鳳雛 四
一清、だと。
この白髪、年は経ているがこの顔、間違えるはずもない。
公孫勝、一清だ。
喬冽だった時分に戻った気がした。同時に、胸の奥底から燃え上がるもどかしい想いも噴き出してきた。
こいつのせいだ。お前が来なければ、師は私だけを。
す、と喬道清が顔から感情を消した。
法術が飛び交っていた戦場が嘘のように静まり返った。公孫勝と喬道清が馬上で対峙している。
「ああ、どれくらいぶりかな、一清」
「ずっと、師が気にかけておられました」
気にかけていた、だと。よくも言えるものだ。
「お前も山を下りたのか」
「はい」
「ならば私が戻らなかった訳もわかるだろう。お前ほどの者なら」
「はい。義憤に駆られ民のためと思い、生辰綱を奪いました」
「どうだった。気が晴れただろう。私たちの力はこのためにあるのだと感じただろう」
「思わなかった、と言えば嘘になります。師兄の気持ちが、分かったような気がしました」
ですが、と公孫勝が続ける。
「師は、師兄を信じていたからこそ下山させたのです。力に溺れず、戻ってくると信じて」
「私が、力に溺れたと」
「だから師は、私に命じておりました。あなたに出会ったら、その目を覚まさせてやるのだと」
喬道清が豹変した。
「思いあがりおって。弟弟子だからと思って聞いておれば、口まで達者になったようだな。他に言い残すことはないか、一清」
宝剣を抜く喬道清。
寂しそうに眉を曇らせる公孫勝。
「戻る気は無い、という事ですね」
毛頭ない、と喬道清が宝剣を掲げた。
黒雲が湧き、中から金甲兵が無数に飛び出してきた。
公孫勝も古定剣を掲げ、天を示す。頭上に黒雲が現れ、中から飛び出してきたのは黄袍の将だった。
空中で金甲兵と黄袍将が激突した。
梁山泊軍と昭徳府軍の頭上、到る所で火花が散る。双方の兵が、この世のものとは思えぬ戦いに、呆けたように口を開ける。
その中で喬道清の配下、穿心鎗の費珍が飛びだした。それを察した秦明が駆けた。
喬道清と公孫勝が同時に、二人を指してひゅっと息を吐いた。
駆ける二人の手からそれぞれの得物が、狼牙棒と槍が、もぎ取られるように離れ、宙を舞った。
奇妙な光景だった。中空で狼牙棒と槍が、意思を持ったように打ち合っている。
喬道清が力を込めれば槍が優勢になり、公孫勝が気合を発すれば狼牙棒が勢いを増した。
公孫勝が強く指を振った。狼牙棒が猛り、費珍の槍を弾き飛ばした。槍は真っ直ぐ、昭徳府軍の戦鼓を貫いた。間の抜けた音が響いた。
喬道清が動揺し、術も乱れた。
金甲兵が次々と黄袍の将に討ち取られ、地へと落ちてゆく。
それを見た昭徳府軍が怖れをなし、逃げ始めた。薛燦や雷震が必死に止めるが、兵たちは止まらない。
舌打ちし、喬道清もその場を離れ、馬首を返した。
公孫勝は追わず、その姿をじっと見つめるだけだった。
「助かりました」
樊瑞が言い、公孫勝は黙って頷く。
そこへ宋江が駆け寄る。
公孫勝は呼延灼と共に衛州にいたはずだ。どうしてここへ。
「あの喬道清は、私の兄弟子なのです。だから私がけじめをつけなくてはならないのです」
なんだと。ならば樊瑞も敵わぬ力も納得ができる。
しかし兄弟子に勝てるのか。
そう言いさした宋江に、
「勝ちます。喬道清を追いましょう」
と、公孫勝が決然と言った。
