伏竜 二
晋寧の城外十里のあたりに軍が陣を敷いている。
風にたなびく旗には孫の文字。
威勝から孫安が二万の軍を率いて到着した。
目を眇める孫安。晋寧の城壁には、梁山泊の旗が掲げられている。
周りでは配下の十将が、同じように晋寧を見つめていた。
流浪狗の梅玉。
寒山虎の陸芳。
黒翅仙の陸清。
泥裏妖の馮昇。
大叫吼の姚約。
魔眼子の金禎。
殭屍の楊芳。
白骨翁の胡邁。
斬鬼の秦英。
水上飛の潘迅。
いずれも不敵な顔をしている。孫安とは古い付き合いで修羅場をいくつも潜りぬけてきた者たちだ。
目を細め、潘迅が言う。
「ちょっと遅かったみたいですね。しかし、晋寧が陥ちてしまうとはね」
「田彪どのは無事かな。無事だと良いんだがな」
並んでいた陸清が無表情に呟く。揶揄するように金禎が言う。
「そんなこと、ちっとも思っていない癖によ」
「思っては、いるさ。思っては、ね」
くっくっくっ、と他の者たちも笑い声を洩らす。
孫安が一歩前に出た。
「我々が遅かったというよりも、梁山泊が速かったと言うべきだな」
その言葉に、一同が静かになる。
これまで陵川、蓋州、壺関が攻略されていた。董澄、鈕文忠、山士奇を持ってしても、止められなかったのだ。
改めて梁山泊の力を実感し、気を引き締めた。
と同時に、孫安は嬉しそうでもあった。
「相手にとって不足なし。さあ、行くぞ」
孫安が軍を進める。
晋寧の城門が開かれ、梁山泊軍が城外へと出てきた。
進み出たのはなんと一騎のみ。
「おいおい、ひとりで戦おうってのか」
馮昇が呆れたように言った。
楊芳は、大げさに驚いてみせる。
「これはこれは。さすがは梁山泊。我々ごとき一人で十分ということかな」
「ふざけやがって。叩っ殺してやる」
これは陸清だ。
「では、こちらも一騎で行くとしよう」
喧騒の中、孫安が馬を進めた。
それを止める者はいなかった。孫安の配下たちは、黙ってそれを見送った。
二騎が戦場の中央で邂逅した。
少しの間、二人の視線が交差する。
「晋寧を返してもらおう」
「お主が孫安という男だな。噂は聞き及んでおる」
「良い噂だといいのだがな。してお主は」
「名乗り遅れた。わしは盧俊義」
「ほお、お主が河北の三絶か。噂通りだと良いな」
「その目で確かめてみろ」
同時に二騎が駆けた。屠竜士と玉麒麟がぶつかった。
孫安が両手に握る、鑌鉄の剣を振るう。盧俊義が手にするのは棍棒だ。鉄と鉄が激しく火花を散らした。
孫安の剣が盧俊義の首を狙えば、盧俊義の棍棒も孫安の喉元を突こうとする。
「ははっ。噂通りで嬉しいぞ、盧俊義」
言葉通り、戦いの最中にも笑みを浮かべる孫安。対する盧俊義は、お前もな、とだけ言った。
一進一退の攻防に両軍は固唾を呑み、見守ることしかできない。
戦いを見つめる楊志。手綱を握る手に力が入る。
河北の三絶。
孫安が仕切りに言っているその二つ名は、盧俊義がまだ若く、絶頂期の時に呼ばれたものだ。だがそれから十数年、強さの盛りは過ぎている。梁山泊での盧俊義の戦いを見て、おこがましい事であるが、楊志はそう感じた。
しかし、である。遼国での戦いを経て、様子が変わってきた。往時の、とまではいかないかもしれない。しかし発する気、目つき、姿勢までも、なんだか若返ったのではないかと思わせるのだ。
そして今、相当の手練である孫安と、互角に打ち合っているのだ。
「おいおい盧俊義の旦那、なんだか強くなってねぇか」
