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夢想 三

 手にしていた杯を投げつけ、田虎(でんこ)が吼えた。

 田虎の眼下では、于玉麟(うぎょくりん)盛本(せいほん)が酒に濡れ、(ひざまず)いている。

「お前たちはそれでのこのこと逃げてきたという訳か」

「申し訳ございません。援軍をお借りできれば、必ず奴らから城を奪還してみせます」

 新しい杯が渡され、田虎は酒で喉を潤した。

 酒が美味くない。陵川(りょうせん)高平(こうへい)さらに蓋州(がいしゅう)まで占領されてしまうとは。

 蓋州は東京(とうけい)開封府(かいほうふ)へ至る足がかりであった。だから八臂鬼王(はっぴきおう)鈕文忠(ちゅうぶんちゅう)に任せたのだが。

「所詮は山賊か」

 田虎の言葉を聞き、于玉麟のこめかみに筋が浮かんだ。(おもて)を上げていたならば、その怒りの表情が見えただろう。

 于玉麟は元々、鈕文忠の配下である。その鈕文忠のおかげで田虎も勢力を伸ばせたというのに。

 ならばお前はただの猟師だろうが。その言葉を飲み込み、于玉麟はなおも嘆願した。

 田虎はあご髯を捻り、考えるような顔をする。

(はん)都督、どうしたら良い」

 それに応じて前に出たのは、官服を着た范権(はんけん)という男。白髪混じりであるが、背筋は伸びている。眼光が鋭いというよりも、どこか人を見下しているような風である。

 この范権、威勝(いしょう)近くの村の庄屋であった。田虎らに襲われた時、誰よりも早く逃げだしたが捕らえられてしまう。

 殺される。絶望した范権を救ったのは、彼の娘だった。娘は器量が良く、田虎はひと目で気にいってしまった。その娘を躊躇(ためら)いもなく差し出し、范権は田虎の義父となった。

 仮にも庄屋であったため人を治める方法を知っていた。それは田虎の地位と勢力を拡大するのに大いに役立った。かくして田虎は范権に全幅の信頼を置くようになっていった。

 そうですな、と各地の将の配置を頭の中で確かめる。

「いま動かす事のできる将はおりません。ですがこちらから動かずとも、迎え討てば良いのです。威勝に至るまでには山士奇(さんしき)卞祥(べんしょう)など勇猛な将が山ほどおりますからな」

「うむ、そうか。という事だ、于玉麟よ」

 ぐ、と歯噛みをし、田虎の前から去る于玉麟。こうなれば、許可を得ずとも動くしかあるまい。

 盛本も悔しそうな顔を隠そうともしない。

「くそう。そうだ孫安(そんあん)どのに頼んでみては」

「うむ、おそらく聞いてくれるだろう。だが」

 孫安軍は常に動いており、居場所を掴むことは容易ではない。それが許されるほどの実力だという事でもあるが。

 はっ、と于玉麟が閃いた。

「おい盛本、彼はどこにいるか確かめてくれ」

「彼とは誰です」

 于玉麟が声をひそめて言う。

「太子の田定(でんてい)だ。田虎のどら息子だよ」

 

