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道標 二

 実に後味の悪い(いくさ)だった。

 燕京(えんけい)の王も、梁山泊(りょうざんぱく)も敗者だ。どちらも勝者とはならなかった。

 もし勝者がいるとするならば、おそらく蔡京(さいけい)なのだろう。

 盧俊義(ろしゅんぎ)はそう言った。そして燕青(えんせい)もそう思う。

 風が冷たい。だが身も気も引き締まるようで、燕青は苦ではなかった。

 双林鎮(そうりんちん)という土地である。大きくはない、住民の多くが農民だ。

「やあ、また会えたね、燕青」

 入口に座っていた男が顔を上げた。

 燕青が男をみとめ、微笑んだ。

「会いに来たのです、許貫忠(きょかんちゅう)どの」

 許貫忠は人好きのする笑顔を見せ、腰を上げた。町の奥へは行かず、燕青が来た道を共に戻ってゆく。

 燕青と許貫忠は馬を並べ、双林鎮から西北へ向かった。次第に民家も減り、やがてなくなった。ふたりは時おり言葉を交わすだけだったが、それでも十分に通じ合っているようだった。

 林を抜け、丘を越え、人が住むのかという辺鄙な地になってきた。

 許貫忠は迷わずに、手綱を操っている。

 三十里も行ったところだろうか、許貫忠が山を示した。

「あそこだ。あの大伾山(たいひざん)のあばら家に住んでいるんだ」

 さらに十里あまり。山は峻厳だったが、谷川は澄みきっていた。

 喉が渇いていた燕青は、勧められるまま口をつけた。

「美味い」

 思わず口に出るほどだった。

「なるほど、()(てい)が水を引いたのだったか」

「はは、その通りだ。さすが薄学だな、燕青」

 いや、と燕青は口を拭った。

 盧俊義から読むように言われていた書経(しょきょう)の記述だ。伝説上の禹帝が黄河の治水を行い、大伾に至るとあったのを思い出したのだ。

 許貫忠が革袋を水で満たし、再び馬に乗った。

 山道を登り、やがて(ひら)けた場所へ出た。そこに草庵が建っていた。

 本当にこんな所に住んでいるとは。燕青は、何度か許貫忠と会ってはいたが、家までは知らなかった。いつも双林鎮で用を済ませていたのだ。

 馬をつなぎ、草庵へと招かれる。

 許貫忠が奥へ声をかけた。すると品の良い老婆が現れた。許貫忠の母だという。

「すみませんね、こんなむさ苦しいところへ」

「いえ、空気も奇麗で、水も澄んでいます。そして見渡せる風景も見事で、飽くことがありません」

 許貫忠が、酒と料理を運んできた。

 山菜ばかりだが、と言って燕青に酌をする。

 二人はしばし飲み、語った。

 (さかな)がなくなる頃、許貫忠の母は床へついた。

 二人は草庵を出て、その裏にある小屋へと入った。そして燕青が荷物から紙の束を取り出した。 

「また助けられました。いつもありがとうございます」

 許貫忠はその紙を広げ、椅子に腰かけた。広げられた紙には、地図が描かれていた。

 座った許貫忠の後ろにある棚に、崩れ落ちんばかりに紙の束が積まれていた。

 そしてその膨大な紙も、すべて地図だった。


 始めて許貫忠と出会ったのは、まだ北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)、盧俊義の元にいた頃だ。

 数月ぶりに楊林(ようりん)が訊ねてきた。仕入れてきた竜骨(りゅうこつ)を売るためである。

 いつも取引をする店へ燕青が顔を出した。

「やあ、元気そうだな。すまない、(あいだ)が開いてしまって。その代わり数はいつもより多めだから勘弁してくれ」

 楊林が(ほが)らかにそう言った。

 確かに期日はやや過ぎたが、楊林を責める気にはならない。そうさせないのは楊林の人柄なのだろう。商売相手には厳しい盧俊義さぇ、楊林にはやや甘い顔をするのだ。

 杯に酒を満たす。楊林の、各地の話に耳を傾ける。大名府から離れられない燕青にとって、楊林の話は楽しみの一つでもあった。

 話の流れで、楊林が一枚の紙を取り出して見せた。それは地図だった。訪れた土地の説明のためだったのだが、燕青はその地図に興味を持った。

 実に精緻なのだ。

 山や川はもちろん、どんな土地なのか、まるで目の前に広がるかのように克明に描かれている。

 楊林が自慢げな顔をした。

「こいつは凄いだろう。分かるかい」

「ええ、素晴らしいと思います。誰が描いたのですか」

 一瞬、楊林が考える素振りをした。

「地図は武器だ。(いくさ)にはもちろん、商売にとってもだ。こいつのおかげで、俺は他よりも有利に商売ができているんだ」

 だから、と楊林が声をひそめる。

「ひとつ、約束があるのだ」

「なんですか」

「そいつを守って欲しいのだ。見た通り、この地図の精度は格別だ」

「良くない連中に利用されかねない、と」

「そうだ。そいつは地図さえ描けりゃ()いって奴でな。悪い連中に利用されかねねえ。あんたの旦那さまなら信用できるって訳だ」

 にこりと燕青が微笑んだ。

「な、なんだよ」

「その人が、楊林どのと出会えて良かったな、と思いまして」

「へっ、からかうなよ」

 当然、盧俊義はその地図に価値を見出した。そして楊林との約束を果たした。

 燕青を接近させ、許貫忠をそれと分からぬように庇護したのだ。

 許貫忠は、楊林が言った通りの男だった。

 時おり、地図のためにふらりと出掛けようとする。あまりにも突然のため、燕青は気付かぬことがままあったほどだ。

 共に旅をし、燕青は驚いた。許貫忠は、訪れた土地で地図を描かなかった。紙を取り出しさえしない、どころか紙さえ持ってきていないのだ。

 不思議そうな燕青の顔に気付いたのだろう、

「この景色を見ないなんて、勿体ないだろう」

 許貫忠はそう言って微笑むのだった。

 そして大名府に戻り、燕青はまたも驚く。

 まるで目の前で見ているかのように、許貫忠が地図をすらすらと描いてゆくのだ。

 燕青の驚きを、許貫忠は理解できない。許貫忠にとっては当たり前の事だからだ。

 今も許貫忠は変わらない。そこに燕青は何だか安心するのだ。

 許貫忠は、燕青が返した(りょう)の地図を開いた。

「おや、これは」

青石峪(せいせきよく)というところです。(かい)兄弟が地元の猟師から聞いたものです」

 遼との戦で、盧俊義が捕らわれてしまった場所だ。さすがの許貫忠の地図にも記されていなかったのだ。

「ああ、知らなかったなあ。急いで回ったから、抜けてしまったようだ。ありがとう、燕青」

 などと笑った。

 燕青が少し神妙になる。そして、例の物をと言った。

「ああ、出来ているよ。これだ。これはちゃんとしているよ」

 許貫忠が迷わずに棚から取り出した。

 やはり地図だった。

「でも、本当に行くのかい」

 心配そうに許貫忠が訊ねる。

 毅然とした態度で、燕青が地図を受け取った。

「どんな様子でしたか」

「荒れている」

 治安が、という事だ。

「いまは、もっとだろうね」

 燕青は静かに地図を広げた。

 それは河北(かほく)一帯が克明に描かれていた。

田虎(でんこ)、か」

 燕青が遠い目をした。

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