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夢想 四

 西へと向かう魯智深(ろちしん)武松(ぶしょう)陽城(ようじょう)の居酒屋で酒を飲んでいた。

 二人の耳に人々の声が聞こえてくる。

 (かど)の卓の二人の客は、はじめ声を潜めていたが、酒が増えるにつれ段々と大きくなってきた。

「まったくよう。あいつらが来てから、商売あがったりだ」

「本当だよな。ずっとこのままなのか。これならお上の方がましってもんだぜ」

 特にこの陽城、近隣の沁水(しんすい)の守将は虎の威を借る狐よろしく、横暴な振る舞いばかりで住民は苦しんでいるようだ。

 魯智深と武松は構わずに飲み続ける。

 二人の愚痴は熱を帯びはじめる。

「噂だけど、田虎(でんこ)討伐軍が出されたらしいぜ」

「本当か、それは。だとしても、官軍じゃあ頼りなくて期待できんな」

「いや、それが今度はそうでもないようだぜ」

「どういう事だ」

「討伐に出陣したのは、なんと及時雨(きゅうじう)宋江(そうこう)率いる梁山泊(りょうざんぱく)だというのだ」

「梁山泊だと」

「ああ、そしていくつか城を奪還したというのだ。東京(とうけい)開封府(かいほうふ)の方から来た商人に聞いたんだ。おそらく間違いあるまい」

「早く、ここにも来てくれないかな」

 武松が杯を持った手を止めた。魯智深は笑みを湛えた。

 世間的には梁山泊は官軍に負け、招安を受けた事になっている。だが梁山泊ひいては及時雨に、期待を(いだ)いているのだ。

 突然、店主が静かにするように言った。

 すぐ後に四、五人の男たちが入ってきた。どの顔もごろつきか山賊のそれである。客を一人ひとり()め回している。

「これはこれは、旦那がたお揃いで。すぐに席を用意しますので」

 店主が愛想笑いを浮かべる。どうやら田虎側の連中のようだ。先ほどまで不満を漏らしていた二人は黙りこんでいる。

 (かしら)格の男が言った。

「残念だが、今日は酒を飲みに来たのではないのだ。不審な者が近くをうろついているんで探しているのだ」

 頭格が、魯智深と武松に目を止めた。

「おい、お前たち。見るからに怪しいな。何者だ」

 凄む頭格だったが、二人は構わず酒を飲んでいる。そしてなんと酒の追加を、主人に頼んだ。頭格たちの事を、まったくいないかのように振る舞っている。

 これには客たちも堪え切れず笑った。いつも虐げられている彼らの()さを晴らしてくれたのだ。

 しかし頭格の方は穏やかではない。おい、と刀を見せるように声を荒げるが、やはり魯智深と武松は涼しい顔だ。

「魯の兄貴、蠅がうるさいようですね」

「放っておけ。今は酒を飲むのに忙しいのだ」

 頭格が真っ赤になり、二人に詰め寄った。

 仕方ない、といった風に二人がやっと顔を向けた。

「お前たち、見かけない顔だな。どこから来た」

「ご覧の通り、旅の僧だ。お前らこそ何者だ」

「お前らみたいな僧がいてたまるか。俺たちは寇孚(こうふ)さまの部下だ。いいから答えろ、どこから来た」

 寇孚とは、この陽城の守将だ。

 あっ、と一人が声を上げた。魯智深の禅杖を指差している。

鈕文忠(ちゅうぶんちゅう)さまは頭を潰されておりました。こ奴の禅杖なら」

 陽城の東の街道で、田虎軍の将である鈕文忠とその配下の(むくろ)が発見された。急報を受けた寇孚が、下手人を探させていたのだ。

 魯智深が言う。

「そいつは奴の事か。それならわしが説教してやったわい。当然の報いだ」

 殺気が(みなぎ)った。

 す、と武松が立ち上がった。流れるような動作で、妖刀を抜き放っていた。二人の首が音もなく、飛んだ。

 風が吹いた。禅杖が起こす風だった。鈕文忠と同じように、二人の頭蓋が砕けていた。

 微動だに出来ぬ頭格。もう残りは自分だけだ。

 逃げねば。そう思うが体が動かない。頭格はそのまま、妖刀に貫かれた。

「これは迷惑をかけてしまったな、ご主人」

 頭を掻きながら魯智深が笑う。武松は銭を放り、荷物をまとめている。

 呆気にとられていた店主が我に返り、おずおずと魯智深に訊ねた。

「あんた達、いったい何者だね」

「旅の僧、ではもう通じないかのう」

 経緯(いきさつ)を語る魯智深。話終えた時、店主が嗚咽を漏らした。

「どうされた、主人」

「どうもこうも、ありませんよ」

 客の一人が告げた。

