。
ぽたぽたと地面に落ちる緑の雫。
「何すんっ」
「こっちの台詞です!似てるから何?そんなんで妻を選ぶ人間の神経が信じらんない!少なくとも、私は貴方みたいなオタク願い下げ!いや、私じゃなくても貴方を良いなんて言ってくれる人がいるなんて思えない。ああ。可哀想な人」
最後は憐れみの目を向けられた。
そして、盛大な溜息。
「はあー、本当は、フィギュアのことなんてどうでもいいんでしょ?フィギュアに似てる私のことなんて、も一つどうでもいい。長谷部さんを捕まえたいわけでもない。貴方が追いかけてるのは夏希ちゃんなんでしょ?でも、二人を見てて分からない?無駄だってことに」
随分と、分かったような口を聞いてくれる。
「無駄ァ?何が?」
「全てが」
途端に真顔になった女の顔に度肝を抜かれる。
その冷たい目線も。本当にあの子そっくりだ。
「貴方のやってること全てが、その想い全てが、ですよ。逃げてるのはどっちの方?二次元ばかり見てないで現実見たらどうです?」
そこまで言い切られると逆に気持ちがいい・・・と感じてしまうあたり、俺は真正のマゾなんだろう。
さっき夏希に蹴られてできた顔面の傷を撫でながら、目の前の女を見つめる。
「まあ、そんなことは貴方が一番分かってるでしょうけど。だから、すぐに追いかけなかったんですよね?」
そう、
全てが不毛。
その事実を初対面の女に指摘されただけのこと。
ただ、それだけのことが、
「抉ってくるね~あんた、エス?」
無性に俺を愉快にさせた。
そして、彼女に手を伸ばそうとした刹那――――
『えー、吉津秀彦君、至急勝谷研究室までお越し下さい。吉津秀彦君、至急勝谷研究室までお越し下さい。一分以内に来なかったら今期の単位はあげん以上』
学内放送でしわがれた老人の声が響き渡った。
「あんの、おじいちゃん先生。一体どういうつもりだよ・・・」
伸ばしかけた手をしぶしぶ降ろして舌打ちする。
「今の、貴方への放送?早く行ったらどうです?単位もらえませんよ」
女はそう言って目を逸らした。
「大丈夫、大丈夫。あんなの本気じゃ―――」
「でも、勝谷教授って、有言実行がモットーの先生として学部でもかなり有名ですよ?」
知っている。
「ああ、そう、だな」
単位がもらえないのは正直痛い。それに、もう彼女は俺と目も合わせてくれない。そうなったら最後。これ以上は口も聞いてくれないだろう。
あの子もそうだったから。
全力疾走して辿り着いた研究室の扉を勢いよく開ける。
「ああ、来たか。五十八秒、ギリギリセーフ。あと二秒遅かったら単位はなかったな」
「で、何なんですか?俺、何かやりました?」
厳めしい顔でさも当然の如く暴言を吐く老人に詰め寄って、問い質す。どうせ大した事情ではない。
「あー違う。やったのは彼女の方だ」
気付かなかったが、研究室にはもう一人来客がいた。
「水瀬ちゃんじゃーん。どうしたの?」
お道化て近寄ったのも束の間。
「ごめん、秀っち・・・」
大学院で同じコースの水瀬美咲の手には、俺の嫁の――――バラバラ死体があった。
「ホント、ごめん!机の上に置いてあるの気付かなくて、鞄置いたら・・・」
「いやいやいや、水瀬ちゃんの鞄何入ってたの!?普通鞄置いただけでこんなことなる!?」
美咲の小さい掌に散らばる頭部と胴体、そして両腕、両足が事件の悲惨さを物語っている。
「これはどう見ても、殺じ―――」
「残念な事故だったな」
呑気に茶を啜る勝谷教授は俺の言葉を掻き消した。
「水瀬さんも謝ってることだし、ここは許してあげたらどうだ?ああ、そうだ。水瀬さん、鞄ありがとう」
美咲は「いえいえ」と苦笑いした。
お前の鞄だったんかよ!
苦々しく思い、勝谷を睨む。
すると、美咲が「本当にごめんね」と言って上目遣いに顔を覗き込んできたものだから、引き下がるしかなかった。
ああ、くそ。
この可愛さは反則だろ。
別に恋愛感情を抱いているわけではないが、このマスコット的可愛さには敵わない。
自分より小さい女は希少だしな。
「いいよ。水瀬ちゃんは何も悪くない。悪いのはあんただ!」
勝谷を指差し、真っ直ぐ見据える。
俺の怒り様に美咲が慌てて仲裁に入ったが、こればかりは美咲の頼みでも譲れない。
「勝谷先生は悪くないよ。ただ、めっちゃ重い鞄を自習室の机の上に乗せようとしていたから、大変だろうと思って私が手伝ったの!持ち上げたら視界が全部遮られちゃってフィギュアに全然気付かなくて・・・勝谷先生に誘導されるまま置いたら・・・こんなことに!」
全部、勝谷が悪いじゃねぇか!
