攻城 一
蓋州の守将、鈕文忠が面白くなさそうに酒を呷っていた。
「ったくよう、裏切るとは舐めた真似してくれたなぁ。そいつ耿恭だったか」
部下が運んできた酒瓶をひったくり、浴びるように飲んだ。空になった酒瓶を放り投げ、酒臭い息を吐く。
「許せねぇなあ。田虎さまに歯向おうって奴はよ。後悔する暇もなく、殺してやるぜ」
この鈕文忠、山賊あがりである。三尖両刃刀を得意とし、八臂鬼王と呼ばれ怖れられていた。鈕文忠は金銀財宝を略奪しては田虎に貢いでいた。もちろん甘い汁を吸うためである。その甲斐あってか、鈕文忠は枢密使の地位を得、この蓋州を任されるに至った。
蓋州の兵力は約三万。
兵を統べるのは、鈕文忠が山賊時代からの配下であった四人の将だ。
猊威将の方瓊。
貔威将の安士栄。
彪威将の褚亨。
熊威将の于玉麟。
いずれも猛将で、四威将と呼ばれ、怖れられていた。
この四人にそれぞれ四人、合計十六人の編将が従っている。彼らが蓋州の主力であった。
一同が軍議の間で酒を飲み、降将らを罵っている時である。物見の兵が駆けこんできた。
「もう来たか。誰が出る」
「俺が行きます、親分」
そう言って立ちあがったのは猊威将の方瓊。配下の四人も共に立ち上がる。方瓊が出るのに、誰も異論を挟まない。もちろん鈕文忠もだ。
方瓊、と鈕文忠が言う。
「十分気をつけろ。わしも後から加勢に行く」
「陵川、高平は武力ではなく、卑怯な策で落とされたのです。誰か一人でも首を獲るまで、戻るつもりはありません」
にやりと笑い、鈕文忠は方瓊らを見送った。
城門が開かれ、方瓊と五千の兵が飛び出してゆく。
方瓊は配下の四将、張翔、郭信、蘇吉、楊端を振りかえり、軽く頷いた。
梁山泊の斥候が、その動きを察知した。
すぐに陣営から四将が前に出た。花栄、孫立、秦明、索超である。
「水溜りの盗っ人どもめ」
という方瓊の言葉に反応したのが孫立だった。
索超、秦明のお株を奪わんばかりに旋風の如く、方瓊に打ちかかった。
二本の槍が唸りを上げ、意思を持ったように互いの急所を攻め立てる。三十合を越えたあたりで、方瓊の槍の速度が落ち始めた。
固唾を飲んだのが方瓊配下の四将である。
その一人、張翔が逸った。弓を取り出し、矢を放ったのだ。
矢は、孫立の乗馬の目を射抜いた。馬が棹立ちになり、孫立が振り落とされた。
体勢を崩した孫立の頭上から槍が迫る。
「でかしたぞ、張翔」
しかし方瓊の顔はすぐに曇った。孫立が身を起こす勢いを利用し、左手の鉄鞭で槍を弾いた。
槍と鉄鞭を、両手にだと。
孫立が、馬上の方瓊に槍を向ける。
「馬を失ったくらいで、私を倒せると思ったか」
甘い、と叫び、槍と鉄鞭を嵐のように打ち込んだ。
射損ねたと見た張翔は刀を抜き、加勢すべく馬を駆った。
だが秦明がその前に立ちはだかった。
「そこを退け」
「退けと言われて、退く奴がどこにいるのだ」
秦明が吼えた。狼牙棒が唸る。
紙一重でそれを避けた張翔。その時、梁山泊軍の陣が目に入った。
弓を構えている将が見えた。方瓊を狙っている。
その将は、もちろん花栄であった。
「僭越ながらお見せしよう。矢はこうやって射るのだ」
言うやいなや、矢が放たれた。
空を切る音を聞いた孫立は、口の端をやや歪め、後ろへと飛び退った。
矢は、方瓊の眉間を貫いた。
吹きだした鮮血が地面をしとどに濡らした。
「そっちが先にやったのだ。文句はあるまいな」
秦明がそう言って、張翔を睨んだ。
方瓊が討たれた。
助太刀しようとしたことが裏目に出てしまったのか。
血に濡れた方瓊が、恨めしそうにこちらを見ているのは気のせいか。
いや、違う。
ゆらりと張翔が刀を動かす。日の光で、刃がまるで彩雲のように輝いた。
出しかけた狼牙棒を、秦明が引いた。こ奴、気配が変わった。
躊躇した隙を待っていたかのように、張翔が刀を繰り出した。今度は秦明が紙一重で避ける番だった。
激昂すると思っていたが、却って冷静になったようだ。刀気が満ち始めている。
さらに蓋州の陣から郭信が馬を飛ばし、張翔の援護に加わった。
郭信が刀を閃かせる。まるで氷雪の如き、冷たさを感じる切っ先だ。
