夢想 二
雪玉を、張清が手にしていた。
木立を的にして、それを投げた。心地良い音と共に、木に当たった雪玉が弾けた。その音が、何度も雪景色の中で聞こえた。
何度、投げただろうか。
張清の手は真っ赤になっており、額には汗が浮かんでいた。
張清が首を確かめるように回してみた。
大丈夫だ。もう張りも、違和感もない。だが安道全はまだ戦に出る許可を与えてはくれない。
その欝憤を晴らすように、張清がまた雪玉を投げた。
「朝から精が出るな。しかし礫じゃなくても上手いのだな」
「ああ、おかげさまでな」
董平だ。張清は、董平の方を向きもせずに答えた。
「しかしお前こそ、こんな朝から用事でもあるのか」
「ちょっとな」
そこで張清が董平を見た。蝋梅の花を一輪、手に持っていた。董平は愛おしそうに、その花を見つめて言う。
「妻に贈ろうと思ってな。いつも尽くしてくれているからな」
董平の妻、程小芳の事である。ふとしたきっかけで出会い、互いに愛し合った。いくつも障害があったが、いまは梁山泊で共に暮らしている。董平の、彼女に対する想いはあの頃と少しも変わっていないようだ。
張清は何と言って良いか分からず、また雪玉を投げ、乾いた音を響かせた。
「ところで、妻を娶らんのか。お主を気にしている女子は少なくないと聞くぞ」
「誰がそんな事を。大方、顧大嫂あたりが言いふらしているのだろうが」
「では、気になる女子はいないのか」
その問いと同時に投げた雪玉が、的を外した。
「お主、もしや」
「違う。違うぞ。手が滑っただけだ。なんだその顔は」
「そうか。そうなんだな」
「勝手に得心するな」
「隠すことはないだろう。言ってみろよ」
「違うと言っている」
頑として答えない張清。
微笑みを浮かべた董平が、わかったよ、と去っていった。
鼓動が早い。顔が熱い。
くそっ、とやり場のない怒りを雪玉にぶつけた。
言える訳がない。特に董平などには。
なんと風流じゃないか、などと言うのだろう。だがそれが張清には耐えられない。
気になる娘は、いる。
だがそれが、夢の中で出会った少女だなどと、口が裂けても言えるものか。
昼飯の後、気を取り直し、安道全を訪れた。
戦に出してもらえるように嘆願するためだ。
「まだあの夢は見ているのか」
「いえ、実は」
最近、見なくなってきているのだ。
夢の中で少女に武芸を教え、礫の技を伝えた。少女の腕はかなり上達し、時おり張清が舌を巻くほどの礫を投げることもあった。
張清が持てる技の全てを伝えた頃、夢の回数が減った。三日に一度となり、五日に一度さらに間が開くようになっていった。
結局、少女の顔も名も、声さえも分からずじまいだった。
腕を組んだ安道全が渋面を作っている。
「どうしたのです。何かあったのですか」
「もしかすると、もしかするかもしれん」
「何の事です」
「お主の夢、だよ。何かを暗示していたのかもしれないぞ」
「何かって、何です。思い当たる節はありませんよ」
「わしにはある」
張清が驚く。どうして夢を見た本人ではなく、安道全がそう言えるのか。
安道全は続ける。
「昨日、李逵が宴の最中に酔って寝てしまってな」
「なんでも、夢の中で蔡京らの首を斬ったとか。痛快な夢ですな」
「その後だ。見知らぬ書生風の男から、ある秘訣を聞いたのだという。田虎を倒すための秘訣なのだそうだ」
「ええ、聞きました。田虎を捉えたければ、瓊矢の鏃となんとやら、と」
「その瓊矢の鏃、だ」
宋江はじめ呉用もその言葉の意味を解しかねていた。もちろん張清もである。だが安道全は言った。
投瓜得瓊。瓜を投じて瓊を得。
以前、張清の夢の話を聞いた時、その言葉が脳裏に浮かんだという。
古代では女性が木瓜の実を投げて求愛し、男性は宝玉つまり瓊を贈って応じていた。これが転じて、男女が愛情の誓いの品を贈り合う意味となった。
その少女が瓊なのではないのか、と安道全は考えた。
「そんな、所詮は夢ですよ」
「ああ、そうだ。だがお主のも、李逵のも、夢でつながっておる」
張清も食い下がる。
「それに私の夢とつなげたのは、先生の思いつきでしょう」
「こういう事は閃きが大切なのだ」
安道全も退き下がらない。
「それに鏃だ。鏃とは矢じりの事。張清、お主の渾名は何という」
礫を称して没羽箭。羽の無い矢である。
「それを少女に教えていた。その少女も礫を使える。つまり瓊の矢鏃だ」
張清の目が大きく見開かれた。牽強付会な点もあるが、辻褄は合う。
張清はここにきて安道全の考えを否定できなくなった。いや、むしろ肯定したくなった。その考えが本当ならば、夢の少女に再び会えるかもしれないのだ。
会いたい。探しに行きたい。胸の中でその衝動が大きくなるのを感じた。
胸が熱くなる。いや顔が熱い。
何だか全身が気だるくなる感じがした。頭は熱いのだが、体が震える。
何だ、この感じは。
むっ、と安道全が顔をしかめた。手を張清の額に当てる。