「これは太子さま。こんな所までわざわざいらっしゃるなんて。一報くだされば、お迎えにあがったものを」

「いや、仰々しいことは嫌いなのでな」

 田定が立派な衣装で、胸を反らして言う。まだ二十歳(はたち)そこそこで、あどけなさの残る顔立ちだ。

 田定は太原(たいげん)に来ていたが、実は田虎には黙ったまま出てきていたのだ。

 跪く太原守将の張雄(ちょうゆう)は、その態度とは裏腹に心中で唾を吐いていた。

 驚かせるんじゃないぞ、まったく。まあ適当にもてなして、田虎に良い報告をしてもらうとしよう。

 その胸中を知らぬ田定が言う。

「そう(かしこ)まるな。立ってくれ」

 では、と張雄が応じる。すると張雄の頭が、田定の遥か上になった。張雄は望楼塔(ぼうろうとう)と呼ばれるほどの長身であった。

 さすがに田定の顔が曇った。

「それで太子、ここへは何をなさりに来たので」

「あ、ああ。そうだ、ちょっと視察にな」

「太子は城でじっとしていられないと見えますな。正直言えば、退屈だったのでしょう」

「ま、まあ、そうとも言えるかな。親父は戦に出してくれないし、俺を見くびっているのさ。そう思わないか」

「そんな事ありませんよ。田虎さまは太子に何かあってはとお考えなのです」

 そうかな、と鼻をこする田定。

 張雄は口の()を歪めるが、田定には見えない。そして張雄が部下を呼んだ。統制の徐岳(じょがく)(こう)(ちゅう)である。

「こ奴らが面白いところへ案内します。申し訳ありませんが、わしは仕事が溜まってまして。ここで失礼させていただきます」

 田定が二人に連れられて行くと、張雄は解放されたように大きく伸びをした。長身がさらに大きく見える。

「おい、酒と肴を用意しておけ。夕刻には帰ってくるだろう。ああ、わしの部屋にも酒を持って来い」

 仕事など、無い。田定の相手をするのが面倒なだけだ。張雄は部下にそう命じると、自室へと戻った。

 

 石室山(せきしつざん)の石切場。昼の休憩の合図があった。

 童威(どうい)が顔を上げ、汗を拭いていると、童猛(どうもう)が駆けて来るところだった。

「どうした、猛」

 童猛は作業場の向こうを指差した。次の瞬間、作業場の外から、大勢の人間がなだれ込んできた。

「おいおい、何だよあいつら。勝手に入ってくるんじゃないぞ」

 童威が制止しようと向かった。が、違和感に足を止めた。

 乱入者たちはいずれも農夫ばかりで、女子どもまでいる。そしてどの顔も何かに怯えているような、恐怖にひきつっていた。

「何ごとだ。何だあの連中は。止めるんだ、童威」

 この騒ぎに、李俊(りしゅん)が駆けつけた。その間にも、群衆は続々となだれ込んでくる。

 陶宗旺(とうそうおう)の手下たちも協力し、その群集たちを一か所に集め、とりあえずは落ち着かせることにした。

 喧騒がおさまる頃、初老の男が進み出て頭を下げた。彼らは太原周辺の村に住む者で、そこから逃げてきたのだという。男は李太公といった。

「これまでも何度か来てはいたんです。その都度、貢物をして難を避けていたのですが」

 太公の顔が話すごとに暗く沈んでゆく。李俊らは黙ってそれを聞いた。

 数年前から田虎が河北で勢力を拡大していた。太原城も抵抗したが敗れ、田虎の支配下に置かれた。村には税を納めるように通達が来た。不当な要求だったが、それで皆の安全が保たれるのならば、と李太公は応じた。

 だが最近、太原に駐留する者が変わった。見上げるほどの大男、張雄とその二人の配下、徐岳と項忠が主だった者だ。この三人が最悪であった。

「そいつらには人の心が通っておりません」

 少しでも逆らおうとする者、果ては気に食わない者を躊躇なく殺してしまう。さらに若い女を城へ攫っていき、戻ったものはいないという。

 そして今日、村が前触れもなく襲われた。

 徐岳と項忠が見知らぬ若い男を連れていた。彼らが一軍を率い、村人たちに矢を射かけたのだ。

「狩りと称して、わしらを追いたてたのです」

 李太公の目から涙があふれ出た。

「虫唾が走る連中だぜ」

 童威が唾を吐き、毒づいた。

 まったくだ、と李俊が立ち上がった。腰に()いた刀を確かめる。

 そこへ張横(ちょうおう)が現れた。

「そこら辺でうろちょろしてた怪しい奴を捕まえたぜ」

 後ろ手に縛られた男が李俊の前に放り出された。

 男はふてぶてしい態度であった。そして自分から、徐岳の手下だと言った。村人たちを探しに先駆けてきたのだという。

「すぐに親分たちがここに来るぞ。そしてら皆殺しだぜ。へっへっへ」

 張横が男の後ろに立った。手には小刀(しょうとう)。それを首筋に当て、素早く横に引いた。

「面白そうな時に来たぜ。(げん)の兄弟たちがいなかったことを悔しがるだろうな」

 ひっ、と村人たちの悲鳴が聞こえた。

 