しかし、それで怯む秦明ではない。二対一の不利さも、秦明をむしろ鼓舞させるものだった。二刀の攻撃を捌き、霹靂のような雄叫びを上げる。
三騎が入り乱れ、刀と狼牙棒がぶつかり火花を散らす。
梁山泊の陣で、花栄が再び矢をつがえた。満々と弓を引き絞る。
そして、ふっと息を強く吐き、矢を放った。
秦明が狼牙棒を振り下ろし、張翔と郭信が左右に別れた。
その刹那、前に出ようとした張翔がのけ反った。
「張翔」
郭信は驚愕の表情を浮かべた。張翔の胸から、矢が突き出ていた。
矢に貫かれた張翔は、血を吐いた。そしてそのまま体勢を崩し、馬から落ちた。
郭信はすぐに馬首を返し、逃げた。
だが秦明が追う。花栄、索超そして馬を代えた孫立がそれに続く。
蓋州軍の楊端、蘇吉が兵を率い、それにぶつかった。
索超の金蘸斧、秦明の狼牙棒が、押し寄せる敵を割ってゆく。遠くから花栄が矢を放ち、孫立は槍と鉄鞭で敵を屠る。
蓋州軍は堪え切れず下がってゆく。
「押せ押せ押せ」
索超が吼える。
だが蓋州城の方から喊声が轟いた。土煙と共に、軍が二手になって押し寄せてきた。それぞれ五千ずつを、貔威将の安士栄と熊威将の于玉麟が率いていた。
敗走しかけていた蘇吉らも士気を取り戻し、花栄らに襲いかかってきた。
三方からの攻撃に、秦明らも耐えきれず、なんとか逃れようと馬を回す。
そこへまたも喚声が起こった。今度は蓋州ではなく、四方から聞こえてきた。
敵の刃を潜りぬけながら、花栄が不敵な笑みを浮かべた。そして秦明らに告げる。
「来たぞ。もう一度だ」
秦明が孫立が索超が、力強く応じた。どの目も、決して諦めてはいなかった。
地平から現れたのは梁山泊軍だった。宋江ら本隊が来たのだ。
中央の宋江が剣を天に掲げ、檄を飛ばしている。
「攻めよ。花栄たちに加勢するのだ」
于玉麟、安士栄のさらに外側から、梁山泊軍が押し包むように攻め上げる。形勢がまたも逆転した。
ついに退却の鉦が鳴った。
逃げる蓋州軍、追う梁山泊軍。
だがあと一歩のところで、蓋州軍は城へ逃げ込んでしまった。
城を攻めようとするが、頭上から大木や巨石を落としてきた。
やむなく宋江は撤退の指示を出し、陣を敷いた。
ひとまずの勝利に湧く中、宋江が花栄を迎えた。
「さすがの腕前だな、花栄」
「ふふ、いつも通りさ」
その横で、呉用が吹き始めた風に眉をしかめていた。
方瓊、張翔を討ち取られ、鈕文忠は怒りで震えていた。兵も二千は失った。大敗である。
床には粉々になった杯が散乱している。
誰もが言葉も出せぬまま、徒に時が過ぎようとしていた。
静かに、貔威将の安士栄が進み出た。
「奴ら、きっと油断していることでしょう。今夜、わしが一軍を率いて寝込みを襲い、必ずや仇を討ってみせます」
「よし。安士栄、お主に五千預けよう。頼んだぞ」
「はい。お前たち、準備をしろ」
安士栄の言葉で、配下の四将が応じた。沈安、盧元、王吉、石敬である。いずれも禍々しい気配を纏っていた。
夜が更けた。風がやや強い。
安士栄は闇の中でほくそ笑んだ。城は風上だからだ。奴らが気付いた時には、すでにあの世という訳だ。
兵は軽い軍装で、馬にも枚を噛ませている。
安士栄が静かに合図を出す。五千が、風のように動いた。
すぐに梁山泊陣営に到達する。兵たちが駆けながら刀を抜く。
安士栄が速度を上げた。配下の四人もそれに続く。この四人は悪神の如き不吉な渾名を背負っている。梁山泊め、まさに運の尽きだ。
安士栄軍が雄叫びをあげ、陣に飛び込んだ。
しかし、陣の中には気配が一切感じられなかった。
「待て。何かおかしいぞ」
誰かが言った。それと同時に、周囲が明るくなった。安士栄たちが松明に照らされていた。
「退け」
そう命じたが遅かった。
喚声と共に、潜んでいた梁山泊軍が白刃を煌めかせた。
必死に応戦するが、安士栄軍は乱れに乱れた。
その窮地を、鈕文忠が救った。
城に戻った鈕文忠は、怒りを募らせた。血を流しながら、安士栄も唇を噛む。
沈安と王吉が討たれた。さらに鈕文忠と共に駆けつけた、石遜が深手を負い、息も絶え絶えであった。
重い空気の中、おずおずと部下が報告に来た。田虎からの使いが来たというのだ。
だがその内容に、鈕文忠は唖然とした。
