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八百万物語 ~二世の契り~  作者: 哀ノ愛カ
3/9

天地の神なきものにあらばこそ我が思う妹に逢はず死にせめ

第一章は戦国時代編です。






 第一章





 永禄十一年、春。

 悴む手に目一杯の力を込めて、着物の袖を握り締める。

 どれだけの山を越え、里を過ぎただろうか。慣れ親しんだ尾張の地は、もう遥か遠い。 

 輿から外の景色は見えないが、護衛の者共の足音から雪が降り積もっていることは想像できる。

 生家の梅の木に綻んでいた蕾を思い出し、無性に故郷が恋しくなった。


 お怨みしますぞ、兄上。


 武家の家に生まれたからには。

 この時勢に生まれたからには。

 そのような理由は理由にならない。望まぬ婚姻を強いられて心の内に何も思わぬ女子(おなご)はいない。


「市姫様、着きました」

 織田の屋敷から連れてきた侍女の千歳が御簾を上げた。

 眩しい光と共に立派な城が眼前に現れる。城門の左右には数え切れぬほどの従者が出迎えのために長い列を為していた。

「大仰な」

 鼻で笑うと同時に、一層袖を掴む手に力が入った。


 絶対に心を許してなるものか。


 そう、固く決意して、近江の地に足を降ろす。

 しかし、力み過ぎたようで足がつんのめってしまった。前方に傾いた身体は自力ではどうにもできそうにない。御簾を上げていた千歳が手を伸ばすも、彼女の力ではこの身体を支えることはできないだろう。

「っ!」

 覚悟を決め、息を飲んだ瞬間、誰かの無骨な右腕に支えられて、転倒は免れた。

 だが、安堵よりも羞恥が先に立ち、思わずその腕を払い退ける。

「ご無事で何よりです」

 想像以上に柔らかい声に思わず顔を上げると、腕を払われた男は気分を害した様子も無く、私を気遣った。

「申し遅れました。浅井久政が嫡男、浅井長政でございます。遠路遥々よくぞお越し下さいました。市姫様、歓迎致します。我が妻として」


 これが、浅井長政。

 我が夫となる者。


 いつの間にか、固く握られていた拳は解けていた。



 


 二世の契り



  Presented by aika.P



 ※この作品はフィクションであり、実在する人物・地名、及び史実とは一切関係ありません。





 天正元年、春。

 心地良い微睡(まどろみ)の中から、(うつつ)へと引き戻された。薄らと目を開ければ長子の万福丸が頻りに肩を揺らしている。

「母上、茶々が」

 見れば今年四つになる娘の茶々がご機嫌な様子で手をこちらに差し出していた。

「かあさま、これ。かあさまにあげる」

 小さな(てのひら)の上には梅の花が一つ、可愛らしく乗っている。

「まあ、綺麗。有難う、茶々」

 そう言って微笑むと、茶々は満足そうに庭の方へと駆けていった。

「あ、茶々」

 慌てて妹を追いかけようとする万福丸を引き留め、その頭を撫でてやる。茶々に言ったのと同じように礼を言うと、万福丸は少し恥ずかしそうに頷いて妹の元へと走った。

 茶々から受け取った梅の花びらを見つめながら、ふっと目を細める。

 長子として厳しく育てられている万福丸も、まだ(よわい)九つでしかない。こうして、勉学や武術の鍛錬の合間に妹の面倒を見てくれるのは本当に有難いことだった。

 庭に咲いている梅の花は、茶々が手を伸ばして取れる高さにはなく、恐らくは万福丸が代わりに・・・いや、自分が取ると言って聞かぬ妹を持ち上げて取らせてやったものだろう。

「優しいな、お前は」

 突如、後ろから声を掛けられ身体(からだ)が跳ねた。

 思わず振り返りそうになるのを押し留めて、ぶっきら棒に返事をする。

「何のことでしょう」

 相手は気にした風もなく、隣に腰を落とすといきなり私の腕を引いた。

「長政様っ!」

「茶々だけでなく、万福丸にも気を遣ってくれただろう。お前には面白くないことだろうに」

 この城の次期当主であり、我が夫である浅井長政は私が手にする梅の花をまじまじと見つめながら、申し訳なさそうに零した。


 万福丸は、私の子ではない。


 しかし、それがどうしたというのだろうか。五年前、ここに正妻として嫁いだ時から、長子の万福丸は我が子も同然。亡き側室殿に代わり目一杯愛情を注ぐことに初めから躊躇いはなかった。

