疾駆 一
甲馬を四枚貼り付けた、最速の神行法である。
もっと速く、もっと速く。いつもと違い、気持ちだけが先走ってしまっている。戴宗はそれに気づき、冷静になろうと努めた。
東京開封府へ行っていた。宿元景に書状を渡し、楽和と連絡を取るためだ。
二日ほどで蓋州に着いた。
戦があった。壺関を落ちのびていた山士奇が攻めてきていたのだ。
蓋州は防衛したが、杜興、施恩が共に負傷。捕らえた山士奇は、梁山泊に投降したという。
「おい、あんた。そいつをどこで覚えたんだ」
開口一番、驚いた様子の山士奇が食いついてきた。戴宗が言い淀んでいると、山士奇が続けた。
「いや、実はあんたと同じような術を使う奴が田虎軍にもいてね」
「なんだと。そいつは誰なんだ」
今度は戴宗が山士奇に詰め寄った。
神行法と同じような術。しかも、一日に千里を行く、だと。誇張だとしても、自分よりも上だ。
悔しい、と素直に思った。同時に、何者なのか確かめたい。そうも思った。その思いを隠しもせず、戴宗は急いだ。
昭徳府の宋江に一旦報告をし、今度は西の盧俊義の元へ向かう。
孝義県が見えた。もうすぐだ。
晋寧から北へ向かった盧俊義軍の足取りは順調と言えた。
陽城、沁水が住民の手によって、田虎軍から解放されていた事も大きく影響したのだろう。
ここ汾陽でもそうだった。
梁山泊という名に触発され、兵や住民たちが守将の田豹に対して、抵抗を示したのだ。そして田豹自身も大軍に臆病風を吹かせ、ほとんど戦う事もせずに遁走してしまった。
田豹は近くの孝義県へ逃げこもうとした。しかし梁山泊の駐留部隊に阻まれ、行き場を失ってしまった。
くそっ、と田豹が顔を赤くしている。
おめおめ威勝に逃げても、田虎に叱責されるのは見えている。どうしたものかと思案しているところ、彼方から土煙が迫ってきた。
追っ手か。まずい。
だがその軍勢は援軍だった。約三万の兵を率いるのは統軍の馬霊。
この馬霊、涿州の生まれで妖術を使う。二つの車輪をそれぞれの足に踏むことで、一日に千里を走ることができるため、神駒子と呼ばれていた。
さらに馬霊は八人の将を引き連れていた。そのどれもが、道衣のような僧衣のような衣装を纏った、妖しげな風体の者ばかりであった。
田豹は鷹揚に馬霊らを迎えた。
「いいところに来てくれた。梁山泊の奴らめ、忌々しい。わしも必死に戦ったのだが惜しくも破れ、ここで城を奪い返す算段を立てていたのだ」
「ご心配めさるな。私の力で取り返してみせましょう。では早速、汾陽へ」
「いや、待て」
田豹は少し考え、にやりとした。
「まずは孝義県だ。ここも梁山泊に寝返りおったのだ。わしを怒らせるとどうなるか、思い知らせてやらねばな」
孝義県の陳達と楊春が、慌ただしく出陣の準備をしている。
「なんだ、また来やがったのか」
「どうやら、援軍が一緒みたいだね」
まったく、と愚痴をこぼす陳達を、楊春が追った。
田豹が待ちかねたように首を伸ばした。
「来たぞ来たぞ。さあ、やっちまえ、馬霊」
「では。武能、徐瑾、行って来い」
「おい、馬霊。お前が行くんじゃないのかよ」
「あの程度の相手、私が出るまでもないでしょう」
馬霊は静かに言ったが、やや冷ややかな目だった。
ぞくりとした田彪は、そうだなと言うしかなかった。
武能と徐瑾が音も立てずに進んでゆく。田豹は、味方ながらその異様さに息を飲んだ。 対する陳達と楊春も、不気味さを感じていた。
「何だか変な奴らが出てきたぜ」
「気をつけろ。妖術でも使うかもしれないぞ」
武能と徐瑾が手で印を形作り、何やら唱え出した。
陳達が咄嗟に馬を駆けさせる。槍を構えた陳達めがけて、徐瑾が激しい風を起こした。陳達が腕で顔を防御するようにして耐える。
一方の武能も文言を唱え終えると、楊春に向けて両手を突きだした。突風に備えた楊春だったが、様子が違った。
頬が濡れた。
む、と楊春が顔を上げた途端、大粒の雨が降り注いできたのだ。
楊春の推測は当たっていた。武能と徐瑾、彼らは妖術を使う。二人は馬霊の弟子、人呼んで霊感王の武能、黄風王の徐瑾。
やってしまえ、と叫ぶ田彪の横で、馬霊は目を細めて見守っている。
「くそお、鬱陶しい風だ」
鎗を地面に突き立て、それに縋るようにして耐える陳達。止む事のない風に、陳達も我慢の限界だ。
しつこいんだよ。だが吹くだけで、他に手がないようだな。
そうとわかれば、と槍を掴んだまま体重を後ろにかける。槍が徐々に弓なりに反ってゆく。そして折れそうなほどになった時、陳達が足を浮かせた。
ぐん、と槍が戻る反動を利用し、陳達が中空に跳んだ。風から脱した陳達が槍を引きよせる。そのまま上から徐瑾に槍を繰り出した。
咄嗟に徐瑾が掌を陳達に向け、また文言を唱えた。突風が吹きつけたが、中空から迫る陳達を拭き飛ばすことはできない。
しかし槍の切っ先を逸らすには十分だった。間一髪のところで、陳達の一撃をかわし、徐瑾が態勢を整える。
地面から槍を引き抜き、陳達が唾を吐いた。
