反旗 四
燕青を呼び、許貫忠の地図を広げる。
こんな正確な地図が、と耿恭は驚いていた。
盧俊義が説明を求め、耿恭が位置を確認する。
ここ陵川から川を挟んだ西が蓋州。さらに西に、陽城と沁水。蓋州がこの一帯の要である。ここを陥とさねばならない
「蓋州は、鈕文忠が大軍を擁して守っております。私は当初、蓋州に援軍を要請することを進言したのです」
だが、董澄は耳を貸さなかった。
もし耿恭の進言を受け入れる将だったならば、負けるにはないとしても苦戦を強いられていたかもしれない。盧俊義がしみじみと思う。
「朱武よ、蓋州を攻めるには」
朱武が地図を見つめる。
「今の兵力では難しいでしょう。蓋州を攻めるならば、宋江どのを待つのが賢明です。ですがその前にできる事があります。耿恭どの、ここは」
と言って地図を示す。蓋州の北にある高平県だ。
耿恭によれば、高平県は陵川からわずか六十里、韓王山の麓にあるという。守将は張礼と趙能の二人。兵数は約二万である。
うむ、と頷き、朱武が再び黙考する。
「耿恭どの」
「はい」
「あなたの命をお借りしたい」
「わかりました」
即断だった。朱武の策がどんなものかを聞く事もしない。
耿恭も耿恭だが、朱武も朱武だ。
このような男が、まだいる。盧俊義は腕を組み、その様子を見守った。
朱武が策を説明し始める。真剣な面持ちの耿恭。
「なるほど、やってみましょう」
「成否は、あなたにかかっています。頼みましたよ、耿恭どの」
耿恭は軽く微笑み、返事とした。
冬の夜空は澄んでいて、星がとびきり煌いて見えた。
「おい、何だあれは」
星明かりの下、大勢の影が蠢いていた。
闇の中ではっきり見えないが、軍のようだ。敵か。
すぐに他の兵に伝え、攻撃の準備を取る。弓がずらりと城壁の上に並んだ。
城壁の下から大声で誰かが叫んだ。
「待ってくれ。我々は味方だ」
「本当なのか」
「私は陵川の耿恭だ。董澄さまと沈驥が敵を軽んじ、門を開けたため城が陥とされてしまった。私たちは命からがら逃げてきたのだ。開けてくれないか」
「待て、確かめたい。そこを動くな」
守備兵は松明ををかざした。
そこへ張礼と趙能が来た。張礼が叫ぶ。
「本当に、耿恭なのか。董澄はいずこだ」
「董澄さまは討たれた。いまなら敵は油断している。共に仇を討とうではないか」
訝しむ張礼。
だが守備兵の中から、あいつは孫如虎だ、とか李擒竜だと言う声が上がった。守備兵と顔見知りで、確かに陵川の兵だという。
それを聞き、やっと張礼は警戒を解く。門を開けさせ、耿恭たちを招き入れた。
百人ほどの兵たちが列になり、順に門を通ってゆく。まだ先頭が入ったばかりの時、後方の兵が騒ぎだした。
「早くしろ」
「敵が追いかけてきたぞ」
などと叫ぶ声が聞こえる。
張礼も趙能も兵たちを鎮めようとするが、言う事を聞かない。
あれは、と言う声に張礼が顔を上げた。背後の韓王山が燃えだしたように、松明がずらりと並んでいた。
なんだあれは。敵と言っていたか。だが敵とは、何者なのだ。
その間にも兵たちは門に入ろうと殺到し、高平城の兵と揉み合いになる。
喚声と共に、韓王山から地響きのような音が聞こえ出す。夜目にも、大軍が押し寄せてきたのが分かった。
慌てた趙能が叫ぶ。
「おい、耿恭。あれが敵なのか。奴ら、一体何者なのだ」
その問いに耿恭ではなく、横にいた兵が答えた。
「へへ、俺たちは梁山泊さ」
その兵は田虎軍の甲を纏った李逵だった。さらにその側にいた鮑旭が笑みを浮かべ、突撃の雄叫びをあげた。
趙能が、ひっと悲鳴を上げ、逃げだした。守将として張礼は抵抗しようとした。だが李逵らの恐ろしい顔を見て、心が萎えた。その逡巡が命取りだった。
踵を返そうとした時、背中をむんずと掴まれた。
「捕まえたぜ、あんたが大将だよな」
李逵だった。どんなにもがこうが、李逵の力には敵わない。
張礼は、助けてとやっと声に出したが、助かるはずもなかった。
城壁に翻る梁山泊の旗を見上げながら、盧俊義が門を潜る。
喧騒はすでに納まっており、史進が談笑している姿が見えた。今回は戦う機会があったからか、機嫌が良いようだ。
朱武もそれを目にし、やや苦笑していた。
「上手くいったな、朱武」
「はい。耿恭どのでなければ、成功しなかったでしょう」
「そうだな」
