反旗 三
城門の方が騒がしい。
董澄が見ると陵川城に梁山泊兵が殺到していた。自軍の兵は城を守らず、散り散りに逃げているようだ。
戦いに集中している間に梁山泊め。狡猾な連中だ。
沈驥を見る。手が乱れている。
まずいと踏んだ董澄は潑風刀を思い切り振りまわし、朱仝と花栄の包囲を抜け、城門へと向かった。
沈驥が愕然となった。守将に見捨てられたと思ったのだ。
そこで沈驥は、二人の意識が董澄に向いている隙に、反対側へ逃げた。
朱仝と花栄はどちらも追う事をしない。
花栄が槍を了事環に掛け、弓を手にした。
そして弓を満々と引き絞り、董澄めがけて矢を放った。
風を切る音を聞いた次の瞬間、董澄の首を矢が貫いた。
血の泡を吐き、董澄が馬から落ちた。
くそう、と毒づきながら沈驥が馬を飛ばす。
突如、馬が棹立ちになった。
目の前に男がいた。両手にそれぞれ槍を持っていた。
「ほう、振り落とされなかったのは、流石だな」
「誰だ貴様」
「梁山泊、五虎将が一人。風流双鎗将とは私の事だ」
「知るか、貴様など」
「そうか。残念だ」
董平が言い、馬が沈驥の横を駆け抜けた。
槍が弾き飛ばされ、沈驥は馬から突き落とされた。
転がる沈驥に董平が迫る。
沈驥は膝立ちのまま、両手を上げた。
「や、やめてくれ。降参だ。助けてくれ」
「いいだろう」
董平が馬首を返し、去ろうとする。
沈驥が、背に隠し持っていた小刀を手にしていた。
馬鹿め。董平に背後から襲いかかる沈驥。
ひゅん、と風の音がした。
沈驥の喉が横一文字に裂けた。
董平の槍の穂先が血に濡れていた。
馬鹿な。後ろも見ずに、槍を。
溢れる血を両手で押さえるようにしたまま、沈驥が倒れ伏した。
「どうやら好漢ではなかったようだな」
肩越しに一瞥し、董平が馬腹を蹴った。
運良く陵川の守将が出てきてくれた。
上手く城から引き離し、城門を攻めることができた。
戦いを見守る盧俊義が、目を見張った。
なんと城壁から飛び降りた将がいたのだ。身を投げたのではない。刀を抜き放ち、李逵たちの上から襲いかかったのだ。
鈴の音が聞こえた気がした。鮑旭が顔を上げた。
「なんだあ、お前は」
「我が名は耿恭。陵川の副将だ」
名乗りと同時に、耿恭が歩兵にぶつかった。歩兵が咄嗟に楯を上げていた。おかげで耿恭は衝撃を和らげ、地面に降り立った。
「ふざけた野郎だ」
「門は渡さぬ」
耿恭と鮑旭が斬り結ぶ。その度に刀の鈴が鳴った。鮑旭の表情が歪む。いつもならば斬り合いに愉悦を感じるのだが、鈴の音がそれを邪魔する。
「うるせぇなあ。この野郎」
大ぶりに振られた刀の脇を潜り、耿恭が間合いを詰めた。
狙いを定め、耿恭の腰が沈んだ。
しかし鮑旭を斬ることができなかった。鮑旭が覆いかぶさるように、耿恭の腕を掴んできたのだ。
「き、貴様」
耿恭は驚いていた。普通、攻撃を避けようと後ろへ下がるか、横へ逃げるものだ。それをこの男は、前に出たのだ。
「放すかよ」
二人はもつれ合い、地面を転がる。
乱戦の中、陵川の門は奪われ、梁山泊軍が城内に入った。
喧騒の中、城壁に梁山泊の旗が立てられた。
鮑旭に抑え込まれたまま、耿恭はそれを見た。そして力を抜いた。
お、と鮑旭が手を緩め、離れた。
「観念したようだな」
耿恭は悔しそうな瞳で、旗を見つめ続けている。だがやがて覚悟を決めたように、目を閉じた。
「戦は終わった。その者を殺めてはならぬ」
その声に、耿恭が目を開けた。
鈁旭は不満そうに、文句を言いながらどこかへ行ってしまった。
「わしは盧俊義。こたび梁山泊軍を率いてきた者だ。そなたの戦いを見ていた。大した度胸だな」
「盧俊義どの、降伏いたします。だから住民や他の兵たちを」
跳ね起きた耿恭が平伏して、嘆願した。
「そう命じている。梁山泊の軍律は厳格だ。して、お主は」
「申し遅れました。陵川の副将、耿恭と申します」
「耿恭どの、どうか立ってくれ」
盧俊義が落ちていた刀を耿恭に手渡す。
「歩兵の中に単身で飛び込むのは無謀なのか、勇猛なのか」
「無謀でしょう。だが城を守らねばという気持ちからです」
「よければ梁山泊に力を貸してくれぬか。わしらの目的はわかっているだろう」
「ええ、田虎でしょう」
やや顔を伏せ、耿恭が考える。
悪辣な役人たちから、家族をはじめとする人々を救おうと田虎軍に参加した。田虎が悪徳役人を排除し、人々を解放することを旗印としていたからだ。事実、その力は大きかった。田虎の呼びかけに応ずる人間も多く集まり、日に日に勢いを増していった。
