亡国 三
ここのところ目を覚ますと、心地よい高揚感に満ちている。
掌には礫を握った感触が残っている。
張清は顔を洗い、首筋に手をやった。少し張っているが、傷の具合はだいぶ良くなっている。素早く対応してくれた石秀たちに礼を言わねばならない。
まだ誰もいない修練場に行き、的に向かって礫を放つ。怪我も影響はしていない。
昨日、孫安という男が兵を率い、梁山泊に来た。自分も出て行こうとしたが、安道全に止められた。まだ戦に行く許可は出せないというのだ。
いくら懇願しても駄目だの一点張りだった。小競り合い程度で済んだから良かったものの、張清は山上で見ながら歯嚙みしていたのだ。
しかし李応の飛刀をも落とす腕前の孫安という男。自分の礫ならばどうだったのか、と思う。
またひとつ礫を放つ。少し指を引っ掛けるようにした。
礫は真っ直ぐ飛んだが、的のやや手前で右に向きを変えた。
もう少し、左からか。同じ指の動きで、もう一度放つ。
礫はあらぬ方向に飛んでいるように思えたが、的を見つけたかのように、ふいに右に曲った。
礫が当たり、乾いた音が響いた。
「ほう、なんだそれは」
安道全が見ていた。
張清は答えずに、はにかんだ。
二人で朝食を共にすることになった。
話題はやはり孫安だ。張清は浮かない顔でそれを聞いていた。
「どうした。まだ止めた事を怒っているのか。わしは医者としてだな」
「いえ、そうじゃないんです」
安道全が箸を止めた。
張清は周りを気にするように声をひそめた。
「夢って、何か、その、意味があるんですかね」
「どういうことだ。不吉な夢でも見たのか」
張清がぽつりぽつりと語る。
最近、同じ夢を見るという。
場所はぼんやりとしており分からない。ただ、いつも月が照っている夜のようだ。
いつも出てくるのは見知らぬ少女。顔は風景と同じようにぼんやりとしており、分からない。
夢は前に見た場面の続きから始まるという。つまりずっと繋がっているのだ。
夢の中で張清は、その少女に武芸を教えている。そして礫も、である。
今朝、安道全が見たのはが、少女が投げ損じたものだという。
夢の中で、張清は驚いた。これは使えるのではないかと閃いたのだ。少女はやはり力が弱い。張清のような威力が、どうしても出ないのだ。
だが真っ直ぐ飛ばすだけが礫ではないとしたら。
それをまず自分が習得し、夢で少女に教えようというのだ。
安道全は箸を置き、腕を組んだ。
「ううむ。夢についての診断は詳しくないが、そこまで同じ夢を見るというからには、何か意味があるのだろうな」
思いついたように安道全がにやりとした。
「そうか、そろそろ嫁が欲しいのかもな。それが夢に反映されているのではないのか」
え、いや、と言いながらも、張清も否定しきれないでいた。
安道全は一人合点し、そうかそうかと頷いている。そして安道全まで囁くように話し始めた。
「誰か気になる女子でもいるのか」
「いや、特に、おりませんが」
「本当か。ううむ、まあ良い。また気になる事があれば、遠慮なく話してくれ。もしや怪我との関連もあるかもしれん。わしにはそっちの方が問題じゃて」
粥をそそくさとかき込み、安道全は食堂を出て行った。忙しいのだ。残された張清は、食事を終えると裏山へと足を向けた。
もう兵たちの修練が始まっている。
礫の新しい技を、まだ見られたくはなかった。
感触を思い出すように、礫を何度か握り直す。
指を決め、木立に向かって構える。
狙いを定め、礫を放った。風を切る音とともに礫が飛ぶ。
礫が意思を持ったように曲がった。
狙い通りの木に当たった。近くで見ると、木の表皮が抉れている。
張清は六分ほどの力で放った。これならば少女の力でも、十分に武器となり得る。
その後も、さまざまな投げ方を工夫した。右から、左から、上から下へ落ちるようなものも試したりした。
やがて日が暮れ、張清は思わず笑ってしまった。
