玉石 二
瓊英に会える嬉しさで、葉清は心が浮き立っていた。
襄垣から五百ほどの兵を率い、出迎えた。
妻からの便りで安否は聞いていた。だがなんと立派に成長したものか。実際に目の前にすると、涙が溢れてしまった。
抱き合い、しばしその時を噛みしめる。
「元気そうだな」
「おじ様も」
「立派な姿だ。まさか武芸を嗜んでいたなんて。しかし、お前を戦に巻き込みたくはないのだがな」
ふふ、と瓊英の蕾のような唇がほころんだ。
「なにが可笑しいのだ」
「だって、おば様と同じ事を言うものだから」
そうかと笑い、葉清は鼻の奥がつんとなるのを感じた。
だが瓊英が神妙な顔つきになる。
「うまい具合に虎穴から出ることはできたものの、後から鄔梨も参ります。逃げることは難しそうです。それに悟られてしまっては元も子もない、と躊躇っていたところなのです」
「私の方でも、なんとか手立てを探っているのだが」
喜びの再会も束の間、重苦しい空気となってしまった。
そこへ、梁山泊軍襲来の報。
瓊英の表情が変わる。
「行きます。おじ様は襄垣の守備を」
うむ、と頷く葉清。
凛としたその背をしばし見守っていた。
王英と扈三娘が馬を並べている。襄垣への斥候隊を率いていた。
王英がどこか落ち着かない顔をしている。眉をぴくぴくさせたり、眼をぎらぎらさせて、絶えず周囲を睨みつけている。
「どうしたのよ、おかしな顔して」
「敵がいつ来るかわからねぇだろうが」
扈三娘の言葉に、王英が吠えた。
扈三娘は呆れたような顔をした。
「あんまり肩肘張ると、いざという時しくじるわよ」
「なんだと」
舌打ちをし、眉根を寄せると、横目で扈三娘を見る。
扈三娘は、言葉通りに落ち付いていた。静かに周囲を見回している姿は、思わず見とれてしまうほど優雅で、美しかった。
その美しい眉がぴくりと動いた.
「敵よ」
「わ、わかってら」
襄垣から数里の所、五陰山の北に敵陣。田虎軍の旗が見えた。
王英は馬を飛ばした。
「見てろ、先手必勝だぜ」
「あっ、待ちなさい」
という声も届かず、王英は槍を構えて突進してゆく。
仕方ないという顔で扈三娘も後を追った。
梁山泊の斥候が仕掛けてきた。
瓊英は馬に乗り、待った。
胸が早鐘のように鳴る。
手綱を掴む手が震えていた。ぐっと力を入れ、何とか堪える。
これが、戦なのね。
喉が急に渇いてきた。
敵が迫る。相手から伝わってくる殺気に、再び手が震え出す。
突進してくる梁山泊の斥候の目が、自分を捉えている。
悲鳴が漏れそうになった。
気付くと右手が、腰の袋に重ねられていた。夢の中での修業を思い出す。
「天捷の星さま」
と唱えるように呟くと、肩から力が抜けるのを感じた。
「行きます」
兵たちに告げ、馬を進めた。いや自らを鼓舞していたのかもしれない。
敵陣から進み出てきた瓊英を見て、王英が目を剥いた。
「あれは、女か」
しかも美貌の持ち主だ。
鼻息も荒く、王英が突っ込んだ。瓊英は戟で迎え討つ。
瓊英が颯々(さつさつ)と槍を捌く。思わずたじろいだ王英だったが、なおも食い下がる。
神人に武芸を授けられた瓊英だったがこれが初陣。場数で勝る王英に、次第に押され始めてしまう。
「へへ、観念するんだな」
優勢になった王英。よく見るとまだ年端もいかない少女ではないか。こんな少女を前線に送るほど田虎軍は窮しているのか。
王英はぐいっと馬を寄せ、瓊英の腕を掴んだ。
もう田虎のために戦うことはない。
そう言おうとしたが、
「不埒なっ」
瓊英は顔を真っ赤にさせ、力づくで王英の腕を引きはがした。そして戟を回し、王英に突きを放った。
「痛ってえ」