耿恭が裏切らないとも限らなかったのだ。そのため兵の中に李逵と鮑旭を紛れ込ませていたのだが。
耿恭の力とその覚悟を確かめ、さらに城まで獲った。
神機軍師、怖ろしい男だ。
耿恭が報告に来た。
耿恭と共に突入した兵、および韓王山の軍にほぼ損害はない。守将の張礼は李逵が討ちとり、趙能は乱戦の中で死んでいたという。
「うむ、お主も休んでくれ。次は蓋州だ」
「ひとつお聞きしたいのです、盧俊義どの」
「何だ」
「なぜ宋ではなく、梁山泊の旗が立っているのです。あなた方は官軍に負け、招安を受け入れたのでしょう」
盧俊義が少しだけ驚いた顔をした。
朱武は口を歪めていた。
「そうか、そう言う事か。奴ら、自分たちの保身のためならば、何でもするのだな」
「なるほどな」
なにを二人で納得しているのだ。耿恭には何の話か分からない。質問の答えにもなっていない。
すまぬな、と盧俊義が耿恭に向きなおる。
「間違った情報が流布しているようだから言っておく。我々、梁山泊は童貫、高俅の軍に勝っている」
え、と耿恭が漏らした。
官軍に勝った、だと。
では何故。どうして招安など。
「それは、もうすぐ合流する宋江どのに聞いてくれ」
そう言って盧俊義が去っていった。
耿恭の疑問が、声に出ていたらしい。
梁山泊は官軍に負けたのではないのか。どちらが正しいのだ。
盧俊義の背を見やる。あの男は嘘など言う人物ではない事は分かる。
梁山泊は、勝っていた。
耿恭は、何度もその言葉を反芻していた。
衛州の城外に陣を敷いていた宋江の元へ、勝利の報が届けられた。
「どうだ、宋江。期待通り、先鋒の役目を果たしてみせたぞ」
自慢げな花栄の顔が浮かぶようだった。
また報告にはこうあった。
陵川の副将、耿恭という者が協力に応じた。必要な者だと、盧俊義が判断したのだ。宋江はそれに口を挟むことはしない。
さらに、その耿恭の尽力で高平県も陥としたという。
いきなり二拠点を奪回するとは、幸先が良い。宋江は素直に感嘆した。
よし、と宋江が膝を打ち、立ち上がる。そして呉用を呼び、告げた。
「高平へ出発する」
「わかりました」
梁山泊軍がにわかに活気づいてきた。
雪がちらついてきたが、彼らの上で溶けて消えてしまうような、熱気を帯びていた。
やがて陵川を越えたあたりで斥候の報告があった。
陵川が陥ちたことを知り、近隣の町を包囲していた田虎軍が撤退したというのだ。
宋江は喜ばしい事だと言ったが、呉用の表情は違った。
「この短期間で、確かに僥倖です。しかし敵に我々が進軍してきたことが、これで知れ渡ることになるでしょう。ここからは油断できない戦いとなります」
「なるほど。喜んでばかりもいられないのだな」
「田虎軍が手に入れようとしていた衛州は、東に太行山系、南に黄河を擁する要害。我々が衛州を離れたとなれば、その隙を狙うでしょう。そうなると我々は東西に分断されてしまいます」
「それは避けねばならんという事だな」
そこで呼延灼と公孫勝に、衛州を守らせることにした。さらに陵川には柴進と李応を残した。
やがて高平県に着いた。
門が開くと、そこに花栄が立っていた。
「遅かったではないか、宋江」
「お前が早いだけだ、花栄」
二人が同時ににやりと笑った。
盧俊義と合流し、状況を確認する。
地図を見ながら呉用と朱武が綿密に策を練る。次は蓋州である。
そこに盧俊義が耿恭を呼んだ。宋江に会わせるためである。
「あなたが耿恭どのですね。高平県での尽力、感謝しております」
はい、と言って耿恭が黙ってしまう。盧俊義の視線に気付いた耿恭が続ける。
「不躾で申し訳ありません。ひとつだけ、お聞きしたいのです」
「何でしょう」
「梁山泊はどうして招安を受けたのですか。腐敗した役人を倒すため、国と戦っていたのではないのですか。それがどうして奴らの側に」
「民を救うためです」
宋江ははっきりと、迷いなく言い切った。その目は真っ直ぐに耿恭を貫いていた。
耿恭は理解した。
この宋江と言う男、本人が知ってか知らずかとんでもないことを言っている。
宋江の言う民の中に耿恭も含まれているのだ。敵である自分をも、救うべき民だというのだ。
答えはそれで充分だった。
耿恭は城壁に上り、空を見上げた。
澄み切った空のように、耿恭の迷いも晴れた気がした。
見張りをしていた孫如虎と李擒竜が驚いたようだ。




