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遭遇 四

 景陽岡の虎が退治された。

 その噂を聞きつけ、我先にと人々が集まってきていた。

 その虎は五、六人でやっと担げるくらいの大きさで、亡骸を見ただけでも子供は泣き出し、大人でさえも恐怖を禁じえないほどだった。

 武松は仕留めた虎を担いで峠を越えようとしたが、さすがにそれはできなかった。

 どうしようかと虎の傍らで休んでいると、地元の猟師たちが現れた。倒れている大虎と武松を見つけた彼らが麓から人を呼び、虎を運ばせたのだった。

 脚からは鋭い爪が出たままで、口からも大きな牙がのぞいていた。この爪と牙で一体どれだけの人間を喰らってきたのだろうか。人々は恐怖を感じると共に安堵していた。

 虎の少し後ろの(かご)には、窮屈そうに大きな男が乗っていた。人々は虎を、そして退治したというその男をひと目見ようと集まっていたのだ。

 道の両側は老若男女が七、八十人は集まっており、誰もが英雄だ英雄だと褒めそやしている。武松は何だかむず痒い思いだった。

 昔からこの拳で人を傷つけてばかりいた。だが奇しくも虎を退治したことにより、英雄と呼ばれることになろうとは。

 轎に揺られながら武松は拳を見た。

 拳には虎の血が乾いてこびりついたままだった。

 

 翌朝、知県からの使者が迎えに来ていた。

 武松は地元の金持ちの歓待を受け、一晩そこに泊まっていた。武松はのっそりと起き上がると金持ちに礼を言い、使者とともに知県の元へと向かった。

「このたびの虎退治の件、この陽穀県を代表して礼を言わせてもらう」

 知県は武松の顔を見るなりそう言った。

「誠に恐縮の至りです。今回は運が良かっただけでございます」

 武松は拱手してそれに答える。武松が組んだ手をしげしげと眺め、唸るように知県が言う。

「その拳で、虎を打ったのだな。大した豪傑よ」

 黙る武松を尻目に知県は続けた。

「そこでと言ってはなんだが武松よ、お主の功績を見込んでこの街の都頭(ととう)として取り立てたいのだが、どうかな」

 思わず知県を見る武松。笑みを浮かべる知県の目は真剣だった。

 だが、武松はふと兄の顔を思い出した。

「知県さま、お申し出は大変ありがたいのですが、私は清河県へ帰るところでして」

 と事情を説明する武松。

「そうか、しかし私はお主の力をぜひとも頼りたいのだ。清河県は目と鼻の先だ、少したったら暇を出そう、その時に兄に会いに行けば良いではないか。虎退治の勇名だけではなく、都頭になったと言えば、お主の兄もさぞ鼻が高いだろうて」

 知県のその言葉に武松の心が揺れた。

 兄には迷惑ばかりかけてきた。故郷へ戻っても仕事の当てがあるわけではない。ならば都頭の職に就き、自立している姿を兄に見せ、安心してもらうのも良策だ。

 そう決めると武松は顔を上げ、都頭となることを告げた。

 さらに武松には虎に懸けられていた一千貫の賞金が与えられた。しかし、武松はそれを地元の猟師たちで分けてもらうことにした。

 おかしなものだ、と武松は思った。

 本来粗暴であり、揉め事ばかり起こしていた己にこんな丁寧な言葉遣いができたとは。

 それに賞金の件も不思議だった。素直に、これまで苦労してきた猟師たちに還元しようと思ったのだ。

 無私。武松は思わず宋江の事を思い浮かべた。良い出会いは一瞬にして人生を変えるというが、これも彼に出会ったおかげなのか。

 ともかく知県はますます武松を気に入り、陽穀県の人々からも絶大な支持を得ることになり、陽穀県中に武松の名は広まることになった。


 ある昼下がり、武松は役所から出てぶらぶらと通りを歩いていた。道行く人々が気さくに声をかけてくれる。武松も笑顔でそれに応える。

「おい()都頭、このたびはえらく出世しやがったなぁ」

 その言葉に武松が振り返ると、一人の男が立っていた。

 背が低くずんぐりとしており、色が浅黒く人の良さそうな顔をしていた。武松は思わず声をあげていた。見まごう事も忘れるはずもない、目の前にいる男こそ、武松の兄であったのだ。

「兄さん」

 と、叫び武松は平伏していた。これまで兄にかけた迷惑の数々が思い起こされた。

「一年近く連絡もせずに、すみません」

「こんな道の真ん中でやめろよ、起きなってば(しょう)。確かにお前がやらかした事でだいぶ迷惑はかけられたが、そんな事で恨んじゃいないよ。ほら」

 兄はそう言って武松を立ち上がらせる。何と言って良いのかわからない武松に、兄が微笑んだ。

「せっかく久しぶりに会えたんだ。お祝いに一杯やろうじゃないか。よい酒を手に入れたんだ」

 そう言って酒瓶を見せた。

 武松は見覚えがあった。

 景陽岡の麓で飲んだ、透瓶香またの名を出門倒というあの酒だった。

 はは、と武松が笑い、兄も笑った。

 今日は倒れるほど飲んでやろうと、武松は思った。


 降り積もる雪を眺めながら、宋江がひとり窓辺に佇んでいた。

 弟の宋清は先日、鄆城県(うんじょうけん)の家へ帰らせた。残してきた父と宋清の家族が心配だったからである。

 そのついでにではあるが、宋清にはその後の情勢を手紙で知らせてくれるように言ってあった。

 宋江は手にした手紙をもう一度、広げた。

 宋清からのものではなかった。

 かつて宋江の元へおしかけ弟子にやって来た兄弟からの手紙であった。閻婆惜(えんばしゃく)にもそんな話をしたな、と思い出し胸が苦しくなったりもした。

 ここにいる事が世間に広まっているのか、彼らが柴進の宅へ送ってきた手紙だった。そこには、ぜひ彼らの家へ来てほしいという旨が書かれていた。かつての恩返しをしたいというのだ。

 彼らの住まいはここから東にあたる青州(せいしゅう)にあった。柴進までとはいかないが、父親がひとかどの金持ちで、その兄弟たちは暇があれば各地の好漢たちと知り合おうとしているという。

 その中にはいわゆる山賊と呼ばれる者たちも含まれており、(ちょう)(がい)のいる梁山泊はもとより、生辰綱(せいしんこう)強奪現場の近くにある()竜山(りゅうざん)桃花山(とうかざん)などにまで手紙を送っている事が書かれていた。

 なんと危険な橋を渡るものだ、と宋江はその手紙を燭台の炎の上にかざした。

 あっという間に手紙は燃え尽き、燃えかすが黒い蝶のように舞っていた。

 一通の手紙が人の生き死にを左右することがあるのだ。

 閻婆惜の顔が頭に浮かんだ。

 次に会う時には、師匠らしい言葉をかけてやろう、そう思いながら宋江は返事を書くために部屋の外へ向かった。

 黒い蝶がまだ部屋の中で揺らめいていた。

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