戟は太腿を貫いた。落馬した王英に、田虎軍が押し寄せる。
しかしそこに、扈三娘が立ちはだかった。
王英に逃げるよう言い、瓊英と対峙した。
「覚悟なさい」
冷たい瞳が瓊英を見据えた。
この人、強い。瓊英は直感した。だが引き下がるわけにはいかない。戟を構え、扈三娘に突っ込んだ。
驚いたのは扈三娘だ。この娘、幼いように見えるがいっぱしの武芸を使う。
しかし、まだ未熟ではある。
扈三娘の二刀が、戟を颯々と捌く。
戟が届かない。瓊英の顔が、疲労と焦燥で歪んだ。
「ええいっ」
瓊英が戟を思いっきり振り上げるように薙いだ。一旦、距離を開けた瓊英はそのまま馬首を返し、逃げだした。
させるものか。扈三娘は太腿に力を入れ、馬を駆けさせた。
すぐに距離が詰まる。馬術はそれほどでもないようだ。
む、と扈三娘が違和感を覚えた。なにかがおかしい。
逃げる瓊英の右手が腰のあたりに伸びた。
はっと違和感の正体に気付いた。得物を左手に持っているのだ。
半身になった瓊英の目が扈三娘を捉えていた。右手がこちらに向けられていた。
これは。わざと逃げていたのか。
扈三娘は無理やり上体を傾いだ。だが鈍い音と共に、右腕に激痛が走った。辛うじて、刀は落とさなかったが、瓊英を追うことはそこで断念した。
今のは。まさか。
いや、やはり、今のは礫だ。
張清が使うような、礫だった。
宋江らの軍が到着した。
扈三娘らの戦闘を発見し、林冲と孫安が合流してきた。騎兵を率い、風のように駆け抜ける。
「私が行く」
言うと同時に林冲が前に出た。
敵を見て、林冲が眉をしかめた。若い女か。
だがすぐに思い直す。扈三娘が仕留めきれなかったのだ、それほどの相手という事だ。
瓊英が林冲に気付いた。その視線だけで、心が折れそうになる。
「父上、母上」
と呟き、そして天捷の星さま勇気を、と加えた。
林冲が突きを放つ。瓊英が戟で軌道を逸らす。体中が痺れる。
打ち合いでは到底敵わない。そう判断し、礫を探ると、林冲めがけて放った。
礫、だと。
一瞬、対応が遅れたが蛇矛を回し、それを弾いた。しかし、すぐに二投目が迫っていた。
間に合わない。林冲は体を捻るように避けた。
はずだった。
ふいに礫が、軌道を変えた。
「なにっ」
林冲を追うように曲がった礫が額に命中し、鮮血が飛び散った。
「林冲」
孫安が叫ぶ。
あの少女は鄔梨の娘、だ。何故ここにいる。武芸を修めていたなど聞いてなどいない。それに何だ、今の技は。
林冲が額を押さえ、その場から離れる。孫安が入れ替わろうとした時、背後から喊声が聞こえてきた。
梁山泊歩兵隊だ。中央で李逵が吼え猛っている。
「わははは、どけどけぇ。おいらに任せとけ」
田虎軍がぶつかるが、李逵の両手の板斧で、次々と倒されてしまう。返り血を浴びながら吼える李逵は、まるで鍾馗のようだ。
瓊英が礫を飛ばした。
礫は真っ直ぐ飛び、李逵の額を割った。顔をのけ反らせた李逵だったが、流れた血をぺろりと舐めて、また駆けだした。
瓊英は戦慄しながらも、再び礫を放つ。
二つ、三つ、四つ。すべて李逵の顔面に当たっているのだが、まったく怯むことなく向かって来る。
「下がるのだ、娘よ。後はわしが引き受けよう」
援軍を率いて到着した鄔梨が咆えた。
助かった。瓊英は素直にそう思った。
鄔梨が大潑風刀を回し、梁山泊の歩兵軍を蹴散らし始めた。李逵が奮闘しているものの、敗色が濃くなってくる。
そこへ孫安が突っ込んだ。
「お前たちは歩兵を援護しろ。私は鄔梨を」
梅玉、秦英ら部下たちに命じ、馬を飛ばす。
田虎軍は逡巡した。
孫安の姿を見て、援軍かと思ったのだ。鄔梨も同じだった。
