鳳雛 二
鈴が揺れるたびに鳴った。馬上の耿恭の刀の柄に、括られたものである。
横に並ぶのは唐斌。
二人は昭徳府攻撃の先鋒として名乗り出たのだ。
一万の兵を進めながら耿恭が神妙な面持ちで前を見つめている。
「想像できなかったかね」
「ええ。まさか、と思いましたよ」
田虎軍がここまで苦戦するなど。
耿恭は薄く微笑んだ。
それに、自分が梁山泊軍に加わっている事も、である。
斥候から報告があった。
西北に敵陣を発見。その数、およそ二千。
驚く数ではない。しかし耿恭が、斥候の次の言葉に顔色を変えた。
「それは確かか」
「はい。しかとこの目で見ました」
敵が掲げる黒旗、そこに刻まれていた文字に、唐斌の目が鋭くなった。
「あの喬道清が出てくるとはな。しかしそれだけ田虎も追い詰められているという事。ここで勝利を得られれば、一気に弾みがつく。耿恭、覚悟はいいか」
耿恭は唇を噛みしめ、頷いた。柄の鈴が、ちりんと鳴った。
やがて敵の姿が見えてきた。相手は喬道清だ。兵数の差など、何の意味もない。
行軍する唐斌らに向かって、駆けてくる一団があった。
伏兵か。
「おう、待ってくれ。おいらたちが斬り込んでやる」
李逵が率いる五百の遊撃隊だった。
「待て、李逵。相手は生半な強さではないのだ」
と唐斌が言い、耿恭は遊撃隊を見る。項充、李袞そして鮑旭の姿があった。
何だよ、と李逵が口を尖らせた。
「樊瑞でしたか。ここに来ていないのですか」
「ああ、壺関の守りに就いてるぞ」
耿恭が顔を曇らせる。術が仕える樊瑞がいたならば。
「何だよ、もういいだろ。あいつらはおいら達がやっつけてくるからよ。じゃあな」
「あ、待て」
という唐斌の制止を聞かず、李逵たちが走り去ってしまった。
「仕方ない。耿恭、お主は樊瑞を呼びに行け。わしは李逵を援護する」
馬に鞭をくれ、唐斌と耿恭がそれぞれの方向へ駆けた。
喬道清は中央に陣取っていた。四人の編将を左右に従えている。それぞれ雷震、倪麟、費珍、薛燦という。
突進してくる李逵を見て、喬道清も編将たちも嘲った笑みを浮かべていた。
編将の一人、雷震が言い、馬を進めようとする。
「ふふふ、向こう見ずな連中ですね。私が行きましょう」
「いや、待て」
喬道清自ら前に出た。
「力の差を見せつけてやるとしよう」
す、と背負った宝剣を抜き放ち、切っ先を天に向けた。
そして一喝。
雲ひとつ無かった空に、たちまちにして黒雲が立ち込め始めた。そして風が吹き始めると、あっという間に狂風となり、土や塵を捲き上げた。
李逵は構わず突進してゆく。
率いられた歩兵たちも、顔を守るように団牌を上げて、駆ける。
止まりそうにない李逵の背を見ながら、項充も覚悟を決めた。
「ええい、怖気づくなよお前たち。こんなもの樊瑞で見飽きてるだろ」
「吼えろ。こんな風など、雄叫びで押し返してしまえ」
そして李袞の言葉に、兵たちが応じた。
怯まない兵たちにも、喬道清は眉ひとつ動かさない。
「ならば」
と宝剣を李逵たちに向けて一喝した。
天を覆っていた黒雲が、地面にまで下りてきた。それが李逵たちを包み込むようにした。
後ろを駆けていた唐斌が急いで隊を回避させた。
悲鳴を上げる間もなく、李逵たちが闇に呑みこまれてしまった。
「くそっ」
唾を吐き、矛を構えたまま疾駆する唐斌。
どうする。どうするのか。
このまま戦いを挑んでも、李逵の二の舞いか。おそらく。
目を閉じた唐斌。
「関勝、お主ならどうする」
まぶたの裏の関勝が、爽やかに微笑む。
「だよな」
腿を締め、馬の速度を上げる。矛を掲げ、唐斌が吼えた。
喬道清は微動だにせず、邪悪な目を唐斌に向けた。
耿恭が、宋江のいる中軍に辿り着いた。
宋江はすぐに壺関に使いを走らせ、自軍も進軍を決めた。
「樊瑞の合流を待つべきです」
という呉用の言葉を押し切った。李逵が心配で仕方ないのだ。
