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亡国 四

 燕京(えんけい)城に、降伏の旗が(ひるがえ)っている。

 帝の聖旨を携えた勅使が燕京城に入って、しばらくしての事であった。

 ここまで来た梁山泊(りょうざんぱく)軍の顔に、戸惑いと疲労の色が濃く浮かんでいる。

「逃げないで、敵の親玉をぶっ殺すんだったな」

 李逵(りき)が憤慨して言った。誰もが同じ思いだったに違いない。

 勅使が城から戻ってきた。手紙を携えている。

 燕京の王、耶律輝(やりつき)の降伏と謝罪の文だった。

 幕屋を張り、そこで勅使と宋江が向き合った。

「危なかったですな、宋江どの。燕京を攻撃していれば、大変なことになっていたところです」

 勅使が開口一番、横柄に言った。

「大変なこととは」

「ふん、思い至らぬとはな。戦だよ、戦。お主らがこの燕京を攻撃していたならば、遼への宣戦布告と見なされていただろう。ここがどこだか分かっているのかね」

 宋江は無言だ。両の拳を膝の上で強く握っている。

「分かるだろう、燕雲(えんうん)の地だ。我らが奪還を悲願としている地だ。宋朝はこの地を取り戻すべく、長い年月をかけて交渉を重ねてきた。いまは遼とも和平を結んでおり、あと一歩というところまで来ているのだ。それをお前たちが、ぶち壊すところだったのだぞ。その時は、梁山泊も賊徒に逆戻りしていただろうがな。運が良かったな」

 何だと。私たちは、国が奪われた金と虐げられた民を救おうとしただけだ。

 宋江は殴りかかりそうな拳を必死に自制していた。

 だが勅使の挑発的な物言いは止まることなく続く。

 ついに宋江の腰が浮きかけた。

 す、と呉用(ごよう)の手が肩に置かれた。

「勅使どの、この度は大命(たいめい)のため、遠路はるばるご苦労様でした。喉も渇きましたでしょう」

 そう言って奥の間にある酒甕を見せる。

 そうだな、と勅使が舌なめずりをした。

 思わず宋江は呉用の顔を見た。普段、表情の読めない呉用が、この時は悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべていた。