「馬鹿者。お主、汗をかいたまま雪の中にいたな」
熱いのも当然だった。風邪を引いてしまったようだ。
「戦などもってのほかだ。しばらく寝ておれ」
張清は額に手をやり、よろりとふらついた。
喘ぐように、蔡京が目を覚ました。慌てて首筋を押さえる。
気のせいか。不快な夢を見た気がするが、覚えてはいない。だがそれ以上気にすることはなく、参内の支度をしている間に頭を切り替えてしまった。
ところがである。
朝議の前、いつもの部屋に現れた童貫と楊戩の様子がおかしい。二人とも、首のあたりを擦ったり、首を捻ったりしているのだ。
「高俅はどうした、童貫」
「はい、体調がすぐれないとかで、今日は来ないとの事です」
「昨夜、酒でも飲み過ぎたか」
「いえ、それならば良いのですが。ええと」
楊戩が奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「何だ、はっきり言え」
楊戩はちらりと童貫を見て、言った。首筋に手を当てる。
「悪夢を見たというのです」
「なんだと」
蔡京の首筋がぴくりと痙攣した。
首を斬られる夢を見たというのだ。高俅は以前から、林冲の蛇矛に貫かれる夢を頻繁に見ていた。そして今度の夢だ。
もう駄目だ、いよいよ夢が現実となるのだ、と屋敷に閉じこもってしまったらしい。
さらに、童貫と楊戩が目を合わせ、おずおずと切り出した。
「実は、私たちも同じ夢を見まして」
「馬鹿者」
と蔡京はそれを一喝した。
「そんな夢ごときに惑わされてどうする。その話は他言するでないぞ」
高俅はもう終わりだ。
梁山泊に敗れてからめっきり覇気が薄れてしまった。あの飢えた野良犬のようなものを秘めた高俅は死んだ。そう思う事にした。
楊戩が報告をする。
現在、梁山泊の戦果は上々で、蓋州まで奪回したという。
このまま田虎を討ち取れるとは思えないが、そうなったとしても梁山泊の戦力は大きく削がれるだろう。もちろん敗れれば、宋江にその責任を取らせればよいだけだ。
蔡京にとってはどちらに転んでも利があるという訳だ。
ただ困るのは国が平穏になってしまう事だ。叛乱の火種がつねに燻り続けている限り、自分の権力は安泰なのだ。しかも田虎が滅びても北の遼も存続しており、西の王慶、南には方臘という賊徒がいる。
朝議の場、蔡悠が賊徒の話を切り出した。
「梁山泊軍が河北で快進撃をしているという報告です。そこで淮西へも討伐軍を出してはいかがでしょうか。王慶という賊徒は所詮成り上がり者。討伐軍と聞けば尻尾を巻いて逃げ出すに違いありません。今こそ天子さまの威名を国中に知らしめる好機と思われます」
ううむ、と帝が思案する。
余計なことを、と蔡京が舌打ちをする。
近ごろ、息子が帝に何かと近づいている。だが蔡京に対する絶大な信頼は揺らぐものではなかった。
しかし、威名を知らしめるという言葉に、帝の心は揺らいだ。
「誰か、出向く者はないか。または推挙する者は」
いる訳がない。そう思っていた蔡京は驚いた。なんと童貫が進み出たのだ。
「おお童枢密。そなたが出てくれるのならば、間違いはないだろう。頼んだぞ」
朝議が終わり、一同が退出する。童貫は去り際、蔡京の顔をちらりと見るだけだった。
童貫は、王慶に対して私怨がある。だがそれと国事とは別だと納得させ、理解していると思っていた。
ふいに蔡攸を思い浮かべた。あ奴が焚きつけたのか。
するとその蔡悠が現れた。
「驚きましたか、父上。まさか童枢密が自ら志願するなど、思われなかったでしょう」
「別に驚きはせん。時に恨みは、人を浅慮にするものだ。特に心の隙に囁きかけてくる妄言などには、耳を貸してしまうだろう」
「さすがは父上、深いお言葉だ。ところで、お身体の具合はいかがですか」
「何の事だ」
「いえ今朝、青ざめた顔で目覚められたと聞きましたので。父上も、そろそろ暖かい南で余生を過ごされてはいかがかと」
「わしが邪魔か。お前に代わりが務まるくらいになれば、そうしたいのだがな」
蔡攸の目つきが変わった。
「私はあなたになるつもりはありませんよ。私は私だ。それに」
蔡悠は背を向け、歩きだした。
「あなたの影響力も少しずつだが弱くなっている。老いては子に従えと申します。引き際を間違え、寝首を掻かれぬよう」
「その言葉、そのままお前に返そう」
蔡悠が去った。朝議の間に蔡京はひとり残された。
生意気な口を聞くようになったものだ。確かに童貫の件は引っ掛かった。自分に聞かずに、出陣を決めてしまうとは。
王慶討伐に行かせないようにしていたのは、奴自身のためだったものを。奴では王慶に勝てんだろう。
まあ、仕方があるまい。
蔡京は長い息を吐き、退出した。そして歩きながら、首筋に手を当てていることに気がついた。
蔡攸の言葉が蘇った。
寝首を掻かれぬよう。
思わず、扉を殴りつけてしまった。
自分らしからぬ行為に、蔡京の心が余計に苛立った。