田虎軍が叛徒と呼ばれるのは仕方ないし、構わない。正義を行っているのだという想いが耿恭にはあった。
だが近ごろ、不穏な噂を耳にするようになっていた。
田虎軍が民に対して略奪などの行いをしているというのだ。
気になった耿恭は密かに調べた。様々な人間が集まってきているのだ。中にはそういう輩もいるだろう。
そして、確かにいた。そしてそれらは、耿恭が排除していった。
しかし彼らの口から、さらに不穏な言葉を聞くことになる。略奪は田虎の命令でやったことなのだと。
耿恭は、苦し紛れの嘘だろうと判断した。いや、嘘だと信じたかったのだろう。それから耿恭は、その噂から遠ざかるようになっていった。
「私の力で良ければ」
顔を上げ、耿恭が言った。
盧俊義が満足そうな顔をした。
「耿恭さま、ご無事でしたか」
「申し訳ありません。門を守れませんでした」
李擒竜と孫如虎が駆けてきた。疲れ切った表情をしている。
「よく耐えたな。立派だったぞ」
耿恭さま、と二人が抱きついてきた。
梁山泊に協力することは、田虎に対する裏切りではないか。
しかし略奪などの行為が、田虎の命令によるものだったならば、それは信じてきた者たちに対する裏切りではないか。
城門に翻る梁山泊の旗を仰ぎ見て、耿恭は決意を固めた。
日が暮れ、居酒屋に入り、やっと腰を下ろせた。
孫如虎と李擒竜は、酒を飲むよりも、まずは大きなため息をついた。
梁山泊に敗れてから、不安がる住民たちを落ち着かせるのにひと苦労だったのだ。
「はあ、どうなるんだよ、これから。なあ、孫よ」
「分からねぇよ、李よ。まさか負けちまうとはなぁ」
そしてもう一度大きなため息をついた。
二人は定職に就く事もなく、ごろつきのようなことをやっていた。そこで少しでも泊をつけようと自分で渾名を決めた。
虎の如き孫。
竜を擒える李。
大抵、豪傑の渾名には虎や竜が付いている。それに強そうだ。そんな軽い気持ちで付けたものだ。
その頃、田虎の噂を聞いた。だが特に役人に不満があった訳ではない。ただ、飛ぶ鳥を落とす勢いの田虎の一味に加われば、銭と飯にありつけるだろうという目算からであった。
運も手伝ったのか、二人は順調に手柄を立てていった。そして二人の渾名も知られるようになった。
ある時、ところがというかやはり、二人は失敗をした。
悪徳で知られる金持ちの倉を襲う役目だった。だが金持ちは用心棒たちを雇っていた。
仲間たちが殺され、二人は役目など捨てて逃げようとした。だが腰が抜けて立つこともできない。
「孫如虎と李擒竜か。首を獲ればそこそこの銭にはなるな」
などと物騒なことを用心棒たちが笑いながら言う。
だがその場にいた者たちは、鈴の音を聞いた。
その音に、用心棒たちは怖れ慄いた。
現れたのは耿恭だった。銀鈴公と呼ばれ、河北では有名な男であった。
その耿恭が、二人を助けに来たのだ。
鈴の音が軽やかに鳴る度に、一人また一人と用心棒が倒れてゆく。二人は腰を抜かしたまま、耿恭に見惚れていた。
「ご苦労だったな、孫如虎、李擒竜」
二人が涙と鼻水に濡れた。
それから耿恭を慕うようになり、この陵川に至る。
「でもよ、耿恭さまが、まさか、なあ」
「馬鹿野郎。耿恭さまは、俺たちを、住民たちを守ったんだ。じゃなきゃ凶悪な梁山泊の連中に皆殺しにされていたところだ」
「そうか、なるほどな。孫よ、お前の考えの通りかもしれんな」
「誰が凶悪だって」
びくりと二人が背筋を伸ばした。
史進と黄信だった。史進が酒を頼み、すぐに運ばれてくる。
孫如虎と李擒竜は、史進の問いに答えられず、おろおろするばかりだ。
凄みを利かせた顔で史進が、二人を睨んでいる。
「もうよせ、史進。怯えているじゃないか。本当に私たちが凶悪だと思われてしまうぞ」
「はは、分かりましたよ。すまんな、お前たち。冗談だ」
黄信は、史進の様子に苦笑した。伏兵の出番がなくて、力が余っているのだ。気持ちは分かるが。
しかし、と史進が続ける。
「ほとんどが逃げだしたってのに、お前たちは最後まで持ち場を離れなかったそうじゃないか。大したもんだ」
孫如虎と李擒竜は、何と言って良いか分からず、はにかんだ。
実は、逃げだそうとしていたのだ。だが孤軍奮闘する耿恭への思いがよぎり、他の連中よりも遅れてしまっただけなのだ。
史進と黄信は、それ以上触れず、二人で話し始めた。
孫如虎と李擒竜は、酒も喉を通らず目を合わせ、ため息をついた。