 数刻後、勅使は杯を手にしたまま(よだれ)を垂らし、白目を剥いて卓に突っ伏していた。

 痺れ薬だ。

 その様子を見て、李逵たちがげらげらと笑っていたところである。

 東の地平から、一団が不意に姿を見せた。

 土煙と共に、どんどん近づいてくる。

 一体、何者か。

 その一団は近づくにつれ、速度を落とした。あくまでも整然と行軍し、やがて梁山泊軍の前で止まった。

 契丹(きったん)の服装をしていた。その一団は、都である臨潢府(りんこうふ)から来た、遼の正規軍であった。

 先頭の将が恭しく言う。

「すまぬ、梁山泊の諸君。耶律輝はじめ叛逆者どもが迷惑をかけてしまった。後は我々が始末をつけさせてもらう」

 号令をかけると、兵が燕京へ向けて駆けた。

 躊躇(ためら)うように開いた城門から、燕京の王、耶律輝が出てくるのが見えた。

 戦で見た、堂々たる風格が消え失せていた。


 東京(とうけい)開封府(かいほうふ)、朝議の場がどよめいた。

 だがすぐに係りの者が静粛を命じ、居並ぶ官僚たちは口を閉じた。

 蔡京(さいけい)の奏上が発端だった。

 梁山泊が遼国に戦を仕掛けているというのだ。本当だとすれば由々(ゆゆ)しき事態である。

 王黼(おうほ)が声を荒げる。

「我らが苦労して締結させた和平の盟約を、山賊どもの身勝手で破られる訳にはいきません。厳罰を下すべきです」

 まるで自分が和平をもたらした言いぶりではないか。いけしゃあしゃあとよくもぬかすものだ。そんな楊戩(ようせん)の胸の内を見透かすように、王黼が睨んだ。

 ともあれ、緊急事態には変わりない。

 やはり梁山泊を招安したのは間違いだった。という声があちこちから上がりだす。

 帝もどう対処したら良いか、苦悩の色を浮かべている。

 蔡京は初めの発言から黙ったまま、不敵な微笑(びしょう)を湛えている。

 その中で宿元景(しゅくげんけい)が静かに言った。

「梁山泊の招安を否定することは、聖旨を否定することと心得よ。軽々(けいけい)に発言することは控えていただこう」

 場が瞬時に凍りついた。

 宿元景は続ける。

「こたびの騒動、元はと言えば、我が朝廷からの贈物が略奪されたことが原因と調べがついております。それを梁山泊が取り戻そうとした結果起きた事。しかも略奪は今回が初めてではなく、これまでに何度もあったようです。ですがその報告はことごとく握りつぶされていました。実際、こたびの王文斌(おうぶんひん)の訴えを宰相は却下したとか、それは本当ですかな」

 宿元景の目が蔡京を捕らえる。

 呆れたような顔を蔡京がした。

「確証もなしに、軍を送れるはずもないだろうて。もちろん調査しておるわ」

「もうひとつ、看過できない問題がございます」

 帝が身を乗り出した。

「なんだ、言ってみよ」

「調べによると、燕京を支配した一団を、裏で手引きした者がいるようです。しかも、それは我らの中にいるようです」

 再びざわめきが起きた。そしてそれは次第にどよめきへと変わる。

「憶測でものを言ってもらっては困りますぞ、宿太尉。もしそれが虚偽であったならば、罰せられるのはそなたの方だ」

 王黼が(わめ)く。

 宿元景の視線を、蔡京は受け止めていた。動揺など微塵も感じさせない目だった。何か証拠でもあるのか。そう言いたげな目だった。

 しばし無言の宿元景。

 化け物め。確かに目の前に出せる証拠はない。だが蔡京が裏で糸を引いているのは間違いないのだ。

 帝が唇を噛む。

 宿元景の言葉を信用している。だが今はその内通者を探し出している時間は無い。

「梁山泊に戦をやめるよう命じよ。すぐに使者を送るのだ。梁山泊の処分については後ほど決める。宿太尉、こたびの経緯をまとめて(ちん)に報告せよ」

「ははっ。すぐに」

 帝の言葉に宿元景と一同がひれ伏した。

 良い判断だと、宿元景は思う。

 遼と交戦状態にある事を、まずは収めたい。

 招安により梁山泊はその独自性を勝ち取ったことは事実だが、対外的にそれを公表してはいない。

 遼にとっては梁山泊軍は宋軍と同じなのだ。その梁山泊が燕京を陥落させてしまえば、盟約を一方的に破棄し、燕雲の地を回復させるために宋が戦を起こしたと取られてしまう。

 宿元景がもう一度、蔡京を見た。

 皺に覆われたその目が微かに細められていた。

 一層、妖怪じみてきたようだ。

 

 最後の一兵になるまで、戦ってみせる。

 耶律輝は、その覚悟を貫こうとした。幽西孛瑾(ゆうせいはいきん)が駆けこんでくるまでは。

 褚堅(ちょけん)が死んでいる。いや、殺されていたのだ。

「梁山泊の連中の仕業だ。褚堅も可哀想に、あんたを随分と支えたのにな」

 耶律輝の背筋が凍った。服を剥がれ、雪の中に突っ込まれたような感覚だった。

 玉座の背後に何者かがいた。

 違う、と直感した。

 梁山泊ではない、この男が褚堅を殺したのだ。いままで味わったことのない不快さが、背筋を駆け抜ける。

 言伝(ことづて)だ、とその男が言う。

「褚堅と我らは一切、係わりがない。良いな」

 男の主人、つまり褚堅を操っていた者からの有無を言わさぬ脅迫だ。こちらに選択の余地はない。

 微かに頷くと、背後の気配は霧のように消えた。

 耶律輝の戦おうという気が、ここで失せた。


 褚堅は、梁山泊を潰すための調査の中で浮かび上がってきた、盧俊義の配下だった。

 金に目がなく出世欲はあるが、懸命に働く気はない。主人には良い顔をするが、下には厳しい。話しを持ちかけると、一も二もなく応じた。盧俊義への恩義などこれっぽっちも感じていないような、とても使いやすい男だった。