「水瀬ちゃん、心配しなくても―――」
「心配しなくても?」
「殺しはしないから」
満面の笑みで、美咲をすばやく研究室の外に出す。
バタン。カチャ。
鍵を掛けたから、美咲はもう入っては来られない。
「俺に何か恨みでもあるんですか?」
「その反抗的な態度・・・マイナス十点だな。ちなみに持ち点は十点でゼロになったら単位はやれん」
「もう、既にゼロじゃねーか!?」
目の前にいる老人は「そうだな」と仏頂面で答えた。本気の顔だ。
「どうしてこんなことを?わざとですよね!?」
「何のことだ?」
「俺の嫁のことですよ!」
美咲から受け取った嫁の無残な姿を勝谷の目の前に突き出す。
「それが君の嫁か。そうだったらどうなに良かったか」
「はい?」
勝谷は更に眉間に皺を寄せ、話し出した。
「この鞄の中には、いろんな武器が入っている。拳銃、ライフル、手榴弾、ダイナマイト、ナイフ・・・さあ、君はどれで死にたいかね?」
「おいおい、本気じゃないですよね?」
「至って本気だ」
読めない。ただの頑固なおじいちゃんの先生だと思っていたが―――違うのか?
「君が本気だから、わしも本気を出すまでのこと。さあ、どうする?まだ続けるか?こんな不毛な天下取りを」
「なんの、ことです?」
フィギュアのことだと分かり切っていながら、勝谷に確認を迫る。
「一体、何のことを言ってるんですか?」
勝谷は目を細めて、「壊した腹いせをしようというのだろう?」と答えた。
ああ、やはりフィギュアのことだ。
ほっと胸を撫で下ろす。勝谷が妙な言葉をチョイスするから焦った。
いや、まだ焦りは消えていない。音を立てて迫っている。
ドンドンドン。
ドンドンドンドンドンドンドンドン。
美咲だ。
「勝谷先生大丈夫ですか!?秀っち!犯罪だけはダメ、絶対。とかいって」
ドア越しに聞こえる美咲の声は相当切羽詰まっている。人を呼ばれるのも時間の問題だと思い、俺は仕方なく切り上げることにした。
「もう良いですよ。本当は弁償して頂きたいところですけど、単位を復活させてくれるなら目を瞑ります」
「いいだろう」
とんだ災難だ。
結局、フィギュアを壊されただけじゃねーか。
「吉津」
「何ですか?」
ドアを開ける直前に勝谷に呼び止められる。
「それが、『逃げ』だと分かってのことか?」
その問いには、応えられなかった。
逃げ?勝谷のバカみたいな脅しへの?
違う。あの老人はもっと別のことを言っている。俺の生き方そのものが『逃げ』だと言っているんだ。
二次元オタクの痛い厨二病患者に甘んじていること以外にも、俺には秘密がある。
安住と勝谷ぐらいだろう。
実習中に俺がしでかした事の真相に気付いているのは。
ドアを開けると、美咲とぶつかった。
「勝谷先生は!?」
「大丈夫だよ」
「良かったー・・・・っていうか、これ何?」
ぶつかった拍子に、頭に付着していた抹茶が美咲の顔に付いたようだ。
「ああ、これは・・・可哀想な俺の分身さ☆」
「ああーそう。秀っちってそういうとこ、ホント残念だよねー」
さっきとは打って変わった冷めた表情で、美咲は顔に付いた緑の液体を手の甲で拭う。
「そう言うなよー。政文と夏希探してる途中でとんだ悪女に引っかかって」
「悪女?それで、その頭?自業自得のことしたんじゃない?あ、でも、政ちゃんとなっちゃんならさっき見かけたよ」
「どこで!?」
「勝谷先生の研究室に一旦鞄を置きに行って、お手洗いに行く途中で。窓の外見たら、図書館に走っていく二人を見て―――」
「ナイス、水瀬ちゃん!」
美咲の目撃情報を聞くや否や、俺は図書館の方に走り出した。
のは、いいが。
「どうしたの?随分な身なりだけど」
図書館への近道である狭い通路に小さな女が立ちはだかる。
「うるせぇ!」
小さくても美咲とは違い、こいつには全く可愛げがない。いつも、冗談みたいなことを言って、周りを笑わせているが、そういうところも気に食わない。
端正な顔立ちをしているとは思う。大学院でも美人の部類に入るだろう。だが俺は、百瀬千花には全く以て心惹かれない。
そんな本音を言えば、にっこり笑って「ありがとう」と言い返されそうだが。
「吉津君って、見るからに頭悪そうだよねー」
百瀬は俺のことが嫌いらしい。嫌われている自覚はあるが、嫌われた理由は今のところ分かってはいない。
「今はあんたの喧嘩買ってる暇ないんだよ!!」
いつもなら売られた喧嘩は買うが、如何せん今は急いでいる。しかし、苛立ちをもろにぶつけても、百瀬は涼しい顔で笑うだけだった。
そういう、たまに見せる大人びた表情が――――恐い。
「おい、退けって!」
恐怖心を悟られないように怒鳴ると、途端に純粋無垢な少女みたいにポカンとした顔をして「何で?」と聞いた。
「何でって。俺は政文と夏希を探してんの!図書館の方行ったから、先回りしねぇと」
やけくそで本当のことを言うと、今度は真剣な目つきで俺を見つめてくる。
「何でそんなことになってんの?」
こんなに、瞬時に顔色を変えられる人間もそうはいないだろう。表情がくるくる変わるのは夏希も同じだが、百瀬はそういうのじゃない。どれが本当の顔なのか分からなくなるような、そんな薄ら寒さを感じる。