鄧飛もそれを感じたらしい。
打ち合いは二十合を越え三十合、四十合に至る。見ている方の体力が持たないほどだ。
欧鵬が歯嚙みをした。
「どちらも化け物だな」
攻防は五十合に及ぼうとした。
だが、打ちかかろうとした孫安の乗馬が前脚を滑らせた。
孫安軍から悲鳴が上がる。
孫安は勢いよく投げ出されたが、体勢を整え、地面との激突は避けた。
顔を上げると、盧俊義が馬上から棍を突きつけていた。
強くなっている。
燕青が盧俊義の戦いを見て、思った。
そして楊志や鄧飛が感じた事を、誰よりも実感しているのも燕青であった。幼い自分を鍛えた全盛期の盧俊義を、その肌で知っている。だが何故か、燕青は言い知れない不安を、心の奥底に感じてもいた。
「あっ」
燕青が驚きの声を上げた。
盧俊義が棍棒を引いたのだ。さらに地面に片膝をつく孫安に対し、立つように促したのだ。
「馬のせいだ。馬を替え、今一度だ」
「ふふ、すまんな。さすがは玉麒麟か。素直に好意を受け取るとするよ」
孫安が新しい馬に跨った。
鄧飛は、勝負ありだろう、と吼えている。
馬が躓こうと、それも含めた運も勝負の内。盧俊義ほどの者ならばそう考えるはずだ。はたして宋江どのの影響か。楊志はおぼろげながらもそう思った。
かくして打ち合いが再開された。
盧俊義の棒が横合いから襲いくる。孫安が、辛うじて下げた頭すれすれを掠めてゆく。さすがにひやりとした。だが同時に熱くもなった。
久しぶりだ。こんなひりつくような命のやりとりは。
孫安が左右の剣を同時に突き出した。盧俊義は、左の剣を棍棒で弾いた。しかし右剣の切っ先がすでに迫っていた。
うおお、と叫び、盧俊義は体を捻る。だが、かわしきれない。脇腹を切り裂かれ、鮮血が飛び散った。
しかし盧俊義は怯まない。目はしっかりと孫安を捉えていた。
伸び切った孫安の右腕を狙い、棍棒を叩き込んだ。
嫌な音がした。
嗚咽を漏らし、孫安が態勢を整える。追撃は来ない。盧俊義も無事ではないのだ。
太腿を締め、馬を下がらせる孫安。
腕は、動く。
折れてはいないが、指先まで痺れてしまっている。左の剣を握りなおし、盧俊義を睨む。
盧俊義も孫安から目を逸らさない。少し腰を浮かし、尻の位置を整えた。
二騎が駆けた。
盧俊義有利、誰もがそう思った。だが孫安の剣は、二本の時と遜色ないほどの冴えだった。
またもや十合、二十合と打ち合いが続く。
鄧飛が唸り声を洩らす。
どっちも化け物だ、とさっき欧鵬が言ったが、まったくだと思った。
盧俊義の棍棒が孫安の首を捉えた。
だが突き出した棍棒は、孫安から遠く外れた。
盧俊義の体が宙にあった。今度は盧俊義の馬が足を滑らせたのだ。
ぴたりと、剣の切っ先が盧俊義を狙っていた。
孫安がにこりとした。
「馬を替えるといい。いま一度だ」
燕青と目が合った。不安そうな顔であった。
盧俊義は目尻を下げ、心配するなという表情をした。
そして新しい馬の腹を蹴った。戦袍の脇腹が赤く染まっている。痛みは酷くはない。傷は深くはないだろう。
三度、孫安と向き合う。
同時に馬が駆ける。
棍と剣が火花を散らす。
燕青が固唾を飲む。打ち合いの中、盧俊義の動きが鈍りだした。
飛びだしたい。だが燕青はその気持ちを必死に堪えた。
それは孫安軍でも同じだった。配下の金禎が飛びだしたくて、前のめりになっている。
