反旗 二
田虎討伐の勅命を受けた。すぐにでも進発しなければならない。
だが宋江は腕を組み、唸っていた。
そこへ花栄がやってきた。
「おい、宋江。悩むことなんてないだろう」
「悩んでなど」
「お前は信じれば良いんだよ。梁山泊の力を」
言い返さずに宋江は花栄の目を見た。いつもの、自信に満ちた目だ。
実のところ、討伐軍の編成を決めかねていた。先日、関勝や魯智深が山を下りたばかりなのだ。それに李俊ら水軍の大半が太原にいた。
彼らばかりじゃないだろう、と花栄の目は語っている。
確かに、そうだった。自分の考えが偏っていた事を反省した。
「分かってくれたようだな。もちろん、私もいることを承知しておいてくれよ」
宋江が弾けるように笑った。
「おい、それが言いたかったのか。編成に私情は挟めないぞ」
「私は何も言っていないさ。では、任せたぞ」
花栄はそう言って、出ていった。
宋江は、仕方ない奴だという風にため息をついた。
やがて慌ただしく出陣の手配が行われた。
先鋒となる盧俊義が馬に揺られ進む。そしてその横で同じく先鋒の花栄が、馬上で胸を張っていた。
宋江の前を通る時、ちらりと目が合った。
宋江はゆっくりと頷いた。
先鋒に選んだのは、直談判があったからではない。花栄という男を信じているのだ。
宋江の目はずっと花栄の背を見つめ続けていた。
まずは陵川を目指す。田虎軍は衛州を攻めようとしている。ならば近い拠点である陵川から陥とそうという策だ。
盧俊義が率いるのは騎兵一万、歩兵五百。
燕青が地図を広げ、満足げな顔をした。覗きこんだ盧俊義が、ほうと声を上げた。
「相変わらず精緻だな、許貫忠の地図は」
「はい」
これから向かう場所は、地形が険しいことで知られていた。呉用もそれを懸念していたが、この地図があれば問題はない。
許貫忠の地図は驚くほど正確であった。山川はもちろん、城池、要害まで克明に描かれていたのだ。
「大したものだ。これで地の利に胡坐をかき、油断している田虎軍に対し、先手を取れるというものだ。しかしその許貫忠という者、宋江が欲しがるだろうな」
地図を見た花栄が唸った。
「それは宋江どのでも、できない相談ですね」
燕青は嬉しそうに微笑んだ。
梁山泊軍は滞りなく、目的地へと近づいた。
盧俊義は夜のうちに伏兵を置いた。黄信、孫立はに陵川から東五里の所。史進、楊志が西に五里の位置だ。
兵たちにしばし睡眠を取らせた。そして明るくなるまでに飯を取らせ、隊列を組む。やがて東の空がほんのりと明るくなった。
陵川城が静かに佇んでいる。
先頭に立つ花栄が槍を掲げた。
軍鼓が高らかになった。
闇の中で何かが動いている。
目を凝らすと、確かに何かがいる。それも相当な数だ。
「おい、孫。あれが見えるか」
「ん、んん。うるさいな、李よ」
「何だお前、寝てたのか。しっかり見張ってろよ」
「悪い、悪い。で、なんだよ」
「外を見ろ」
陵川の城壁で見張りをしていた二人が、城外の気配に気づいた。
孫も目を覚まし、冷や汗をかく。
「おいおい、軍だぞ。耿恭さまに知らせてくる」
「頼んだぞ、孫」
孫は落ちるように梯子を下りると、足をもつれさせながら駆けた。そして耿恭の部屋へとたどり着く。灯かりが付いている。耿恭は起きていたようだ。
「耿恭さま、失礼します」
「孫如虎か。どうした」
「城外に不穏な気配があります。おそらく軍ではないかと」
「なんだと。よく知らせてくれた。私は董澄どのに知らせる。お前は戻って、李擒竜と共に見張りを続けろ。動きを随時、報告するのだ」
「はい」
孫如虎が城壁へと戻り、耿恭は部屋を出た。静まり返る通路に耿恭の足音が響く。
「何事だ、耿恭」
陵川の守将である董澄がのっそりと起き上がる。いかにも面倒くさそうに、耿恭の話を聞く。
「見間違いではないのか。狼どもか何かの」
「いえ、確かだと思います。警戒するに越したことはないかと」
「憶測で言うな。軍だとして、どこの阿呆が攻めてくるというのだ」
しかし、と食い下がる耿恭。
そこに軍鼓が鳴り響いた。
ちっ、と舌打ちをし、董澄は仕方ないという風に服を着替えた。
すぐに軍議が開かれる。耿恭と同じ副将の沈驥も来た。