でも、そんなことは、
「夏希が政文の逃亡を手助けしやがったんだよ!」
今の俺には関係ない。
「は?」
百瀬が素っ頓狂な声を出した。
まあ、逃亡を手助けしたとだけ言っても何のことかさっぱりだろうから、当然の反応だろう。
「だから、夏希があいつの手掴んで走っていっちまったから・・・もう、二時間くらい追いかけてて・・・それもこれも俺のよ」
俺の嫁について話そうとしているのをいきなり遮って、百瀬は鞄を盾に、俺を出口まで追いやった。
「は?おい、百瀬!」
小さな身体をしている割にはすごい力で押され、広い廊下まで出る。
「貴方みたいな身長も心もちっちゃい男が、夏希と釣り合うわけないっての」
そんなことは、百も承知だというのに、あえて言ってくれるあたり、こいつは親切なのかもしれない。
なんて。
その自虐的発想に、珍しく自分でも気分が悪くなった。ここに来て、とうとう根気も砕けそうになっているのかもしれない。
「言ってくれるねぇ?」
それでも、何とかして自身を奮い立たせ、百瀬を睨む。
そして、久しぶりに味わう張り詰めた空気に、俺は出遅れた。
「っ!」
墨汁を流したような長い髪が大きく揺れた。と、思った瞬間に鋭利な何かが喉元に迫り、反射的に身を翻す。
「あっぶねぇ~」
宙返りして後方に着地し、目の前の相手を見据える。
「ざんねーん。良い線いったと思ったんだけどなー」
ただの大学院の同期だと思っていた女は、そう独りごちながら薄い笑みを浮かべた。
手にはどこにでもあるビニール傘。だが、それを、いつ、どこで、手に入れたというのだろうか。
相手を確実に視界に入れつつ周囲を見渡すと、廊下の脇に古びた傘立てがあった。
見落としていた。
いや、違う。
見落としていたのは、そこじゃない。
「百瀬って、剣道の有段者だったりする?」
「まさか。私は根っからのインドア文系、帰宅部歴十一年の守ってあげたい系女子ですよ~剣道なんてやってるわけないじゃん」
カラカラと笑って否定する百瀬だが、その立ち方、傘の握り方は、紛れもなく経験者のものだ。
「あれ~もしかして私ってば、その歳で剣道六段取ってる凄い人をビビらせちゃった感じ?マジで!?ウけるんですけど~」
状況を飲み込もうと必死で頭を働かそうとしているのに、百瀬は頭の悪そうな女子高校生みたいな喋り方をして神経を逆撫でしてくる。その質の悪さに気分が悪くなり、苛立った声を上げた。
「おい、その喋り方止めねぇと、」
「止めないと、何?」
だが逆に、静かな、強い声音が、周囲の空気を刺した。
「でも、さすがだよね、吉津君。剣道だけじゃなくて体操とかもやってたの?」
百瀬が一歩ずつ近づいてくる。
「あ、それともカンフーとか少林寺拳法ってやつ?」
傘を握り締めたままゆっくりと、歩を進める。
「さすがにパルクールとか言わないでよ。貴方が言うと厨二病っぽくて笑えてくるから」
そして、俺の前に立った。
「今はさ、笑えないんだよね。笑えない気分なのに、致命的に空気読まないで笑えること言われたらさ――――」
耳元に、微かな吐息が掛かる。
「―――殺しちゃうかも」
僅かな殺気と共に呟かれた殺意の言葉は、脳の奥にまで届き、俺の心をざわつかせた。
ここが戦場なら、もし百瀬が持っているものが傘ではなく刀や銃なら・・・死んでいたかもしれない。
「あんた、誰?」
細められた黒目がちな瞳を覗き込む。
でもそこから読み取れるものは何もない。
「誰って、百瀬千花だけど」
百瀬は馬鹿みたいに答えた。
はぐらかされたわけではない。ふざけているわけでもない。
彼女は馬鹿みたいに真面目に答えたのだ。
それが、恐ろしく怖いと感じる。
自慢じゃないが俺の観察眼は並ではない。半年も一緒にいればその人となりを把握することは容易だ。
真面目で、冗談が通じない―――それが百瀬の性格。百瀬はよくふざけた話し方をしたり、冗談のようなことを言ったりするので他の連中に聞けば十人中九人がノーと答えるかもしれないが、彼女の冗談は、真実に近いものである。
注視していれば分かる。ちょっとした動作や目の動きから、彼女は嘘を吐けない性分だと。
だからこそ、怖い。
彼女の言葉が全て真実なら、『殺しちゃうかも』―――その台詞も本物ということなのだから。
「俺のこと、何でそんなに嫌いかな~俺、何かした?」
そっと、左足を後ろに下げて、距離を取る。
「それは―――」
「吉津先生が、傲慢過ぎるからじゃないですか?」
その時、俺達の目の前に突如として現れ、百瀬の言葉を遮ったのは、思いも掛けない人物だった。
「福永?」
「お久しぶりです。と、いっても実習を終えられてまだ一週間しか経っていませんが」
二瀬中学校二年二組、福永有。長谷部が勝手に居残り補習をさせた、そして俺が竹刀で怪我をさせた生徒が、目の前にいた。
「何でお前がここにいんだよ」
「ちょっと様子を見に、ですよ」
中学生にしてはませた喋り方をしながら福永は俺を見た。
そのどこか悟ったような顔つきが、誰かの顔と被ったような気がして首を捻る。だが、あと僅かのところで思い出せそうにない。
「ということで、僕は折り入って吉津先生とお話したいので、席を外してもらえませんか?」
