表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
311/311

疾駆 四

 真っ暗で、何も見えない。

 沁水(しんすい)にて趙員外(ちょういんがい)の親族と出会った後、穴に飲みこまれた。

 しばらく気を失っていたようだが、目を覚ましてみても真っ暗だった。感じる空気から洞窟の中のようだと思った。

 魯智深(ろちしん)が、ゆっくりと立ち上がってみる。頭はぶつからない。手を伸ばすと、指先に天井が触れた。

 慎重に進んでゆくと、やがて前方に(かす)かな光が見えた。

 そして光に辿り着いた。

「これは()(かい)な」

 そこはまるで外界(がいかい)のようだった。空があり、日が照っていた。だが魯智深には、そこが穴の中である事が何故か分かっている。

 人家もあり、人の姿がいくつかあった。人々はこちらを見て笑いかけているようだが、顔がぼんやりとしていてはっきりとしない。だが穏やかな雰囲気を、魯智深は感じ取った。

 そこを過ぎると広い野原に出た。

 一体、どこなのか。

 しばらく歩いていると、小さな草庵が見えてきた。中から木魚の音が聞こえてくる。

 中で小柄な和尚(おしょう)が、(きょう)を唱えていた。

 魯智深が、出口を訊ねると、

「来るは来る(ところ)より来て、去るは去る処より去る」

 と言った。

 魯智深は訳が分からず、むっとしてしまう。

 和尚は笑って、ここがどこだか分かるか、と聞いてきた。

 もちろん知る由もない。それを聞いているのだ。

「上は悲悲想(ひひそう)に到り、下は無間地(むけんち)に至る。世界は広大(こうだい)無辺(むへん)で、人が知ること(あた)わず」

 和尚は続ける。

(およ)人皆(みな)心有りあり、心有れば必ず念有り。地獄、天堂、皆念より(しょう)ず。(ゆえ)に三界は()れ心なり、(よろず)の法も惟れ(しき)なり。一念生(しょう)ぜざれば、六道(ろくどう)(とも)に消え輪回(りんね)(ここ)に絶つ」

 なるほど、と魯智深が悟った。

 和尚は笑みを(たた)えたまま、

「お主は縁纏井(えんてんせい)に落ちこみ、どうやら欲迷天(よくめいてん)から抜け出せぬようだ。わしが道を教えてやろう」

 魯智深は和尚に連れられ、草庵の外へ出た。

 だが四、五歩言ったところで、ここでお別れだ、と言う。

 和尚は前を指さし、

「真っすぐ行きなさい。さすれば神駒(しんく)を手に入れることができよう」

 と笑った。

 魯智深が振り返ると和尚の姿は無く、いずれまた会える事もあろう、という声だけが聞こえた。

 ふいに風景が変わり、また見知らぬ地にいた。

 そして、目の前に突然凄い勢いで駆けて来る者が現れたので、おもわず掴んでしまった。

 首を掴まれた馬霊(ばれい)は、逃れようともがく。だが鉄枷のように、魯智深の手は外れることはない。

 魯智深は戴宗(たいそう)と馬霊を交互に見やる。

「どうやらわしらの敵のようだな。まあ、命までは奪わん。だが、わしの説法はちと痛いぞ」

 大きな拳固(げんこ)を振り上げ、馬霊の顔面に叩き込んだ。

 馬霊が吹っ飛び、嗚咽を漏らすことすらなく気を失った。

 魯智深は、(くう)を睨んでいた。殴った瞬間、なにか黒い影が、馬霊から抜け出たように見えたのだ。

 魯智深は後で知り、大声で笑った。

 馬霊が神駒子(しんくし)と呼ばれている事を。

 

 汾陽(ふんよう)での戦いは梁山泊(りょうざんぱく)の勝利に終わった。

 馬霊が敗北し、田虎(でんこ)軍は散り散りになった。田豹(でんひょう)はすでに逃亡していた。おそらく威勝(いしょう)へ向ったのだろう。

「いやあ、久方ぶりの酒だ。腹に沁みるのお」 

 大椀を飲み干した魯智深が、実に嬉しそうに笑った。

 しかしよ、と同じく杯を空けた鄧飛(とうひ)が言う。

「その和尚ってのは一体誰なんだい。それに、え、縁纏井(えんてんせい)って言ったっけ。それって結局何なんだよ」

「あの和尚が誰なのかは、わしにもわからん。また会えるとか言っていたので、そのうち分かるだろうて。縁纏井はそうだな、因業(いんごう)の井戸と言えば良いかな。わしは欲の(かたまり)だから迷い込んでしまったようだ。お主らもいつか迷い込むかもしれんぞ」