 あの街道の居酒屋は、店主の息子夫婦が営んでいたのだと。


「断る。やるのならば、俺たちの手を借りず、自分たちの力でやるのだ」

 武松は厳しい目で、彼らを一喝した。

 店主の息子夫婦の死に、住民たちの怒りが沸点に達した。そこで住民たちは寇孚を追いだすため、魯智深と武松を頼ろうとしたのだ。

「そんな、そう言わずに。俺たちだけじゃあ」

「駄目だ」

 と武松はにべもない。魯智深は腕を組み、黙っている。

 ()きかけた火が消えそうになった時、主人が言った。

「わかった。わしはやるぞ。息子たちの仇はとってくれたのだ。あとはわし達の番だ」

 そう言って拳を握る。やはり怖れで震えていた。

 だが主人の決意に、次々と賛同する者たちが増えた。そしてその火は、静かに陽城中に広がっていった。

 施恩(しおん)か、と魯智深は思った。

 かつて武松が孟州(もうしゅう)に流された時、典獄の息子であった施恩が彼に近づいた。理由は、奪われた快活林(かいかつりん)を取り戻すためであった。

 だがいざという時に、施恩は尻込みをした。そこで武松は喝を入れた。本当にその決意があるのかを、施恩に問うた。そして施恩は自分の思いを吐露し、決意を示したのだ。

 いま目の前の住民たちにも、同じ事をしたのだ。

「これはわし達の出番はないかもしれんの」

「いえ、魯の兄貴にも、ひと肌脱いでもらいますよ」


 寇孚は額に青筋を浮かべ、怒りをなんとか抑えていた。

 不審者を捜させていた手下が返り討ちにあったと報告があった。

 そして今、寇孚の前にその不審者がいた。(ふと)った和尚と、凶悪そうな行者である。

 二人は縄をかけられ、後ろ手に縛られていた。住民たちが彼らを騙して捕らえ、引き渡しに来たのだ。

 しかしこの二人、怖ろしい風貌をしている。しかも和尚の禅杖は二人がかりでやっと持っているほどだ。

「よくやった、お前たち。後で褒美を与える。もう帰って()いぞ」

 しかし住民たちは、危険な目に遭ったのだから処分を確認するまで帰れない、と言う。

 まったく面倒くさい連中だ。

「わかった。すぐに斬首してやるから、そこをどいていろ」

 寇孚の言葉に、住民が離れた。その時、するりと縄が解けた。魯智深と武松の手が自由になり、得物が渡された。寇孚の手下たちが反応する()もなく、斬り伏せられていた。

 にやりと魯智深が笑う。武松がこの策を言いだした時には驚いた。かつて二竜山(にりゅうざん)()とすために、曹正(そうせい)が考えた策だ。

「き、貴様ら」

 立ち上がり、後ずさる寇孚。

 だが魯智深の禅杖と、武松の妖刀が寇孚を狙っている。

「さあ、逃げ場はないぞ。おとなしくこの街から出ていくのならば、何もせん。どうする」

「貴様たちは何者だ。この街の事など関係ないだろう」

「お主が田虎の配下ならば関係は大ありだ。なにせわしらは梁山泊の者なのだからな」

「なっ」

 寇孚は言葉を詰まらせた。梁山泊は蓋州(がいしゅう)まで奪ったと聞いていた。

 しかし、

「くく、出まかせを。こちらの方面には進軍していないはずだ」

「ほう、情報が早いな」

 武松が一歩前に出る。

 寇孚は落ち着きを取り戻していた。兵たちが騒ぎを聞きつけ、集まってきた。住民たちの顔が不安に曇りだした。

「くはは、武器を捨てろ。形勢が逆転したな。とっとと俺を殺していればよかったものを」

 武松が刀を手から放した。床に落ち、からからと音を立てる。

「お前ら、こいつらを捕えろ。いや、殺してしまえ。一人も生きて返すな」

 兵たちが動いた。

 しかしその刃は魯智深たちではなく、寇孚に向けられた。

「忘れていたようだのお。兵たちのほとんどは、元々この陽城の者だ。守るべきはお主ではなく、この街の住民だ」

 そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。

 吼えた寇孚が刀を拾い、駆けた。

 刹那、武松が風のように動いた。

 鈍く、何かが砕ける音がした。

 寇孚が後方へ吹っ飛んでいた。そのまま壁に激突した。寇孚の鳩尾(みぞおち)が、深く(えぐ)れていた。

 武松の岩のような拳が、赤く染まっていた。


 陽城が、住民の決起で陥落した。その報は瞬く間に広がった。

 陽城にほど近い沁水(しんすい)、ここではすでに住民が守将の陳凱(ちんがい)を捕らえていた。沁水は高揚した空気に包まれていた。