「孫安、梁山泊に敗れたと聞いていたのだが」
「ええ、敗れましたよ」
孫安の刀が鄔梨を襲った。咄嗟に撥風刀で防ぐ。
「何の真似だ」
「梁山泊に降りました。よって、今は敵同士です」
さらに二手、三手と鋭い攻撃を繰り出す孫安。流石の鄔梨も、武芸では敵わない。
鄔梨の援護に唐顕が援護に入った。
だが、
「鄔梨さま、ここは」
と言い終わらぬうちに、唐顕が一刀の元に斬り伏せられてしまった。
この隙に鄔梨は後方へと退いた。
逃さぬ。孫安が馬の向きを変えた時だ。
殺気を感じた。
反射的に防御の態勢をとる。肩口に衝撃と、そして痛みを感じた。
矢か。いや違う。足元に石が転がっていた。攻撃の方向を見やると、彼方に瓊英がいた。
あの技か。面白い。
神話、伝承、奇書に造詣の深い孫安である。刀さえ手にした事のない少女が突然強くなっていようと、なにも不思議ではない。
むしろ興味さえ覚え、瓊英に向けて駆けだした。瓊英の側に鄔梨がいた。これは好機。
しかし、
「歩兵の損傷が大きく、もう持ちません。深追いはまずいですぜ」
馮昇が側に寄り、注進してきた。
歯噛みする孫安。
「くそっ、逃がすかよ」
陸清が弓矢を構えた。
矢は勢いよく飛び、鄔梨の首筋に命中した。鄔梨は悲鳴をあげ、落馬した。
「やったぞ」
陸清がが手を叩いて喜ぶ。
退却の鉦が鳴った。
鄔梨を守るように、田虎軍が撤退を始める。
それを見やり、孫安は追わず、歩兵の援護に向かった。
林冲が本陣に帰還してきた。額に巻いた包帯が赤く染まっている。
待機していた張清は驚いた。林冲ほどの手練を負傷させるなど、どんな相手なのか。
林冲が言った。
「張清、お主と同じ技を使う者がいた。それも若い娘だ」
「なんですって」
張清はそれ以上言えず、すぐに宋江の元へと駆けた。
すぐに前線へ出なければ。その少女がいるならば、会いたい。いや、会わなければならない。
激しい衝動に突き動かされ、張清は馬を飛ばした。
だが到着した時には、すでに田虎軍が撤退した後であった。
返り血で真っ赤な李逵が意気揚々と引き揚げてきた。
「おう、遅かったな。もう終わったぞ」
ああ、とだけ張清が答えた。
「なんだい、変な奴だな」
張清の目は襄垣に据えられていた。
そこに見えた。
確かに、瓊の文字の旗が見えた。
あの少女がいる。夢の中の少女が、ここにいる。
張清の目はいつまでも襄垣から離れなかった。
「すまない、入るよ。具合はどうだね」
葉清が部屋の外から声をかけた。ゆっくりと戸を開ける。
部屋の隅で、瓊英が膝を抱えていた。顔を上げると、目の縁が赤くなっていた。今まで泣いていてのだろう。
「大丈夫です」
そのはずがない。武芸を身に付けたといっても、戦など初めての、十六の娘だ。こんなところに来るべきではなかったのだ。
それでも瓊英は笑顔を作ろうとする。
「仇を討つために、来たのです。覚悟はしていました。それに、あの人の事を想うと」
あっ、と瓊英が口を隠すようにした。みるみる顔が赤く染まっていく。
訊ねると、瓊英は恥ずかしそうに語り始めた。
「なるほどな。それで武芸を身に付けたという訳か。そして礫も」
「はい。あのお方が、仇討ちに力を貸してくれているようで、勇気が湧くんです」
どうやら天も味方しているようだ。この子のためにも、仇討ちを成功させなければ。なんとしても、だ。
「とにかく。今日はゆっくり休むと良い」
「そうします」
部屋を出た葉清は眉間に皺を寄せ、しばし考えた。
戦の場に、孫安の姿があったという。梁山泊に敗れたと聞いていたが。
ならば、今しかない。
そう決意すると、襄垣から姿を消した。




