伏竜 四
長い夢を見ていた。
起き上がろうとしたが、体が悲鳴を上げた。
それでも孫安は無理やり上体を起こした。
「目が醒めたかい。俺は鄧飛という」
寝台の側に男がいた。目の赤い、獅子のような印象を受けた。
思い出した。梁山泊に、玉麒麟に負けたのだ。
配下たちはどうなった。訪ねる前に鄧飛が言った。
「三人。あんたを取り返そうとした」
「そうか」
孫安はそれだけ言い、口を閉じた。
翌日、盧俊義が目を覚ました。
しばらく安静にという燕青の言葉を退け、孫安を呼んだ。
「一度の勝負で、二度負けるとはな」
「わしも一度負けている」
「慰めはやめてくれ。はじめの負けで勝敗は決まっていたようだな。さあ、首なり何なり獲るが良い」
爽やかに孫安が言った。
楊志、欧鵬といった面々が盧俊義を見る。
「聞きたい。何のために田虎の下で戦っていたのかを」
ふう、と長いため息をついた孫安。
天井を見上げ、遠くを見つめるような目になった。
「世直しだ。お主たちなら分かるだろう。この国の上に立つ者たちは腐っている。そいつらに虐げられる民のため戦っている」
「そして、田虎軍に」
孫安が目を少し伏せ、盧俊義を見た。
「田虎の腹心とつながりのある奴がおってな。それを頼って行った」
それに、と孫安が続ける。
「山東と河北、二つの勢力が民のために戦えば、目的もより早く達せられる。そう考えたからでもあった。しかしお主たちは、梁山泊は招安を受け、敵となった」
「そうだ。しかし目的は変わっておらん。我々は奴らの軍門に下った訳ではない」
盧俊義は決然とした目で孫安を見据え、続ける。
「しかし田虎は、当初の目的を踏み外し、ただの賊徒と成り果てていった。違うか」
孫安は奥歯を噛みしめた。
その通りだ。
認めたくはなかった。自分の決断は間違っていなかったのだと。
「だから、わしに負けた。わしの腕が上だったのではない。思いの強さが上だったのだ」
孫安の閉じた目の端から、涙が流れ落ちた。
そして父母の優しい顔が浮かんだ。
孫安が、ひとつ提案をした。
「私を昭徳に行かせてくれないだろうか。昭徳では喬道清が戦っている。奴とは同郷で、共に同じ思いで戦ってきたのだ。説得したい」
「できる、のか」
「しなければならんさ」
そう言って孫安は晋寧を出た。
「奴を信用するんですかい」
「うむ。孫安の目に、嘘は感じられなかった」
鄧飛の疑念に、盧俊義が答えた。
「まあ、戦った盧俊義どのがそういうなら、信じるしかありませんや」
不満そうな口調とは裏腹に、鄧飛の顔には笑みが浮かんでいた。
部下の元に帰還した孫安。
「私は敗れ、梁山泊に降伏した。お前たちとはここで別れる。これまで私に付いてきてくれたことに、本当に感謝する」
背を向けた孫安だったが、誰ひとり去ろうとはしない。
「ずいぶん冷たい事言うじゃねぇか」
え、と孫安が顔を上げた。
姚約が腕を組み、にやにやとしていた。額には包帯が巻かれていた。
「姚約、お前」
「死んだって思ったのかい。生憎、こうしてぴんぴんしてますぜ。ちっと額の皮が破けた程度さ」
陸清そして秦英の姿もあった。怪我を負っているが、生きていたのだ。
孫安の胸に熱いものがこみ上げた。眦に涙が浮かぶ。
確かに、死んだとは聞いていなかった。梁山泊の連中め。
馮昇が言った。
「という訳です。俺たちはあんたについて行くだけだ。さあて、どこへ行くんですかい」
「すまない。いや、ありがとう」
孫安の目がいつもの目に戻った。そして一同に向け、檄を飛ばした。
「喬道清の元へ、昭徳府へ向かう」
おう、と一同が呼応した。
三日ほど駆けた。
あれを、と胡邁が空を指差した。
東の空に、何かが浮かんでいた。それは空中を泳ぐ蛇のようにも見えた。