 急に怖い顔で脅かすように言うと、

「なあに、冗談じゃ冗談」

 と大笑した。

「勘弁してくれよ、魯智深の旦那」

 鄧飛が珍しく弱音を吐くと、欧鵬(おうほう)楊志(ようし)も笑った。

 微笑みながら公孫勝(こうそんしょう)が口を開く。

(およ)人皆(みな)心有りあり、心有れば必ず念有り地獄、天堂、皆念より(しょう)ず。すべては私たちの思念が生み出したものという訳ですね」

「流石は公孫勝。しかし、人は考えることなしには生きられん。それが悪いことなのだろうか。和尚に言われたように、坊主のわしからして欲の塊じゃ。いまも、旨い酒を飲みたい、美味い肉を食いたいと思っている。そして」

 そう言って、杯をぐびりと空け、羊肉に齧りつく。

 そして優しい目で一同を見回した。

「なにより、お前たちと楽しい時を過ごしたいと思っている」

 鄧飛も楊志もしんみりとした顔になる。

「おい、そんなつもりで言ったのではないぞ。さあ、飲むぞ飲むぞ」

 取り繕うような魯智深に、場が笑いに包まれた。

 鄧飛が酒甕を抱き抱えて来た。

「俺も飲みたい欲に駆られちまったぜ。魯智深の旦那、久しぶりに飲み比べといこうじゃないか」

「そう来なくては」

「待ってくれ」

 と声を上げたのは陳達(ちんたつ)だ。

「初対面では負けちまったが、今日はそうはいかないぜ」

「誰でもかかって来い。負ける気などせんわ」

 次々と杯を空ける三人に、いつまでも喝采が止まなかった。


 負けた。

 勝てると考えていたことが恥ずかしいほど、圧倒的な力だった。

 そして、逃げた。

 だが逃げることすら叶わなかった。

 なんという、己の小ささよ。

 寝台に横たわったまま、馬霊が天井を見つめ、思う。

 喬道清(きょうどうせい)の声がした。

「目が覚めたか」 

 どっちの意味合いで言ったのかは、分かりかねた。

 馬霊が黙っていると、

「負けるはずがない。私は昔から思っていたのだ」

 独白するように、喬道清が小さな声で話し始めた。

 若き日の傲慢さ、葛藤、公孫勝への嫉妬。そして魔に見染められ、己こそが最強だと思いこんだ。

(うと)んでいたはずの弟弟子(おとうとでし)に救われるとはな」

 喬道清の言葉に、馬霊の頭に様々な思いが渦巻いていた。

 馬霊の傷が癒える頃、戴宗(たいそう)がやってきた。

 何をしに来た。復讐か。

 体中に巻かれた包帯が、自分よりも痛々しいではないか。

「あの法を、早く走る法を教えて欲しい」

 戴宗は真摯な目で馬霊を見つめた。

 驚いた。敵であった自分に教えを請うというのか。

 もう一度、戴宗が請うた。

 馬霊は、

「わしで良いのか」

 と聞いていた。

 梁山泊軍に残るには、充分な理由だった。


 田虎のこめかみ辺り、青い筋がぴくぴくと痙攣している。

 頼みの綱、馬霊が負けた。しかも報告によると孫安(そんあん)、喬道清まで梁山泊軍に加わっているという。

 この田虎のために華々しく散ったものだと思っていたが。とんだ恩知らずどもだ。

「お前もだ、(ひょう)。どうしてのこのこと舞い戻って来た」

 田豹(でんひょう)がびくりとして、肩をすくめる。そして田彪(でんひゅう)に、助け舟を求めるように視線を送った。だが田彪も部屋の端で気配を消していた。何かできるはずもない。

 軍議でも卞祥(べんしょう)だけが徹底抗戦を主張するが、他は皆、後ろ向きな意見ばかりだった。その中で、北方の(きん)国に投降してはどうかと誰かが言った時、卞祥の怒りが爆発した。

「何を弱気な事を。梁山泊軍はたった三万だ。こっちはまだ五万以上もの兵をかき集められるんだ。それに糧秣だって、たっぷり二年は持つ。向こうはそんなに耐えられんだろうさ。投降なんて事言ってると、ぶっとばすぞ」

 軍議の場が騒然とする。

 范権(はんけん)はここを機と見た。

「畏れながら、卞祥将軍のおっしゃる通りかと。奴らの勝利は、孫安たちの裏切りが原因です。いま襄垣(じょうえん)では葉清(しょうせい)将軍が有利に戦を進めています。ここで田虎さま自ら陣頭に立たれるならば、兵たちの士気は俄然上がり、勝利も間違いございません」