福永の頼みに百瀬は呆気なく承諾した。
「いいよ。できるだけ長く話しておいてね。私はその間にやることあるから、じゃ」
手にしていた傘を強引に福永に押しつけて百瀬はさっさと去っていく。
もともと、俺を足止めするのが目的だったのだから、彼女にしてみれば渡りに船だろう。
その間にすること・・・というのが気になるが、今は福永と向き合うことにする。
「で、なんだよ。怪我はもう治ったんだろ?」
「身体の傷はすぐ治ったんですけどね」
引っかかる物言いに眉を顰める。
「いえいえ、誤解しないで下さい。僕は以前から心の病を抱えているんですよ。前に吉津先生の先生に良いカウンセラー紹介してもらってますから、そっちの方は徐々に、という感じでしょうか」
俺の先生・・・というのは、安住教授のことを言っているのだろう。
前、というのはいつぐらい前なのかは分からないが、二瀬中学校は教職大学院の指定実習校ということもあり、安住は以前から福永のことを知っていたと考えられる。もしかすると、臨床心理士の資格を持つ安住に学校側から相談があったのかもしれない。それで問題行動の多い福永に自分の伝手でカウンセラーを紹介していたのだろう。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「もしかして、あれか?下級生いじめてたの黙っててほしいってやつか?それならもうとっくに担任、顧問含め管理職にまで報告したっての。お前も事情聞かれただろ?」
「いいえ、そうじゃありませんよ」
「じゃあ、」
「約束を、守って頂きありがとうございました」
福永が突然、頭を下げた。
「は?何のことだよ」
「はは、本当に先生は傲慢ですね。でも、僕を侮らないで下さい。全部、知ってるんですから」
福永は全部知っているという。
しかし、その『全部』を俺は計り兼ねた。
「何のことだか、さっぱりだ。それにお前と約束なんてした覚え」
「全部、僕のせいにしてくれたじゃあないですか」
鋭い眼光に見つめられ、不覚にも背筋が凍った。
ああ、その目を俺は知っている。
確か以前にも――――
「恨んでるのか?俺を」
人を詰るような物言いをしていても、内心はそうではないと気付いていて、わざと聞く。
「そうだと、答えた方が先生は楽なんでしょうね」
意味深な返答に思わず目を伏せる。
福永の意図を考えた末に下した結論は・・・
「降参だ。そうだよ、俺は全部お前のせいにした。お前の望み通りにな」
彼の前では全てを曝け出した方が良いというものだった。
剣道部でいじめがあった。
今年の新入生は全体的に質が悪いらしく、一年生の間でいじめが起きていたのだ。上級生に分からないように、教師にばれないように、一人の生徒に対しての陰険な言葉の暴力は日常と化していた。
だが、二年生の福永有は知っていた。知っていて、利用した。
いじめの首謀者である一年生に「金を取ってこい」と命令したのは、福永だ。教師にチクられたくなかったら、言う通りにしろと、力で示した。
そしてその頃から―――つまりは俺が実習生として剣道部に出入りするようになってすぐ、言葉の暴力は犯罪にまで悪化した。
「その状況をたった二、三日で把握するんですから、吉津先生には参りましたよ」
福永はそう言って苦笑する。
それに関しては無言を貫き、「で、俺はすぐに顧問に報告したわけだ」と返した。
その言葉に福永が続ける。
「でも、顧問は動かなかった。『金を脅し取られているところを見た』と吉津先生が言っても信じてもらえなかった」
顧問の教師にとっては寝耳に水だ。俄かに信じてもらえないのは予想していた。が、待てど暮らせど何の対策も練らなかったものだから、とうとう俺は――――
「だから、吉津先生は俺を叩きのめした」
根元を絶つことにした。
「さすがですよ先生!短気で荒っぽい先生ならやってくれると思ってました!」
福永は狂喜して、拍手を送った。
その痛々しさに堪らず零す。
「でも、それでお前は良かったのかよ」と。
だが、福永は何も応えない。
それが、福永の矜持なのだろう。
直接金を脅し取っていたのは、一年生のいじめっ子数人。事は、彼らが福永に金を渡している現場を俺がたまたま目撃したことに端を発する。
だが、俺が福永を竹刀で叩きつけ、指導教官らに散々どやされた後、金を取られた生徒からおかしな話を聞いた。
確かに金は取られたが、取られた分の金は数日もしないうちに財布の中に戻って来ていた、と。
それで俺はある仮説に思い到った。
その仮説とは、カツアゲ事件は福永が仕組んだことだったのではないか、というものだ。
いじめを止めさせるには、事を公にしなければならないが、顧問の先生は頼りない。暴言ぐらいでは動かないことは目に見えている。ぐずぐずしていれば、いじめがエスカレートするかもしれないし、被害者の心の傷もどんどん深くなっていくかもしれない。誰もが無視できない大きな事件を起こせば、あるいは――――。
そうして福永が考えついたのが、自分が首謀者になって事件を起こし、短期決戦でいじめをなくすことだったのではないか、という仮説。
