亡国 二
李立が北山酒店で腕を組んでいる。
崔命判官と呼ばれ、掲陽嶺では泣く子も黙ると恐れられた男が、さらに怖い顔をしていた。
「遅い」
とぽつりと呟いた。
李立は王定六を待っていた。
雀も鳴くのに飽きた頃、慌ただしい足音がやっと聞こえてきた。
「遅ぇな。なにちんたらしてたんだ」
「勘弁して下さいよ。梁山湖を半周してきたんですよ。これでも早い方です」
飛びこんできた王定六に怒鳴る李立。玉のような汗を浮かべているが、王定六はやや息を乱しているだけだ。
いま梁山泊の多くが遥か北、遼の地へ遠征している。
そこに孫新、顧大嫂と張青、孫二娘も加わっているため、残った李立たちの負担が大きくなっていた。王定六は各酒店に食材などを運んで回っていたのだ。
「ふん、まあ良い。早く運びこんでくれ」
「ったく、すぐ怒るんだから」
「何か言ったか」
「何も言ってませんよ」
荷車から物資を運びこみ、水を飲む。
ひと休みする間もなく、王定六が次の酒店へと向かった。
李立が包丁を研ぎ、仕込みを始める。
その時、叫び声が聞こえた。
「た、た、大変だ」
王定六が戻ってきた。
「なんだよ、騒がしいな。敵でも攻めてきたって顔しやがって」
「そうなんだ、敵なんだよ」
まさかと李立は思うが、王定六の顔を見ると本当のようだ。
舌打ちをして、李立は包丁を放りだす。
「本寨へ渡るぞ。すぐにお前は裴宣の所へ走れ。俺は李俊に知らせる」
「わ、わかった」
王定六が船を用意し、李立は筒状のものを持ってきた。それを地面に突き立て、火を付ける。甲高い音とともに、火球が空へと打ち上がった。火球は長い煙の尾を引いていた。狼煙である。
船に乗りこみ、王定六が漕ぎだす。
「その敵ってのは」
「分からない。数は一万ほどかな。見たことない連中だった」
いまの梁山泊に騎兵など主力は不在だ。頼りは水軍だけだ。
だが李立に不安そうな様子は、微塵もなかった。
梁山湖を見渡せる断金亭で、李俊が酒を飲んでいた。
向かい合うのは老風流の王煥。思いがけない客であった。
「節度使を退任してから時間が余っていてな。あの時はここまで来られなかったので、一度見ておきたいと思ったのだよ」
「変わった人だ」
李俊は、どんな相手でも気を遣うような男ではない。却って、高俅軍のあそこは駄目だったとか、歯に衣着せぬ意見を言う。
王煥はそれが心地良かった。心にもないことで互いの腹を探り合うなど、酒が不味くなるだけだからだ。胸に痛い事であっても、真摯に受け止めなければならない。その逆も然りだ。
いまの朝廷では、それができない。上官に意見するなど、たとえ正しくても、できないことなのだ。
酒が進むたび、李俊の舌が軽やかになる。王煥も負けじと唾を飛ばし、傍から見れば喧嘩ではないかと見えるほどだ。
だが互いの顔は笑っている。
酒が切れ、手下に取りに行かせた。それを機に口論の幕は下りた。
しかし、と王煥が梁山湖を見晴るかす。
「良いところだな。羨ましい」
かつては官軍相手に暴れていた事がある王煥も、梁山泊と同じ志を抱いていた事もある。
梁山泊という、捨ててしまった己の想いを叶えている者がいると知った時、素直に憧れたのだ。
「まあ、俺たちも招安を受けちまったけどな」
「何を言う。梁山泊を解体させないという、とんでもない奇策を成し遂げたではないか」
「まあ、確かに」
招安を受けるくらいならば、という思いはやはりあるのだろう。混江竜として役人と戦ってきた男だ。
「気持ちもわからんでもないがな。しかし、なかなかできる決断ではあるまい」
王煥が酒を注いだ。
「何だか俺の方が慰められちまったな」
二人の笑い声が断金亭に響いた。
だが酒宴は唐突に終わりを迎える。
あれは、と王煥が言う。その視線の先に、狼煙が上がっていた。
北山酒店の方角、李立か。
「すまない、王煥どの」
「何事だ」
「敵襲の合図です」
招安を受けた梁山泊の敵とは一体。
「わしも、力を貸させてもらう」
「では」
二人は水軍の所へ駆けた。
童兄弟、阮三兄弟、張順がすでに集まっており、そこに李立がいた。
「敵だ。王定六が忠義堂へ走っている」
李俊の顔を見るなり、李立がそう言った。
ややすると張横と手下の船が、戻ってきた。
「どうだ」
「西にいる。陣を敷くでもなく、様子をうかがっているという印象だ。数は二千ほどだろう」
思ったより少ない。偵察隊だろうか。
童威らに船団を任せ、西側に向わせた。船影が見えなくなる頃、裴宣、柴進、李応が駆けつけてきた。
「おう、もう船を走らせたぜ。構わんよな」
「構わない。これは戦だ。指揮権はお主にある。それに、上からも微かだが確認できた。王煥どの、申し訳ありません」
「いや、わしこそ足手まといにならねば良いが」
裴宣がいつになく真剣な顔だ。
いま梁山泊は、認めたくはないが、手薄だ。だから持てる戦力で対応するしかない。しかも宋江も呉用も朱武もいないのだ。
柴進にはすぐに対応できるよう待機させ、李応が騎馬隊を率い、陸から向かう。