 だから、

『貴方が気にする必要などどこにもない』

 そう言おうとしたのだが、出掛った言葉は後僅かのところで飲み込まれる。

「離して下さい」

 強く手を引くと、それは案外呆気なく外れ、自分でしておきながら物足りなさを感じた。

「俺にも優しくしてほしいものだな」

 長政は冗談交じりに呟くと、立ち上がり背を向けて歩き出した。

 その後ろ姿を目で追う内に焦燥感だけが募っていく。

 何か言わねば。

 早く言わないと、行ってしまう。

『貴方が気にする必要などどこにもない』

 先ほど言いかけた言葉を思い出して、口を開く。

「わたくしは正妻としての務めを果たしているだけです。貴方が気にする必要などありません」

 口をついて出た言葉は本来の意味からは大きくずれたものだった。

 瞬間、長政がこちらを振り返った気配がしたが、既に俯いてしまっていた私には彼の表情を確かめることはできなかった。



 自分を責めるように下を向いていると、幼子の手が視界に入った。無意識の内にその手をぎゅっと掴むと、「かあさま?」と声がして、顔を上げる。

 そこには不安げに私の顔を覗き込む次女の(はつ)がいた。そして、その隣には娘達の世話を任してある侍女の千歳(ちとせ)が、まだ赤ん坊の三女江(ごう)を抱いて立っている。

「そのようなお顔をされるくらいなら、素直に思っていることを申されれば良いものを」

 千歳は苦笑しながら、ぐずり出した江をあやす。

 その様子を横目で見遣りながら無言で両手を差し出すと、千歳はいつものようにそっと江を私に預けた。

「もう、ここに来て五年の時が過ぎました。可愛い姫君も三人生まれたのです。どうして若殿様に対してそんなに強情なのですか。もう少し――――」

「分かっておる」

 即座に千歳の言葉を遮り、江へと視線を移す。数回身体(からだ)を揺らせば、江は安心したように眠りに着いた。

「左様でございますか」

 笑いを(こら)えるようにして千歳は答える。些かむっとして、睨み付けると、「それが市姫様の仕合わせならば何も申しません」と、千歳は付け加えた。


 そうだ。

 これで十分にしあわせな身の上なれば。


 我が子を抱いて、再び微睡の中へと落ちていく。

 春の木漏れ日の温かさだけを感じて、ゆっくりと――――

 他には何も見えない。

 何も聞こえない。


 それで、いい。


 これ以上は何も望まぬと思えるほど、その時の私はしあわせだった。

 しかし、知らない間に仕合わせの歯車は大きくずれていっていたようで・・・。


 兄の信長が浅井家と同盟関係にある朝倉家を討伐せんとしたことに端を発し、織田家との開戦の火蓋が切って落とされたのは三年も前のことであったという。

 この間、朝倉家と織田家が熾烈な争いを極めていたことも、浅井家が徐々に劣勢へと追い込まれていたことも、奥にいた私には一切知らされていなかった。



 そして――――



 天正元年、夏。

 木の焼ける匂いと共に熱気が肺の中に入り込み、(むせ)返って膝を付いた。

 遠くに武士(もののふ)共の雄叫びと叫喚の声が入り混じって聞こえてきて、思わず両の耳に蓋をする。それでも、目の前で住み慣れた家屋を炎が轟々と飲み込んでいく音は消えてはくれない。