陸芳が目を大きくさせている。
「あれは、もしかして」
「そうだ、五竜山の、五匹の竜だ」
孫安の答えに、金禎が喘ぐように言った。
「竜って、あの時、倒したはずじゃあなかったのかよ」
「喬道清が、呼び出したのだろうな」
近づくにつれて馬たちも怯え出した。
竜たちは互いに争っているように、孫安には見えた。
喬道清が操りきれていないのか。
「急ぐぞ」
孫安たちは馬の速度を上げた。
ふいに天空に巨大な鳥が出現した。空を覆い隠すほどになった大鵬が、竜たちを全て砕いてしまった。
喬道清は、敗れた。
孫安はそう悟った。だが奴が負ける事など、あり得るのか。
気は逸るが、馬はこれ以上走れない。
孫安は、静かになった空を見つめ、ゆっくりと息を整えた。
五竜山は想像以上の有様だった。
竜だったものが、山道に散乱していた。廟もあちこちが損壊していた。
ふいに人の気配がして、孫安たちは身構えた。
「孫安どの、ここで会えると思っておりました。待っていて良かった」
「お久しぶりです。梁山泊に来たと聞いてから、お会いしたいと思っておりました」
その声に、孫安は相好を崩した。
「神火将に聖水将か。成長したようだな。ひと目見てわかったぞ」
魏定国と単廷珪も顔をほころばせた。だが孫安の配下の剣呑な雰囲気に、気を引き締める。そう、田虎軍とは戦の最中なのだ。
「心配するな。私は梁山泊に降った。詳しくは後で話す」
「えっ」
魏定国と単廷珪が同時に声を上げた。状況が良く飲み込めない。
「ふふ、そなたほどのお方が味方になってくれるとは、実に頼もしい」
「あなたが関勝どのですか。ぜひお会いしたいと思っていたのです」
笑いながら関勝が拱手をした。
返しながら、孫安も嬉しそうな顔だ。
関勝が宣贊、郝思文を紹介し、孫安が梅玉たち十人と引き合わせた。
「しかし一体何が起きたのです」
宣贊の問いに、孫安が答える。
晋寧へ援軍として赴いたが、盧俊義に敗北し、降伏した事。
昭徳には喬道清が向かったこと。喬道清は竜を呼び起こしたが、状況からおそらく敗れたであろう事。
孫安と配下たちが五竜山を下りはじめる。喬道清を探すのだ。
関勝が呼びかけた。
「共に参ろう。わしらがいれば話が早い」
「かたじけない。お願いするとしよう」
悔しい。悔しい。悔しい。
自分の方が強い。強いはずなのだ。なぜ奴ごときに。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、喬道清がぶつぶつと呟いている。
公孫勝の術に敗れ、この百谷嶺に逃れた。
神農廟に隠れたが、兵糧もない。護衛の薛燦と費珍も疲れ果てていた。
だが気配がした。
薛燦らは得物を手にしたが、相手は一騎だった。
「喬道清に話がある」
「孫安どの、ですか。どうして、ここに」
薛燦も費珍も困惑した。
声を聞き、喬道清が廟から姿を現した。孫安が援軍に来てくれたのか。
「負けたのだよ」
期待は裏切られた。では何故ここに。
「麓にいた公孫勝という者が言っていた。お主には、魔が憑いていると」
「魔だと。ふざけるな、弟弟子のくせに」
喬道清が目を吊り上げ、唾を飛ばす。
かつてと変わり果てたその姿に、孫安は思わず顔をしかめた。
「なんだ、その顔は。私はまだ負けていない。そうか孫安。お主は降伏したふりをして、奴らの寝首を掻こうと言うのだな。それでこそだ」
「違う。私は田虎軍から抜ける。お主も気付いていただろう。掲げた大義は、もはや失われてしまっていることに」
「なんだと、裏切り者め。そんな奴だったとはな。裏切り者は」
伸びた手が、孫安の首をがっしと掴んだ。
「始末せんといかんなあ」
喬道清よ。孫安が喬道清を見つめる。
