攻城 四
魯智深と武松が、街道を歩いていた。晋寧に向かっている。
あご髯を蓄えた巨漢の僧と、鋭い眼をした長髪の行者を、行き交う人々がちらちらと横目で見やる。だが異形の二人に触れてはいけないとばかりに、みな足を速めるのであった。
しかし当の二人はそんな事、気にしている様子はなかった。
「思ったよりも、荒れてはおらんな」
魯智深が言う。
この河北は田虎に支配されていた。州や府を奪い、配下に治めさせ、住民たちを恐怖に陥れていた。
はずだった。
武松が真面目な顔で呟いた。
「結局、役人も賊も変わらないという事ですよ」
「がはは、上手いこと言うのう」
しばらく歩いたが、街まではまだ距離がある。丁度、喉が渇いてきた頃、一軒の居酒屋が現れた。
躊躇わずに入り、腰を下ろすなり、
「おう親父、酒と肉をじゃんじゃん持ってきてくれ」
と魯智深が声を張り上げる。
店の主人は二人の姿を見て、ぎょっとした顔をした。
「構わん、わしらは酒も肉も問題ないのだ」
武松が薄く笑んだ。
主人は酒と料理を運ぶのにてんてこ舞いとなった。
やがて酒瓶が幾つも並び、皿が何重にも積まれた。やっと終わりかと、主人がひと息つこうとしたところへさらに注文が入った。
あの二人、蟒か何かか。さすがに勘弁してくれ。あからさまに嫌な顔を、主人がしてみせた。
「そんな顔をするでない。心配せんでも、喰い逃げなどせんわい」
がははと笑い、魯智深が卓に袋を置いた。銭の音が大きく聞こえた。
主人が唾を飲み込む。中を見なくても分かるほどの大金だ。しかしそんな金を、どうしてこの坊主たちが。
途端に主人の表情が緩んだ。
「へへへ、わかりました。すぐにお持ちしますんで」
手を揉むようにして奥へと消える。その背中を武松の鋭い目が追っていた。
すぐに新しい酒と肴が並べられた。主人が離れたところでさりげなく二人の様子を伺っている。
魯智深が酒を呷り、肉にかぶりつく。武松も淡々と杯を重ねてゆく。やがて酒がなくなり、魯智深が追加をする。だが主人は目を見開き、固まったように動かない。
「おい、酒だ。聞こえないのか」
武松の声で我に返った主人が、弾かれたように動く。そして酒を卓に置く時に、二人の顔を覗き込むようにした。
武松が睨みを利かせる。
「なんだ、俺たちの顔に何かついているのか」
「い、いえ、何でもありません」
酒瓶を片付け、そそくさと離れてゆく主人。裏でその酒瓶を嗅ぐようにした主人が、おかしいなとばかりに首を捻った。
また酒が空になる頃、武松が主人を呼んだ。
「おい主人、こっちへ来てくれ。忙しくさせて悪かったな。他に客もいないのだから、一緒に飲もうではないか」
主人は断ることもできず、おずおずと腰かけた。
武松が微笑みながら、荷物の中から酒を取り出した。
「知り合いに酒造りの名人がいてな。ぜひ試してもらいたい」
言いながら、主人の杯に酒を注ぐ。
ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。美味そうな香りだ。
「分かるかい。甘い香りだが、結構きついのだ。だが美味い。ぐっとやってくれ」
主人は杯を口元に寄せ、一気に呷った。
喉が一瞬、焼けるように熱くなる。だがすぐにすっとした感じになり、胃の奥から芳醇な香りがする。
「こいつは、確かに美味い」
「もう一杯どうだい」
主人が杯を差し出そうとした。だがその手から杯が落ち、床で粉々に割れてしまった。
主人の目が虚ろだった。口元から涎が垂れている。
「ああ言い忘れていたが、この酒の名は崔命判官ってんだ」
主人が白目を剥き、椅子から転げ落ちた。
武松が酷薄な笑みを浮かべた。
「ま、聞こえちゃいないか」
目を開けると、ふたりの僧がいた。