 田定が中央、徐岳と項忠が左右に並び、馬を駆っていた。後ろからは配下たちが徒歩(かち)で追ってきている。

 村人たちの逃げた跡は、雪にしっかりと残っていた。

「おい、あいつらどこへ逃げたのだ」

「この方向だと、石室山でしょう」

 徐岳の言葉に、田定が馬を飛ばそうとした。だがその前に項忠が叫んだ。

「待て。何だあれは」

 馬を駆けさせてた項忠は目を剥いた。村人たちを追わせていた先駆けの骸だった。首を横一文字(いちもんじ)に斬られている。

 田定が怯えたように吼えた。

「どういう事だ。何が起きている」

「へへへ、警告って訳かい。これ以上来るなという脅しだ」

「だから説明を」

 ぎろりと徐岳が田定を睨んだ。

「少し黙ってろ、若造。村の奴らじゃない、何者かがいる」

「な、なんだ、その言い方は」

 今度は項忠が威圧した。

「おい、黙ってろと言ったろ。死にたくなきゃ、俺たちの言う事を聞け」

 ひ、と声にならない嗚咽を漏らす田定。

 徐岳も項忠も配下たちも目つきが変わった。田定の居場所はなくなった。

 戦闘態勢をとり、石室山へと向かう徐岳たち。斥候を何度も出すが、目指す方向には気配がないようだ。

 そしてたどり着いた。多くの足跡が残っている。村人はやはり、ここへ逃げてきたのだ。だがその姿が見当たらない。

 怯える田定を最後尾に、警戒しつつ徐岳らが奥へ進むと、石切り場が現れた。

 徐岳と項忠が無言で目を合わせる。石室山で、何者かが石を切り出していたのか。二人とも、いや張雄も知らなかっただろう。

 徐岳が舌舐めずりをし、項忠が鼻息を荒くした。

「舐めた真似をしやがって」

「大人しく石だけ掘ってりゃあ、もしかしたら見逃してたかもしれねぇのにな」

 そして同時に笑った。

 足跡は、石切り場の採掘坑に続いているようだ。馬鹿め、袋の鼠だ。部下たちが吠えながら(あな)へ突入する。

 その時、徐岳の視界の端に動くものが映った。

 待て、と言う前に採掘坑が爆発した。

 爆風が一同を襲った。呻きながら立ち上がると、採掘坑は岩に埋もれていた。

「うわあ、もう帰るぞ。俺は威勝へ帰る」

 叫ぶ田定を、徐岳が殴った。

「黙ってろと言ったろうが。くそ餓鬼が」

 転がる田定を見る目は、とても冷たかった。殺されないだけでもありがたいと思え。そんな目であった。

「くそう、探せ探せ。どこかにいるはずだ。絶対に探し出して、ぶち殺してやる」

 項忠が吼える。

 手下が別の足跡を見つけた。今度は慎重にそれを追う。作業場を越え、川岸に出た。南北に流れ、黄河につながる汾水(ふんすい)だ。

 なるほど、ここから石を運んでいるのか。

 いたぞ、と徐岳が指をさす。何艘も船が浮かび、人が乗り込んでいるところだった。

 手下たちが斜面を駆け下りる。村人たちが気付き、混乱が生じた。手下が村人に襲いかかった。

 白刃が閃く。

 雪の上に鮮血が飛び散る。その横に刀を握ったままの腕が落ちた。村人ではない、手下の腕だった。

 村人が刀を持っていた。それは李俊らの手下であった。

 村人たちは童猛が送って行った。梁山泊へ、である。

 非力な村人と侮ってかかった手下たちは次々に斬り倒されてゆく。

 徐岳の顔が赤黒く歪んだ。馬を走らせようとしたところへ、矢が飛んできた。徐岳は刀で弾き返すが、悲鳴が聞こえた。

 田定だ。田定の腕に矢が突き立っていた。

「徐岳、ここは退()くしかあるまい」

 項忠はすでに馬首を返していた。田定も泣き叫びながら、逃げだしていた。

 くそ、と歯噛みし、徐岳が躊躇(ためら)っていると、

「おい、どうした。まさか部下の仇もとらずに逃げる気じゃあるまい」

 張横が両手を広げ挑発した。

 船の周囲で、立っている手下はわずかだった。

「貴様たちは必ず殺してくれる。その(つら)、絶対に忘れんぞ」

 徐岳は(こら)え、その場から脱した。

 張横がつまらなさそうに唾を吐いた。弓兵を率いていた李俊が戻ってきた。最後の一人を倒した童威が言う。 

「あいつら、追わなくていいんですか」

「放っておけ。下手に追って犠牲を出したくない」

 李俊の言う通り、梁山泊側には負傷者すらいなかった。

 不服そうな童威に張横が声をかけた。

「酒でも飲もう。後始末に忙しくなるんだ、今のうちに休んでおくぞ」

 とやや強引に童威を引っ張って行った。

 李俊は二人を見送ると、長いため息を吐き、天を仰いだ。

 だがその顔はどこか爽やかだった。

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