そう考えれば、わざわざ見つかりやすいところで福永が金の受け渡しをしていたのも納得がいく。
金の受け渡しは、堂々と部活動のある体育館で行われていた。
その日も、いじめっ子一年生三人が体育館の舞台のすぐ下で休憩を装いながら屯しており、そこへ福永が近づいて金を受け取っていた。練習に励んでいる他の上級生や顧問は気付いていなかったが、俺は見逃さなかった。
それに、俺は既に一度、同じ場面を見ている。
その時は、『貸していた金を返してもらっただけ』とはぐらかされたが、その後、いじめられている生徒から金を奪っているところも目撃していた俺は、堪らず竹刀を引っ掴んで舞台に上がった。
いじめをしていた一年生達は俺の登場にびっくりして走って逃げたが、福永は逃げなかった。そして、激昂した俺の一撃をまともに食らったのである。
その時福永は、額から血を流しているというのに痛みを訴えなかった。悲壮な顔もしなかった。ただ、冷静にゆっくりと立ち上がると、「全部僕が話しますから、吉津先生は黙っていて下さい」と言ったのだ。
そのことを思い出した俺は、とてもじゃないが被害者生徒に「それを証言してくれ」とは頼めなかった。彼が「金は戻ってきていた」と言ったところで、俺の仮説が正しいとも限らず、もし正しかったとしても、福永自身が認めるはずがないのは明白だったからだ。
――――全部僕が話しますから、吉津先生は黙っていて下さい。
福永の言う約束とはこれのことだろう。
つまり、俺の仮説は正しかったというわけだ。
結局、俺が仮説に思い到ったのは指導教官、部活動顧問、管理職が一堂に会した事情聴取が終わり、俺の立場や発言権が全て失墜した後のことだったので、どちらにしろ福永との約束は守られる形となった。
「政文の補習について抗議したのは、教師への反抗か?勉強だけ見てんじゃねぇよっていう」
これ以上直接的な話をしてもはぐらかされるだけだと思った俺は、そんな質問を投げた。
「別にそいうわけじゃありませんよ。長谷部先生との補習は楽しかった。珍しく必死な先生でしたしね」
必死。
政文の必死に自分の力を高めようとしている姿勢は、他の教師陣からも認められているところではあった。
「だから、先生の(・)勉強に付き合ってやってたんだろ?でもそれは」
「そう、それが勘の良い先生にはバレバレだったからですよ」
ああ、だから。
政文が一番傷つく理由だから、それを隠すために敢えて悪役を買って出たということか。
福永が善意で政文の補習にのってやっているのではないかというのは、数人の教師が噂していた。
何せ、福永は勉強ができないわけではないのだ。
やらないだけ。やらないから、できていない部分もあるのだが、理解力は高い方だと言われている。現に、試験日にきちんと出席して問題を解いた時は、学年の中の上の成績を取ったらしい。彼の問題は、学力劣等ではなく、もっと別のところにあるのだ。
それは、教職員間で周知の事実となっているのだが、政文は自分が授業で行った小テストの点数と授業態度、担任教師から聞いた福永の家庭環境だけを聞いて、学力が著しく劣っていると判断した。
きちんと伝えない担任も担任だが、所詮は実習生という立場故仕方ない。
「太鼓持ちの吉津先生は既に他の先生から聞き出して知っていたみたいですけど、長谷部先生は知らないようだったので」
寂しそうに目を伏せる福永は、一体どうして、そこまで政文を思うのだろうと考える。
いじめの件といい、優しい性格なのだろうとは思うが・・・。
「どうして、そこまで自分を悪者にするんだよ」
「結局、一番割食ってるのは吉津先生ですから」
思わず口について出た疑問を、福永は一瞬でかわす。
「それに、補習の件を抗議したせいで、表立っては長谷部先生が悪者です。何も悪くないのに、申し訳ないことをしました。自分をとことん勉強嫌いってことにする必要があったので、仕方ありませんが・・・。それで教師や母は勝手に僕が補習のストレスその他諸々からカツアゲに及んだと思っているみたいで困ったものです。ますます長谷部先生の立場が悪くなる。こんなことなら、初めから補習なんてサボれば良かった。でも」
そこで、福永は言葉を切った。続きが気になり先を急かすも、
「いいえ、何でもありません」
福永は珍しくにこっと笑って会釈し、会話を終わらせた。
そのあどけない顔に、一瞬心がざわつく。
「貴方と話ができて良かった。本当は貴方のこと大嫌いなんですけどね。同族嫌悪とやつでしょうか。僕と貴方は似ているから」
頼むから年齢相応な話し方をしてくれと、内心思いつつ「はあ、似てるなんて思わねぇけどなー」と気のない返事を返す。
「似てますよ。真実を言うことが必ずしも良いわけではないことを知っている。それを学んだのは実は貴方からだったりするんですけどね」
福永は去り際に、実に意味深な言葉を放った。
「おい、待てよ!それ、どういう意味だ!?」
真実を知りたくて、その背中に呼び掛けたが、福永は振り向かない。百瀬に渡されたビニール傘をすとんと傘立てに落とすと、そのまま去っていってしまった。
「真実を言うことが必ずしも良いわけではない。だから、俺には言わねぇってか」