 もうここで意識を手放してしまいたい。


 そんな衝動に駆られた時だった。

「市姫様!」

 耳に当てていた手を引っ張られ、名を呼ばれる。

「千歳・・・」

 とうに、他の者達と共に城を出たと思っていた馴染みの侍女は、いつになく切羽詰まった表情で私を見ていた。

「早くお立ちになって下さい!」

 私の身を案じてここから逃がそうとしてくれているのだろう。そんな心遣いは無用だというのに、千歳は掴んだ手を離さない。

「千歳、」

「若殿様は、梅の間においででございます」

 放っておいてくれと言おうとしたのだが、それこそ無用だったようだ。千歳の強い目を見つめ返すと、怖気づいた己の姿が目に入り、情けなさで一杯になった。

「そうだ。早くあの方の元へ行かねば」

 両足に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。

「姫様達は他の侍女に任しておりますのでご安心を」

「千歳、お前も――――」

 その時、家屋が崩れる音に混じって、ドタドタという不躾な足音が近づいてきた。

「私は大丈夫です。それより、早く!」

「済まない。恩に着る」

 私を一早く逃がそうとしてくれた者達を巻いてまでここに残った理由。それを思い出させてくれた千歳に礼を言うと、勢いよく駆け出した。




 *         *           *




 血の匂いがする。

 どれだけの返り血を浴びれば、それほどまでに紅く染まることができるのだろうと、頭の隅で考える。

 二人、三人、十人・・・・いやもっとか。

 刀身は既に使いものにならぬほど、血と脂にまみれて濡れ光っていた。その刃に奪われた命の数を考えて吐き気が込み上げる。

「市姫はどこだ」

 獣の唸り声のような低い声に意識が引き戻され、私は前を向いた。

 眼前には重々しい甲冑に身を包んだ武者が二人立っており、一人は今にも私に斬りかかりそうな姿勢を取っている。それを姫の居場所を聞いた男が片手で制していた。

「そのようなことを申し上げる義理が私にあるのですか?」

「何を!?」

 とぼけた声で答えると、いよいよいきり立った男が刀を頭上へと持ち上げた。しかし、それは振り下ろされることなく腰の鞘へと収められる。

 もう一人の男が止めたのだ。

「いい。お前は先に行け。それから――――」

 不承不承に刀を仕舞った男は片割れの男に何かを耳打ちされ、もはや私には見向きもせず隣を通り過ぎていった。

「貴方様は行かなくて宜しいのですか?」

「そんな目を向けておいてよく言う。放つ殺気が人のそれじゃないぞ」

 男は鼻で笑うと、ゆっくりと刀を抜いた。

「あんたこそ、あいつを通して良かったのか?」

「生憎、殿方二人を相手にするような経験がございませんので」

「俺一人の相手ならできると?」

 挑戦的な瞳に射抜かれ、私の中で眠っていた黒い感情が(くすぶ)り出す。

「まあ、どこぞの猿は正妻や妾に飽き足らず主君の妹君にまで手を出そうとしたそうですから、私一人で相手になるかどうかは分かりませんが」

 呆れと、哀れみと、最大限の嫌悪を以て吐き捨てると、静かに眼前の敵を見据えた。

 全神経を男に集中させると、煙による息苦しさも徐々に迫る火の熱も感じなくなるようだった。炎が城を焼き尽くす陰惨な音も、瓦礫として崩れていく不快な音も今は遠い。ただ、男の息遣いだけを聞き、懐から短剣を取り出す。

