仇敵 二
じっと待っている。
床几に腰かけ、左手を腿に、右の手には長柄の武器、開山大斧をしっかりと握っている。
田虎の出陣準備のため、待機を命じられた卞祥は、冬眠するように目を閉じ、じっと待っていたのだ。
卞祥は農民だった。
大きくはない村で生まれ、子供の頃から体は人一倍大きかった。そのためか、周りの子供たちと遊ぶより、早くから田畑を耕す手伝いをしていた。体はますます大きくなった。肥ってはいるのだが、腕も腿もはちきれんばかりの毬のような筋肉で包まれていた。
ある年、旱魃に見舞われた。卞祥の村も影響は大きく不作が続いた。しかし幸いにも村には蓄えがあり、余所と比べて被害は小さくすんでいた。
しかしどこからかその噂を聞きつけたのであろうか、山賊の一団が、卞祥の村を襲った。しかしそれは山賊ではなかった。なんとそれは管轄州の兵たちだったのだ。
卞祥が奮闘するものの、相手は戦い慣れた兵だ。村人たちは次々と蹴散らされてゆく。もう駄目だ。卞祥がそう思った時、新たな一団が乱入してきた。
それは勢力を拡大しつつあった田虎と鄔梨の率いる軍だった。
結果、村は救われた。
田虎が、命乞いをする兵長を討ち、賊軍は壊滅した。
鄔梨がやってきて、卞祥に向かって言った。
「見ていたがお主、大層な怪力だな。まるで悪来、さしずめ小悪来と言ったところかな」
「おお良いな。よし小悪来、わしらと共に来ないか。こいつらのような腐った連中を倒すために、お主のような者が必要なのだ」
「俺の力が、役に立つのか」
「もちろんだ。これから、わしらの時代を作るのだ」
卞祥は目を輝かせた。
卞祥の目には、田虎が英雄に映った。そして田虎のために尽くそう。卞祥はそう思い、田虎の勢力拡大の大いなる一助となったのだ。
「将軍、待たせたな」
范権が呼びに来た。
ゆっくりと卞祥が目を開ける。大山開斧を強く握りしめた。
さあ行こう。田虎さまのために、賊軍梁山泊を蹴散らしてくるのだ。
その大きな背を、范権が切なそうに見つめていた。
三万もの軍勢が進軍する。まだ健在な領地からかき集めた兵たちである。
卞祥が配下の八将を率いる。いずれも山賊あがりの物騒な連中だ。
まずは樊玉明、魚得源、顧愷、馮翊を前軍として、五千を先に進めた。
沁源県綿山の麓に至り、梁山泊軍と相見えた
「前軍突撃。あいつらをぶっ殺せ」
樊玉明が叫びを上げて突進すると、残りの三人もそれに続いた。
梁山泊軍からは董平、林冲そして蓋州から呼び戻された花栄、さらに陵川から戻った史進が馬を飛ばす。
勝敗は半刻も経たずに決した。
樊玉明は董平の槍の露と消え、顧愷も林冲に一蹴され、馮翊は花栄が矢を放つまでもなかった。
ただ史進だけが不満そうな顔をしていた。
魚得源が刃を交える前に落馬し、そのまま馬に踏まれて果てたからだ。
「圧勝なのだ、喜べよ」
という董平の言葉にも、納得できない様子。
一方、報告を受けた卞祥は大きな目をさらに大きく見開いた。
「何だって、それは本当なのか。ぐぬ、お前たちの無念、俺が晴らしてやるぞ」
ほとんど無傷だという梁山泊。しかし卞祥の戦意にも火がついた。
梁山泊軍に緊張が走った。
後続の田虎軍、その先頭にいる卞祥の強さが尋常ではないと知れたからだ。
「文句は言わせないぜ。あいつは俺が」
と、史進が飛び出した。
それを見た卞祥も前に出る。馬が悲鳴を上げていると思われるほどの巨躯だった。
