鳳雛 一
男が座している。
祭壇のような場所だ。周囲に置かれた蝋燭の火が揺れ、その度男の影も揺れた。男は微動だにしないが、何かと戦っているように影は動いている。
やがて炎が消え、その部屋が闇に包まれた。
長い息を、男が吐いた。体を解すようにゆっくりと立ち上がる。闇の中を迷いもせずに歩き、扉に辿り着いた。
男は道服を纏っていた。漆黒の闇のような黒だった。
「おお、軍師どの。出て参られたか」
男の姿を見た田虎が顔をほころばせた。男はその場にいる者たちを睨め回した。田虎の配下たちが項垂れている。
山士奇が敗れ、壺関が陥落した。梁山泊はさらに軍をすすめ、昭徳の城外に迫っている。また西に別動隊がおり、晋寧を狙っているという。
なるほど、戦況は思わしくないようだ。
軍師と呼ばれた男が言った。
「私が、昭徳に向かう。梁山泊など敵ではない」
「ではわしは晋寧へ行くとするかな、軍師どの」
孫安だった。孫安は男に微笑むと、田虎の指示を待たずに部屋を出ていった。男は孫安の背を見送る。相変わらず、縛られぬ男だ。
兵二万を連れ、威勝を発った。
軍師どのがわざわざ出向くまでもない、と田虎は言った。だがそうもいかないのだ。
祭壇の間で、男の影が戦っていた相手。それが梁山泊にいる。
自分と同等の力を持つ道士。いや影での戦いでは自分が勝っていた。決着をつける前に向こうが術を解いたのだ。
だが油断はならない。
向こうも出向いてくるだろう。ならば直接叩き潰すのみだ。
田虎軍軍師、喬冽が宝剣を天に向け進軍の合図を出した。
陝西の涇原に、喬烈は生まれた。
身ごもっていた母親が、部屋に入ってきた豺が鹿に変じた夢を見た。そして目覚めると喬冽を産み落としたという。
家族は、きっと大物になるに違いないと、息子に武術や学問を教え込んだ。結果、八歳で槍棒を使いこなすまでになっていた。
家族で崆峒山に赴いた時である。
気がつくと家族とはぐれ、あたりに靄が立ち込めていた。
「力が欲しいか」
突然声がした。まるで心に直接語りかけるかのような声だった。戸惑う喬冽に、もう一度声が問いかけた。
「力が欲しいか、小僧」
目の前に老人がいた。粗末な布を纏っただけの老人が声の主だった。そうと知ると怒りが湧いてきた。
「何者だ、お前は。この靄もお前の仕業だな」
「ほう。怖がらぬとは、見どころがあるな」
「何者だと聞いているんだ」
老人がにやりと口を歪めた。
「お前には力が眠っておる。それを使いたいとは思わぬか」
「力だって」
喬冽はいつか聞いた、母の夢を思い出した。まさかと思ったが、自分に眠る力という言葉に心が揺れた。
「興味があるようだな、小僧」
「なっ」
心を見透かされた喬冽の心臓が高鳴った。と同時に、老人が言う力というものに更なる興味が湧いていた。
老人が人差し指を喬冽に向けた。次の瞬間、喬冽の目の前に老人がいた。指を、喬冽の額に置いた。
「欲しいのだろう、力が。くれてやる、好きに使え」
ふ、と喬冽は意識を失った。
目覚めた時、心配そうに泣いている両親に抱きかかえられていた。
当然、あの老人はいなかった。
しかし、皺がれた声はずっと脳裏に残ったままだった。
偶然だと思った。
夏の暑い日だ。風でも吹けば涼しくなるのに。喬冽が思ったすぐ後に風が吹き始めた。
それが何度か続いた。
まさか。喬冽も初めはそう考えていた。だが偶然と呼ぶには、多すぎた。
雨よ降れ。思い切って、念じてみた。
降った。そして確信に変わった。あの老人のおかげか。いや、自分に力が眠っていると言っていたのだ。
夢のお告げ通りだと両親が興奮し、喬冽を九宮県に行かせる事にした。二仙山に住む羅真人に弟子入りさせるためである。
「力を得て、何をしたい」
「もちろん、世のため人のためになりたいのです」
羅真人は喬冽の目をじっと見た。心の奥を覗かれるような、あの時の老人と同じ感じがした。
「修行の道は厳しいぞ、坊主。それにここに住むことになる。親にも簡単には会えぬぞ」
「大丈夫です。そのくらい覚悟の上です」
「わかった。良いだろう」
あっさりと弟子入りが決まった。拍子抜けした感さえあったが、ともかく喬冽は期待に胸を膨らませた。
しかし想像と現実は違った。
「もっと手っ取り早く教えて下さいよ。風を思いのままに吹かせる術とか、雨を降らせる術とか」