「お前のような下賤の(やから)が市姫様に近づくことは許されない」

 口調を変えて言い放つと、男はさも楽しそうに口角を上げた。


 直後、足を踏み出し、刃を振り下ろすのはほぼ同時だった。




 *         *           *




 屋敷の西側は火矢の影響を受けていないようで助かった。息を切らせながら着物の裾をたくし上げ懸命に走る。そして、千歳に教えてもらった梅の間まで一気に駆け抜けた。

 呼吸を整える間も惜しんで襖を開けると、部屋の奥に白装束に身を包んだ夫の姿を見つけた。

「長政様!」

「い、ち――――」

 長政は驚いた様子でじっと私を見た。が、すぐに視線を落として目の前に置かれた短刀を握る。

「お待ち下さい!」

 慌てて駆け寄ろうとすると「来るな!」という怒声が飛んだ。

 普段の優しい声音とは打って変わった荒々しい声に一瞬たじろぐも、ゆっくりと一歩ずつ近づいていく。

「お待ち下さいませ。市は――――」

 しかし、

「止まれ」

 地の底から響く恐ろしげな声に足が止まった。

何故(なにゆえ)、ここに来た。気が散るから出ていけ」

 何の感情も感じられない冷たい言葉が胸に突き刺さり、言いたい言葉は飲み込まれる。

「聞こえなかったか?出ていけと言っている」

 苛立ちを滲ませた明らかな拒絶に返す術もなく立ち竦んでいると、今度は自嘲めいた嗤いが聞こえてきた。

「それとも何か?無様な俺の最期を見物しに来たのか?」

 正気とは思えないその問いに全身を締め付けられたかのような痛みが走った。

 早くこの場から立ち去りたい。走って逃げてしまいたい。


 もう、こんな夫の姿は見ていたくない――――。


 だが同時に、臆してはならぬという警鐘が頭の中で響く。

「いいえ」

 私は静かに否定の意を表した。

「ならば――――」

「わたくしは!」

 相手の声を掻き消すほどの大声で叫ぶ。

 目一杯、相手に確実に届くように。

「わたくしは、恨み事を申し上げるために来ました」

 突拍子のない言葉に呆れてか、それともあまりの剣幕に気圧されてか、長政の短刀を握る手が緩んだ。その隙を見逃さず、一気に畳み掛ける。

「兄上との不和も、織田との戦も、戦況が芳しくないことも、隠しておられたのは(なに)(ゆえ)か!」

「それは・・・」

「女の身では何もできまいと思われたか?それとも、敵国の身内故(ゆえ)仰らなかったのか?」

 瞬間、自棄(やけ)のように返ってきた「そうだ!」という応えに片足を大きく踏み鳴らす。

「見縊らないで下さいませ!」

 こちらを一切見ようとしない長政の身体(からだ)が僅かに跳ねた。

「恨み言はまだございます。兄上のこと、どうして相談して下さらなかったのですか。不利な戦いが続く中で、辛そうな顔一つされず、いつも笑っておられたのはどうしてですか」

 喋りながら、その距離を徐々に詰めていく。

「戦のことで女が何もできないのは重々承知しております」

 そして、長政の目の前まで辿り着いた。

「なれど、わたくしは、浅井長政の妻でございますれば!!」

 一際大きく叫んだ声に長政の顔が上を向く。

 瞬間、瞳がぶつかった。まるで幼子が許しを請う時に見せるような、そんな瞳と。

 目を合わせたまま、私はゆっくりとその場に座り込み、向かい合った。長政はもう、目を反らさない。

「貴方様の妻でごさいますれば、貴方様を支えるのは当然のこと。そして――――」

 懐から護身用の短刀を取り出して、膝先に置く。

「運命も共に」

 初めから、切腹を止める気はなかった。

 長政の父、久政のいる京極丸も先刻落ちたと聞く。こうなってしまっては、敵に首を取られるのを待つか、自害するか、落ち延びるかの三つだ。そして長政の性格を考えれば、自害を選ぶのは容易に察しが付いた。

 だが、とうとう本丸が攻められるとなった時、長政の姿はどこにもなかった。侍女達が「若殿様の(めい)です」と言って城外へ連れ出そうとするのを振り切り、私は夫を必死で探した。

 私に何の挨拶もなく、一人で逝こうとしている。そう思うと、無性に腹立たしく、同じくらいに悲しくて。

 胸が痛かった。

「長政様、わたくしにもお供させて下さい」

 先程とは打って変わり静かに頼む。すると長政はゆっくりと口を開き、「神はいたのだな」と、唐突にそう言った。

「何故、浅井家がこのように滅びねばならぬのかと、何故、義兄として慕った相手に殺されなければならぬのかと、ずっと考えていた。その内にお前と婚儀を挙げたことさえも憎々しく思えてきて、この世におわす八百万(やおよろず)の神を恨んだ。だが、一人で切腹の用意をしている間、心の中で神々にこの怒りをぶつけたが、何の返事もない。それで、俺は思ったのだ。神はいないのだと。だから、こんな理不尽なことが罷り通るのだと。でも、」