本当に、子供らしくない。
人を小馬鹿にして見下している。
そういう傲慢なところは――――
「いや、全然似てねぇよ。俺、傲慢じゃねぇし」
福永有のことは頭から振り払い、俺は本当に欲しいと思うものの元へと足を向けた。
* * *
図書館でしばらく身を潜め、今後の対策を立てた。
で、出た結論がこれだ。
素直に謝る。でも、殴らせない。
ちなみに、素直に謝るというのは俺の案で、殴らせないというのは夏希の案だ。
具体的には、みんながいるところで謝る。そうすればいくらなんでも吉津は手を出せない。手を出そうとしても、みんなが止める・・・だろう。
一人のところを狙おうとしないように、しばらくは夏希がいつも一緒にいることになった。
それは、男としてどうなんだろうとも思うが、存外悪い気分でもない。
彼女が心底自分のことを心配してくれるのは、素直に嬉しい。
そんな幸せな気分に浸っている最中のことだった。
図書館から大学院棟の自習室に戻る途中の廊下で、悪魔とも天使ともつかぬ囁きが聞こえてきた。
「それで終わり?」
「わあ!」「ひゃっ!」
二人して驚きの声を上げ、振り返る。
そこには、じとーっと俺達を見つめる百瀬の姿があった。
「どうした?百瀬」
「びっくりしたよ千花!」
いつの間に背後にいたのだろう。百瀬は、怒ったように両腕を組み、仁王立ちしている。
「あのさ、もう一回聞くけど、本当にこれで終わり?」
どちらかと言うと俺を見ていることに気付き、百瀬と交わした会話を思い出した。
俺の全てを夏希に話すと宣言した、あの会話を。
言うか、今。
だけど、考えれば考えるほど、決心は鈍っていく。
「あー、それは、また今度・・・」
「この、ヘタレ!もう知らない!」
「え、ちょ、何だよ!?」
百瀬はものすごい力で俺と夏希の腕を引っ張ると、すぐ隣の教室に押し込んだ。
「さ、とじゅうしろ、バカ」
バタン。
「佐藤十四郎って誰のことだろう?」
夏希が不思議そうに首を傾げる。
早口過ぎて聞き取れなかったが、恐らくさっきの台詞は「さっさと実行しろ」だろう。
なるほど。
やはり今日中に決着を着けないといけないらしい。
一旦、夏希から目を離し、一息つく。
教室の前方を見ると、前の授業の板書が残っていた。
その中に、『瓦解した教育現場の標となれ』という文字を見つけ、安住教授の授業だったことが分かった。
「瓦解した教育現場の」
「標となれ?」
いつも言われているからか、夏希がすかさず続きの言葉を言ってきた。
でも、俺にとっての標は君なんだよ。
だなんて。
そんな台詞、『月が綺麗ですね』と同じくらいに痛くて、絶対口にはできないけど――――
心は定まっている。
要は、俺が夏希をどう思っているかってこと。
たったそれだけのことだ。
家がどうとか、生い立ちがどうとか、今置かれている自身の状況とか、俺自身の心の問題は、一先ず置いておこう。
ただ、想いを伝える。
そんなことはきっと、神だって咎めはしない。
「夏希」
目を見て、はっきりと、言葉を紡ぐ。
教室に伸びた赤い日差しのせいか、夏希の顔がほんのり赤く見える。まるで、あの時の紅葉のようだ。
彼女のふわふわの髪にちょこんと乗った赤い葉を、とても綺麗だと思ったことを思い出す。
違う。
紅葉に見とれていたんじゃない。
俺は、最初から――――
「夏希が好きだ」
言った傍から身体の熱が上がる。胸と喉の奥が、全力疾走した時のように痛くて、思わず胸元の服をギュッと掴んだ。
夏希の長い睫毛が細かく震えている。
「私は――――」
全神経がこれ以上ないほどに研ぎ澄まされ、一秒が普段の何倍も長く感じる。
俺は、高鳴る鼓動を抑えつけて、彼女の返事に耳を澄ました。
「私は!」
だが、
「やあぁぁぁっと、見つけた」
先に決着を着けるべき相手がいることを、思い出す。
「吉津君!」
ドアを壊しそうな勢いで入って来た吉津の目は血走っていた。今にも殴り掛かってきそうな雰囲気に息を飲む。
「俺の、嫁の、恨み・・・」
さっきまでとは明らかに様子が違う。
「粉々にされた、嫁の、恨み・・・」
粉々にまではしていないだろうと、突っ込む間もなく、吉津が迫って来た。
「ちょっと待て!あれは、悪かった。ごめん。謝る」
計画とは違うが、ここで謝るしかない。そう判断して、深々と頭を下げるも、吉津の足は止まらない。
すると、夏希が俺を庇うようにして前に立った。
「吉津君、殴るなら私を殴って!」
そして、ドラマでしか聞いたことのないような台詞を彼女は放ったのだった。
「ちょっ、そんなの打ち合わせではなかっただろ!」
思わず顔を上げ、夏希の腕を引く。だが、びくともしない。
「私は本気だから。本気で政文を守りたいから。誰が相手だろうと絶対に引かない!」
その真剣な言葉に、涙腺が緩んだ。
凍てついた氷が溶けていくような、そんな心地。
心が温められて流れた涙を、俺は誰にも気付かれないようにそっと拭った。
「早く!私を殴ってよ!」
「それで、『はい』ってなる奴がいるか!それに何であんた殴らなきゃなんねーの?殴られなきゃならねぇのは――――」
――――俺だ。
今まで素直になれなかった自分を疎んで、心の中でそう独りごちた時だった。
