伏竜 三
竜はいる、と父は言った。
いるはずがない、と幼い自分は言った。
だが竜はいた。
この目で見た。
父の言葉は、真実だった。
孫安は、涇原に生まれた。
商いをしていた父は書物の蒐集が趣味だった。倉には各地から集めた様々な書物がずらりと並んでおり、母からも呆れられていた。特に父が好んだのは易や風水、奇門遁甲などの占術に関する書物だった。
多くの書物に囲まれていたため聡明に育ち、また剣も相当の腕前になっていった。
涇原を出て独り立ちしていた孫安が、久しぶりに故郷に戻っていた。
父と酒を酌み交わし、母の懐かしい味に目頭が熱くなった。
だがふと父の顔が曇りがちになるのだ。なにか心配ごとが、と孫安が訊ねた。
少し言い淀み、父が話し出した。
最近、ひとりの占い師が往来の一角に座るようになった。
人や土地の運勢を占うという触れ込みだった。それが、すこぶる当たるというので評判となったという。
占術に一家言ある父は、市井の占い師には興味を示さなかったが、隣家の友人がのめりこんでしまった。数か月前に失くした家宝の品物の場所を占ってもらったところ、ぴたりと当てたというのだ。
「それは良かった。まあ、あまり信じすぎず、ほどほどにするのだな」
嬉々として話す友人に、父はそう言うしかなかった。
しかし助言を聞かず、友人はますますのめり込んでゆく。その友人には、孫安と同い年の娘がいた。たいそう可愛がっていたひとり娘で、そろそろ嫁に行く歳だ。
「娘の将来はいかがでしょうか。良い縁がみつかるでしょうか」
「ふむ。この辺りの土地からは、面白い気を感じる。のちに名を成す者が、多く現れる予感がしますな」
喬家の息子か、と直感した。
喬冽は幼い頃より神童ぶりを発揮し、いまは二仙山で修業に励んでいるという。娘とも幼なじみだったが、すでに遠い過去の思い出だった。
「娘ごにも、思いもよらぬ縁がありましょう」
あの喬冽と同じような者と縁ができるのか。そう思うと、友人は欣喜した。
ただし、と釘を刺すように、占い師が言った。
「言いにくいのだが、実はご主人の土地の相があまりよろしくない。このまま放っておいては、土地の気が悪い方向に作用してしまうだろう」
友人は、はたと口を閉ざしてしまった。眉根を寄せ、周囲を気にする素振りを見せる。
「いかがなされた」
実は、と友人が語る。
例の家宝を失くした頃から、奇妙な事が起きていたのだ、と。
庭で十数羽の鳥が死んでいたというのだ。その時は、不気味さを感じつつ始末したが、それが断続的に起きているという。あまりの不吉さに、誰にも言えずにいたという。そして一昨日もそれは起きたのだ。
やはりか、と占い師は唸って腕を組んだ。
「先生、どうすれば」
「私にお任せいただけるのであれば、お力を貸すことも吝かではないのだが」
「それは、願ったりです」
その日から、占い師は友人の家に住み込むことになる。
占い師の指示で、家具の配置を変えたり、庭に妙な石塔を建てたりした。だがその二日後、友人の妻の悲鳴が聞こえた。
今度は鳥ではなく、十数匹の鼠が庭に落ちていたのだ。
唸る占い師。
「ふうむ。まだ駄目ですか」
先生、と詰め寄る友人に、占い師は呟くように言った。
「これは私の力だけでは対処できないようです。だがご心配めさるな。知り合いにこの道に明るい道人がいる。彼を呼ぶとしよう」
七日のち、その道人が現れた。
「良く来てくれた飛天蜈蚣よ。早速力を貸してくれ」
「待て。長旅で喉が渇いているんだ。酒でも飲ませてくれ。話はそれからだ」
飛天蜈蚣の王道人は無遠慮に言い放ち、椅子にどっかと腰を下ろした。
孫安の父は、友人の顔を見に行った。
友人が家財までも売り払い、占い師に入れ込んでいるという噂を聞いたからだ。
それが原因か、しばらく姿を見せないし、その妻も娘もとんと見なくなってしまった。