開山大斧と三尖両刃刀が火花を散らす。
両者の力は互角か。
「へえ、まだお前みたいな奴がいるとはな。名は何と言う」
「ふん、俺は卞祥。小悪来の卞祥だ。お前こそ名乗ったらどうだ」
「よく言った。俺は史進。九紋竜の史進だ」
史進が吼え、卞祥が猛る。
両軍が見守る中、打ち合いが止まらない。史進も卞祥も玉のような汗を浮かべている。
史進が、息をつくため、少し離れた。体力では卞祥が上のようだ。
「どうした九紋竜。終わりか」
「へっ、これからさ」
馬を馳せ違いざまに何度か打ち合った。そして馬を止め、再び打ち合いとなる。
「お前の力じゃ俺には勝てないぞ。とっとと降伏しろ」
卞祥が大斧を振り下ろした。史進は両刃刀の柄で受け止めた。両腕の力瘤が盛り上がる。劣勢のはずの史進が、卞祥をにやりと見た。
わかってるよ、そんな事。でもよ、そんな奴に真っ向から勝つのが良いんだ。なあ、董平の旦那。
む、と董平が唸った。史進に見られたような気がしたのだ。
歯を食いしばる。そして言葉にならない声を発し、なんと史進が大斧を押し返してしまった。
思わずよろめく卞祥。
「どうだ」
史進が鼻血を流しながら笑っている。
まぐれだ、卞祥はそう思い再び打ち込んだ。
打ち合いながら史進が言った。
「あんた、農家の出だろ」
「なんだ。だとしたら何だ」
卞祥の眉がぴくりと上がった。怒気を孕んだように見えた。
「筋肉で分かる」
「馬鹿にするのか」
「そうじゃない。お前も、こうなっちまった理由があるんだろ」
命のやりとりをしている。とてもそうは思えなかった。
「食い物を奪おうと、州兵の連中が俺たちの村を襲った。俺たちを守るはずの、州兵がだぞ。その時、田虎さまに助けられた」
大山開斧が唸りを上げる。三尖両刃刀が烈風の如き勢いで閃く。
刃と刃がかち合い、火花を散らした。またも力比べだ。
花栄が弓に手を伸ばしかけた。だが花栄はその手を止めた。史進が嬉々として戦っている。その卞祥に隠し矢を射つことが、憚られたのだ。その代わり、花栄は右手を上げた。
両陣営から鉦が鳴らされた。退却の鉦だ。
「もっと戦いたかったが、また今度だ」
「何言ってる。まだ終わってないぞ」
卞祥が斧を力強く押しこむ。
鉦がうるさいほどに鳴っている。
それに気付いた卞祥は、不服そうな顔でやっと力を抜いた。
馬首を返しながら、史進が告げた。
「良かったよ」
「なにが良いんだ」
「あんたが悪い奴じゃないって分かって、良かった」
史進が馬を飛ばし、梁山泊陣営に戻ると頭を下げた。
「すまん。勝てなかった」
誰も叱責する者はいなかった。
そして花栄の横を過ぎる際、
「ありがとうございます」
と囁いた。
花栄は史進の背を見つめ、微笑んだ。
戦場には卞祥が佇んでいた。
きょとんとした顔をしたまま、撤退する梁山泊軍をじっと見ていた。
顔に何か当たり、空を見上げた。
太陽はいつの間にか隠れ、厚い灰色の雲が広がっていた。
雨が、降り始めた。
威勝から百里あまり。
田虎直々に率いる軍が布陣していた。だが本営には戦時の緊張感は無く、笑い声さえ聞こえていた。
田虎は、威勝から連れてきた女官たちを侍らせ、酒宴を連日催していたのだ。
従軍する李天錫、鄭之瑞といった面々は呆れるしかなかった。敵は目前に迫り、今後の趨勢を決める重要な戦いの最中なのだ。
「なあに、梁山泊の賊どもなど、どうして怖れる事がある。わしらが着く前に卞祥が粉々にしているだろうて」
