疾駆 四
真っ暗で、何も見えない。
沁水にて趙員外の親族と出会った後、穴に飲みこまれた。
しばらく気を失っていたようだが、目を覚ましてみても真っ暗だった。感じる空気から洞窟の中のようだと思った。
魯智深が、ゆっくりと立ち上がってみる。頭はぶつからない。手を伸ばすと、指先に天井が触れた。
慎重に進んでゆくと、やがて前方に微かな光が見えた。
そして光に辿り着いた。
「これは奇っ怪な」
そこはまるで外界のようだった。空があり、日が照っていた。だが魯智深には、そこが穴の中である事が何故か分かっている。
人家もあり、人の姿がいくつかあった。人々はこちらを見て笑いかけているようだが、顔がぼんやりとしていてはっきりとしない。だが穏やかな雰囲気を、魯智深は感じ取った。
そこを過ぎると広い野原に出た。
一体、どこなのか。
しばらく歩いていると、小さな草庵が見えてきた。中から木魚の音が聞こえてくる。
中で小柄な和尚が、経を唱えていた。
魯智深が、出口を訊ねると、
「来るは来る処より来て、去るは去る処より去る」
と言った。
魯智深は訳が分からず、むっとしてしまう。
和尚は笑って、ここがどこだか分かるか、と聞いてきた。
もちろん知る由もない。それを聞いているのだ。
「上は悲悲想に到り、下は無間地に至る。世界は広大無辺で、人が知ること能わず」
和尚は続ける。
「凡そ人皆心有りあり、心有れば必ず念有り。地獄、天堂、皆念より生ず。故に三界は惟れ心なり、万の法も惟れ識なり。一念生ぜざれば、六道俱に消え輪回斯に絶つ」
なるほど、と魯智深が悟った。
和尚は笑みを湛えたまま、
「お主は縁纏井に落ちこみ、どうやら欲迷天から抜け出せぬようだ。わしが道を教えてやろう」
魯智深は和尚に連れられ、草庵の外へ出た。
だが四、五歩言ったところで、ここでお別れだ、と言う。
和尚は前を指さし、
「真っすぐ行きなさい。さすれば神駒を手に入れることができよう」
と笑った。
魯智深が振り返ると和尚の姿は無く、いずれまた会える事もあろう、という声だけが聞こえた。
ふいに風景が変わり、また見知らぬ地にいた。
そして、目の前に突然凄い勢いで駆けて来る者が現れたので、おもわず掴んでしまった。
首を掴まれた馬霊は、逃れようともがく。だが鉄枷のように、魯智深の手は外れることはない。
魯智深は戴宗と馬霊を交互に見やる。
「どうやらわしらの敵のようだな。まあ、命までは奪わん。だが、わしの説法はちと痛いぞ」
大きな拳固を振り上げ、馬霊の顔面に叩き込んだ。
馬霊が吹っ飛び、嗚咽を漏らすことすらなく気を失った。
魯智深は、空を睨んでいた。殴った瞬間、なにか黒い影が、馬霊から抜け出たように見えたのだ。
魯智深は後で知り、大声で笑った。
馬霊が神駒子と呼ばれている事を。
汾陽での戦いは梁山泊の勝利に終わった。
馬霊が敗北し、田虎軍は散り散りになった。田豹はすでに逃亡していた。おそらく威勝へ向ったのだろう。
「いやあ、久方ぶりの酒だ。腹に沁みるのお」
大椀を飲み干した魯智深が、実に嬉しそうに笑った。
しかしよ、と同じく杯を空けた鄧飛が言う。
「その和尚ってのは一体誰なんだい。それに、え、縁纏井って言ったっけ。それって結局何なんだよ」
「あの和尚が誰なのかは、わしにもわからん。また会えるとか言っていたので、そのうち分かるだろうて。縁纏井はそうだな、因業の井戸と言えば良いかな。わしは欲の塊だから迷い込んでしまったようだ。お主らもいつか迷い込むかもしれんぞ」
急に怖い顔で脅かすように言うと、
「なあに、冗談じゃ冗談」
と大笑した。
「勘弁してくれよ、魯智深の旦那」
鄧飛が珍しく弱音を吐くと、欧鵬や楊志も笑った。
微笑みながら公孫勝が口を開く。
「凡そ人皆心有りあり、心有れば必ず念有り地獄、天堂、皆念より生ず。すべては私たちの思念が生み出したものという訳ですね」
