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道標 一

 読経(どきょう)が聞こえている。魯智深(ろちしん)の声である。

 漂う線香の煙が、心を落ち着かせてくれる。

 五台山(ごだいさん)文殊院(もんじゅいん)の離れにある()を借りていた。

 (りょう)との戦いを終え、帰還する時であった。魯智深が宋江(そうこう)に告げた。

「こたびの戦で散っていった者たちのために(きょう)を読んでやりたいのです」

 宋江は本隊を梁山泊(りょうざんぱく)へ帰し、少しの配下と共に五台山へと向かった。帰路から多少外れるが、活仏(いきぼとけ)とまで言われる智真(ちしん)長老に会ってみたかったこともある。

 やがて経が終わり、魯智深がゆっくりと合掌をした。

「驚きましたか、宋江どの」

 林冲(りんちゅう)が囁いた。

 いや、と宋江は言ったが実は驚いていた。魯智深も自身で僧らしくないと言っているように、経を詠む姿など見た事がなかったのだ。

「魯智深の兄貴は、多くの僧が持っていない、正しい心を持っているのです。戦の後、必ず経を読んでいたのですよ。文字を読めなかった魯の兄貴が、です」

 宋江は恥じた。

 大酒を飲み、肉を喰らい、僧らしからぬ風体(ふうてい)だが宋江は好もしく思っていた。しかし、魯智深の本当の内面まで、知っていた訳ではなかった。

 宋江は目尻を潤ませ、すまないと呟いた。

 この後、智真長老の説法が行われると聞き、宋江らもそれに参列することになった。

 法堂に鐘や太鼓が打ち鳴らされ、五台山の僧侶一同が集まりだした。そして二つの燈篭の先導で、智真長老が法座に上がった。

 智真長老は(こう)をつまみ、祈った。

 天子の長寿、民の暮らし、豊作、国家の安泰と安寧などである。

 祈りが終わり、僧侶たちが一斉に合掌の礼をする。

 再び(かね)が鳴らされ、僧侶たちが静かに法堂から退出してゆく。宋江らもそれに従い、そのまま別室へと通された。

 茶を飲み終える頃、そこへ智真長老が入ってきた。

「わざわざ遠いところをお越しくださり、また僧たちに(とき)を施しいただき、かたじけのうございます。不肖の弟子が迷惑をおかけしておりませんかな」

 法堂での厳しい表情とは打って変わった、童子のような目が印象的だった。

「お久しぶりです、お師匠さま。お元気そうで、何よりです」

「お主もな、智深(ちしん)

 智真長老は、東京(とうけい)開封府(かいほうふ)以降の魯智深の動向を把握していた。

 林冲を守るために奔走し、高俅(こうきゅう)に狙われたこと。そのため開封府から脱し、二竜山(にりゅうざん)へ登ったこと。そして梁山泊へと至ったこと。

 魯智深が子供のように照れくさそうにしている。

 これも宋江が知らない顔だった。

 林冲が嬉しそうな顔をしているのが印象的だった。

「しかして宋江どの」

 と智真長老が、宋江に水を向けた。

「あなたの事も、山に参られる人々からしばしば聞いております。宋江どのは天に替わって道を行い、深く忠と義を(こころざ)しておられると。智深も宋江どのについてゆけば、道を誤ることはございますまい」

 ほほ、と柔らかい声で笑った。

「そんな事はございません、長老さま。魯智深は私などおらずとも、正しい道を進んでおります。むしろ私の方こそ、道に迷い通しでございます」

「ほほ。ご謙遜なさるな。上に立つ者が迷っては、ついてゆく者も迷います。迷い、悩むことは人として必然のこと。しかしなかなかそれを自覚している人間は多くございません。やはり宋江どのは大したお方だ」

 そうは言われたものの、宋江は口を結んだ。そして意を決したように口を開いた。

「長老さま、ぶしつけながらお尋ねします。どうすれば正しき道を歩むことができるのでしょうか。ぜひ長老さまに迷いを解き、道を示していただきたいのです」

 林冲も魯智深も、静かに宋江を見守る。

 何故、五台山に来たいと願ったのか、それが宋江の言葉でわかったからだ。

 智真長老の目が、再び厳しい光を灯した。

「宋江どの、そなたの願いは何じゃ」

「私がただ願うことは、梁山泊の兄弟と生死を共にし、たとえ生まれ変わり死に変わっても逢えること、それだけです」

「なるほど、だから招安を受けたのですな」

「なにとぞ、我らの行く末を教えていただけないでしょうか」

 宋江は只じっと智真長老の目を見据えている。

 長老が小僧を呼んだ。まもなく戻ってくると、長老に紙と筆を渡した。そしてゆっくりと筆に墨を含ませ、紙に文字を(したた)めた。

「それは」

「宋江どの、あなただからお伝えするのです。ですが、梁山泊の未来は、自分たちで決めるのです」

 紙には四句の()が書かれていた。


 風に(あた)りて鴈影(がんえい)(ひるがえ)