宋江は、その顔に覚悟を見てとった。
そうだ。勝てるのか、ではない。勝たねばならぬのだ。自分も、梁山泊もだ。
五竜山まで、喬道清は退却していた。
合流した孫琪、戴美を右翼に、聶新、馮玘を左翼に配置し、鳳凰が羽を広げたような陣形で待ち構える。
鳳凰の嘴、梁山泊を喰らう位置にいるのは、もちろん喬道清だ。
あのでかぶつの言葉が、何故か耳に残っている。煩わしい。
私を燕か雀などと抜かしおった。だが宋江こそ、雛鳥ではないか。まったく大口を叩きおって。
彼方に梁山泊軍が見えた。
来い、公孫勝。
喬道清が宝剣を抜いた。剣先が天を指す。喬道清が口の中で文言を唱える。
喝。喬道清の気合が轟く。
突如、地鳴りが起きた。
馬たちが棹立ちになり、梁山泊軍が停止を余儀なくされる。
これは、と宋江が構えた。公孫勝はじっと喬道清を見ている。
地鳴りが大きくなった。
喬道清の背後にある山が、黒い靄に包まれた。
山が揺れているように見えた。いや、実際に揺れているようだ。
「あれは」
宋江が叫んだ。
山から何か飛び出した。それは黒く、長い巨大な蛇のように見えた。
それは真っ直ぐに天に駆け上ると、ぐるぐると渦を巻きながら浮遊した。
「竜だ」
樊瑞が固唾を飲んだ。
また山が鳴動した。そしてさらに竜が飛びだしてきた。それぞれ色が違う五匹の竜が、天から梁山泊軍を狙う。
驚く宋江に、耿恭が告げる。
「奴らの背後の山、あれは五竜山といいます。しかしだからと言って」
耿恭は恐怖を振り切るように、刀を構えた。
どうするのだ。宋江は団牌兵に守られながら、公孫勝の背を見つめる。
初めに黒竜が襲ってきた。口中に恐ろしい牙が並んでいる。
公孫勝は揺るがずに、古定剣を竜に向けた。
黒竜ではない、黄竜にである。
黄竜はびくりと震え、黒竜の方を向いた。威嚇するように咆哮すると、突風のように黒竜めがけて飛んだ。
黄竜が黒竜の喉に噛みついた。うろたえた黒竜は、そのまま黄竜と絡みあうように空中で戦いだした。
驚いたのは喬道清だ。
「私が呼びだした竜だぞ。ええいっ」
喬道清が青竜に命じる。だがそれを白竜が押さえこむ。そこに、喬道清は赤竜を仕かける。
五匹の竜が渦を巻き、死闘を演じている。梁山泊軍も、昭徳府軍もその戦いを唖然として見上げるのみだ。
黄竜と白竜が押され始めると、公孫勝は払子を取り出した。
さっと払子を振り、文言と共に空中に放り上げた。
払子が回転し、鳥に変わった。その鳥は、竜に近づくにつれてどんどん大きさを増してゆく。その大きさは天を覆うほどにまでなり、一帯を暗くしてしまうほどだ。
鳥はついに大鵬と化し、五匹の竜を巨大な嘴で打ち砕いてしまった。両陣営の上に、竜の鱗が降り注ぐ。
これは。
宋江が手にしたそれは、鱗ではなく土くれだった。
「まだ私の力は尽きておらぬぞ」
自らを鼓舞するように喬道清が宝剣を振るう。
対する公孫勝も古定剣を天に向ける。
天が一瞬、明滅した。その直後に雷鳴の轟き。
公孫勝の真上に、雷を纏った金甲の神人が顕現していた。
「五雷正法、か」
喬道清が歯噛みする。羅真人からはついに伝授されずにいた法術だ。
それを、それを。
弟弟子の方に教えただと。
喬道清の瞳が妖しく光る。
「私の方が、私の方が」
金甲神人に向け法術をかけるが、効果はない。