「流石は公孫勝。しかし、人は考えることなしには生きられん。それが悪いことなのだろうか。和尚に言われたように、坊主のわしからして欲の塊じゃ。いまも、旨い酒を飲みたい、美味い肉を食いたいと思っている。そして」
そう言って、杯をぐびりと空け、羊肉に齧りつく。
そして優しい目で一同を見回した。
「なにより、お前たちと楽しい時を過ごしたいと思っている」
鄧飛も楊志もしんみりとした顔になる。
「おい、そんなつもりで言ったのではないぞ。さあ、飲むぞ飲むぞ」
取り繕うような魯智深に、場が笑いに包まれた。
鄧飛が酒甕を抱き抱えて来た。
「俺も飲みたい欲に駆られちまったぜ。魯智深の旦那、久しぶりに飲み比べといこうじゃないか」
「そう来なくては」
「待ってくれ」
と声を上げたのは陳達だ。
「初対面では負けちまったが、今日はそうはいかないぜ」
「誰でもかかって来い。負ける気などせんわ」
次々と杯を空ける三人に、いつまでも喝采が止まなかった。
負けた。
勝てると考えていたことが恥ずかしいほど、圧倒的な力だった。
そして、逃げた。
だが逃げることすら叶わなかった。
なんという、己の小ささよ。
寝台に横たわったまま、馬霊が天井を見つめ、思う。
喬道清の声がした。
「目が覚めたか」
どっちの意味合いで言ったのかは、分かりかねた。
馬霊が黙っていると、
「負けるはずがない。私は昔から思っていたのだ」
独白するように、喬道清が小さな声で話し始めた。
若き日の傲慢さ、葛藤、公孫勝への嫉妬。そして魔に見染められ、己こそが最強だと思いこんだ。
「疎んでいたはずの弟弟子に救われるとはな」
喬道清の言葉に、馬霊の頭に様々な思いが渦巻いていた。
馬霊の傷が癒える頃、戴宗がやってきた。
何をしに来た。復讐か。
体中に巻かれた包帯が、自分よりも痛々しいではないか。
「あの法を、早く走る法を教えて欲しい」
戴宗は真摯な目で馬霊を見つめた。
驚いた。敵であった自分に教えを請うというのか。
もう一度、戴宗が請うた。
馬霊は、
「わしで良いのか」
と聞いていた。
梁山泊軍に残るには、充分な理由だった。
田虎のこめかみ辺り、青い筋がぴくぴくと痙攣している。
頼みの綱、馬霊が負けた。しかも報告によると孫安、喬道清まで梁山泊軍に加わっているという。
この田虎のために華々しく散ったものだと思っていたが。とんだ恩知らずどもだ。
「お前もだ、豹。どうしてのこのこと舞い戻って来た」
田豹がびくりとして、肩をすくめる。そして田彪に、助け舟を求めるように視線を送った。だが田彪も部屋の端で気配を消していた。何かできるはずもない。
軍議でも卞祥だけが徹底抗戦を主張するが、他は皆、後ろ向きな意見ばかりだった。その中で、北方の金国に投降してはどうかと誰かが言った時、卞祥の怒りが爆発した。
「何を弱気な事を。梁山泊軍はたった三万だ。こっちはまだ五万以上もの兵をかき集められるんだ。それに糧秣だって、たっぷり二年は持つ。向こうはそんなに耐えられんだろうさ。投降なんて事言ってると、ぶっとばすぞ」
軍議の場が騒然とする。
范権はここを機と見た。
「畏れながら、卞祥将軍のおっしゃる通りかと。奴らの勝利は、孫安たちの裏切りが原因です。いま襄垣では葉清将軍が有利に戦を進めています。ここで田虎さま自ら陣頭に立たれるならば、兵たちの士気は俄然上がり、勝利も間違いございません」
満足げな表情の田虎。
卞祥に将軍十名と兵三万を与え、西の盧俊義軍に向かわせる。
さらに太尉の房学度にも同じ編成で、楡社へ赴かせる。
そして田虎自らが十万の精兵を率い、宋江軍に当たる。
田豹、田彪は、留守役として威勝に残すことにした。
「力の差を見せつけてやる。梁山泊め、髪の毛ひとつ残すものか」
田虎が獲物を狙う猟師のの目となった。
衛州を出、北へ進軍せよ。