しかし誰も手を出してはいけない。盧俊義と孫安だけが、この勝負の決着をつけられるのだ。
剣が閃き、盧俊義の戦袍が二度、裂けた。棍棒が、孫安の脇腹を打った。盧俊義、孫安が互いに呻く。
気合いと共に得物が舞う。だが次第に、盧俊義の傷が増えてゆく。
やはり体力では孫安が勝っているようだ。盧俊義が防戦一方になった。なんとか防いでいるものの、疲労は明らかだ。
盧俊義は気力を振り絞った。目は孫安の動きを追っているが、腕が重い。
孫安が剣を繰り出した。正確に首を狙っている。
強いな。盧俊義はふと思った。
「旦那さま」
声が聞こえた。燕青、か。
その声が、盧俊義に力を与えた。
腹の底から吼えた。
腕が、動いた。
盧俊義の棍棒が、孫安の剣を二本とも弾き飛ばした。
驚きの表情を浮かべる孫安。
上げた棍棒を、今度は振り下ろす。体重を乗せた一撃が、孫安の鎖骨辺りにめり込んだ。
血を吐き、孫安が馬から落ちた。
馬上から見下ろす盧俊義。
孫安は地に倒れ、動かない。
欧鵬、楊志が身を乗り出す。勝った、のか。
ふいに盧俊義の体がぐらついた。
「旦那さま」
燕青が駆け出していた。
孫安軍から三騎が飛び出していた。秦英、陸清、姚約である。
同時に梁山泊からは楊志、欧鵬、鄧飛が馬を飛ばす。
「盧俊義どのは頼んだぞ。俺たちは奴らを止める」
燕青を追い抜き際、楊志が言った。
燕青が足に力を込めた。
盧俊義は鞍上で気を失っていたが、辛うじて落馬は免れていた。
燕青が馬を跪かせ、盧俊義の大きな体を地面に寝かせた。戦袍を裂き、傷を診る。深くはない。だが血が止まらない。
また、倒れている孫安の首に指を当てた。脈はしっかりとしている。これだけの死闘をしていながら、さすがと言うほかない。
燕青は孫安の両手首を縄で縛ると、梁山泊の兵たちを呼んだ。
「おい、うちの大将に何しやがる」
斬鬼の秦英だった。
楊志がその前に馬を進めた。
「勝負はついた。おとなしく引き下がれ」
「まだ終わっちゃいねえよ」
ゆらりと秦英が構えた。孫安と同じく、両手にそれぞれ刀。
楊志は咄嗟に槍を構え、目を細めた。
この男、かなり腕が立つ。
ほお、と秦英が漏らした。
「あんた、相当強いようだな。面白い」
秦英が馬を飛ばした。楊志が迎え討つ。
疾風のように刀が楊志を襲う。楊志は槍で刀を弾く。だがもう一本の刀が迫る。慌てずに楊志はそれも捌いた。
楊志の目が何かを捉えた。馬鹿な、そう思った。刀だ。三本、いや、そんなはずが。
脇を締め、槍を引き戻した。弾いた。
だが楊志は驚愕した。四本目の刀が、楊志の首元を狙い、唸りを上げて迫っていた。槍では、間に合わない。楊志は、馬上で思い切り上体をのけ反らせた。秦英の刀を辛うじて避けた。
二騎が馳せ違う。楊志が起き上がり、馬の向きを変える。
秦英と再び向き合った。
「大した野郎だ」
秦英が目を細めた。そして二騎が駆けた。
再び凶刃が乱舞した。しかしなんと楊志は槍を放ると、腰元に手を伸ばした。素早く腰に佩いていた刀を引き抜くと、裂帛の気合を放ち、秦英の刀に合わせるように攻撃した。
耳を劈くような、鋭い金属音が響いた。
驚きで秦英が目を剥いた。
楊志の刀に、刀身が両断されていたのだ。
「馬鹿な」
それは湯隆が楊志のために造った刀だった。
楊志はその刀を秦英に突きつけた。
もの静かに見えるが、感じる闘気は相当だった。
黒翅仙の陸清が、欧鵬と対峙していた。
