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反旗 一

 田虎(でんこ)威勝(いしょう)沁源(しんげん)県に生まれた。

 子供の頃から腕力が強く、また武芸もこなし、近隣の悪童どもとつるんでは悪さをはたらいていた。長じて猟師となっても、その素行は変わらなかった。

 ある日、田虎は獲物を仕留め損ねた。毛並みの良い、立派な鹿だった。諦めきれずに追ったが、すぐに日が暮れた。

 あの鹿を売れば相当な銭になったものを。田虎は酒を呷りながら吼えた。弟の田豹(でんひょう)田彪(でんひゅう)も声をかけられないほどだった。

 そして田虎は何か思いついたように、邪悪な笑みを浮かべた。

 翌日、獲物を担いでいる他の猟師に、田虎が声をかけた。

「いよう、景気が()いみたいだな」

「ああ、おかげさまでな」

 猟師はあまり気乗りしない風だった。田虎を避けたがっているのが分かる。

「おいおい、待ってくれよ。立派な獲物だなあ。ちょっと見せてくれや」

 と言いながら田虎はむんずと猟師の袖を掴んでしまう。そして有無を言わさず引き寄せ、拳を握った。

 ひっ、と悲鳴を上げる前に、田虎の拳が猟師の顔面を襲った。鼻柱が砕けたようだ。鼻血を噴き出しながらのたうち回る猟師。

 田虎は、せせら笑いながら獲物を肩に担ぎ、その場を去った。

 猟師は家に帰るとすぐに役所へ訴え出た。

 だが役人たちはどうしてか動こうとしない。猟師が怪我を見せ、喚き散らしてやっと重い腰を上げた。田虎の元へ行く最中(さなか)にも捕り手役人たちは、考え直せとか、やめた方が()い、などと消極的な態度のままだ。

「よう、揃いも揃って、何をしに来たんだ」

 腕を組み、役人たちをねめつける。

 捕り手役人たちが二の足を踏む。

「こ、こいつがあんたに殴られて獲物を盗られたって訴え出たのでな。すまんが役所まで来てくれんか。手荒な真似はしたくない」

「ほう、俺がやったって証拠でもあるのかよ」

「そ、それを調べるためにだな」

「面倒くせぇな。それなら力ずくで連れてったらどうだ」

 うっ、と捕り手役人たちが怯んだ。

 猟師は、役人たちが面倒だから嫌な顔をしているのだと思っていた。だがそれが違うという事を理解した。

 田虎を、怖れていたのだ。

 あの時の猟師と同じように、捕り手役人たちが血を流しながら地に倒れている。

 へへへ、とにやついた笑顔柄で、田虎が猟師に向かって来る。

「いい度胸だな、お前。まさか訴え出るなんてな」

「ぐ、ふざけるな」

 猟師は怯んだが、落ちていた役人の棒を拾い、構えた。あの時は不意をつかれたのだ。猟師も普段獣を相手にしているだけあり、腕には自信がある。

 おおっ、という雄叫びと共に棒を振り上げ、田虎に向かって駆けた。

 田虎は笑みをくずさずに動かない。

 猟師の頭に鈍痛が走った。白目を剥き、猟師が倒れる。

「甘いんだよ」

 猟師の背後に田豹が立っていた。

 田彪もその横で笑っていた。

 三人が刀を手にし、獲物を狙う顔になった。


 田虎の名が威勝周辺に知れ渡るようになった。

 役人たちは田虎を恐れ、その振る舞いを見て見ぬふりをするばかりだ。すると田虎はさらに傍若無人となり、役人はますます手が出せなくなる。

 田虎は思う。

 なんだ、猟師などつまらぬ事をするのではなかった。自分の力がこれほどだったとは。これまで偉そうな顔をしてきた連中にお返ししてやらねばならんな。

 いままでつるんできた者たちと徒党を組み、暴れ回った。

 さすがの役人たちも命の危険を感じ、知らぬ顔はできなくなった。ついに兵を出動させる事態となる。

 だが周囲は山が多く、隠れる場所はそれこそ無数である。また田虎は猟師であった。山を知らぬ兵たちは、田虎たちの格好の獲物となった。

 常日ごろ役人の横暴に腹を立てていた者、また単に暴れたい者の目に、田虎は英雄にも映ったであろう。次々と威勝へとそういった者たちが集まり、日に日に田虎の勢力は大きくなった。