喘ぐ喬道清に向かって、神人の手が伸びる。掌に雷が纏わりつく。
「帰りましょう、師兄」
なす術がない。お終いだ。負けたのだ。
そう思ったが、公孫勝への嫉妬心は、それを良しとしなかった。
力の限り手綱を引き、馬首を返した。
孫琪、聶新たちが守るように側で駆ける。
兄弟子を見る公孫勝の目は、どこか悲しそうだった。
林冲と扈三娘が喬道清を追った。
だが倪麟と雷震が二騎を遮る。
倪麟の刀が林冲を狙う。得物を合わせること二十合。互角に思えた勝負だったが、林冲に軍配が上がった。心臓を貫かれた倪麟が落馬する。
扈三娘の刀を、鞭で凌いでいた雷震だったが、倪麟の死を見ると怖気づいてしまった。馬首を返し、扈三娘と距離を取る。だが扈三娘の放った斬撃が、雷震の背を斬り裂いた。
この距離で届くはずが。と振り向こうとした雷震の首が、宙を舞った。
昭徳府に逃げ込もうとした喬道清に、徐寧と索超の隊が襲いかかった。
しかし戴美と翁奎がそれを阻む。
「わしが行こう」
「頼んだ、索超。俺は奴を」
戴美らに向かう索超。
金蘸斧の一閃で、戴美の頭蓋が割れた。驚いた翁奎は、悲鳴を上げると城内へ引き返してしまった。
喬道清を追う徐寧。
孫琪、聶新が喬道清の護衛から離れ、徐寧に向かってきた。
聶新が弓を構え、矢を放った。
鋭い。辛うじて鈎鎌鎗で弾いた。
身を起こした所へ次の一矢。
早い。花栄には劣るが、この男もなかなかの腕前。
徐寧は上体を使い、馬上で鈎鎌槍を回転させ矢を弾いた。本来地上で使用される鈎鎌鎗法の応用である。
またも矢が迫る。
この近さでも矢を射るのか。
徐寧の目が鋭くなる。受けて立とう。
今度は鈎鎌鎗を小さく動かし、矢を弾く。次の矢に備えるためだ。
思った通り、すでに矢は放たれていた。それを弾きながら思う。すでに槍の間合いなのだぞ。それでも聶新は弓矢を構えていた。
「その覚悟、見事だ」
そこまで己の技を信じるとは。ならば自分もそれに応えるのみ。
鈎鎌鎗法には基本の九手がある。
その中の一手に搠がある。鈎鎌鎗で馬の脚を刈るには、素早くその足元に突き出さねばならない。基本中の基本であり、だからこそ最も難しいとも言える技。
その搠を、絶技にまで昇華した徐寧が、放った。
鈎鎌鎗の切っ先が、矢を正面から真っ二つに割り、そのまま聶新の右手を貫いた。
聶新が体勢を崩し、馬から落ちた。しかし落下しながらも、左手の弓は真っ直ぐ徐寧を捕らえ、動かぬ右手で矢を取ろうとしていた。
聶新はそのまま、後続の馬群に踏み潰され、果てた。
背後で激しい金属音がした。
索超が孫琪の槍を受け止めていた。徐寧を狙っていたのだ。
「油断するとは、柄じゃないな」
「すまぬ」
索超は槍を弾き飛ばし、孫琪をぶった斬った。
敵将を倒したが、兵数は敵の方が多い。
徐寧、索超は徐々に囲まれつつあったが、宋江軍が追いつくと敵は引き上げていった。
「喬道清は」
「西へ、逃げてゆきました」
徐寧が眉根を寄せた。
「そうか。とりあえず陣を敷こう」
すでに昼を過ぎており、兵たちも疲れ切っていた。昭徳府が近い。警戒を怠らず皆を休ませることにした。
さて、どうするか。
逃げた喬道清を追うべきか。目の前の昭徳府に向かうべきか。
そこに公孫勝が来た。
「師兄は、私と樊瑞とで追います。少しだけ兵を貸していただきたい」