 東が(かけ)けて団円ならず

 隻眼功労足()

 双林(そうりん)福寿全(まった)

 

 目を細め、偈を見つめる宋江。

「意味はご自分でお考えくだされ」

 と、智真長老は優しい顔で、突き放すように言った。

 宋江はそれ以上追及することもできず、偈を懐へとしまった。

 次に長老は魯智深を側へ呼んだ。

「おそらくこれが今生(こんじょう)の別れとなろう。いまいちど、お主にも偈を送らせておくれ」

「ありがとうございます」

 かつて五台山を出る際に、魯智深も四句の偈を授けられた。その句のことごとくに、思い当たる(ふし)があった。

 神妙な面持ちで魯智深が偈を受ける。


 ()()って(とりこ)にし

 (ろう)()って(とら)

 (ちょう)を聴いて円し

 信を見て(じゃく)


 魯智深はすぐに偈を懐へとしまうと、にっこりと笑った。

「わしはお師匠さまに感謝しております。乱暴者のわしを立派な僧にしてくれたのですから。今生の別れと申されたなら、そうなのでしょう。ですがわしの心にはいつもお師匠さまがおります。どうかお元気で」

 ほほ、と智新長老も笑った。

「林冲どのにも礼を言わねばなりませんな。智深がここまで来られたのも、そなたのおかげです」

「いえ、お礼など。魯の兄貴には命を救われているのです。私の方こそ、礼を言わねばならないのです」

「良い友を持って、智深は果報者だな」

「はい、お師匠さま」

 がはは、と魯智深が大笑した。優しい目で、それを林冲が見つめる。

 宋江も心が温かくなるようだった。

 懐に納めた四句の偈に、自然と手を当てていた。


「本当にお久しぶりでございます。すっかり立派なお坊さまになられて」

「よせよせ、わしは酒も飲む肉も喰らう。恰好だけ坊主なのだ」

 うふふ、と金翠蓮(きんすいれん)が笑う。

 なんと五台山で(ちょう)員外(いんがい)と出会い、せっかくだからと屋敷に招かれたのだ。

 再会した金翠蓮はあどけない少女から、ほんのりとあでやかさを感じる女性となっていた。だがこうして話していると時折見せる表情が、やはりあの頃を思い出させた。

 金老人はすでに他界していた。趙員外が立派な葬儀を上げてくれたのだと、目もとを潤ませた。

 やがて趙員外を交えて宴の席となった。

 昔話に花を咲かせていたが、金翠蓮が梁山泊について訊ねてきた。

「この代州(だいしゅう)にまで噂は聞こえてきます。民のために戦っておられるとか。魯智深さまはどうして梁山泊へ」

 魯智深は身振り手振りで経緯(いきさつ)を語った。喉が渇けば酒でそれを潤して。

 東京開封府での林冲との出会い。野猪林(やちょりん)で林冲を助けた事から開封府を追われたこと。そして楊志(ようし)曹正(そうせい)と共に二竜山を奪取した事。さらに童貫(どうかん)に敗れ青州(せいしゅう)に到り、その(のち)呼延灼(こえんしゃく)との戦。そうして梁山泊と合流した事。

 金翠蓮は目を輝かせ、心躍らせた。普段、物静かな趙員外も、身を乗り出すように聞き入っていた。

 趙員外が、ふうとため息をつく。

「本当にこのところ、あちこちで賊が暴れ回っているという噂が絶えない。実は私の親類が河北(かほく)にいるのです。危ないからこっちへ来るように手紙を出したのだが、音沙汰がなくて心配しているのです」

「河北ですか、河北と言えば」

「そうです。田虎(でんこ)という山賊が町々を支配しており、官軍さえも近づけない様相だとか」

 もう一度、趙員外がため息をつく。

 椀に残っていた酒を一気に飲み干すと、魯智深が胸を叩いた。

「よし趙員外、任せてくだされ。わしがそのご親類の様子を見て参りましょう。なあに、田虎だか何だか知らんが、必ずお連れしてきますよ」

「それはありがたい。いや、しかし」

「趙員外、心配なさらずに。わしには仏のご加護がついております(ゆえ)

 そう言って神妙な顔で、合掌してみせた。

 趙員外は、ほっとした表情になった。

 翌朝、宿を()つ魯智深を、金翠蓮が見送りに来た。

 趙員外の手紙を渡し、少し悲しそうな顔をした。

「魯智深さまなら大丈夫だと信じております。でも無茶はしないでくださいね」

「がはは、そんな顔をするな。まあ、わし一人でも大丈夫だとは思うが、念のためもう一人連れて行こうと思っておる」

 魯智深がにんまりと笑った。

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