入門してから約ひと月、お堂の掃除や飯の支度しかさせられていない事にさすがに辟易していた。
「修行は厳しいと言っただろう。嫌なら山を下りるのじゃな」
その言葉に、喬冽は我慢するしかなかった。
やがてもうひと月経ち、喬冽の我慢も再び限界を迎えた。さらに、羅真人は本当に噂されているような仙人なのか疑いを持ちだした。実際に術を使っているところなど見た事がないのだ。
喬冽はその夜、寝床から抜け出し、こっそりと紫虚観へ向かった。毎晩、羅真人が読経しているのだ。
猫のように喬冽は忍び込んだ。その手には棒が握られている。羅真人の声が聞こえる。
いた。こちらに背を向けている。
ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと息を吐く。
読経は続いている。
喬冽の手に力が込められる。
仙人ならば、術でかわしてみろ。
喬烈がつま先で踏み込み、羅真人の後頭部めがけて、棒を振り下ろした。
やった。手ごたえがあった。
「えっ」
目の前に座す羅真人が、黒くなっていた。頭に当たっていた棒を、黒い手が掴んだ。その指先には鋭い爪が生えていた。
「ひゃっ」
鈍い音とともに棒が折れた。
喬冽は気付いた。目の前の羅真人の頭が、いつの間にか見上げるほどの高さになっていたのだ。
羅真人はさらに大きくなってゆく。背中や肩の筋肉が膨れ、道服が破れてゆく。その下から、黒い鋼のような肌が見えた。
「ひぃ」
喬冽は腰を抜かした。
振り向いた羅真人の顔は、凶悪な牙を生やした、まさに地獄の鬼のようだった。
「お前、何の用だ」
低く、空気まで震えるような恐ろしい声がした。
喬冽は気を失った。
目が覚めると自分の寝床にいた。昨晩の出来事を思い返す。夢、だったのだろうか。いやそんなはずは。
外では雀が呑気に囀っている。
身支度を整え、喬冽は朝の仕事に向かった。
紫虚観では羅真人が既に読経をしていた。その背を睨むようにする喬冽。
あ、と声が出た。
羅真人の側に、折れた棒が落ちていた。
やはり、夢ではなかったのだ。ならばあれは羅真人の術だったのか。
その日を境に、喬冽は心を入れ替えた。どんな雑用でも文句を言わずこなすようになった。
一年が過ぎ、やっと羅真人が術を教えようと言った。
やはり才能があったのだろう。喬冽は術を次々と覚えていった。
さらに数年、まだ子供らしい生意気な面も時おり見えたが、背丈も伸び体躯もしっかりとしてきた。
そんなある日、羅真人が言った。
「今日からお前は、道清だ。良いな、精進するように」
「はい。ありがとうございます」
道号を授けられた。一人前の弟子と認められたのだ。
かくして喬道清が、ここに誕生した。
喬道清はますます修行に身を入れるようになった。厳しくもあったが、充実した日々だと感じていた。
だがそれが突然終わる日が来る。
ある日、羅真人が少年を連れて戻ってきた。
「こいつは誰です、お師さま」
訊ねる喬道清に答えず、羅真人はその少年を奥の部屋に寝かせた。
数日後、いまにも死にそうだった少年が小さく唸っていた。
「お師さま、目を覚ましました」
子供の髪は真っ白になっており、喬道清は驚いた。しかし羅真人の次の言葉の方に、驚く事になる。
羅真人がその公孫勝という少年に言った。
今日からわしの弟子だ。そして今からお主は一清となる、と。
頭の中が燃え上がるように熱くなった。言葉も出なかった。
自分が道号を授けられるまで、どれだけ苦労したと思っているのだ。なのにこいつは。こいつは。
頭を下げる公孫勝の目をまともに見ることができなかった。
最後に母に会って来いと言われ、公孫勝が下山した。
喬道清はその姿を憎々しげに見つめていた。
「山を下り、世の中を見てくるのだ。術を学ぶばかりが修行ではない」
羅真人の言葉で、喬道清が下山した。本当に久方ぶりの下界だ。不安な分、楽しみでもあった。
故郷へ帰ってみよう。喬道清は一路、西を目指した。
この地方では日照りが続いており、人々は苦しんでいた。作物の取れない大地と同じくらい、人の心も渇いていた。太陽を呪うように、虚空に手を伸ばしたままの亡骸を見るたび、喬道清の足も、心も重くなっていった。
国は何をしているのか。苦しむ人々を救いはしないのか。
悶々としたまま喬道清は安定州に着く。
比較的穏やかな土地だったが、旱魃の影響はやはり大きいようだ。