「私も行きます」
という孫安を制し、
「大丈夫だ、お前は母さんの側にいなさい」
と、父は優しく微笑んだ。
毎日、占い師と道人は酒盛りをしていた。
友人とその妻を使用人のように扱い、さらに金など一銭も出さず、あれがいるこれがいると理由をつけて、都合させていたのだ。
友人宅に、強引に入った父はその様子に愕然とした。
「なんだ、これは。部屋も家具も、滅茶苦茶じゃないか」
「口を出さないでくれ。お前は詳しいかもしれんが、本で得た知識だろう。あの方々は実績がある本物なのだ」
そう言う友人の顔は、何かに取り憑かれたように虚ろだった。
確かに言う通りではある。しかし目の前の光景は、あまりにも自分が知っている風水とかけ離れている。家具も、まるで子供が遊びで適当に置いただけ、という酷いものだったのだ。
さすがに、黙っていられなかった。
「おい、目を覚ませ。お前は騙されているんだ。おかしいと思わないのか」
その時、刺すような視線を感じた。
占い師と王道人だった。客まで酒を飲んでいたようだ。
孫安の父は嫌悪感を覚えた。男たちの目つき、纏う瘴気のような雰囲気に、うすら寒いものを感じた。
「何だ、あんたは。根も葉もない事を言うのはやめてくれないか」
立ち上がった王道人に気圧されながらも、父は必死に続ける。
「根も葉もない、だと。素人でもおかしいとわかるさ。お前たち、一体何を企んでいるのだ」
「ほう。少しは知識があるようだな」
と占い師も立ち上がる。
じっ、と孫安の父の顔を覗き込む。
「お主、死相が出ているぞ」
そしてにやりと凶悪な笑みを浮かべた。
玉のような汗が噴き出した。
孫安の父は喘ぎながら、なおも喰らいつく。
「脅すのか。だが何を言われても、お前たちの好きなようにはさせんぞ。役所に訴えてやる。覚悟しておくんだな」
「ふん、好きにするがいい」
余裕の態度を崩さない占い師たち。
孫安の父は友人に別れを告げ、家を出た。
王道人が怒気を露わにした。
「ちっ、酒が不味くなったな。で、どうするんだ」
「言ったでしょう。奴には死相が出ていると」
「かかっ、お前が言うなら、間違いないか」
王道人が占い師に酒を注いだ。
孫安の父が夜中に家を出た。必ず奴らの化けの皮を剥いでやる。
誰かがいた。
思わず、塀の陰に隠れた。細心の注意を払い、覗き見る。
黒ずくめの男だった。闇の中で、顔はよく見えない。男が荷袋を下ろし、中を探った。そして取り出した何かを塀越しに放り込みだした。
一体、何をしているのだ。何者なのだ。
やがて男はその場から去っていった。
男のいた場所を確認する。地面が濡れていた。
孫安の父は青ざめた。
血だ。これは、もしや。そうだ、鳥や鼠の死骸は仕組まれた事だったのだ。掴んだぞ。
ふと背後に気配を感じた。
黒づくめの男がそこに立っていた。
手にした刀が鈍く光った。
孫安が目を覚ました。なにか胸騒ぎがする。
外から声がした。父の声に似ている。まさか。
孫安が飛び出した。
そこに黒ずくめの男がいた。そして、足元に父が倒れていた。男の手には刀。血に濡れていた。
次に覚えているのは、男が倒れている姿だった。孫安の手には、血に濡れた刀。男の首が切り裂かれていた。
自分がやったのか。
父が微かに息をしていた。
「あの占い師、たちは、偽物だ。その男が、死骸を」
「無理に喋らないで。いま医者を呼んできます」
「私は、もう駄目だ。やつらを」
そこまで言って父が事切れた。
孫安の全身が燃えるように熱くなった。
友人の家に乗りこみ、占い師たちを探した。
ここか。
孫安が戸を開け、布団を勢いよく剥ぎ取った。
だが孫安の目に映ったのは、鋭い光を放つ剣先だった。
孫安は辛うじて、手にした刀でそれを防ぐと、後方へ飛んだ。
「奴の占い通りだったな」
