玉石 一
田虎がこめかみに青筋を立てていた。
床には割れた杯がいくつも散乱している。
敗北の報告ばかりだった。そのたびに、田虎は杯を叩き割っていた。
居並ぶ部下たちも恐怖に怯え、肩をすくめるばかりだ。
そこへ田彪が転がり込んできた。
「何事だ、彪。どうしてお前がここにいる」
「兄貴ぃ、すまねぇ。梁山泊の連中が晋寧を奪いやがった」
「馬鹿な。孫安を向かわせたのだぞ」
次の報が届けられる。
なんと孫安だけではなく、昭徳の喬道清まで敗れたというのだ。
梁山泊は二手に分かれ、一方は晋寧から汾陽へ。もう一方は昭徳から威勝へ進軍しているという。
田虎の顔が赤くなり、髪まで逆立つ勢いだ。田彪さえ口を閉じ、首をすくめた。
だがそんな中でも、薄く笑みを浮かべている男がいた。
鄔梨である。田虎も自分にだけは、強く出られない事を知っているからだ。
「田虎さま。梁山泊が攻勢に見えるのは、先制が上手くいったからにすぎません。兵力はこちらが断然勝っており、精強な将軍がまだまだ控えております。田虎さまは、我らに任せて大きく構えていてくれれば良いのです」
「その通りだ、国舅どの。少し取り乱してしまったな。して、誰が梁山泊に地獄を見せてくるのだ」
「わしが汾陽に向かいます」
統軍の馬霊が進み出た。
続いて鄔梨が、一歩前に出た。
「畏れながら、推挙したい者が一人おります」
「ほお、それは一体誰だ」
「我が娘にございます」
鄔梨の娘が先鋒として出陣する。
威勝の南に位置する襄垣にも、この報が届いた。
守将の葉清は眉間に皺を寄せた。
「娘だと。あの子は、お前の娘ではない」
旦那さまの、大切な娘だ。
そう呟くと口を真一文字に結び、天井を見上げた。
目を閉じ、思い出す。目の端から涙が流れた。
十数年前、葉清は汾陽府介休県の綿上にいた。そこの仇申という富豪の番頭として仕えていたのだ。
仇申は子に恵まれていなかった。妻を亡くしており、齢も五十すぎだ。そこで後添いを取ったところ、ついに娘が生まれた。
瓊英と名付けられた。仇申夫妻は、瓊英をまさに目に入れても痛くないほどに可愛がった。
瓊英が十歳の時である。妻の父が亡くなった。
仇申夫妻は葬儀に向かうため、瓊英を葉清に預けた。
「すぐに帰ってくるからな」
仇申は瓊英を抱きしめて言った。だがその言葉が叶うことはなかった。
山賊だ。
仇申は殺され、妻の宋氏は攫われてしまった。宋氏の生死は分からないままだった。
葉清は瓊英を抱きしめ、痛哭した。
その後、仇申の親戚が家業を継ぎ、瓊英は葉清夫婦に育てられることになる。
この子を立派に育てます。亡き主人の墓前で誓ったが、平穏な時は訪れなかった。
田虎が叛乱を起こしたのである。
威勝が占領され、綿上にまで鄔梨の軍が押し寄せた。仇申の店は破壊され、店の者も殺された。
略奪の限りを尽くす鄔梨の目に、瓊英が映った。
「なんと玉のような娘だ」
子がなかった鄔梨は、瓊英を欲した。
葉清夫婦に抱きついて離れない瓊英。
「その娘をよこせ。さもなくば」
血の付いた刃を振りかざす鄔梨。だが一層、瓊英は葉清から離れようとしない。鄔梨を睨みつける葉清。
「この子は、亡き主人の忘れ形見。お前のような者に渡す訳にはいかない」
葉清が、射抜くように鄔梨を見据えた。
気に食わない。金はおろか、いくら刃で脅そうが、決して退かない目だ。一番面倒な人間だ。
だが。
ちらりと瓊英を見て、言う。
「わかった。では、お前も連れて行く。文句は言わせない」
鄔梨の妻は瓊英をひと目で気にいった。まさに掌中の玉のごとく可愛がった。また瓊英の頼みで、葉清の妻である安氏が側で仕える事となる。
葉清は瓊英を連れて逃げようと何度も考えたが、とても叶わぬ事がわかった。そして、瓊英が生きるためと決め、田虎軍となるのであった。
やがて葉清が手柄をたててゆくと、妻との交流ができるようになり、瓊英の様子も知れるようになる。瓊英はまだ幼いが、己の状況を理解していた。じっと我慢する瓊英を思い、葉清は胸が締め付けられる思いであった。
鄔梨の命があり、葉清は石室山へと向かった。
威勝の北西は太原にある山で、良質な石材が採れる事で有名だった。
いざ作業を始めようとした矢先。雲ひとつない空にも関わらず、突如雷鳴が轟き渡った。 雷鳴は一度きりだったが、丘の麓が騒がしくなった。
「何事だ」
葉清が駆けつけると、人工たちが何人か倒れていた。息はあるようで、気を失っているようだ。
「雷にでも打たれたのか」
「いえ、あれを」
部下が示した場所に、白い石が鎮座していた。近づかないようにと、葉清が止められた。
「あの石を採ろうと近づいたところ、雷鳴が。そして気絶して倒れてしまったんで」
遠目に見ても美しい石だった。傷ひとつないように見える。
また叫び声が上がった。
なんと石が、変化していた。
部下たちが驚き慄く中、葉清の目からは涙が流れていた。
そこに仇申の妻、宋氏の姿があったからだ。