 魯智深らの目的地は、この沁水であった。

「あなたが(ちょう)員外(いんがい)どののご親族ですね。よく似ておるわい」

「あなたが魯智深さまですね。お噂はかねがね聞いておりました」

 陳凱が捕らわれ、手下の者たちも逃げてしまったようだ。だが田虎の勢力下である事には変わりない。その親戚は、趙員外の元へと行くことを承諾した。

「その前にお二方、長旅お疲れでしょう。喉でも潤していきませんか。美味い酒のある店があるのです」

 と趙員外と似た、優しい笑みを浮かべた。

「さすが員外どののご親戚だ。わしらを分かっていらっしゃる」


 翌日、雪が降りやんだ。

 いつまでもじっとしている訳にもいかない。

 呉用(ごよう)朱武(しゅぶ)は協議し、軍を二手に分けることにした。

 このまま北上し、威勝(いしょう)を目指す宋江軍。そして西から迂回し、背後から威勝を攻める軍は盧俊義(ろしゅんぎ)が率いる。

 蓋州の守備に残る花栄(かえい)に、宋江が会っていた。

「頼んだぞ、花栄」

「おい宋江、まさか俺を置いて行くとはな」

「そう言うな。この蓋州は(かなめ)で、梁山泊軍の後衛になるのだ。田虎軍が襲ってきた時に、お前ほど頼りになる者はおるまいよ」

「ふふ、まあ良い。そういう事にしておこう。期待通り、背後はしっかりと守るさ。だが」

 ふいに花栄が真剣な顔になる。

「決して無茶はするなよ。何かあったらすぐに戴宗(たいそう)なり王定六(おうていろく)を走らせろ。分かったな、宋江」

「心配するな。幸先の良い報せがあったではないか。私たちに追い風が吹いているのではないかな」

 梁山泊軍の元に、陽城と沁水の民が反旗を翻し、守将を捕らえたという朗報が届いていたのだ。

 しかし花栄は心配そうな顔をしている。

「わかったよ。遠慮なくそうさせてもらうよ」

 宋江は笑い、二人は堅く手を握った。

 盧俊義軍が先に出発した。それを見送り、宋江は地図を広げた。許貫忠(きょかんちゅう)の地図を、蕭譲(しょうじょう)が書き写したものだ。 

 耿恭(こうきょう)によると、蓋州から先の要所は、南から壺関(こかん)昭徳(しょうとく)潞城(ろじょう)褕社(ゆしゃ)。まずは壺関へと攻めのぼる。

 雪を踏みしめ進軍する宋江軍を、花栄が城壁から見守っていた。

 宋江、盧俊義を鼓舞するように、蓋州の城壁で梁山泊の旗が(ひるがえ)っていた。


「いや、本当に美味い酒でした」

「お口にあったようですね。私も嬉しいです」

 店から出た三人。そこへ子供が駆けてきて、武松にぶつかった。武松の視線に、思わず泣きそうになる。一緒に駆けていた友達も同じような顔になる。

 武松の大きな手が、覆いかぶさるように迫った。

 ひっ、と子供が身をすくめ、目を瞑った。

 くしゃりと優しく、武松の手が子供の頭を撫でた。

「友が待っているぞ」

 戸惑った子供だったが、逃げるように友達の方へと走った。少し行ったところで振り返り、ごめんなさいと頭を下げ、走って行った。

 趙員外の親戚が、口元をほころばせる。

「子供たちが駆けまわるなど、どれほどぶりに見た事か。お二人に改めて礼を言わなければいけません」

 魯智深は嬉しそうな顔をした。

「いえいえ、わしらはほんの少し力を貸しただけです。民たちが自分たちで戦ったのです、なあ武松よ」

「そうですね」

 武松がそう答え、少し考えこむようにした。

 虐げられ苦しむ民を救いたい。宋江は常にそう言っている。

 陽城そして沁水の人々は、自分たちの力で自由を取り戻した。

 梁山泊が救わずとも、である。

 いや、違う。梁山泊が田虎軍と戦っている事実に後押しされたからだ。宋江の想いが、行動が、人々の中にも広がっているのだ。

 私は何もしていませんよ。

 宋江ならきっとそう言うのだろう。

 振り返った武松は、そこに魯智深がいない事に気付いた。

「魯の兄貴は」

「え、あれ。いままで、そこに」

 趙員外の親戚も目をぱちくりさせる。

 一体どこへ行ったというのだ。

 踏み出そうとした武松が、咄嗟に飛び退(すさ)った。

「なんだ、これは」

 武松の頬に汗が伝った。

 魯智深が直前まで立っていた場所、そこに黒く大きな穴が口を空けていた。

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