剣先を突きつけたまま、王道人がゆっくりと床から出てきた。
「何故だ、という顔をしているな。実は剣難の相が出ていてな。警戒していたら、お前が来たという訳だ。何者か知らんが、大胆な野郎だ」
孫安は寒気を覚えた。
こいつらは偽物だ。父はそう言った。
違うのか。非道な事を繰り返しながらも、捕えられなかったのは、本物だからなのか。
「そういう事だ。わかったら、死ねい」
王道人が邪悪な笑みを浮かべた。
さらに孫安は冷や汗を流した。まるで心を読まれているようだ。だが孫安は、足を前に踏み込んだ。ここで引く訳にはいかない。父の仇を討つ。
雄叫びと共に、刀を繰り出す孫安。
はっ、と吐き捨てるようにした王道人は、刀で軽くいなした。
次の攻撃も、次も、王道人は子供でもあやすように、簡単に弾いてしまう。
強い。
思った瞬間、孫安の肩に激痛が走った。刀を落としてしまう。
「筋は良いようだが、正直すぎるんだよ。お前の攻撃は」
王道人が容赦なく孫安を攻め立てた。腕や足を何度も切られ、服が赤く染まってゆく。
「騒がしいと思ったら、案の定か。そいつは」
さらに、占い師も現れた。
「お前が占った、剣難の正体さ」
「ああ、なるほど」
すらりと、占い師が剣を抜いた。
孫安は肩の傷を押さえ、喘ぐように壁に背を付いた。
悔しい。目の前に父の仇がいるのに。このまま殺されてしまうとは。
と、外から大声が聞こえた。
人が死んでいる。都頭を呼んでこい。誰かがそう叫んだ。
「貴様、あいつを殺したのか」
ちっ、と王道人が舌打ちをした。
「代わりを探すのが、面倒臭いではないか」
その言葉に、王道人の性根が滲み出ていた。
とっとと始末してしまおう。という王道人を、占い師が止めた。
「飛天蜈蚣よ、待て」
「何を待つことがある。とっとと殺ってしまおう」
「ほどなく役人が来るだろう。我らは人殺しを捕まえた英雄となるのだ」
「ふざけるな。人殺しはお前たちだろう」
「この状況で、誰が信じると思うね」
それに、と占い師が孫安を見つめる。
「こいつは奇相を持っている。いずれ賊どもの頭となり、大いに国を騒がせそうだ」
「かかっ、そりゃあいい。すでにその片鱗が見えたという事か」
「私が、そんな事を」
孫安が言うが、占い師は、私の占いは当たるんだと笑う。
誰も動くな、と都頭ら役人たちがやって来た。
占い師と王道人に言われるがまま、孫安に縄がかけられた。そのまま役所へと連行された。
占い師と、王道人の勝ち誇った笑みが、いつまでも脳裏に焼き付いていた。
流罪となった。
知県も孔目も誰ひとりとして孫安の言葉を信じようとしなかった。
それもそのはず、占い師たちにたんまりと袖の下を渡されていたからだ。そもそも孔目の方から、手頃な家を安価で手に入れたい、と持ち掛けていたらしいのだ。
そんな事のために、父は死んだのか。腐った役人どもに、孫安は絶望した。
その孫安は、護送中に助け出されることとなる。真相を知ってか知らずか、その男は名も告げずに姿を消した。
孫安は復讐を誓った。必ず、あの占い師たちに復讐するのだ。ただその思いを胸に、生き続けるのだ。
各地を逃亡し、さまざまな出会いを経て、十人の仲間を得た。
旅は続き、やがて安定州のとある町で宿を取った。
居酒屋で飲んでいた折、突然、豪雨となった。
それは雨というより、滝のようであった。地面は瞬く間に見えなくなり、水嵩はどんどんと増してゆく。
避難しようとしたが、孫安はその足を止めた。
痛いほどの雨の中、天を仰ぎ、哄笑している男がいた。
驚いたことに、男の髪も着物も、まったく濡れていなかった。
孫安は、ひとりの名前を思い出した。
「もしかして、喬冽なのか」
「お前は」
男は鋭い眼をこちらに向けた。
「涇原の孫安という。私のことなど覚えてはいないだろうが。お主、二仙山の羅真人さまの元へ行っていたはず」