 また、もう一つ違う(たぐい)の者も田虎の元へ来ることとなる。それはこの騒ぎに乗じて、利を得ようとする者である。

 威勝の富豪、鄔梨(うり)がそうであった。

 田虎が手下と共に大手を振って通りを闊歩していた。道を遮るものは無い。役人はいつの間にか姿を消していた。虐げられてきた民の中には声援を送る者さえいた。

 その田虎の前に、ひとりの男が拱手して立っていた。鄔梨である。

「お初にお目にかかります。手前は鄔梨と申します。田虎さまのご活躍を嬉しく思う者のひとりでございます」

「お主の名は知っているぞ。大した金持ちと聞く」

「いえいえ、わたしなどつまらぬ者でございます。たまたま商売がうまく行っただけでございます。こうして田虎さまにお声をかけたのは、ぜひ祝杯をあげたいと思った次第で」

「祝杯だと」

「はい。田虎さまが河北を制したお祝いです」

「わしはまだどこも取っておらんぞ」

「間もなくでございましょう」

「ははは、面白い男だ。金持ちは鼻もちならんが、お主は違うようだ」

「さすが、見る目をお持ちだ」

 田虎と鄔梨は声を合わせて笑った。

 威勝で一番の酒店を貸切り、宴が催された。すべて鄔梨の出費である。

 ぷはあ、と杯を空け、口元をぬぐう田虎。頬がかなり赤らんでいる。

 鄔梨は自分で言っていたように、たまたま商売でうまく行った人間だ。そもそも武芸の方が好きで、千斤を持ちあげる力を持っており、重さ五十斤の大潑風刀(だいはつぷうとう)を得物としていた。

 その鄔梨だけあって、田虎とは話が合う。乗せられた田虎は、酒が進むほどに役人の悪口(あっこう)をとめどなく溢れさせ、河北を支配下においてやると吼えた。

 そして酒をぐびりと空けると、鄔梨が気分良く持ち上げてくれるのだ。

 空いた杯へ、ひとりの少女が酌をする。なみなみ注がれた酒をまた田虎が干す。

 尽きぬ武勇譚を話しながら、田虎の目がちらちらとその少女を窺う。

 鄔梨が、周囲に聞こえないよう囁く。

「お気に召しましたか」

「何の事だ」

「その娘です」

 田虎は無言で、また酒を飲む。

「実は私の妹なのです。私に似ず器量良しで」

 田虎が笑った。

「冗談ではなく、田虎さまは大事(だいじ)を成す人物とお見受けしております。ぜひ縁を結びたいと願っておるのですが」

 田虎がにやりと笑った。

 だが笑いたいのは鄔梨であった。

 なぜ鄔梨が富豪となったのか。それは機を見る力に()けていたからだ。そして目的を叶えるのに、手段を選ばなかったからである。

 こうして妹を嫁がせ、今をときめく田虎の懐に入り込んだのだ。

 