天文を司る者が見たところ、罡星が晋の地を侵す象があるので守りを堅くし、間違いのないようにせよ、というものだった。
何を呑気なことを、と激怒しそうになるが、何とかそれを思いとどまった。使者が悪い訳ではないのだ。
いま梁山泊、司天監がいうところの罡星、が攻めてきていることは、やはり威勝には伝わっていないらしい。
呼気を整え、鈕文忠は現状を報告すると共に援軍を要請した。
顔色を変えた使者はすぐに取って返した。
鈕文忠は籠城を決めた。
いかな梁山泊とて、この堅牢な城は陥とせまい。援軍が到着するまで、英気を養っておくべきだと判断した。
さあ、来るなら来てみろ。
鈕文忠は床几に腰を下ろし、目を閉じた。
蓋州が堅く門を閉ざした。
城門の上に見張りがいるだけで、一兵たりとも出てくる様子もない。
呉用も朱武も渋い顔をしていた。
夜襲を察知し、勝利したまでは良かった。だが城に籠られてしまうと、手が出せないのはこちらの方だ。
「さて、どうする。このまま指を咥えていろというのか」
盧俊義が腕を組み、訊ねる。宋江も答えを待つ。
呉用が静かに言う。
「はい、このまま待っていてもらいます」
「なんだと」
「盧俊義どの、城攻めの難しさは、分かっているはず」
朱武が割って入る。横目で見ると、呉用は黙って羽扇をくゆらせている。呉用はいつも迂遠な言い方をするので、誤解を招きやすいのだ。
咳払いをひとつ。
「見ての通り、蓋州は堅城です。下手に攻めるならば、蜂の巣を突くようなものでしょう」
「だからと言って、攻めねば蓋州は陥とせんのだぞ」
盧俊義の言う事ももっともである。
宋江は呉用に聞く。
「軍師どの、敵が出てくるまで根比べをするというのか」
その時、兵が飛び込んできた。
「李逵どのが、蓋州城へ。申し訳ありません、誰も止められず」
「鉄牛め。すぐに馬を持て」
宋江が立ち上がり、命じた。
李逵が鮑旭ら歩兵を率い、蓋州を攻めるために向かったというのだ。
馬に飛び乗り、宋江が駆ける。盧俊義が続き、駆けつけた花栄も、後を追った。
歩兵たちが城壁に接近した。
守備をしていた楊端、郭信がこれに気付いた。楊端の命令で、一斉に城壁から矢が降り注ぐ。
雄叫びをあげる李逵。両手の斧で矢を叩き落としながら駆ける。
「無茶だ。戻れ」
宋江が悲痛な叫びを上げる。
鮑旭も腿に矢を受けながら、突き進んでいる。
「宋江、お前は下がれ。李逵は任せろ」
花栄が宋江の側に寄り、叫ぶ。
私も行く、と固辞する宋江。
「花栄の言う事を聞け。お主は総大将なのだぞ」
盧俊義に強く言われ、やっと宋江が速度を落とした。
花栄が弓を取り出したのを見ていた楊端が気付いた。
奴は、方瓊さまと張翔の命を奪った男。ここで仇を討ってやる。
部下の弓を取り、矢をつがえる。郭信の拳にも力が入る。
向こうは歩兵たちが気になっているようだ。気付かずに、こちらに駆けてくる。
死ねい。
矢が放たれた。真っ直ぐに花栄に迫る。
「やったぞ」
郭信が叫んだ。花栄が馬上でのけ反っていた。
楊端もにやりとした。
しかし、花栄がむくりと身を起こした。手に矢を持っている。
何だと、矢を掴み取ったというのか。
花栄の手に弓が握られていた。
矢は、どこだ。
と、探そうとした楊端が吹っ飛んだ。
「楊端」
郭信が駆け寄るが、楊端はすでに事切れていた。
何という腕前だ。あの距離から、正確に射抜くだと。
馬を止め、花栄が矢をつがえ、城壁に向けた。
「次はどいつだ」
守備兵たちが蜘蛛の子を散らすように逃げた。
その隙に盧俊義が、李逵らを退避させる。もちろん李逵も鮑旭もなかなか退こうとしなかったのだが。
歩兵の帰還に、宋江はひとまず安堵した。
李逵が悪びれた様子もなく、
「すまねぇ、宋江の兄貴。大将の首を獲って来ようと思ったんだけどよう」
「まったく無茶をしおって。もう良い、とにかく怪我の手当てをするのだ」
そう答えた宋江の目尻が光っていた。
陣に戻った宋江は目を丸くした。
陣の外に何十台もの荷車が停められていたのだ。
呉用が宋江を迎えた。
「あれを待っていたのです」
荷車の側で指揮をしていた男が、こちらを向いて軽く頭を下げた。
青眼虎の李雲だった。