報告しろ、と董澄が吼える。
李擒竜が緊張気味に背を伸ばした。
「りょ、梁山泊です。城外の軍は、梁山泊です」
一同は驚いたが、董澄はすぐにせせら笑った。
「面白い。戦を挑んだ事を後悔させてやるぞ」
兵たちに出陣を命じる。だが耿恭が諌めるように立ちふさがる。
梁山泊を侮ってはいけないというのだ。
董澄は、またかという顔をし、天井を仰ぐ。
「お前の悪い癖だぞ。いつも怖気づくようなことを言う。我らの力を信用しないというのか」
「怖気づいているのではありません。梁山泊は童貫、高俅に勝利し、招安を得るほどの実力だと言っているのです。ここは堅く守り、蓋州に援軍を要請して対処すべきです」
「構う事はありません、董澄さま。臆病者はここで我らの雄姿を、ここで見ていろ」
と沈驥が割り込んできた。
董澄も沈驥の意見を採用した。
「そういう事だ。耿恭、お前は城を守っておれ。よし、門を開けよ」
出陣する董澄と沈驥の背を、じっと見続ける耿恭。
眉間に皺が深く刻まれていた。
陵川の門が明け放たれた。
董澄、沈驥率いる軍が飛び出してくる。
梁山泊を前に、董澄が先頭に立った。
手にするのは重さ三百斤の潑風刀。太い腕に血管が盛り上がっている。
「水たまりの盗賊どもよ。わざわざ死にに来るとはいい度胸だ。俺の手にかかって果てることを誇りに思うのだな」
「悪党はいつでも同じ台詞を言うのだな」
梁山泊から駆けだした一騎は、朱仝だった。その目は真っ直ぐに董澄を見据えている。
朱仝は思う。宋江の、困っている人々を見過ごせないという性分が、いよいよ途方もない規模になってしまった。
だが朱仝は嬉しい。
流罪人ととなっても、梁山泊の山賊となろうとも、その信念がぶれる事がなかったからだ。鄆城にいた頃から人の良い胥吏だったが、どこか芯の強さも持っていた。
そして、もちろん今も変わらずにである。
友である雷横が救われた。そして朱仝もそうだ。だから朱仝は力になろうと決めた。
朱仝が気合を発し、馬を速めた。
董澄も馬を飛ばし、撥風刀を真横に構える。
すれ違う二騎。火花が散る。
やるな、という顔を朱仝がする。
小癪なという顔を、董澄がした。
馬首を返し、再び向かい合い、ぶつかった。朱仝と董澄は馬を止め、打ち合った。
董澄の潑風刀が唸りを上げる。朱仝がなんとか朴刀でそれを受けながら、反撃の機を狙う。
「ははは、やはりただの山賊だったようだな。この河北無敵を相手によくぞ戦った。そろそろ死ねい」
「河北無敵だと。随分、大きく出たものだな」
しゅっ、と朱仝が細く息を吐き、朴刀を横に薙いだ。
董澄の甲の腹に、一文字の傷が走った。
「ぐぬっ、貴様」
浅かったか。
朱仝は馬腹を蹴り、方向を変えた。逃がさんぞ、とそれを追う董澄。
梁山泊から花栄が飛び出した。槍を回し、董澄に立ち向かう。
そうはさせじと沈驥が馬を走らせた。
四騎が入り乱れる。刀と刀、槍と槍が流星のように閃く。
城壁にいる耿恭の額に汗がにじむ。一進一退の攻防だが、徐々に押されてきている。董澄はともかく、沈驥の槍が鈍ってきたように見える。
ここは一旦、引き揚げさせるべきだ。孫如虎に命じ、鉦を鳴らさせようとした。
だが梁山泊軍から歩兵の一団が飛び出してきた。城門めがけ真っ直ぐに駆けてくる。
「まずい。李擒竜、吊り橋を上げろ」
敵の侵入を防がねばならない。
田虎軍も梁山泊歩兵に向かうが、あっという間に蹴散らされてしまった。
歩兵を率いていたのは李逵と鮑旭だ。わはは、と笑いながら李逵が二丁の斧で田虎軍を屠り、鮑旭は愉悦の表情で返り血を浴びる。
田虎軍は恐怖し、敵に背を向けはじめた。
「堪えろ、堪えるのだ」
耿恭が叱咤するが、潰走は止められない。すでに吊り橋が抑えられた。
「私が行く。いいか、躊躇せずに門を閉じろ」
孫如虎と李擒竜に命じ、耿恭が刀の柄を握った。そして城壁を乗り越え、梁山泊歩兵の頭上へと飛びおりた。
「耿恭さま」
孫如虎と李擒竜が身を乗り出して叫ぶ。
耿恭は城壁を走るように、駆け下りていった。
そしてそのまま刀に手をかける。柄に括られた鈴が、ちりんちりんと鳴る。
銀鈴公と、耿恭が呼ばれる所以であった。