酒に顔を赤くし、女官に色目を使う田虎は、周囲の視線に気付く事もなく己の欲を満たし続けた。
折しも雨が降り出した。
急いで、田虎たちは銅鞮山の南に避難した。
予想に反して雨は長引き、兵たちの士気は徐々に削がれていった。
何より田虎自身が鬱屈としていた。
酒も美味くない。一気に攻め込んでいればなどと考えるが、あとの祭りである。
さらに悲報が届く。
「国舅どのが亡くなられただと」
鄔梨が死んだ。配下の金真による裏切り。毒殺だったという。
田虎は嘆いたが義娘の瓊英とその夫となった全羽、それに葉清が襄垣を守っている事だけが安心できる材料だった。
だがそれも続かない。
楡社、介休さらには太原までも梁山泊に陥とされたという。
慄いた田虎は全軍に命じた。
「雨が上がり次第撤退せよ。威勝で迎え討つことにする」
そこには田虎の王たる威厳はもはや失せていた。だが雨で倦んでいた兵たちは喜んでそれに従った。
しかし梁山泊軍が迫っていた。
田虎は目を剥き、こめかみに青筋を浮かべた。
敵軍の先頭に立つ将が、孫安だったからだ。
「あの恩知らずめ」
田虎軍は威勝に向かって撤退する。だが精強な孫安軍は追いすがる。
李天錫、鄭之瑞、薛時、林昕が後詰めとなった。胡英、唐昌の二将が田虎を守り、戦場を駆けた。李天錫らが奮闘しているおかげで、孫安軍の猛追は振り切れそうだ。
そこへ新たな軍が殺到してきた。
「ここまでか」
田虎は思わず天を呪った。
しかし違った。現れたのは田の旗を立てた援軍だった。
先頭の若者が、こちらに向かって来た。
「遅れて申し訳ございません、全羽と申します。襄垣まで護衛するので、私たちの後に続いて下さい」
瓊英の夫という男か。
全羽に導かれ必死に進む田虎。
やがて梁山泊軍は見えなくなっていった。
田虎は雨の止んだ空を見上げ、歯を剥き出した。
まだ天は見捨てていないようだ。
卞祥軍は綿山の麓で雨を避けた。
田虎直々の軍も姿を見せない。同じく雨で足止めされているのだろうか。
呂振が言う。
「大将、いつまでこうしてるんです」
「この雨だ。敵も簡単には動けまい」
「なら雨に乗じて夜襲でも」
「駄目だ。危ない。雨を甘く見るな」
そうですかい、と呂振は不服そうな顔で下がっていった。
卞祥は灰色の空をじっと見つめていた。
もう三日になる。しつこいほど長い雨だ。気持ちまで落ち込んでしまいそうだ。だが我慢だ。
ふいに、笑い声が聞こえてきた。
何事かと思い、行ってみると呂振や吉文炳らだった。
その光景に卞祥は立ち尽くした。
「ああ、大将もどうです。上等じゃありませんが、肉も酒もありますよ」
呂振が焼いた肉を頬張り、酒を流しこんだ。吉文炳が酒を持ち、呆けたような卞祥に渡そうとする。
「どうしたんですかい。腹が減っては、と言うじゃないですか」
「どこから。それは、どこから」
「え、何ですって」
「その酒は、肉はどこから」
「近所の村から拝借してきたんですよ。いいでしょう少しくらい」
卞祥の目が一点を見ていた。
吉文兵の戦袍についた、赤い染みだ。
「ああ、こいつですか。村の奴ら、渋るもんだから仕方なかったんで」
言うな、という顔を呂振がしたが、間に合わなかった。
吉文炳が吹っ飛んだ。
拳を突き出したまま、ぎろりと呂振を見る卞祥。
酒が入っていたせいか、呂振が喰ってかかった。
「何しやがる。俺たちの領地だぜ。あいつらは俺たちの物だろうが」