何故、どうして。だが間違うはずもない。
行方が分からなくなっていたが、まさか。
「奥様」
思わず呟いていた。
葉清の側で、異常なほどに怯えている者がいた。
「じょ、成仏を。なにとぞ成仏を」
「お前、何か知っているのか」
男は田虎の馬丁をしていたという。男は声をひそめて、葉清に語った。
三年前の事だ。
田虎が挙兵した時に、ある女を攫ってきた。
田虎は女を気に入り、第二夫人に据えようとした。女は観念したように見えた。だがこの石室山を訪れた時、逃げだして崖から身を投げたのだという。
「その女性は、どこで攫われたのだ」
「確か、綿上だと」
「なんだと」
雷に打たれたようになる葉清。
やはり、奥様だった。田虎に攫われていたとは。
唇から血を流すほど噛みしめ、拳を戦慄かせた。
必ず、田虎に復讐を。
改めて葉清は決意するのであった。
その後、宋氏の亡骸を埋葬しようとしたが、そこには元の白石があるだけだった。
瓊英は声を上げずに泣いた。
葉清の妻、安氏から母親の消息を聞いたのだ。
気丈な子だ。抱きしめる安氏は思った。許さない。瓊英を、こんな運命に巻き込んだ田虎を許すものか。安氏は、瓊英をさらに強く抱きしめた。
鳴き疲れて眠ってしまったようだ。安氏は瓊英を寝台に運ぶと、そっと部屋を出た。
瓊英は夢の中にいた。
うっすらと靄がかかっており、場所ははっきりとは分からない。
その靄の中に人影があった。
「親の仇を討ちたいのか」
目の前に現れた男が静かに言った。どこか人間離れした、神人のような感じがした。
瓊英は迷わず、首を縦に振った。
「よろしい。ではそなたに武芸を授けよう」
その言葉通り、夜ごと夢の中に神人が現れ、瓊英に武芸を教えた。
瓊英は目を覚ましても覚えており、鄔梨の目を盗んでは稽古をした。もともと聡く賢かった瓊英はみるみる武芸の腕を上げていった。
やがて幾年かが過ぎた。
いつものように夢の中で神人にまみえる瓊英。
「そなたの精進は目を見張るものがあった。もはや私が教えられることはない」
「そんな、神人さま。もっと技を教えて下さい。両親の仇を、憎き田虎を討つため、力を」
「慌てるでない。別の者を連れて参った」
神人の背後から、ひとりの男が姿を見せた。顔は、やはり霞んでいて見えない。
「この者は天捷の星だ。異なる技を使いこなす。お主にぴったりだと思ってな」
天捷の星が、薄く笑みを浮かべたようだった。
目を覚ますと、顔が熱かった。
今は冬。体を冷やしてしまったかと思ったが、違った。天捷の星を思い出すと、顔が火照るようになるのだ。何だか落ち着かなくなり、部屋から出た瓊英。気付くと、手頃な大きさの石を手に取っていた。
そしてそれを屋根に向かって投げた。
天捷の星から授かったもの、それは石礫の技だった。
瓊英の放った礫は、見事に屋根瓦に命中し、激しい音を立てた。
驚いたのは猊氏だ。
気まずそうな瓊英と、砕けた瓦を交互に見やる。
「一体何をしたのです」
仕方なく、瓊英は打ち明けた。
ただし、父代わりの鄔梨を手助けして功を成すために神人が教えてくれた、という内容に変えて。
その言葉に鄔梨は飛びあがらんばかりに喜んだ。
「やはり神が私に遣わせてくれた娘だった」
瓊英はそれからも腕を上げていき、礫に至っては百発百中の手並。まさに矢のような礫から、瓊英はいつしか瓊矢鏃と呼ばれるようになった。
しかしある夜から夢の回数が減ってゆく。
三日に一度となり、さらに五日に一度と間が開くようになっていった。
目覚めた瓊英は不安を覚える。このまま夢を見なくなってしまうのではないか。
そしてある夜、夢で神人に告げられた。
「稽古は今日で終わりだ。天捷の星も、技をすべて伝え終えた」
「待って下さい。私はまだ仇を」
「その時は、必ず来る。ゆめ精進を怠らぬように」
「あの、あ、ありがとうございました。えと、あの」
「どうした」
「いえ、その、あの」
瓊英の顔が熱くなる。
はたと気付いた神人が言った。
「天捷の星とは、いずれまた見えよう。向こうも会いたがっておるようだしな」
また会える。
目覚めた後、瓊英はその言葉を何度も呟いていた。
出陣の時が迫った。
「立派よ。でも、あなたを戦になど出したくないわ」
甲冑を纏った瓊英を見て、安氏が目を潤ませる。
「心配しないで、おば様。仇を取るまでは、生き伸びてみせるから」
その気丈な言葉に、安氏の胸が痛んだ。
「ところで、おじ様は。最近様子を聞かないけれど」
「あの人は襄垣に派遣されているわ。あなたが向かうと聞いたら、きっと驚くのではないかしら」
「うふふ、おじ様に会えるのが楽しみです」
葉清は半年前に派遣され、襄垣を守っていたのだ。
腰の袋にそっと手をやる。中には礫が入っている。
ひとつ取り出して、握ってみた。
夢を思い出す。
天捷の星の一挙手一投足を覚えている。
「行ってまいります」
瓊英の声は、希望に満ちていた。