「それは、貴方よ」
第四者の声が教室に響く。
そして、吉津がその声の主を探して後ろを振り返った瞬間。
バシンッ。
とてつもなく痛そうな鋭い音が空気を震わせた。
「じゃ、この阿呆は私が引き受けるから、後は二人で楽しんじゃって☆」
「おい、ちょ、待て。俺はまだこいつらに――――」
百瀬千花はにこっと笑って、吉津の腕を捻り上げた。
「いってっ!おい、離せ!マジで痛いから、やめっ・・・!」
そのまま百瀬に引きずられていく吉津。
その光景を見て、一気に身体の力が抜けた。
「あの二人って、仲良いよね」
夏希の呟きに、いやいやいやと首を振る。
「仲悪いだろ。ゼミでもいつも歪み合ってるし。むしろ俺より吉津との仲は険悪」
「それは同族嫌悪ってやつでしょ。兄妹喧嘩見てるみたい。でも、似た者同士はそう簡単には離れられないから」
「そういうものか?」
「そうだよ。私達も」
「俺達も?」
夏希は一呼吸置いてから口を開いた。
「政文は私がいないとダメだし、私も政文がいないとダメだから。ほら、似た者同士」
それは、似た者同士ということになるのだろうか。どちらかと言えば、お互いに足りないものを補うというような、そんな関係に思える。
「そういうものかなぁ」
生返事しながら、頭の隅で引っ掛かりを覚えた。
俺がいないとダメ。
俺がいないとダメ?
・・・・ん?それって―――
言われた言葉の凄さに今更ながら気付き、カッと頬が紅潮した。
「それって」
「大好きってことだよ」
まさか、この流れで返事をもらえるとは思っていなかった。不意打ち過ぎて、何の言葉も出てこない。
ただただ、しあわせで――――この『時』に永遠に留まっていたくなる。
「何か言ってよ」
夏希は恥ずかしそうに頬を膨らまして、下を向いた。
彼女の顔が良く見えないのはもったいない。
そう思った瞬間には指で頤を押し上げていた。
視界がぼやけ何も映らなくなる。重なったところから甘く溶けて、温かい気持ちでいっぱいになる。
「夏希、聞いてほしいことがあるんだ」
だが、永遠に留まれる『時』はない。
移り変わる時を人は平等に歩んでいく。
色づき、枯れて、落ちていく葉と同じ。
人生は無常だ。
だけど、隣に誰かが居てくれるなら――――
漸く、決心が固まった。
まだ授業まで時間はある。少し長くなるが、夏希にちゃんと俺の話をしよう。
家のことも、俺自身のことも、全部全部知ってほしい。
――――次の年には再び若葉が芽吹く。
独りの時には気付けなかった、そんな当たり前のことをふと思う。
俺は、ぽつぽつと自分のことを語り始めながら、二人の時間が流れ出すことに喜びを感じていた。
* * *
三時間前――――
大学院棟三階、安住研究室にて。
そうっと、中に足を踏み入れる。
「どうぞ」
柔らかい声に励まされ、私は安住先生の前まで進み出た。
先生は先程の客人に出したコーヒーを片付けながら、優雅に鼻歌を歌っている。
何て悠長な・・・とは思ったが、そのメロディーに聞き覚えがあり、思わず「one more time one more chance」と、曲名を呟いていた。
「あ、市村さん知っていたんですね。ちょっと昔の歌なのに。僕、この歌が好きなんですよ」
嬉々として話す先生に毒気を抜かれ、一息つく。
「先生って、私をリラックスさせる天才ですよね」
先生は「そうですか?」と言って、首を傾げてみせたが、実習中、何度この雰囲気に助けられたことか。
信頼できる先生だと思う。
だから、私は思い切って口を開いた。
「安住先生、あの!」
「心配しなくても、大丈夫ですよ」
何も言っていないのに、先生は欲しい言葉をくれる。
知りたいことを教えてくれる。
「さっきは少し、意地悪をして怒らせてしまったんです。彼自身が自覚していること、していないこと、見つめ直すきっかけになればと思ってね。その結果、僕への信頼が失墜してしまったのは教師としてはダメなんでしょうが。彼にペテン教師だと思われても、インチキカウンセラーだと思われても、これが最善の策なら・・・そんな体裁、別に構うことではありません」
時々、安住先生はカウンセラーではなくて、超能力者なのではないかと思う時がある。
「先生、それじゃ」
「だから、市村さんにフォローをお願いしたい」
今だって、私にできることは何かと聞こうとして、先に答えを言うものだから、自分がちゃんと他の人と同じ時間の流れに乗って生きているのかと不安になるほどだ。
「本当は、カウンセラーとして僕が彼の理解者になるべきなのでしょうが、荒療治のためにその役回りを放棄してしまったのでね。きっと、ますます僕のこと嫌いになったんじゃないかな」
安住先生は別段気に下した風もなくカラッと笑うが、さすがにそれには苦い笑みを浮かべるしかない。
政文とコースの違う私は実際には見たことがないのだが、政文の安住先生嫌いは有名で、その態度は清々しいほどにあからさまだとか。
どうして、そこまで嫌うのかは分からないが、政文には政文の理由があるのだろう。
「先生、ホント損な役回りですよね」
微妙な笑みでそう返すと、安住先生は「彼に倣ってみたんですよ。いつも悪役を引き受ける彼の気持ちが知りたくてね」と零した。