 長政の手が(おもむろ)に伸びて、私の頬に触れるか触れないかのところで止まる。

「死ぬ前に、お前に会えた。だから、やはり神はいるのだな」

 一向に触れてくれないもどかしい手を掴もうとして宙を掻く。即座に降ろされてしまった手を目で追うと同時に長政が声を張り上げた。

「こいつは織田へ返す。そういう約束だっただろう!」

 慌ただしい足音と甲冑の擦れる音。乱入してきたのは、敵の武士に違いないと振り返った刹那――――短い唸り声が近くで聞こえた。

 だが、全てを察し咄嗟に手にしようとした短刀は長政によって跳ね除けられてしまう。

「どうして!」

 長政は最後の力を振り絞るようにして手を床に付くと、顔を上げて答えた。

「お前は、母親故・・・」

 はっと息を飲み込むと同時に、長政の上体が傾く。

 それを支えようと伸ばした手は届かない。乱入者によって羽交い絞めにされ、見る見る内に引き剥がされていく。

 どうにか拘束を解こうと暴れたが相手は(がん)として離さない。「信長様は御嫡男の命は取らぬと仰せです」そう言われてからは、抵抗を止めるのも已む無しとなった。


 遠ざかる夫の姿に目を凝らす。

 返事はないことを承知で声を張る。

「貴方様と出会えて市はしあわせにございました!」

 必死の思いで叫んだ声は果たして彼に届いているのだろうか。

 私の想いは伝わっているだろうか。

 否、きちんと言葉にして伝えなければ、伝わらない。

「市は、初めてお会いしたあの時から―――――」


 ――――お慕い申し上げておりました。


 本当に伝えたかった最後の言葉は言えなかった。

 言ったとしても、もはや彼の耳に届かないことは明白で、そう悟った瞬間に嗚咽に飲み込まれて消えてしまったのだった。



 城を抜けた後、侍女達が肩を震えさせながら固まっている中に茶々、初、江の三人の娘を見つけた。

 だがそこに、万福丸の姿はなかった。

 周りの者に聞いても釈然としない反応で、徐々に不安が高まっていく。

 そういえば、馴染みの侍女の姿も見えない。もしかすると、千歳が万福丸を連れているのかと思い、辺りを探す。

 そうして歩いている内に、野営の白幕が目に入った。嫌な予感がして近づくと、複数の武者に囲われた幼子の姿を見つけ歩を速める。

「万福丸!」

 不安げに揺れる我が子の瞳が私を捉えた直後、それを見計らったかのような動作で一人の男が抜き身の刀を斜に構えた。

 そして――――

「っ!」

 薙ぎ払われた小さな頭が足元に転がってきた。

 見開かれたままの瞳に生気はなく、何も映してはいない。先程まで私を見ていたこの子の目には、もう何も・・・。

 堪らず目を逸らすと、切り離された胴体に片足を乗せて高らかに笑う血濡れの男の姿が目に飛び込み、怒りでどうにかなってしまいそうだった。

「何故約束を(たが)った!この(けだもの)が!」

 精一杯の憎悪を込めて怒鳴ると、兄・信長の右腕としてその名を知らしめている男はゆっくりと進み出た。

「約束?はて、何のことだか・・・」

 男はとぼけた様子で首を傾げながら、楽しそうに口元を歪めている。そのぞっとするほどの恐ろしさに寒気と吐き気が一気に押し寄せ、思わず口元を覆った。

 その時、背後から一人の武者が詰め寄って来た。

「そ、そうですよ、秀吉様!私におっしゃったではありませんか。信長様の(めい)に背くおつもりですか!?」

 私の隣に立ち、必死に訴えるその者の顔は酷く蒼い。そういえば、私を城から連れ出したのは、この男ではなかっただろうか。

「何のことだ?」

「で、ですから、あの時私に――――」

 瞬間、迸る鮮血に目の前が見えなくなった。

「確かに信長様は身内の命は助けよと仰った。だが・・・この浅井の小倅(こせがれ)は身内か?いいや、違う。俺はそう判断した」

 気づけば、先程まで私の傍に立っていた男が胸元を赤く染めて倒れていた。指一本動かぬその身体は、ただの骸と化している。

「よくも、このようなことが・・・」

 怖れと怒りがない交ぜになって声が震える。

 秀吉は部下に命じると、男の死体を片付けさせた。将も将だが、それに仕えている配下の者達の神経も疑う。

「私の部下は実に優秀だ。だが、あの男は私の意図を汲まずに貴女を混乱させるようなことを言った。だから、殺しました」


 ――――信長様は御嫡男の命は取らぬと仰せです。


 あの言葉は、私を城から連れ出すためのただの虚言だったのだろう。ただ、部下の男はそれを(まこと)と信じて私に言った。

 少し考えれば分かりそうなものを・・・。この狡猾な男の部下であるには少しばかり心が清過ぎたか。

「身勝手で、反吐が出るな」

「おや、信長様の妹君ともあろうお方がそのようなことをおっしゃるものじゃあない。それにこれは貴女のためですよ」

 無言で聞き返すと、秀吉は滔々(とうとう)と語り出した。

「そうです。全ては貴女のため。もちろん、浅井の嫡子の息の根を止めたことも・・・・。この五年間、さぞ肩身の狭い思いをされたことでしょう。嫁いだ先には既に嫡子がいて、自分の産む子は姫君ばかり。他の女の子供が跡取りとして育てられている光景を目にするのはお辛かったでしょうね。お察しします・・・だから、殺して差し上げました。貴女のために、貴女が憎く思っているお子を」