「無茶だ。確かに奴を圧倒していたが、どんな策を隠しているか分からないのだぞ」
「大丈夫です。それに兄弟子の始末は、私の責でもあります」
そう言われると、宋江も弱い。
気をつけるのだぞ、と念を押し、二人を見送った。
呉用が言う。
「喬道清は公孫勝に任せましょう。我らは昭徳に捕らわれた李逵たちの救出に注力すべきです」
「しかしあの城は堅牢だ。どうしたものか」
すると呉用は意味ありげな顔をした。
「策があるのか」
「はい。十枚の紙で、門を開けさせてみせます」
昭徳府の将、葉声が城壁から梁山泊軍を見やる。苦々しい顔をしていた。
孫琪、戴美を失い、頼みの綱の喬道清まで敗走してしまった。
籠城と決めた。まだ充分に耐えることはできる。
それに人質がいる、。喬道清の気まぐれで斬首が取りやめとなった。当時は、何をと思ったが、結果として良かった。
半刻ほど留まり、日が暮れる頃に城壁を下りた。
その晩は静かだった。
守将の金鼎と黄鉞が、人目を避けるようにひそひそと話しあっていた。二人の間にある卓には二枚の紙。
金鼎が見回り中、城内に矢が射ち込まれた。夜襲かと身構えたが、再び静寂が訪れた。見ると矢に紙が結んであったのだ。
黄鉞も同様だった。本来ならば、葉声に報告すべき事案だ。だがその内容を見て、金鼎も黄鉞も躊躇った。
その紙には同じ事が書かれていた。
曰く、昭徳の守将に告げる。田虎は帝に弓を引く、叛逆の徒である。過ちを認め、門を開くのならば、その罪が赦免されるよう奏上する。速やかに決断せねば、城が破られた暁には、残るものがないほど焼き尽くされると思うべし。
二人は戦慄を覚えた。
金鄭が唾を飲む。
「葉声は徹底抗戦の構えだ。人質を楯に取れば攻めてこないと考えている」
「そのようだな。だが喬道清どのがいない今、戦況は不利なのではないか。援軍の便りもないし、いつまで持ちこたえられるか」
黄鉞も弱気である。
腕を組み、沈黙の時が流れる。お互いの腹を探るように見つめ合う。そしてどちらからともなく頷くと、部屋を静かに出た。
明け方、四方の城壁に降伏の旗が翻った。
城門が開かれ、金鼎、黄鉞が進み出る。兵が持つ竿には葉声、冷寧、牛康の首が掛けられている。
黄鉞が拱手して大声で、帰順の意を告げる。
続いて翁奎、蔡沢が、李逵たちを梁山泊に引き渡した。
「無事で良かった、鉄牛」
「さすが宋江の兄貴だ。また助けられちまった。それで、あのくそ道士はどこへ行きました。おいらが叩っ斬ってやります」
「大丈夫だ。奴は公孫勝が追っている。お前たちは少し休んでくれ」
「そうですかい。じゃあお言葉に甘えて。戦になったらすぐ呼んでくださいよ。暴れ足りんのですから」
李逵はからからと笑って、項充らと行ってしまった。
唐斌がその様子を見ていた。
「関勝からは聞いていたが、骨のある連中ですな。信じないわけではなかったのですが、この目で見て分かりましたよ」
「そうか。しかし、骨があり過ぎて危険を顧みない連中が多くて、私は心配なのだよ」
と真面目な顔で宋江が言った。
唐斌が苦笑した。
しかし檄文だけで城を陥とすとは。田虎の支配も長くはなさそうだ。
いや、まだ孫安がいる。
そこへ戴宗が駆けこんできた。
報告は、晋寧に向かった盧俊義軍の戦況だった。
屠竜士、孫安と交戦中。
梁山泊軍に緊張が走った。