玉石 三
見張りをしていた郁保四が摘みあげるようにして、男を連行してきた。
孫安に会わせて欲しいと、言ってきたというのだ。
その、孫安が告げる。
「襄垣の守将、葉清です。なかなか気概のある者と聞いております。一人で来たからには何か訳があるかと」
葉清は人払いを求めた。
「ここにいる者たちは兄弟、みな同じ心です。話してくれますか」
宋江の言葉に躊躇うが、ゆっくり口を開いた。
「孫安どのの言う通り、私は田虎軍に属しておりますが、心は別にございます」
田虎の叛乱で主人を殺された事。その娘である瓊英が、鄔梨の養女になった事。そしてその仇を討つために、仕方なく従っていること事。時おり涙を浮かべて訥々(とつとつ)と語った。
宋江は目を細めた。
「なるほど、あなたの義気はわかりました」
「彼の話に齟齬はございません。信じて良いかと」
孫安の配下、楊芳が言った。鄔梨の側近と楊芳が親しく、瓊英を引き取った経緯も聞いていたという。
「鄔梨は矢傷が悪化し、寝込んでおります。そこで医者を探すと言って出てきたのでございます。機は、今をおいて他にあるまいと」
医者か、と宋江が安道全を見やった。
孫安が口を開いた。
「私からもひとつ伺いたい」
「何なりと」
「瓊英の事だ。あの娘、武芸ができるとは知らなかったのだが、いつの間に修得したのだ。それに、あの技だ」
葉清の顔が少し曇る。
「私でさえ、にわかに信じ難いのですが」
「なんだ」
「夢に神人が出てきて、武芸を教えてくれたというのです。そして礫の技は、天捷の星というもう一人の者から教わったと」
「夢だと。たしかに信じ難いな」
宋江も訝しんだ。
だが実際に王英を破り、扈三娘といい勝負を演じるほど。さらに礫で、林冲を敗走させているのだ。
そこに高笑いが響いた。
「いやいや、これはまさに天の配剤ですな」
安道全だった。
笑う安道全の視線の先に、張清がいた。
話して良いな、という安道全に張清は躊躇いがちに頷いた。
「実は少し前から、張清がとある夢を見はじめましてな。それは、見知らぬ少女に武芸や礫を教える夢だったといいます。少女の顔も名も知ることはなかったのですが、葉清どのの話と見事に符合します。これはまさに奇縁と言う他ありません」
そして安道全は投瓜得瓊、瓜を投じて瓊を得、の自説を披露した。
反応したのは呉用だ。
「なるほど、これで得心しました。宋江どの、宜春圃で李逵が見た夢の話を覚えておりますか」
思い出した。李逵が天地嶺で出会った書生風の男に秘訣を教わっていたのを。
田虎の族を夷げんと要すれば
須く瓊矢の鏃と諧しむべし
葉清が咳き込むように言った。
「なんですって。あの子は礫の技から、瓊矢鏃と呼ばれているのです」
「これは秘訣の通りですね。これで、内側から田虎を攻める事ができます」
呉用が目を細め、羽扇をくゆらせ、安道全を見た。
「安先生、頼まれてくれますか」
「以前なら断るところだが、わしも梁山泊に来て、肝が太くなったようだな」
「そして張清もです。安先生にもしもの事が合っては困ります。しっかりと守ってください」
張清の心はまだ見ぬ瓊英に、思いを馳せていた。
葉清は張清を見ていた。
立派な青年だ。彼が天捷の星、か。
そう呟くと、納得したようにひとりごちた。
葉清が襄垣に戻った。
全霊という医者と、その年の離れた弟の全羽という者を連れていた。全霊は安道全、全羽は張清である。
さっそく鄔梨の元へ行く。脈をとり、傷を診る。持参した塗り薬をぬり、滋養剤を飲ませた。
三日と経たず血色が良くなり、食欲も戻ってきた。さらに五日もするとすっかり元気を取り戻した。
葉清はほっとした。瓢箪から駒ではないが、本物の医者を連れて戻ったのだ。しかも、正体はあの神医なのだ。
「さすが薛永の塗り薬だな。もう傷が塞がったわい」
「安先生が使ってくれて、薛永も嬉しいようですよ」
「おい、わしは全霊だ。気をつけろ。誰が聞いているか分からんのだからな」
「すみません」
と言っている側から、全霊を呼ぶ声があった。
鄔梨だった。
「先生のおかげで生き返りました。何とお礼を述べて良いのやら」
「医者として当然のことをしたまで」
「ご謙遜めさるな。あなたのような名医が埋もれているとは。やはり今の世は腐っておるな。待っていてください、じきに田虎軍が国を叩き潰してみせましょう」
「なんと頼もしい」
「それに、いま我らを攻めててている、小うるさい梁山泊もです」
その言葉に内心反応した安道全だが、顔には出さず、