手には槍。そして欧鵬の得物も、槍である。
「行くぞ」
囁くように陸清が告げ、馬を走らせた。
欧鵬と陸清が交差する。両者ほぼ同時に槍を放つ。いや欧鵬の槍がやや早いか。正確に陸清の首を狙っている。
だが陸清が放った槍は、欧鵬の槍に絡みつくようにして、その矛先を変えてしまった。そしてそのまま欧鵬に向かって来る。
陸清の攻撃が遅かったのではない。後の先を取るために、あえて遅らせたのだ。
上手い。だが。
欧鵬の目が鋭くなった。両手に力を込め、槍を回転させるようにして、陸清の槍を弾いた。
一旦、槍を引く陸清。欧鵬も息を整える。対峙する二人。やはり陸清からは仕掛けてこない。欧鵬が腹を括る。
いいだろう、その勝負乗ってやる。
気合いと共に鋭い突きを放った。陸清もこれには対応できなかった。
休む暇を与えず、欧鵬が攻撃を繰り出す。陸清が防戦一方となる。
さすがに守りも堅い。だが、ほんのわずかな隙を見つけた欧鵬が、そこを突いた。
だが槍に手応えがなかった。
目を疑った。馬上から陸清が消えていたのだ。
視界の上方で何かが揺れた。
まさか、上か。
そのまさかだった。陸清が上に飛び上がっていた。そして上から欧鵬に襲いかかる。
しかし今度は陸清が驚く番だった。鞍を踏み、欧鵬も飛んだのだ。
黒翅仙と摩雲金翅が舞う。まるで猛禽類の戦いのように空中でぶつかりあった。そしてもつれ合うようにして、地面に落下した。
両者しばらく動かない。
やがて、立ち上がったのは欧鵬だった。
「おらおらおらおらおら、どうしたどうした」
大叫吼の姚約が朴刀を振り回し、鄧飛に襲いかかる。
うるさい男だ。そう思いながら、鄧飛は容易く攻撃をかわす。
「ちょこまかと逃げやがって。かかって来いよ、怖いのか」
姚約が吼える。
しかし鄧飛は挑発には乗らない。相手の技は、素人に毛が生えた程度のものだった。だが、問題は姚約の体躯である。戦袍の上からでもわかるほど筋肉が盛り上がっている。特に首から肩のあたりは尋常ではない。刀を振る度に、ものすごい音を立てるのだ。
一撃喰らえばお陀仏だ。
「ふん、お前がこっちに来ればいいだろう」
と言いながら、鄧飛は用心深く姚約の周囲を回る。
姚約が吼える。馬を近づけると、思いっきり朴刀を打ち込んでくる。
待っていた。鄧飛が鉄鏈を放つ。鎖の先が姚約の手首に巻きついた。だが姚約は意に介していない顔をした。肘を曲げ、腕の筋肉が盛り上がった。
しまった。鄧飛が思った時には遅かった。
姚約が巻きついた鎖を思いっきり引き寄せたのだ。前につんのめる鄧飛。だが鉄鏈を、武器を放す訳にはいかない。
鄧飛が姚約に突っ込むように馬を駆けさせた。
「うおおおっ」
赤い目を見開き、吼える鄧飛。まさに火眼狻猊だ。
姚約が朴刀を構え、迎え討つ体勢をとる。姚約も吼えた。
だが朴刀の届く範囲の直前、鄧飛が手綱を思い切り引いた。馬が棹立ちになった勢いを利用し、鄧飛が鎖を引っ張った。
おおっ、とさすがの姚約もよろめいてしまう。
すかさず鄧飛は手首を回転させ、鎖を姚約の腕から外してしまった。そしてそのまま数度振り回すと、勢いよく鉄鏈を放った。体勢を崩したままの姚約を、鉄鏈が襲う。
真っ赤な血が飛び散った。
鉄鏈の先に付いた分銅が、姚約の額を割った。
盧俊義が晋寧に運ばれた。楊志は、孫安も運ぶように命じた。
その間、孫安軍が動く事はなかった。
晋寧は固く、その城門を閉ざした。