 心の臓が潰れる。

 それぐらいの痛みが全身を駆け(めぐ)った。

 だが、

「わたくしはあの子を愛おしく思っていた・・・」

 ここで引くわけにはいかない。

 秀吉に体当たりし、怯んでいる隙に素早く刀を抜き取る。そして女の身には些か重過ぎる鉄の塊を必死の思いで頭上に上げ、振り下ろした。

「感謝されこそすれ、このような仕打ち、あんまりではありませんか?」

 殺したいほど憎い相手は逃げることもなく、振り下ろされた刃を素手で受け止めた。刀を握る手から血が滴り落ちる。それさえも何かの余興であるかのような雰囲気で、秀吉は嗤う。

「まさか、自分の刀に自分の血を吸わせることになるとは。ああ、そういえば貴女のお気に入りの侍女の血も――――」

「外道!死ね!」

 一層力を込めて刀を押し込む。しかし、それは簡単に振り落とされ、次の瞬間には首を絞められていた。

 無理矢理、顔を向けさせられれば、獰猛な獣のような瞳から逃げられない。

 息苦しさに(むせ)ると、決して流したくないと思っていた熱い雫が頬を伝い、悔しくてまた涙が零れた。

「どうして、泣いているのですか?苦しいのですか?」

 そうだ。

 苦しい。

 失った悲しみで、奪われた憎しみで、気が狂いそうになるほどに。

「――えせ。千歳を・・・万福丸を、返せ!」

 次の瞬間、締め付けられる力が増して、意識が飛びそうになった。

「侍女を返せ?私に刃を向けた女を?貴女は私のことをこれっぽっちも案じては下さらないのか?浅井の(せがれ)を返せ?貴女とは血も繋がっていない子供を?何故!?」

 突如として近づいてきた顔に戦慄する。至近距離で見る秀吉の目に先程の余裕はない。

「あの男の血を引いているというだけで、『愛おしい我が子』とでも言うつもりか?はっ・・・そんな健気なことは仰るな。このまま、首を捻り潰したくなる」

 秀吉はそう言うと、食い込むまで締め付けていた手を離した。

「市姫様。信長様がお呼びです」

 直後、大きく息を吸い咳込む私の元に兄の臣下が現れた。何事かと訝しむような目を向けたのは一瞬のことで、すぐに「お急ぎを」と言って私を急かす。

 秀吉はそれ以上私を引き留めることはなく、背を向けて野営の奥へと歩き出した。

 その後ろ姿は、狡猾で残忍で醜悪な男のそれとは思えぬほどみすぼらしく儚げで。何故、そう思ったのかは分からないが、例えるなら手負いの獣のような風情を感じさせた。


 同情の余地など微塵も無いが。

 ――――哀れ。

 そうには違いないと、兄の陣地へ向かう途中、心の隅で思った。




 その後、私は娘達と共に叔父の織田信次の元に身を寄せ暮らすことになった。が、兄の信長が死去したことを契機に、私は再び他家へと嫁ぐことになる。


 武家の家に生まれたからには。

 この時勢に生まれたからには。

 致し方無しと雖も、怨みは尽きない。



 そうして、時は過ぎ――――



 天正十一年、初夏。

 賤ヶ岳での戦いは惨敗を喫した。羽柴秀吉の軍勢の勢いは止まらず、現夫の勝家は自害の道を選んだ。

「いよいよ羽柴はお前さんを取りに来たと見える」

「天下ではなく、わたくしをですか?」

 自嘲めいた笑いを零して、短刀を手に取ると、

「安心しろ。わしがお前さんを長政殿の元へと連れていく」

 そう言って勝家は微笑んだ。その優しさに涙腺が緩む。

 勝家は前夫を慕う私を慮り、一度も私に触れることはなかった。そんな形だけの夫婦だったというのに、死の際まで気遣ってくれる。

 だから、

「さあ、行こうか」

「ええ」

 何も怖くない。



 だけど、

 もし、来世というものがあるならば。

 こんな、誰かに守ってもらわなければならない女ではなくて、誰かを守れるだけの強い女になりたいと。

 そう、強く願いながら、目を閉じた。



第一章は、序盤ですね。

次は長くなると思いますが、お付き合いして頂ければ嬉しいです。

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