同じ手は通じない。
「さあて、どうしようかね」
苦笑いする陳達の頬に、ひと筋の汗が流れた。
まるで滝のようだ。
目の前にいるはずの武能の姿が、見えないほどだった。
空は雲ひとつない初春の陽気である。しかし豪雨が、楊春めがけて降り注いでいた。
ずぶ濡れになりながら楊春は、それでも機を探っていた。
だが、たかが雨。じりじりと武能の方へにじり寄ってゆく。
「たかが雨だ。そう考えているのだろう」
武能の声が聞こえた。思わず鼓動が高鳴った。
楊春が一歩、踏み出した。がくりと膝をついてしまった。
体が、重い。大桿刀を地面に突き立て、何とか立ち上がろうとする。
雨は短い間にも、確実に楊春の体力を奪っていたのだ。
楊春の様子をうかがう陳達に、徐瑾が囁く。
「仲間を助けなくていいのか。もっとも、自分で精いっぱいだろうがな」
「はん、心配なんざしちゃいねぇよ。あいつは白花蛇だ。蛇はしつっこいんだぜ」
「ほざけっ」
徐瑾が風の勢いを増した。
痺れを切らした田豹が叫んだ。
「おい、馬霊。こいつらなどどうでもいい。とっとと孝義県を攻撃してしまえ」
ちらりと田彪を見た馬霊が、無言で配下に指示を出した。
段仁、陳宣、苗成の三人が、それに応じた。だが陳達、楊春の部下たちがそれを阻止すべくぶつかった。
馬霊の配下で、武能と徐瑾だけが妖術使いだった。しかし段仁ら三人もそれぞれが鬼の一字を渾名に背負う者。梁山泊軍を押し返し、孝義県へと近づいてゆく。
くそ、どうする。威力を増した風に耐えながら、陳達が楊春を見る。
膝をついていたはずの楊春は、いつの間にか両の足で立ち、前へ進もうとしていた。その目はまったく諦めていなかった。
そうこなくっちゃなあ。陳達も風に逆らい、一歩前へと踏み込んだ。
その時、微かに馬蹄の音が聞こえた。唸る暴風の中でも、確かに聞こえた。
何か、来る。
駆けてきた五百ほどの騎馬が矢のように突進し、段仁たちを蹴散らした。
その先頭で馬を駆る龔旺が吼えた。
「よく持ちこたえたな。大したもんだぜ」
「お前たちが遅すぎるんだよ」
「へへ、言ってくれるねぇ。これでも急いだんだぜ」
と馬首を返し、龔旺が徐瑾に向かった。巨大な槍を肩に担ぐように構えながら、馬を走らせる。
くらえっ、と徐瑾めがけて槍を飛ばした。
徐瑾は片手を、その槍に向けた。風が槍を押し返そうとする。だが龔旺の放った槍は、勢いよく飛び続けた。
舌打ちした徐瑾が、両手を向けようとしたが遅かった。
龔旺の槍が目の前に迫っていた。
「くそうっ」
横に転がるように何とか槍を避けた徐瑾。
風が止み、陳達が嬉々として駆けた。
さらに五百の騎馬が現れた。率いるのは丁得孫だ。
丁得孫は、武能に向かって突っ込んでゆく。肩に飛叉を担いでいる。
武能はすぐに術を解き、逃げにかかった。
「はっ」
いつの間にか目と鼻の先に楊春が迫っていた。
馬鹿な。歩くことさえままならない雨の中、ここまで来ていたというのか。
楊春と目が合った。動けない。
楊春が大桿刀を横薙ぎに払った。
武能は、やはり動けない。
突如、楊春の額が割れた。
よろめいた楊春だったが、大桿刀を振り切った。武能の肩口が衣と共に裂け、鮮血が吹き出した。
膝をつき、額を押さえる楊春。何かが飛んできたのだ。
視界に、武能とは別の足があった。その足は、輪の上に乗っていた。
馬霊だった。
馬霊が何かを手にしている。先ほど飛ばしたのは、おそらくそれだ。
「楊春」
丁得孫が叫び、馬霊の背を目がけ飛叉を飛ばした。飛叉が当たる寸前、馬霊の姿が消えた。
殺気を感じた。見ると馬霊が、丁得孫と並走していた。駆ける馬と並んで走っているのだ。
飛叉の鎖を引き戻し、頭上で大きく旋回させる。もう一度だ。
だがそこに田彪の声がした。
「おい馬霊。そいつらよりも俺を助けろ。早く、早くしろおっ」
孝義県の梁山泊兵と、龔旺の配下が田豹に襲いかかっていた。
振り向いた馬霊は、少し田豹を睨むようにして踵を返し、まさに飛ぶように駆けた。
立ち直った武能と徐瑾も田豹の援護に向かった。さらに段仁たちも加わった。
龔旺、丁得孫は距離をとり、臨戦態勢を取っている。攻めてくるのか。
なにやら田豹が喚いていが、やがて敵軍はいずこかへと遁走していった。
楊春を抱きかかえるようにして、陳達が言う。
「まったく無茶しやがって」
「無茶は、お前だって一緒だろ」
楊春は疲労しきっていたが、笑みを浮かべていた。
「ともかく、なんとか間に合ったな」
そこに戴宗がいた。
孝義県を通りかかった際に異変を感じた。報告を聞いた盧俊義は、汾陽から龔旺らを援軍として送りだしたのだ。
しかし、
「あれが、あの男がそうなのか」
山士奇から聞いていた、一日に千里を走る馬霊という男。
輪のようなものに乗っていた。神行法とは違う術のようだが、確かに速かった。
戴宗は自分の足に括った甲馬を見た。
勝てるだろうか。いや。
神行法を覚えてから初めて味わう敗北感のようなものを振り払うように、戴宗が首を振った。