 満足げな表情の田虎。

 卞祥に将軍十名と兵三万を与え、西の盧俊義軍に向かわせる。

 さらに太尉の房学度(ぼうがくど)にも同じ編成で、楡社(ゆしゃ)(おもむ)かせる。

 そして田虎自らが十万の精兵を率い、宋江(そうこう)軍に当たる。

 田豹、田彪は、留守役として威勝に残すことにした。

「力の差を見せつけてやる。梁山泊め、髪の毛ひとつ残すものか」

 田虎が獲物を狙う猟師のの目となった。


 衛州(えいしゅう)を出、北へ進軍せよ。

 呼延灼(こえんしゃく)の元に、宋江からの軍令が届けられた。

 奇妙な風体をした馬霊という者が、伝令役であった。

「そうか、公孫勝が」

 梁山泊を狙う黒い気に対抗するため、衛州を出た公孫勝。その後の状況を知りたかったのだ。

 気の正体は兄弟子(あにでし)の喬道清。さらに目の前の馬霊も、公孫勝に敗れたという。

「盧俊義どのは汾陽(ふんよう)から東へ渡河し、介休(かいきゅう)へ進軍。宋江どのの軍は昭徳(しょうとく)潞城(ろじょう)を陥とし、襄垣の手前に布陣しております」

 そしてその襄垣には、張清(ちょうせい)安道全(あんどうぜん)間諜(かんちょう)として潜りこんでいるという。

 残るは威勝、いよいよ総攻撃だ。

「わかった。すぐに準備を整える」

 踢雪烏騅(てきせつうすい)(またが)り、呼延灼は背筋を伸ばした。

 遥か北を見つめ、高揚した。

 やはり軍人である。つくづくそう思った。

 途中で関勝(かんしょう)索超(さくちょう)らと合流し、楡社を目指した。威勝の北に位置する楡社を獲れば、包囲網が完成に近づく。

 しかし斥候の報告によると、すでに田虎軍が布陣しているという。その数、三万ほど。こちらはその半数と言ったところだ。

 進軍を止め、軍議を開く。

「どうする、関勝」

 と言い、許貫忠(きょかんちゅう)の地図の写しを広げた。楡社は左右を山に挟まれているため、至る道は一本で狭い。

 関勝が左右の山を示した。

「挟撃だろう。この策を取るだろうことは、敵も警戒しているはずだがな」

 呼延灼もそれしかないと考えた。だが正面から当たる兵が(おとり)となってしまうことだ。死地に送り込むようなものである。

 ならば、と呼延灼が名乗り出ようとした時だ。

「俺が正面から行こう」

 腕を組んで地図を見ていた唐斌(とうひん)が、言った。

「おっと、手柄を取られてしまっては敵わぬ。先鋒は、わしが行かせてもらう」

 索超だった。


※周謹の話を前で入れている前提? 

「面白い。ならば勝負と行こうじゃないか。まあ、負けはしないがな」

「望むところだ。受けて立とう」

 と索超が鼻息を荒くする。

「という事だ。正面からは俺と索超が行く。後は頼んだぜ」

 そう言って二人は準備のために隊へ戻って行った。

 微笑する関勝に、覗きこむようにする呼延灼。

「なんだか潞城の戦から気が合うようでな」

「いや、それよりいいのか。唐斌を行かせて」

「言い出したら聞かない男だ。それに」

「信頼しているのだな」

「ああ、やると言ったらやる男だ。そして索超もいる。それよりも、わしらの方こそ負けていられないぞ」

「そうだな。さあ、行こう」

 唐斌という男。関勝と旧知の間柄で、天王(てんおう)と呼ばれているという。

 かつて大刀(だいとう)の関勝と並び称されたその実力を、その目で見てみたいと思った。

 やはり兵が潜んでいた。挟撃は想定済みだったのだ。

 慣れない山間(さんかん)での戦いに、呼延灼も苦戦した。

 しかし、助けなどいらないかのような、唐斌と索超の活躍ぶりだった。

 守将の房学度を索超が討ち取ると、楡社軍が崩れた。

 さらに左右から、関勝と呼延灼が奇襲をかけると、戦いは数刻も経たずに終わった。

「さすが、ですよね」

 索超が言う。

 関勝と楽しげに話している唐斌を見ていた、呼延灼にである。

「唐斌どのがいなければ、危なかったかもしれません。敵将を討ち取れたのも、唐斌どのが他の兵たちを一手に引き受けてくれたからです」

「確かに。わしが攻撃に加わった時には、戦の終わりが見えていたからな」

「ですが、本人は認めないんですよ。手柄を横取りしやがって、なんて怒鳴られましたよ」

「ふふふ、面白い男だな」

 楡社に入城し、住民を宣撫した。

 兵と馬にとってはしばしの休息。

 関勝と呼延灼は、城壁から南を眺望していた。賑やかに酒を酌み交わしている唐斌と索超の声が聞こえてくる。

「いよいよ決戦だな」

「うむ。単廷珪(ぜんていけい)太原(たいげん)に向かっている。そこで李俊(りしゅん)らと合流する手筈だ。そこを獲れば後は威勝の田虎のみ」

 頷き合い、手にした杯を軽く合わせる。

 む、と関勝が天を仰ぎ見た。

 太陽はいつの間にか隠れ、厚い灰色の雲が広がっていた。

 雨が、降り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