「田虎をどうにかしたいでしょうね、府尹(ふいん)さま」

「そうだな。できるものならばな」

 威勝の府尹と鄔梨が酒を酌み交わしている。

 普段から袖の下を贈ることに余念のなかった鄔梨は、府尹にも取り入っていた。

 鼻を鳴らし、府尹は不満な様子を隠そうともせず、酒をちびりとやった。

「しかし捕らえようにも奴らは強力で、しかも山に隠れてしまうからな」

「ここだけの話ですが」

 と鄔梨が袖で口元を隠すような仕草をした。府尹は周囲の者を下がらせ、耳をそばだてる。

「田虎が潜伏している根城を知っているのですが」

「なんと、それは本当か、鄔梨よ」

「しっ、府尹さま。お声が大きゅうございます。田虎の手の者がどこで聞いているか分かりません」

 なんと、とまた大声を上げそうになるのを堪え、府尹が周囲を見回す。

 そして鄔梨の顔を見て、気付いた。

「おい、いかにお主でも言って()い冗談と悪い冗談があるぞ」

「これは失礼いたしました。いやしかし、それほどあの田虎が力を持っていることは疑いのない事です。はやく府尹さまに何とかしてもらわねば、私も枕を高くして眠れません」

「まあ良い。しかし、どうしてお主が知っているんのだ」

「府尹さまのために、懐に入ったふりをしていたのですよ」

「ううむ、でかしたぞ、鄔梨よ。今後もお主の商売は安泰だと思うが良い」

 かくして鄔梨が、田虎が潜むという山へ先導してゆく。

 膝よりも高い草をかき分け、兵たちは汗まみれである。

 日がかなり西に動いた頃、(とりで)らしきものが見えた。

 あそこです、と鄔梨の言葉に兵たちの間に緊張が走った。それぞれ刀を抜き、腰を落とす。じわりじわりと寨へと近づいてゆく。こうなると長い草は頼もしい味方となる。

 隊長が、もう一度鄔梨に確認しようと顔を上げた。だが、鄔梨が見当たらない。隠れているのだろうか。

 そして顔を寨に戻した。

 その瞬間、額に矢が突き立った。

 それを見ていた兵たちが騒ぐ。そこへ矢の雨が降り注いだ。

 抵抗することもできず、兵たちは(むくろ)と化した。

 いつの間にか、その場に鄔梨がいた。転がる兵たちを満足げな顔で見ている。

 突如、鄔梨の足首が掴まれた。息も絶え絶えだが、兵の一人が生きていたようだ。

「驚かすなよ」

 と驚いた様子もなく鄔梨が言う。

 兵は憎しみを込めた目で鄔梨を見、必死に言葉を絞り出した。

「だ、騙したな、貴様」

「何を言う。騙してなどいないさ。わしはお前たちを、ちゃんと田虎の元へ案内したではないか」

 鄔梨が寨の方向を顎で示した。

 そこから一人の体格の良い男が姿を見せた。鄔梨に軽く手で挨拶をすると、こちらへ歩いてきた。

 兵が荒い息を、さらに荒げた。

 田虎であった。

 田虎がその兵を見下ろし、口の端を歪めた。手には刀。

「ご苦労だったな」

 田虎が躊躇(ためら)うことなく、その刀を振り下ろした。


 田虎討伐の結果はどうなったのだ。

 威勝府尹はまだかまだかと、その報告を待っていた。いたずらに酒の数が増えてゆく。

 昼をかなり過ぎたころだ。役所の外が騒がしくなった。

「来たか」

 兵が入ってきた。だがその兵は血に濡れていた。府尹を見つめながら、両膝をついた。

「な、何事だ」

「お、お逃げください。奴らが」

「奴らとは、誰だ。何があったのだ」

 それに答えられずに、兵は床に崩れ落ちた。だがその答えを、府尹はすぐに知った。

 大勢の足音が聞こえた。府尹は逃げようとしたが、できなかった。

 入ってきたのは、いかにも野蛮そうな男たちであった。その中央のひと際体の大きい男が、嫌な笑い声を上げた。

「あんたが、府尹だな。俺は田豹(でんひょう)だ」

 田豹、確か田虎の弟だ。

 まさか、と府尹が(あと)ずさる。田豹が再び嫌な笑い方をする。

「どうしてだ、って顔をしてるな。教えてやるよ」

 すべて鄔梨の策略であった。

 府尹は奥歯が砕けるほど噛みしめた。鄔梨が憎い。それ以上に、あの男を信じてしまった自分が憎かった。

 兵の主力を田虎討伐に向かわせていた。そして手薄になった所を襲われたのだ。

 田豹が近づいてくる。

 府尹は立ち尽す。

「あばよ」

 床が、赤く染まった。


 田虎と鄔梨。

 強力な力と充分な金。

 かくしてて田虎は、威勝を我がものとした。

 折しも河北の地を旱魃が襲った。人々は飢え、その心も荒れた。役人たちは、困窮する民衆に目もくれない有り様だった。

 喘ぐ民にとって田虎は救いの神だった。

「腐った役人どもに天誅を」

 扇動された民衆の力も手伝い、田虎は勢力を大きくする。もはや軍と言っても良いほどだ。

 田虎は、皮肉なことに、次々と官軍を打破する梁山泊にも触発されたようだ。河北の梁山泊を目指したのだろうか。各地から豪傑、好漢と呼ばれる連中を集め出したのだ。

 州郡を順調に攻め落とし、役人の代わりに配下を置くことで支配地を広げた。

 田虎の勢いは止まらない。

 官軍が梁山泊との戦に力を削がれていたせいもあるのだろう。ほとんど邪魔する者もなく、汾陽(ふんよう)昭徳(しょうとく)晋寧(しんねい)といった黄河の支流一帯を支配圏としてしまう。

 さらに蓋州(がいしゅう)まで陥落させ、五州五十六県をその手に納めた。さらに次の獲物は衛州(えいしゅう)と定められた。

「いよいよ開封府(かいほうふ)だ。官軍はもちろん、国の(いぬ)となり果てた梁山泊など敵ではない」

 ついに田虎は支配地域を(しん)国と定め、自らを王と称するに至ったのである。

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