何を、夢に本気になっているのだろうか。
所詮、夢だ。顔も分からぬ、名も知らぬ少女に、惹かれているというのか。
龔旺や丁得孫に笑われるだろうな。
「おい大将、怪我でおかしくなっちまったんじゃないのか」
そう言うに決まっている。
自分でもおかしいとは思う。
だが何故か、たんなる夢ではない、という思いも強く感じるのだ。
夢というにはあまりにも、現実的なのだ。
今夜も会えるだろうか。
いつしか張清は、楽しみになっていることに気がついた。
張清は、夜空を見上げた。
夢の中と同じような月が、煌々と照っていた。
「何者だ、貴様ら」
李逵と魯智深が、遼兵に呼び止められた。
「見つかってしまったようだな」
「こそこそと逃げるのは性に合わねぇ。こうなりゃ、ひと暴れしてやろうぜ、魯の兄貴」
「まったく、お前は。しかし今回は賛成だ、鉄牛」
逃げるどころか、嬉々としてこちらへ向かって来る二人を見て、その兵は悲鳴を上げた。そして脱兎の如く逃げてしまった。
「なんだよ、意気地のない野郎だ」
魯智深と李逵が角を曲がると、二十人からの兵が待ち構えていた。その中に、先ほど逃げた男の顔があった。
「がはは、面白いではないか」
「そうこなくっちゃな」
魯智深と李逵が遼兵の中に突っ込む。兵たちは数で制しようとするが、魯智深と李逵の拳や蹴りで、弾き飛ばされてしまった。兵のひとりが鼻から血を流しながら、応援を呼ぶために逃げて行った。
二人は武器を奪い、城内を駆ける。
喚声が聞こえ、二人が進む通路の前後から大量の兵が殺到してきた。
咄嗟に魯智深と李逵が背中合わせになり、構える。
遼兵は動けない。二人の強さを目の当たりにしたからだ。
睨み合いが続く。
このままでは埒が明かない。
やるか、李逵。
おうよ。
目で合図を交わす。
二人が一歩踏み出した、その時、李逵側の兵たちの背後が騒がしくなった。
悲鳴や怒号が大きくなる。
遼兵が次々に倒れてゆく。
そしてその中から、武松と燕青が現れた。
「こっちです、行きましょう」
燕青が言いながら兵の一人に拳をねじ込む。魯智深と李逵はにやりと笑った。
武松が殿に立ち、妖刀の切っ先を遼兵たちに向ける。
武松の圧倒的な気と、不気味な妖刀を前に、誰ひとりとして動ける者はいなかった。
抵抗していた遼軍も、兀顔光が討たれたと知るや、次々に武器を捨てた。
王を追っていた盧俊義らも合流した。
宋江が梁山泊軍を率い、燕京に迫ろうとしていた。
静かだった。
当然いると思っていた遼軍がいなかった。陣さえ敷いてはいない。
潜ませているのか。
勝利を重ねているとは言え、梁山泊はいまや獅子の口の中だ。
解珍、解宝や段景住を斥候に走らせながら、宋江は慎重に軍を進ませる。
間もなく燕京というところで、こちらに何人か駆けてくるのが見えた。警戒をしたが、何者かを確認した宋江が喜色を浮かべた。
「無事だったか、李逵。魯智深、武松もご苦労だったな」
「もちろんです、兄貴。きっと助けてくれるって、おいらは信じてましたぜ」
大笑した李逵が、抱きつかんばかりに駆け寄った。
盧俊義は燕青の報告を受け、渋面を作った。
褚堅が消された。暗殺者は、以前東京開封府で襲われた相手だったという。
この手で鉄槌を下すことはできなかったが、褚堅め、あの世で後悔しているだろう。
燕京城を包囲する形に展開させながら移動を再開する。
見えた。
緊張の糸が張りつめる。
遼軍が出てくる気配は、まだない。
雲梯を組み、攻城戦の準備を始める。
時は満ちた。
宋江の合図を待つ梁山泊軍。
突如、報告が届く。
「どうしたのだ、段景住」
「どうもこうもありません」
困惑した表情の段景住の後から、数騎が駆けこんできた。
何かを掲げた、先頭の一騎が大声で告げた。
「控えろ、聖旨である」
宋江は、そして梁山泊軍は、愕然とした。
燕京への攻撃を中止し、ただちに軍を撤退せよという帝の言葉だった。