「頼んだぜ、鉄面孔目。俺は船であいつらを追いかける」
うむ、と裴宣が口を一文字に結んだ。
李俊は言葉だけではなく、裴宣を信頼していた。盧俊義の庇護があったとはいえ、飲馬川の頭領だった男だ。
李俊と王煥が裴宣に見送られる。その間にも、配下に次々と指示を飛ばしている。
「あの男、できるな。軍人だけでなく、あのような男がいたのでは、勝てる訳がなかったのだ」
王煥が感心したように言った。
李俊がにやりと微笑んだ。
船上から、侵入者を見やる。
童威、童猛らは散開し、いつでも戦闘できる態勢だ。だが敵は静かにこちらを見ているようだ。
ゆっくりと李俊の船が前に出る。王煥が横に乗っている。
「何の用だ。ここは梁山泊、名くらいは聞いた事があるだろう。迷ったならば速やかに出て行ってもらおう。知っていて、というのならば話は別だが」
敵の集団の中から、一騎が進み出てきた。
背を反らし、自然体の騎乗だが、凛と張り詰めた気を纏っている。どこか林冲や呼延灼のような感じがした。
「気をつけろ。何だか底が知れない」
王煥もそう呟いた。
男が馬上で言う。
「我らの仲間になってもらおうと、ここに参った。どうか無礼は許してほしい」
その言葉に李俊も王煥も、驚いた。驚いたというよりも呆気にとられたという方が正しいか。
李俊は妙な顔になっていた。
仲間、だと。寝言を抜かすんじゃあない。
問答無用。李俊が攻撃の指示を出そうとする。
「おい、お前。混江竜の李俊だろ。ならば、天下の屠竜士どのに叶う訳がないんだ。黙って誘いを受ければ良いんだ」
男の部下が、怒りに顔を赤くして叫んだ。
だが屠竜士と呼ばれた男が、それを制する。
「よさないか。それに私は、天下の、と呼ばれるほどの男でもない」
しかし、と食い下がる部下を下がらせ、屠竜士は非礼を詫びた。
王煥がごくりと唾を飲み込んだ。
「奴は、屠竜士なのか」
「知っているのか、王煥どの」
「武はもちろん兵法も極め、強力な配下と共に、各地で悪辣な役人どもを懲らしめている男がいるという。その男は修業中に現れた竜を倒したことから、屠竜士と呼ばれているという噂を聞いたことがある」
「それがあの男だというのか」
二人の会話を聞いていたのか、屠竜士が爽やかな笑みを浮かべた。
「僭越ながら私がその男、孫安と申す者。老風流どの、あなたのお噂もかねがね耳にしておりました。ここで会えるとは光栄です」
孫安、というのか。
噂の真偽はともかく、大胆な男には違いない。
どうするのだ、と王煥の目が囁く。
どうもこうもあるまい。このまま黙って帰らせる訳には行くまい。
李俊の右手が上がる。
水軍が弓を構え、孫安たちを狙う。
「残念だ」
孫安が本当に残念そうな表情をした。
李俊の号令と共に矢が放たれた。蝗の群れのように、孫安軍に襲いかかる。
だが孫安軍は慌てずに黒い皮の外套を羽織りながら、すぐに矢の射程外へと移動した。
速い。戦に慣れている。
「仕方ない。構えっ」
孫安の指示で、兵たちが一斉に武器を解き放つ。
しかし、兵たちは李俊ら水軍ではなく、横に向かった。
そこには駆けつけた李応たちがいた。李応は咄嗟に兵を止めた。奇襲のはずだったが、見破られていたのだ。
だが退く訳ではない。李応自らが前に出、飛刀を放った。
狙いは孫安。五本の飛刀が真っ直ぐに飛ぶ。
孫安の前に部下が飛び出し、飛刀を弾く。
「杜興」
「はっ」
李応のかけ声と共に、杜興が次の飛刀を投げ渡す。空中でそれを取るやいなや、孫安に向かって飛ばす。
孫安の部下は対応しきれず、飛刀を打ち漏らした。だが馬上の孫安は身じろぎもしない。
ふた筋、光が見えた。
孫安の両手に鑌鉄の剣。
弾かれた飛刀が地面に突き立っていた。
李応の顔が歪む。
だが孫安は剣を納めた。
「いま争うつもりはない。騒がせてしまって申し訳ない」
孫安の指示で、兵たちが徐々に撤退してゆく。
童威らが岸に漕ぎ寄せようとするのを、李俊が止めた。
「このまま帰らせるのかよ、兄貴」
「向こうにその気がないなら、それでいい」
童威、童猛は不満そうだったが、渋々従った。
ふいに孫安が言った。
「そうだ、わし(私?)の弟子たちは健勝かね」
梁山泊の一同が怪訝そうな顔をした。
「そうか、聞いていないようだな。まあ良い、また会う事を楽しみにしているぞ」
颯爽と馬首を返す孫安。
「おい、待て。誰だ、弟子ってのは。あんたの弟子が、梁山泊にいるのか」
答えず、孫安は意味ありげな笑みを浮かべ、去って行った。
李俊が撤収を告げた。
孫安が消えた方向を見ながら、李俊は動かない。
「何をしておる、李俊。本寨へ戻るぞ」
「いえ、ご迷惑をおかけしました。このままお送りいたします」
「良いから戻れ。わしは帰らんぞ」
何故だという顔の李俊に、王煥が言う。
「どうも、朱富の酒がまだ飲み足りなくてな。もう少し付き合ってくれ」
ふふ、と思わず李俊が笑みを浮かべた。
いま飲みたいのは俺の方なのだ、それを。
李俊はもう一度、大きく笑った。
さすが老風流ということか。