喬道清は鬼のような形相だった。
孫安が、隠していた小刀を手にした。刺し違えてでも、止めなければ。
孫安が動こうとした刹那、強烈な光が辺りを包んだ。
気付くと二人の道士が、喬道清の左右にいた。
公孫勝そして樊瑞が、喬道清のこめかみに指を当てている。
「目を覚ましてください、師兄」
「貴様、貴様、貴様」
二人の指から光が発せられた。
喬道清の悲鳴が、百谷嶺にこだました。
孫安は見た。
喬道清の体から、黒い靄のようなものが抜け出てゆくのを。そして靄は上空に上り、薄れていった。これが、魔なのか。
くずおれる喬道清を、薛燦と費珍が支えた。
「ありがとうございます。これで、終わりました」
公孫勝が優しい目で、孫安に微笑んだ。
そうか、終わったのだな。
いや、これからが始まりか。
孫安が晴れ渡る空を見上げた。
目覚めた喬道清は体が、とりわけ心が軽くなっていることに気付いた。
「面倒をかけたな、一清」
「いいえ。お師さまは、いつも師兄の事を案じておられました」
「そうか。すべて見越していたという訳か」
聞けば、公孫勝も下山した時には義憤に駆られ、無茶をしたという。
「はは、あの時の生辰綱強奪は、お前が絡んでいたのか」
「お恥ずかしい」
「いやいや、実に痛快だった。よくぞやってくれたと、孫安と快哉を叫んだものだ」
樊瑞が茶を運んできた。
「お主も、魔に魅入られていたのだな」
「はい。力が欲しいか。そう囁かれ、心の隙を突かれました」
「同じだ。しかし何者なのだ。そもそも、実体として存在しているのか」
公孫勝は眉根を寄せた。
「わかりません。ですが、これからも魔は囁き続けるでしょう。それを止めるのは、私たちの役目です」
「そうだな。しかしまずは罪滅ぼしだ。田虎の目を覚まさせてやらねばならん。力を貸してくれ。一清、樊瑞」
自然と口に出していたことに驚いた。
いままで己の力のみを頼りにしてきた。自分の力こそが全てであると信じてきた。
憑き物が落ちた、とはまさにこういう事を言うのだろう。
「どうやら無事に目的は果たせたようだな」
「ああ、おかげさまでな。ところで壺関では大活躍だったそうじゃないか」
「よく言うぜ。まあ、その通りだがな」
昭徳府、唐斌と関勝が酒を飲みながら語っている。
互いに死んだと思っていた同士、話が尽きることはなさそうだ。
天王と大刀を、郝思文が目を細めて見ている。
「お前は本当に関勝どのが好きなのだな」
宣贊が冗談ぽく言い、郝思文は顔を赤くした。
久方ぶりの宴に、皆の声も明るい。
それを一望する宋江も、実に嬉しそうだった。
横には呉用がいた。
「流れはこちらに大きく傾いています。唐斌を得、さらに孫安、喬道清までこちらに与するとは嬉しい誤算ですが」
「それでも田虎は、いまだ大きな勢力を誇っている。油断はできん。だが私は彼らとお主を信じているよ、軍師どの」
はいと静かに言い、呉用は手にした杯をちびちびやった。
翌日、新たな編成を整えた。
関勝と唐斌たちが東北方向にある潞城攻略に向かう。
喬道清は公孫勝と西へ向かい、盧俊義の援軍となる。
昭徳の城壁から見送り、宋江は威勝の方角、北に目をやった。
昨夜、孫安が言った言葉が思い出された。
「田虎は梁山泊を目指していたのです」
なんとも言い難い思いだった。
もしかしたら、民のため田虎と肩を並べていたのかもしれない。
だがその大義を、田虎は忘れてしまったのだと、孫安は言う。
一歩間違えていたら、梁山泊が逆の立場だったのかもしれない。
ふう、と宋江が小さく息を吐いた。
「迷いはない」
「それで良いのです」
横に立つ呉用が静かに言った。
梁山泊軍の行進を助けるように、天には暖かな日が照っていた。