「そう言えば、わしの連れの事です。薬の調合を任せておりますが、武芸の方も少々腕に覚えがあります。鄔梨さまの軍の端に加えていただければ、弟も喜ぶのですが」
さっそく全羽を部屋に呼びこんだ。
ほう、思ったよりも野趣味がある男だ。医者というより、確かに軍人向きかもしれぬ。
四日後の事である。
梁山泊が襄垣に攻撃を仕掛けてきた。
出陣の準備を整える中、全羽が鄔梨の前に出た。ぜひ自分を出陣させて欲しいというのだ。必ず梁山泊を蹴散らしてみせましょう、と自信に満ちた目をしている。
「ふざけるな、若造」
声を荒げたのは、葉清であった。
「昨日今日加わった新参者に、大事な戦を任せられる訳があるものか。腕に自信があるのならば、わしと勝負をしろ」
と槍を突きつけた。
「私は構いません」
鄔梨の許可を得、二人は演舞場へと赴いた。
ざわつく衆目の中、騎馬で向き合う葉清と全羽。
鄔梨は興味深そうな顔だ。そしてそこに瓊英の姿もあった。
両者が同時に駆け、槍の火花が散った。
勝負は互角で、五十合にも及ぶ打ち合いとなる。
はじめ葉清を心配していた瓊英だったが、おやと思い始めた。あの全羽という者、どこかで会った気がするのだ。しかもあの槍法も、自分と同じであるようだ。
そして思い至る。夢の中の、天捷の星。
ぼんやりとしか見えなかったが、あの人と似ている気がする。もしそうならば、礫の技を使えるはずだが。
葉清が気合を発し、攻め立てる。全羽が劣勢となった。
瓊英が思わず飛び出していた。
鄔梨が止める。
「どうした。いまは勝負の最中、危ないぞ」
「私が代わります」
葉清と全羽が通じ合っている事を、瓊英は知らない。だから全羽にもしもの事があってはと懸念したのだ。
そして、なにより確かめたい事があった。
礫である。
はっ、と瓊英が馬を飛ばし、戟を舞わす。受ける全羽。攻防を繰り返すたびに、夢の中の練習と重なってくる。
この技も、この技も。この槍を捻る時の、腕の癖も。夢と同じだ。
ならば。
瓊英が馬首を返し、全羽から離れた。
そして見えない位置で礫を取り出し、振り向きざまに放った。
礫が全羽の額めがけて飛ぶ。
しかし全羽は右手を引きながら勢いを殺しつつ、礫を受け止めてしまった。
これには鄔梨も葉清も驚いた。観衆も大きな歓声を上げた。
だが瓊英は二投目を放っていた。
全羽も礫を放った。
ふたつの礫は空中でぶつかり、弾け飛んだ。
観衆がさらに大きな歓声を上げた。
「お見事です」
「あなたこそ」
見つめあう全羽と瓊英。
鄔梨は思う。こ奴らがいればわしは安泰だ。いや、さらなる栄華を手にしても良いのではないのか。
馬霊、卞祥も抱きこめば、わしが天下を獲れるのではないか。そうだ、あの粗暴なだけの田虎など、王には似合わん。
わしが。わしこそが。
「全羽、そして娘よ。良い勝負だった。褒美を取らせる。酒だ、酒を用意しろ」
鄔梨が腕を組み、にんまりとした。
「鄔梨さま、あのようなどこの馬の骨とも分からぬ者。いかがなものかと存じますが」
口を挟んだのは金真。鄔梨の側近である。
「見たであろう、実力は本物だ。不服ならお前が試してみても良いのだぞ」
「いえ、不服など」
言いながらも金真は不満そうであった。その目は瓊英をしっかりと捉えていた。
「お前も飲め。祝いの酒だ」
杯を空けた金真だったが、酒の味は微塵も感じなかった。
全羽の活躍で、梁山泊軍は五陰山の向こうにまで撤退した。
鄔梨は上機嫌で勝利の宴を開いた。
その席で葉清が奏上した。全羽は、瓊英に似合いの者ではないかと。その言葉に、鄔梨も思い出した。先だって婿を探そうとしていたのだ。
だが瓊英は、
「私と同じくらい礫のできる人でなければ嫌です」
と静かに言っていたのだ。
ああ見えて芯の強い娘だ。そう決めたなら貫き通すのだろう。あの時は、さすがの鄔梨も諦めるしかなかった。
だが、どうだ。同じように礫を使う、全羽が現れた。
これが機というものだ。
かくして全羽と瓊英は夫婦となった。
ひとつの部屋で向かい合って座っていた。
全羽は気恥ずかしげに、壁や天井と徒に目を走らせている。
瓊英は顔を真っ赤にして、ただただ俯くのみであった。
永遠とも思える時が流れたのち、全羽が口を開いた。
「まずは話さなくてはならない事があります。どうかお聞き下さい」
瓊英の言葉を待たず、全羽は続けた。
「私の本当の名は、張清と申します。梁山泊から、参りました」
ぴくりと瓊英の眉が上がった。だがその目は続きを促すようであった。
張清が真相を明かす。