先の場所には戦いの痕跡が残るだけで、李逵や唐斌の姿はどこにもなかった。憤りを胸に梁山泊軍が昭徳に迫る。
宋江は陣を敷き、号令を発する。
軍が両翼に分かれた。そして宋江の横に郁保四が進み出た。兵が荷車で運んできた巨大な旗を、ぐいと両手で持ち上げた。兵が四人で持てるかどうかの重さである。
腰を落とし、地面を支点に旗を上げてゆく。
「梁山泊、推参」
郁保四が叫び、替天行動の帥字旗が翻った。昭徳の城壁で、その勇壮さに驚きの声が起きた。
喬道清はそれを憎々しげに見ていた。そして四人の編将を従え、出陣をした。
喬道清が宝剣を引き抜き、宋江に突きつける。
「貴様が梁山泊の宋江か。少しは見込みのある連中だと思っていたが、国の狗になり下がるとはな」
郁保四が吼えた。
「ぬかせ。まあ、燕雀には鴻鵠の志など分からんだろうがな」
「私を雀と愚弄するか、木偶の坊が」
宋江が郁保四を見上げるようにした。
「すみません、宋江どの。思わず言っちまいました」
「ふふ、嬉しいよ。お主がそんな事を思っていたとはな」
「へへ。さあ、来ますぜ」
うむ、と前に向きなおり、宋江が進軍を命じた。
喬道清が宝剣を天に向け、一喝する。
駆ける林冲の脳裏に不安がよぎった。高唐州での戦い、高廉を思い出した。
「来るぞ。攻撃に備えろ」
林冲が咄嗟に叫んだ。狂風か、紙の獣か。ともかく、何かが来る。
宝剣が示した先の空に、蠅のような小さな黒い点が湧いてきた。それが徐々に大きくなってゆく。
いや、違う。こちらへと近づいてきているのだ。
それは金の鎧甲を纏った将の形をしていた。百ほどの将が、まっすぐに梁山泊めがけて飛来してきた。高廉など及ぶべくもない。獣ではなく人を術で顕現させたのだ。
だが。術は術。種は必ずある。
蛇矛を構え、林冲が吼える。
「怖気づくな。相手は見えている。いつも通り倒せば良いだけだ」
そう言って、飛来した金甲兵を自らが突き刺してみせた。放り捨てられた兵は、煙のように消えた。
それを見た梁山泊兵が意気を取り戻した。金甲兵を倒してゆくが、やはり中空からの攻撃に苦戦する。
喬道清が再び宝剣を天に向けた。黒気が湧き出し、梁山泊軍を包みこもうとする。さらに狂風が吹き始め、砂や石が舞いだした。
まずい。
見ると郁保四の旗は、この中でも揺らがずに立っている。
「替天行動の旗を目指せ。宋江どのを守るのだ」
林冲が先頭、索超が後詰めとなり離脱を計る。
「くそう、ふざけやがって」
郁保四が唾を吐き捨てる。両手で帥字旗をしっかりと支え、一歩ずつ進む。目に砂が入り涙が止まらない。激しい風に、旗の重さが何倍にも感じる。腕が千切れそうだ。
だが倒す訳にはいかない。
揺らいだ旗を、郁保四は雄叫びと共に真っ直ぐに立て直した。
宋江らが退き、李雲の攻城部隊と合流した。
気付いた劉唐が駆け寄ってくる。
「どうしたこんな所まで、林冲。む、宋江どのまで」
「妖術だ。奴ら追ってくるぞ、態勢を整えろ」
林冲の指示を飛ばし、李雲は、宋江を守るように荷車を配置した。
兵たちが空を指している。
先ほどの金甲兵が二十人ほど飛来してきた。
梁山泊軍がゆっくりと下がる。
「宋江どの」
李雲が叫んだ。
振り返った宋江は目を大きく見開いた。
どういう事だ。これも妖術なのか。
今の今まで、周囲は平原だった。だがいまは、大洋のように満々と水が張られていたのだ。そして遥か彼方まで広がっており、どこまでも深く見えた。
「本物、のようです」
水に足を踏み入れた李雲が言う。裾がしたたかに濡れている。
退路が断たれた。
その間にも金甲兵が迫る。
「くそっ、おめおめとやられるかよ」
劉唐が朴刀を構え、金甲兵を迎え討つ。
おらあっ、と気合一閃。金甲兵の体が真っ二つになった。
一気に梁山泊の士気が上がる。林冲が一体を屠れば、劉唐がさらに一体をぶった斬る。