「涇原の。すまんが、お主の言う通り覚えてはおらん」
男、喬冽は、うってかわって破顔した。
「だが嬉しいな、故郷の人間と会えるなど。せっかくだ、一緒に飲もうじゃないか」
一瞬で雨が止み、太陽が地を乾かし始めた。
喬冽、いや喬道清、は経緯を語った。
術を修め、世のためになろうと考えたが、失望した。下界と関わるな、という羅真人の考えとは相いれない。もう戻る気はない。だからこの力を、腐った世を壊すために使う事にした、と。
「助かった。お主が現れなければ、この街を本当に壊してしまうところだった。恩に着る」
そして孫安も語り、喬道清は憤慨した。
「すぐにそいつらをを見つけ出し、殺してやろう」
勢いこむ喬道清だったが、孫安の顔を見てはたと気付いた。
「そうだな、すまん。仇を取るのはお主自身の役目。よし、決めたぞ」
「何をだ」
「孫安、お主に力を貸そう。その二人を探すついでに、同じような腐った連中を滅ぼしてやるのだ」
そう言う喬道清の目は、本気だった。
それから各地を渡り歩き、外道たちを屠っていった。
幻魔君、いつしかそう呼ばれるようになった喬道清。そして孫安たちの強さに憧れ、賛同する者たちが次第に集い始める。
まさに叛乱軍ほどの勢力となった。図らずも占い師の言葉通りになってしまったことに、歯がゆさを覚えた。
孫安たちにとって、次に必要なのは拠点となった。
喬道清の占断と孫安の風水的判断から、場所が割り出された。
五竜山。古くからそう呼ばれている山だった。
山腹に古廟があった。孫安は息を飲んだ。
廟の周囲の柱には、それぞれ四色の竜の塑像が巻きついている。さらに廟内中央の柱に五匹目の竜がいた。
喬道清が竜を撫でながら言う。
「五匹の竜が封じ込められているので五竜山か。我々にぴったりではないか」
「五匹の竜、か」
と、突然、地面が揺れた。地震か。いや、廟自体が揺れている。
揺れは激しくなり、廟が崩れるほどになった。
去れ。
孫安の脳裏に何者かの言葉が聞こえた。
喬道清と目が合った。声は二人にのみ、聞こえているようだ。
ここから、去れ。
もう一度、それははっきりと敵意を含んで言った。
去れ。去らぬのなら、消えてもらう。
また声が聞こえ、廟がこれまでにないほど激しく揺れた。
孫安と喬道清が空を見つめていた。
五行山の上空に、五匹の竜が浮かんでいたのだ。
燃えるような目が、孫安たちを狙っていた。
「孫安よ。どうするね」
「聞くまでもないだろう。幻魔君、力を貸してくれ」
「それこそ、聞くまでもない」
渾鉄の二刀を抜く孫安。
宝剣を構え、不敵に笑みを浮かべる喬道清。
五匹の竜が大音声で吼えた。
孫安と喬道清が大の字になっていた。
部下たちもあちこちで同じようにしていた。
皆、血塗れで、ぜいぜいと息をするのがやっとだ。あたりには、土塊と化した五匹の竜が散らばっている。
喘ぎながらも孫安の目は輝いていた。
五色の竜を倒した。これは、何かの徴だろうか。
孫安は父と、その書物を思い出していた。
古代から存在する占術、そしてその難解さと面白さにのめり込んだ。特に、万物は五つの元素から成る、という五行思想に惹かれていった。
やはり私は父の子だった。目を潤ませながら孫安はそう思った。
五色の竜、これは徴なのだ。そして胸の中にあった想いが、結実した。
五行将。
五行に対応した兵法を駆使する将を育てる。孫安は固く決意した。
喬道清の声がした。
「竜と言っても大したことはなかったな、なあ屠竜士よ」
「屠竜士とは、私の事か。ふふ、悪くはない。ありがたく名乗らせてもらうよ」
孫安は笑った。喬道清も動けないまま笑った。
竜はいる、と父は言った。
いるはずがない、と幼い自分は言った。
だが竜はいた。
その目で見た。
父の言葉は真実だったのだ。