「彼って?」
「いいえ、こちらの話です」
安住先生の言う『彼』が誰なのか気になったが、教える気はないようだったので、私はそのまま引き下がった。
「それにしても、市村さんは強いよね」
「ふぇ?」
いきなり、突拍子もないことを言われて、変な声が出た。
「すみません。びっくりして」
恥ずかしさで熱くなった頬を擦りながら、安住先生を見つめる。
「でも、何でそう思ったんですか?」
私は至極真面目に聞いたつもりだったのだが、瞬間、安住先生はらしくないほどに豪快な笑い声を上げた。
「え?何で笑うんですか!」
「いや、ね」
おかしそうに喉をひくつかせて、先生は顔の前で手を振る。
「否定しないんだ、と思って」
「ちょっと先生!よく分かりましたねと言ったならまだしも、そう思った理由を聞いただけじゃ、否定していないとは言えないでしょう!」
「じゃあ、否定するんですか?」
「うっ」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
もちろん私とて、自分が完璧に強い人間だと思っているわけではない。
しかし、誰よりも強くありたいと願っている。
だから、強いと言われて嬉しかった。そのための努力は人並み以上にしてきたから。
「安住先生って、意地悪ですよね」
「そうですか?」
眼鏡の奥の瞳が細められる。
こういう悪戯っぽい笑みは初めて見るかもしれない。
その目に見とれている間に、安住先生はポツポツと語り出した。
「普通はね。誰かを完全に支えるなんてことはできないんですよ。人間、自分一人を支えることに精一杯なのに、他人の分まで背負い込めるわけないでしょう?でも、市村さんには、そのゆとりがある。貴女の自己省察力は並じゃない。実習中、何度か様子を見させてもらいましたが、課題認識が他の誰よりも優れていた。自分のことをよく理解しているからでしょう。自分を支える力が人よりも小さくて済むから、他人を抱えるゆとりが生まれるんです。だから、そんな貴女だからフォローを頼んだんですよ。貴女には、彼を背負えるだけの力がある」
安住先生の最後の言葉に、褒められて照れるとか、そんな感情は吹っ飛んだ。
自分が為すべきことが明確に照らされる。
その重みは決して軽くはないが、自分ならできると言ってもらえたことに誇りを感じ、自信がついた。
「私、よく少年漫画に出てくるヒロインが嫌いなんです」
先生は、いきなり何を話し出すのかと訝しむことなく、耳を傾けてくれた。
「だって、主人公に守ってもらってばっかりですもん。自分じゃ何もできないなんて存在意味あります?。高校生の時、友達に勧められてREBORN!っていう漫画読んだんですけど、あれなんて最悪ですよ。主人公が必死で戦ってるのに、「がんばって!」しか言えないんですから。まだBREACHみたいにすごい治癒能力があるとかなら溜飲も下げられるってもんですけど、ほんっとに役立たずで。友だちに言ったら、「ヒロインの存在自体が心の支えになってんだよ」って言われて、それもそうかなぁと思った時期もありました。けど、やっぱり助けたいですよね。精神的にはもちろんですけど、何かあった時にはやっぱり戦って守れるぐらいの力がほしいですよ」
一気に捲し立てたせいか、息が上がる。
肩で息をしつつ、最後の言葉はゆっくりと紡いだ。
「だって、そうしないとしあわせにはなれないと思うから」
こんなこと他の院生に言ったら、吉津秀彦の仲間だと言われるのが落ちだろう。
漫画の読み過ぎ。厨二病。
上等だ。
誰が何と言おうと、本能が、そう訴えてくる。
強くならないと、しあわせにはなれないと。
そのためには自分の身を把握する力も必要だし、精神的・肉体的な強さや人脈だって必要だろう。
そうでないと、あの時の二の舞いになってしまう・・・。
ん?あの時って?
「市村さん。そうしたら、急がないといけませんね」
奇妙な感覚は安住先生の言葉で掻き消えた。
「早く、彼の元に行ってあげて下さい。何度も君の元へ。できないことはもう何もない。全て掛けて抱き締めてみせるよ。ですよ」
さっきの曲の歌詞を口ずさみながら、先生は軽口を叩く。
「抱き締めはしません!」
きっと、私の恋心なんてもうとっくに気付かれているのだろう。
無性に恥ずかしくなって私は慌てて研究室を後にした。
廊下を走りながら、ふと、この国のこの時代に生まれて良かったと心から思った。
女性の地位も向上してきてるし、何より平和だし、国民の権利はきちんと憲法で保障されてるし、食べ物はおいしいし、田舎に行けば自然は豊かだし、食べ物はおいしいし・・・。
とにかく!
誰も、私を咎められない。
私の心を否定できない。
今、彼の元へと走る、私の足を止めることはできないのだから。
世界中の誰よりも貴方が好きだって、堂々と胸を張れる。
それだけで、私はしあわせな世の中に生まれてきたんだなぁって思える。
だから、今度こそは、彼にもこの想いを伝えたい。
――――大好きだって。
Fin
これで一応、長政(政文)と市(夏希)のお話はハッピーエンドということで完結です。が、まだ続きます笑