全霊も安道全という梁山泊の医者であり、葉清が梁山泊陣を訪れたこと。作戦が露見しないように、瓊英にも伏せていたのだということ。
そして夢の話。
張清も想いを寄せていたと、はにかみながら告げた。
「隠していて、すみませんでした。それでも私と一緒になってくれますか」
「そうですね。黙っていたのは、少し許せません。でもおじ様の優しさでもあるのでしょう。それに、あなたはどんな名であろうと、あなたです。やっと会えたのですね」
「ああ」
二人の影がひとつになった。
睦みあう二人がどんな事を囁き合ったのかは、誰にも分からない。
二日のち。
鄔梨が突然死んだ。
全霊こと安道全が駆けつけた時には、すでに脈は止まっていた。
「やはり貴様たちか、毒を盛ったのは。俺は始めから怪しいと睨んでいたんだ」
叫んだのは金真であった。
「何を馬鹿な事を」
「馬鹿な事だと。馬鹿な事をしたのはお前だろう」
金真の目が、言葉とは裏腹に笑っていた。
くくく、いい顔だ。そうだ爺い。言う通り、殺したのはお前じゃない。気に食わなかったんだよ。お前たちが来なければ、瓊英は俺のものになったのだ。鄔梨も鄔梨だ。田虎の威を借る狐のくせに威張りくさりやがって。
さあ、兵を呼ぶとしよう。今からこの俺が、この城の守将だ。
叫ぼうとした金真の口が塞がれた。
背後から伸びた腕に、小刀が握られているのが見えた。それが金真の首を切り裂いた。
「大丈夫ですか、先生」
全羽こと張清だ。
「薬がほとんど盗まれていたのです。こいつだったのですね」
「そのようだな」
首から血を溢れさせ、金真は息絶えた。
この危難に際し、葉清は決断した。
鄔梨の死、そしてそれは金真の犯行である事を一同に報せ、そしてこれから襄垣は梁山泊に降伏すると宣言した。
抵抗は、鄔梨に近い者を除けば、ほとんど無かった。
葉清に対して、その経歴を含め好意的な者が多く、さすがは徹仁番頭と褒めそやす声まで上がった。同時にそれは田虎から兵たちの心が離れていた事の証左ともなった。
襄垣を瓊英、張清に任せ、葉清は威勝へ赴いた。
瓊英と全羽の婚儀そして、彼らが昭徳府奪還のために奮戦しており有利な戦況であると報告するためだ。さらに鄔梨は、病気で療養していると報告した。
「そうか頼もしい味方が加わったな。褒美を取らせよう。義兄どのにも、早く良くなるよう伝えてくれ。お前たち、この葉清を見習え。今度、負けの報告を持ってきた者は容赦せんぞ」
と、田虎は満悦気味だった。
その夜、葉清は都督の范権と会った。
元庄屋の范権は、器量良しの娘を田虎に差しだして今の地位を得た。鄔梨と似たような輩である。
范権の自室。卓の上に輝く金子が積まれていた。
「これは何だね」
「お好きだと聞いておりましたが、違いましたか」
と葉清が片付けようとするが、范権は慌てて止めた。
庄屋出身なだけに、金は大好物だ。
「まあ、待ちなさい。出しっ放しは危険だと言ったのだ。わしの行李にしまっておこう。良いな」
葉清は答えず、にやりとだけした。
「お願いがあって参りました。些少ですが、これは口止め料でございます」
「続けてくれ」
「范権さまは機を見るに敏なお方と存じております。そこでお話しするのですが、田虎さまの権威はもはや風前の灯火かと」
「おい、滅多な事を」
と立ち上がり、人の気配を探る。
「大丈夫ですよ。人払いはしております」
「周到だな。で、どういう事だ」
「実は鄔梨さまは、もう亡くなられております」
范権がまた立ち上がった。
葉清は静かに顛末を語った。
「梁山泊軍が破竹の勢いなのはご存じのはず。范権さまのこと、この先、どのような展開になるかは感づいておられるかと」
范権は冷や汗を流す。
鈕文忠、山士奇が敗北。さらに唐斌、孫安、喬道清までも裏切ったのだ。そして葉清と瓊英もである。
「わしにどうしろと」
「お話が早い。范権さまにもご協力してほしいのです。田虎軍の情報を、梁山泊に流してくれるよう」
目を瞑り算段をする。
確かに残るは、この威勝と周辺だけだ。それに援軍に向かった馬霊が敗れれば、いよいよ負けが濃厚となる。国に叛逆した者は死罪。ならば梁山泊に協力していた事で、恩赦を得られるかもしれぬ。それに万が一、田虎が盛り返したならば、この密談は無かったことにしておけばいいことだ。
「よし、承知した」
「それでは、頼みましたよ」
葉清が去った。
誰が呼んだか徹仁番頭か。わしのところにも、あのような者がいたら。
范権は行李を除き、金子を確かめた。
今起きた事は、確かに現実であった。