その州で、お触れが出されていた。雨を降らせる者があれば、三千貫の賞金を与えるというものだった。
羅真人の言葉の真意はこれだと悟った。これまで学んだ術を使う時なのだと。
剥ぎ取った触れ紙を手にしていると、声をかけられた。
その書生風の男は何才と名乗った。
「そいつを一体どうするつもりです。まさか雨を降らせようなんて考えてるのでは」
「そのまさかさ」
何才に向かって喬道清は不敵に笑ってみせた。だが何才の顔は曇ったままだった。
無理もない、出会ったばかりの男が雨を降らせると言っているのだ。信じろと言う方が無理というものだ。しかしそうではなかった。
「役人を信用してはいけない。たとえ貴方が雨を降らせたとしても、賞金を渡すことはしないぞ」
「それでも、やらねばならないさ」
真剣さを感じ取ったのだろうか。何才はそれ以上何も言わなかった。
かくして祭壇が組まれ、喬道清が壇上で祈りを捧げた。
およそ五か月ぶりの雨だった。乾いた大地が水を吸い、命を吹き返した。苦しんでいた民は歓喜し、喬道清を神のように讃えた。悪くない気分だった。
だが問題はそれからだ。何才の言ったように、役所は賞金を出そうとはしなかった。
何才は仕方ないという顔をした。話が通じる役人がいるから掛け合ってみるという。
戻った何才は複雑な表情をしていた。
「旱魃以来、この土地の租税の入りが悪くてな。何とか手を尽くしてやり繰りしているのが実情だそうだ。なので賞金は、預けているという形にしてくれないかという事だ」
賞金目当てではない喬道清だったが、釈然としないものはあった。肩を叩き、何才が笑う。
「お主のほどの腕ならば、金などいらぬだろう。賞金は入り様な時に取りに行けばよい」
「そうだな」
喬道清はそう納得した。確かに雨は降らせたが、作物が育ち、実るまでにはまだ時が必要だ。どのみち銭は民に配るつもりだったのだ。
「州を代表してなどとはおこがましいが、礼をさせてもらえんか。贅沢などできはしないが」
何才は居酒屋を示して笑った。
喬道清は眉尻を下げた。
安定州で幾日か過ごしたが、そう長居もしていられない。
何才を探したが見つからない。喬道清はひとりで役所へと乗り込んだ。喬道清を見ると、 役人は露骨に嫌な顔をした。
「いま出納役はおらぬのだ。そもそもあの男、何才から聞いていないのか」
「私もそろそろ発たねばならないのだ。州の事情は聞いている。だから証文と、少しでいいから路銀を貰いたいのだ」
役人は腕を組み、渋面を作る。そして懐から何かを取り出し、喬道清に放り投げた。
三貫の銭であった。
「あんたには助けられたよ。それだけでもありがたいと思ってくれ」
喬道清は冷静になるように努め、堅く握りしめた拳をゆっくりと開いた。
自分は人のためにやったのだ、銭のためではない。そう言い聞かせ、役所を後にした。
酒でも呷りたい気分だった。
だが大通りまで出て、喬道清は思わず身を隠してしまった。
何才がいた。赤い顔をしており、一緒にいる出納役も同じだった。二人は妓楼から出てきたところであった。
「あ」
と何才が間の抜けた声を上げた。二人の前に喬道清が立っていた。
二人はしたたかに酔っていたのか、逃げようとして足をもつれさせた。
察しがつく。喬道清の賞金を、出納役を丸めこみ、山分けしたのだ。
「術を使うまでもない」
喬道清の拳が何才の顔面を襲った。血と共に何本かの歯が飛んだ。そのまま喬道清が出納役に蹴りを打ち込んだ。そして何度も何度も、拳と蹴りを打ち込んだ。
二人が動かなくなっても、しばらく止むことはなかった。
腸が煮え繰り返る思いだ。
なぜこの男を信じてしまったのか。
やはりこの世は腐っている。
道服が返り血に濡れ、拳も赤く染まっていた。
天に向かって喬道清が哭くように吼えた。
「力が欲しいか」
ふいに脳裏に言葉が浮かんだ。
幼い頃聞いた、あの言葉だった。
「欲しい」
喬道清は答えた。
「すべてを壊す力を、俺に」
喬道清が両手を天に向けて広げ、高らかに叫んだ。
黒雲が突如湧き出し、天を覆った。
雷鳴が轟き、雨が降り出した。
雨は次第に強くなり、立っていられないほどの豪雨となった。
人々が逃げ惑う中、喬道清は同じ姿勢のまま笑っていた。その裾さえも、一切濡れずに立っていた。
英雄は幻魔君へと変容した。