 蔡京の目的は、遼を混乱させ国力を()ぐことであった。

 耶律輝という王族に連なるものを選んだ。

 耶律輝は現国王に不満を持っているという噂だった。政治も風習も宋のものを多く取り入れ、田舎者が(みやこ)に憧れるように、宋の真似ごとが目立ってきた。耶律輝は常々、大遼が宋に毒されていると憤慨しているという。

 そこで褚堅を通じ、耶律輝に話を持ちかけた。

 王にならないか、と。

 多少の戸惑いはみせたものの、耶律輝は首を縦に振ることになる。

 それもそのはずだ。耶律輝の叛乱を支持するための資金を、十二分(じゅうにぶん)に提供するというのだから。

 もちろん蔡京の金ではない。宋の国庫など、蔡京の手にかかればどうとでもなる。さらに、宋朝から遼への贈物まで強奪する始末。

 そうして耶律輝軍は薊州(けいしゅう)から南一帯を力で奪い取り、燕京を都とした。

 王として君臨した耶律輝は、その見返りとして褚堅を右丞相の位に付けた。そして褚堅が燕京に入る税の一部を、蔡京に横流ししていたのである。

 やがて蔡京の計画に綻びが生じた。梁山泊が遼の地に入ったからだ。

 しかし蔡京は慌てずにこれを利用することにした。

 梁山泊が戦をするつもりならば都合が良い。原因が何であれ、やはり梁山泊は山賊でしかないと騒ぎ立てることができるからだ。

 すんでのところで帝と宿元景が救った形となった。

 梁山泊はやはり解体すべきだという連中が増えたし、これを機に押してゆけば、優柔不断なあの帝ならば必ずや折れると踏んだのだ。

 蔡京は、まあ良い結果だと考えていた。


 宋からの勅書が届いた。

 梁山泊には戦から手を引くように命じるとあった。その代わり自分たちも戦を()めろという内容だ。

 耶律輝は、城外に陣を敷く梁山泊の姿を見た。

 破れていった兀顔光(こつがんこう)や、弟の得重(とくじゅう)を思った。

 最後まで戦う。そう誓った先ほどまでの想いが薄れていた。

 初めから間違っていたという事か。

 契丹人の力だけで事を()さねばならなかったのだ。

 褚堅という人間を、その裏にいる宋を利用しているつもりだった。だがその実、したたかに利用されていたのは自分だったのだ。

 臨潢府(りんこうふ)から使者が来たという。

「どうなされますか」

 幽西孛瑾が心配そうに見つめる。

 終わりだ。

 すべて終わったのだ。

「すまぬ」

 幽西孛瑾が口を固く結び、拳を振るわせた。

「無念です」

 王の間へ、使者が入ってくる。耶律輝に対しても、あくまでも丁重な態度だった。

「臨潢府へご同行願います」

「待ってくれ。兵たちは解放してくれんか。彼らに罪は無い。わしの言葉に(そそのか)されただけだ」

 しばし沈黙する使者。

 そして、良いでしょう、と言った。

 耶律輝は、幽西孛瑾に軍の解散を命じた。

 だが耶律輝はもちろん、幽西孛瑾をはじめとする燕京の高官は逃げることはできない。同行と柔らかく言ったが、実際は連行である。

 燕京の城を出る。

 あくまでも耶律輝は、王として振舞った。

 使者に先導されながら、馬上で堂々と胸を張った。

 梁山泊の横を過ぎる。

 梁山泊の頭領、宋江がこちらを見ている。

 耶律輝はその視線を受け止め、目を細めた。

 風の音と、(ひづめ)の音。

 時おり(はやぶさ)の声が聞こえていた。

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