上下の別も無い言葉に戻っていた。
所詮、山賊か。呂振も吹っ飛んだ。
手下たちが慌てて逃げてゆく。
「お前たちもどこかへ行け。二度と戻ってくるな」
血を流し呻く二人を見て、卞祥は悲しそうな目をした。
お前は悪い奴じゃない。
史進という男の言葉が、ふと浮かんだ。
これでは、あの時の州兵と同じではないか。
俺は、俺は。
史進の言葉が消えず、眠れぬ夜を過ごした。
雨の音が小さくなっているのが分かった。
眩しさに目を開けた。
いつの間にか眠っていたようだ。
日が照っている。
止んだか。卞祥はぽつりと呟いた。
そうだ、梁山泊軍を討たねばならない。
「起きろ。準備がすんだら出陣だ。早く」
卞祥が固まる。
兵がほとんど、いなくなっていた。
もう準備を済ませているのか。いや、そうではない事は卞祥が一番分かっている。
「ご覧の通りです。どうしますか」
菅琰が皮肉そうな顔で言った。
呂振、吉文炳は安士隆を連れ、夜の内に逃げていったという。残ったのは、この菅琰と傅祥、寇琛そしてわずかの兵だけだった。
「そうか。よく残ってくれた」
そう言うのが精一杯だった。
そしてひとり、甲を着込みはじめる。
「卞祥の旦那、どこ行くんで」
「俺だけでも戦ってくる。お前たちは待っていろ」
「無茶ですって。一人で行くなんて」
「無茶はわかってる。でも行かねばならん」
「卞祥の旦那」
菅琰が鼻をぐすりと鳴らした。
そこへ慌てふためいた様子の傅祥と寇琛が駆けこんできた。
「た、大変だ」
「敵に、梁山泊がすぐそこに」
よし、と卞祥は開山大斧を握る。だが三人が必死に押しとどめようとする。
「どうしてどこまでする。お前たちはたまたま俺の隊に配されただけだろう」
「どうして、って」
顔を見合わせる三人。
「俺たち元は山賊ですが、好きでやってた訳じゃあないんです」
菅琰も傅祥、寇琛も、やむにやまれず落草した身なのだという。その点、生粋の山賊であった呂振らとは違うという。
「旦那は良い人だ。さっきも、俺たちに待っていろなんて言いましたが、本当は逃げろと仄めかしていたんでしょう」
「俺たちは卞祥どのが好きなんです。だから無駄に死にに行かせたくないんだ」
菅琰、傅祥が滔々と告げる。
卞祥の心は揺れたが、それでも決意は固い。
すると寇琛が、
「綿山だ。ちょうど良い山があるじゃないですか。どうせなら山中で迎え討つっていうのはどうです」
卞祥は目を細めた。どうしても行かせたくないための嘘だ。
「わかった。少数でも山の中なら対抗できるかもしれないな」
「そうと決まれば」
菅琰と傅祥が檄を飛ばし、兵たちを山に登らせる。
中腹辺りのやや開けた場所に、陣を敷いた。陣とも呼べないものだったが。
はたして梁山泊軍はここへ来るのだろうか。どうせならば思い切り戦って果ててやろう。卞祥はそう決めていた。
しばらくして見張りの寇琛が駆けてきた。何か喚いている。
来たのだ。
立ち上がり、大斧を片手に待ち構える卞祥。後ろでは菅琰たちが武器を構えて待っている。
大軍が来るとばかり思っていた。
だが、綿山に登って来たのはたったの二人。
九紋竜の史進、そして見知らぬ小男だった。史進は黙って小男の後ろを歩いていた。
やがて足を止め、小男が言った。
その言葉に、卞祥はじめその場の誰もが唖然とした。
「私は宋江。梁山泊頭領、宋江である。卞祥将軍、そなたとの勝負を所望したい」