「ようやく起きたか」
居酒屋の主人は、縄で柱に縛りつけられている事に気付いた。
お前たち何者だ、と言ったつもりだったが、舌も口も痺れたようになっており言葉にならない。
魯智深が太い腕を組んで言う。
「お前こそ、何者だ。わしらに薬など盛りおって」
主人は朦朧としながらも逃れようともがいたが、できなかった。息を切らしながら二人を見る。どうして薬を入れた事を知っているのだ。いや、それよりも薬が何故効かなかったのだ。
それが通じたのか、武松が答えた。
「痺れ薬を中和する薬を飲んでおいたのさ」
安道全が処方したものだ。遠方に出る際、梁山泊の者に配られるのだ。
武松の目が変わり、主人に近づく。
「どうして俺たちを狙った」
鋭い眼光に、主人が震えた。
「素直に白状すれば許してらるかもな」
金だ、と何とか主人は言った。二人がたんまり金を持っているから、奪ってやろうと考えたのだと。
「そうか。残念だったな」
武松が刀の柄を握った。そして一気に引き抜こうとした。しかし、刀はぴくりともせず、鞘に収まったままだった。
「運の良い野郎だ。まだ殺すなってさ」
「ほう。聞いてはいたが、本当に抜けなくなるとは」
魯智深が嬉しそうに笑った。
どれ、今度は魯智深が前に出た。腕まくりをすると、太い腕が露わになる。
そして魯智深が振りかぶり、壁を殴りつけた。巨大な拳は壁を粉々に打ち砕いてしまい、店が崩れるのではないかというくらい揺れた。
「さて、ご主人。もう隠し事はしておるまいな。もし、していれば」
ちらりと壁があったところを見やる。
あ、あ、あ、と主人が声にならない声を上げる。
武松の目が冷たく光った。
「魯の兄貴、あれを」
壁が壊れてその奥が見えていた。そこには血に濡れた、二つの骸が横たわっていた。どうやらこの居酒屋の本当の主人と、妻のようだ。では、いま柱に縛られている男は。
魯智深が再び拳を握る。
「道理で飯がまずい訳だ。お前は何者だ。素直に話すか痛い目を見るか、どうする」
男はしばらく言い淀んでいた。
すると外から蹄の音と、話し声が聞こえてきた。数人の気配がする。
そして突然、男が口を開いた。
「そいつらがおとなしく従っていれば、死なずに済んだのだ。そしてお前たちもな」
外にいた一人が店の中に入ってきた。
「おい、桑英。どこにいる」
男が叫んだ。
「郭信、ここだ。助けてくれ」
「どうした、何をしている」
郭信、と呼ばれた男が奥に入ってきた。手には冷たい光を湛える刀。
その時にはすでに武松が動いていた。手には妖刀が握られている。
一瞬の静寂。
ごとりと郭信の首が落ちた。武松は返す刀で、主人に化けていた桑英の首も刎ねた。
さあて、と魯智深が禅杖を手にし、外へ向かう。
表には馬が四頭と、三人の男たち。
それは蓋州から脱出してきた鈕文忠と于玉麟、そしてその配下の盛本であった。
「なるほど、な」
さすが蓋州の守将だけはあった。
鈕文忠は即座に状況を見抜き、魯智深に槍を突き込んだ。
おおっ、と魯智深が猛り、禅杖で迎え討つ。槍が枯れ枝のように折られ、そしてその勢いのまま鈕文忠の頭蓋を砕いてしまった。
「鈕文忠さま」
于玉麟が叫ぶが、体が前に出ない。妖刀を手にした武松が一歩踏み込んだ。
うわああ、と叫び、于玉麟と盛本は馬に飛び乗った。そして、どこかへと駆け去ってしまった。
絶命した鈕文忠を見やる武松。
「この身なり、田虎軍の将のようですね」
「だろうな。して、こ奴のために飯と酒が必要になり、抵抗したご主人たちの命が奪われたというところだろう。武松よ、わしが間違っていたようだ。やはりこの地は荒れておった」
武松は軽く頷いた。
魯智深は居酒屋に向けて目を閉じ、合掌をした。
冬の空に、念仏が優しく流れていった。