しかし、昭徳府の方角からさらに十数体の金甲兵が飛来した。
三体目の首を飛ばした劉唐。だがその背後に新たな金甲兵が現れた。
劉唐は振り向く事もできず、背後からがっしりと抱きかかえられた。李雲が救出に向かおうとするが、阻まれてしまう。林冲もひとりで四人を相手取っている。
劉唐を抱えた金甲兵が飛びあがった。
「劉唐」
宋江が手を伸ばすと、その金甲兵の軍装の端を掴むことができた。しかしそのまま宋江まで空中に持ちあがってしまう。だが宋江の足首を、すんでのところで郁保四が掴んだ。
「俺にかまわず放してください。宋江どのまで捕まっちまう」
「放すものか。このまま引くのだ、郁保四」
郁保四がありったけの力を込め、歯を食いしばる。
だが金甲兵は動かない。宋江の体が無理に引っ張られるだけだ。
両手ならばと思うが、左の手には帥字旗がある。これを、旗を倒す訳にはいかない。
「くそっ、この野郎」
振りほどこうと劉唐がもがくが、微かに揺れるだけだ。
金甲兵はしばらく感情の無い目で宋江らを見ていたが、やがてさらに空中へ上がり始めた。
郁保四の右腕に太い血管が浮かぶ。
その腕に矢が突き立った。すぐにもう一矢。
一瞬、力が抜けそうになったが、それでも放さなかった。
「くそったれがあ」
血に塗れ、郁保四が吼えた。
金甲兵に加え、昭徳の軍が追いついてきていたのだ。
劉唐、と宋江が叫んだ。
宋江が手を放してしまった。限界をとうに超えていたのだ。
見る間に金甲兵が豆粒くらいに小さくなってしまった。
「宋江どの。郁保四も大丈夫か」
李雲が兵と壁になる。
「観念しろ。降伏すれば命は助けてやるぞ」
敵将の声が聞こえる。だが帥字旗が雄々しくはためいているを見て、近づくことはしない。
感覚の無くなった手を擦りながら、宋江が険しい顔をする。
万事休すか。
郁保四が持つ、梁山泊の旗を見上げる。
敵に捕らわれるよりは。
宋江が腰の刀を抜いた。
「お待ちください」
宋江らの前に、突如見知らぬ者がいた。
「ご安心ください。あなた達をここから逃がして差し上げましょう」
実に奇怪な風貌だった。体は青黒く、髪は赤みがかっている。さらに目を引くのが、額に盛り上がるように突き出た二本の角であった。牛のようなものではなく、肉でできた角のようだった。
安心しろと言われても、不安は拭えない。
李雲が宋江に告げうr。
「宋江どの、信じてみましょう」
刀を下げ、宋江が頷いた。
では、と謎の男が足元の土を掬った。横目に宋江たちを見る。
「しばらくの間、そなたたちは災厄に遭う定め。だが持ちこたえよ。必ず運気は開けよう」
謎の男が土を水の上に投げた。
すると見る見るうちに水が引き、もとの平原が現れた。
梁山泊軍が驚きと歓喜の声を上げる。
謎の男が、李雲にぼぞりと告げた。
「過日は世話になった、その礼だ。あの彫り師にもよろしく伝えてくれ」
優しく微笑むと、角のある男の周囲に風が起きた。そして風が止むと、その姿が消えていた。
梁山泊軍が退却した。昭徳府軍は追ってこなかった。
水の術を破られ怯んだのだろう。
五、六里行くと扈三娘、孫新らの隊と会った。
助かった。
呉用の待つ陣に戻り、郁保四が旗を据えた。
そして大きな息を吐き、地面に大の字になった。腕には矢が刺さったままであった。
替天行動の旗が翻る。
李雲はそれを見ながら、満足そうな顔をしていた。
退却中、古い廟がある場所を過ぎた。そこで思い出したのだ。角のある男が何者なのかを。
太原、石室山からの帰路、この付近を通った。そしてひと騒動あった後、廟の修復をした。祀られていたのは確か、戊己の神だった。
戊己すなわち土。五行でいう土克水、土は水に克つ。なるほど、術を破れる訳だ。
こうなることを期待した訳ではない。だが結果、梁山泊を救う事となった。
李雲は、金大堅の驚く顔を早く見たいと思った。
果たして、信じるだろうか。