呼延灼の元に、宋江からの軍令が届けられた。
奇妙な風体をした馬霊という者が、伝令役であった。
「そうか、公孫勝が」
梁山泊を狙う黒い気に対抗するため、衛州を出た公孫勝。その後の状況を知りたかったのだ。
気の正体は兄弟子の喬道清。さらに目の前の馬霊も、公孫勝に敗れたという。
「盧俊義どのは汾陽から東へ渡河し、介休へ進軍。宋江どのの軍は昭徳、潞城を陥とし、襄垣の手前に布陣しております」
そしてその襄垣には、張清と安道全が間諜として潜りこんでいるという。
残るは威勝、いよいよ総攻撃だ。
「わかった。すぐに準備を整える」
踢雪烏騅に跨り、呼延灼は背筋を伸ばした。
遥か北を見つめ、高揚した。
やはり軍人である。つくづくそう思った。
途中で関勝、索超らと合流し、楡社を目指した。威勝の北に位置する楡社を獲れば、包囲網が完成に近づく。
しかし斥候の報告によると、すでに田虎軍が布陣しているという。その数、三万ほど。こちらはその半数と言ったところだ。
進軍を止め、軍議を開く。
「どうする、関勝」
と言い、許貫忠の地図の写しを広げた。楡社は左右を山に挟まれているため、至る道は一本で狭い。
関勝が左右の山を示した。
「挟撃だろう。この策を取るだろうことは、敵も警戒しているはずだがな」
呼延灼もそれしかないと考えた。だが正面から当たる兵が囮となってしまうことだ。死地に送り込むようなものである。
ならば、と呼延灼が名乗り出ようとした時だ。
「俺が正面から行こう」
腕を組んで地図を見ていた唐斌が、言った。
「おっと、手柄を取られてしまっては敵わぬ。先鋒は、わしが行かせてもらう」
索超だった。
※周謹の話を前で入れている前提?
「面白い。ならば勝負と行こうじゃないか。まあ、負けはしないがな」
「望むところだ。受けて立とう」
と索超が鼻息を荒くする。
「という事だ。正面からは俺と索超が行く。後は頼んだぜ」
そう言って二人は準備のために隊へ戻って行った。
微笑する関勝に、覗きこむようにする呼延灼。
「なんだか潞城の戦から気が合うようでな」
「いや、それよりいいのか。唐斌を行かせて」
「言い出したら聞かない男だ。それに」
「信頼しているのだな」
「ああ、やると言ったらやる男だ。そして索超もいる。それよりも、わしらの方こそ負けていられないぞ」
「そうだな。さあ、行こう」
唐斌という男。関勝と旧知の間柄で、天王と呼ばれているという。
かつて大刀の関勝と並び称されたその実力を、その目で見てみたいと思った。
やはり兵が潜んでいた。挟撃は想定済みだったのだ。
慣れない山間での戦いに、呼延灼も苦戦した。
しかし、助けなどいらないかのような、唐斌と索超の活躍ぶりだった。
守将の房学度を索超が討ち取ると、楡社軍が崩れた。
さらに左右から、関勝と呼延灼が奇襲をかけると、戦いは数刻も経たずに終わった。
「さすが、ですよね」
索超が言う。
関勝と楽しげに話している唐斌を見ていた、呼延灼にである。
「唐斌どのがいなければ、危なかったかもしれません。敵将を討ち取れたのも、唐斌どのが他の兵たちを一手に引き受けてくれたからです」
「確かに。わしが攻撃に加わった時には、戦の終わりが見えていたからな」
「ですが、本人は認めないんですよ。手柄を横取りしやがって、なんて怒鳴られましたよ」
「ふふふ、面白い男だな」
楡社に入城し、住民を宣撫した。
兵と馬にとってはしばしの休息。
関勝と呼延灼は、城壁から南を眺望していた。賑やかに酒を酌み交わしている唐斌と索超の声が聞こえてくる。
「いよいよ決戦だな」
「うむ。単廷珪が太原に向かっている。そこで李俊らと合流する手筈だ。そこを獲れば後は威勝の田虎のみ」
頷き合い、手にした杯を軽く合わせる。
む、と関勝が天を仰ぎ見た。
太陽はいつの間にか隠れ、厚い灰色の雲が広がっていた。
雨が、降り始めた。




