星辰 三
心配そうな顔を、王がしていた。
左右の幽西孛瑾と褚堅も逃げだしてしまいたい雰囲気だ。
「お前たちがうろたえてどうする。しっかりと国王をお守りせんか」
兀顔光の檄が飛ぶ。
「陣に突入されたからといって、まだ負けてはおりません。戦はこれからです」
背中越しに兀顔光が言う。その大きな背中を見て、王ももう一度竜車に座りなおした。
褚堅は聞こえないように舌打ちをした。
こんなはずではなかったのだ。盧俊義を裏切って、遼の内乱に手を貸した。それは必ず成功し、己の地位も財産も安泰なものになると思ったからだ。
仁王像のように立つ、兀顔光の背を睨みつけた。
するうちにまた梁山泊軍が陣に突っ込んできた。
真っ黒な軍装の兵たちが、南陣と交戦状態となった。兀顔光は王を守る中軍に、退がるように命じた。
黒と赤がぶつかりあう中、それを縫うように楊志が馬を操る。目の前に飛び出してきたのは鬼金羊の王景。
楊志の刀と王景の刀が交差した。
え、という顔を王景がした。刀が中ほどから真っ二つに断たれたのだ。楊志は返す刀で下から袈裟掛けに、王景を切り捨てた。
刀を振り、血を払う。楊志は次の相手を求め、馬を走らせた。
そこへ馬を並べてくる索超がいた。
「恐ろしいほど腕を上げているのではないか、青面獣よ」
「梁山泊は化け物ばかりだ。ちょっと怠けるとあっという間に追い抜かれてしまうからな」
「違いない」
笑って索超が離れてゆく。
金蘸斧を高く上げ、突進する。
迎え討とうというのは星日馬の卞君保だ。長い柄の槍を索超に向けている。
楊志が叫びそうになる。
射程が圧倒的に不利だ。正面から戦おうなど危険すぎる。
しかし索超に臆する様子はない。
槍が索超に襲いかかるが、その寸前わずかに索超が体をずらしたため、脇腹をかすめただけにとどまった。
索超は、体の横を通る槍をむんずと掴みとってしまった。そして力任せに、卞君保の手からもぎ取ってしまった。
卞君保は驚いた顔をしたが、すぐに腰から剣を抜いた。
「遅い」
すでに索超の金蘸斧が頭上にあった。
卞君保は何とか体を捻った。しかし肩口から胸元まで、金蘸斧に割られてしまった。夥しい血を噴き出しながら、卞君保は息絶えた。
索超は楊志に向かって手を上げると、馬を駆った。
返り血に濡れながら鄒潤が、
「雑魚はもういい。大物とっとと出てきやがれ。こちとら手柄を立ててぇんだ」
などと吼えている。
遼兵をひとり斬り捨てたところで、鄒潤がぴたりと手を止めた。
こちらを見ている兵がいた。醸し出す雰囲気と恰好から、上将であると分かった。
「へへ、やっと出やがったな」
鄒潤がゆっくりと近づいてゆく。敵は動かない。馬鹿にしやがって。
「おい、名前を聞いてやる。首を獲った時に、褒美がもらえねぇからな」
その将が冷笑を浮かべた。
「何が可笑しい、この野郎」
「笑わずにいられるか。貴様ごときが私の首をだと」
「やってみなきゃ分からねぇだろうがよ。それとも怖いのか、へへ」
ややあって、その将が言った。
「童里合。井木犴の童里合だ。貴様の名も聞いておいてやろう」
「井木犴、だって。へへ、こりゃあ面白れぇ」
「何の事だ」
「何でもねぇよ。俺は鄒潤だ。独角竜の鄒潤だ。あの世で言い触らしてくれや」
鄒潤が襲いかかる。童里合は落ち着いて、刀を受け止める。
だが鄒潤は腕ずくで押し込もうとする。童里合は力を横に逃がして、鄒潤をいなす。
体を崩した鄒潤に、童里合の戟が襲いかかる。肩口を突かれ、鄒潤がよろめいた。何とか落馬は堪えたが、左肩がじんじんと痛む。
「かすり傷だ。さあ、行くぜ」
「実力の差が分かっただろう。まだそのような口を聞くのか」
戟が何度も飛んでくる。その度に鄒潤の体が赤く染まる。
鄒潤が反撃をするが、虚しく空を切る。
だが鄒潤は不敵な笑みを浮かべている。
「おい、童里合とかいったか。ひとつ聞きたい」
童里合は答えず、不審な表情をする。
「どうして井木犴って呼ばれてるんだ」
何故そんな事が知りたいのか。童里合は不可解だったが由来を伝えた。
しかし鄒潤の反応は、童里合にとって芳しいものではなかった。
「なんだ、そんな理由かよ」
童里合は怒った。宿星将の一員であるという矜持を踏みにじられた気がしたのだ。童里合の攻撃が激しさを増した。
軫水蚓の班古児から刀を引き抜いた鄒淵が、その様子を見ていた。
一瞬、駆けつけようとしたが、立ち止まった。
鄒潤が、あの顔をしている時は負けることはない。
鄒淵が思っていたように、防戦していた鄒潤が前に出た。童里合は構わず撃ち続けるが、鄒潤は前に前に出ようとする。
童里合が違和感に気付いた。
違う、自分の方が下がっているのだ。
馬鹿な。こんな山賊風情に臆しているというのか。
唐突に鄒潤が話しだす。
「梁山泊にも井木犴って男がいてな」
いつの間にか鄒潤が目の前にいた。がっしと童里合の両腕を掴んだ。
鄒潤が思い切り後ろにのけぞると、童里合の顔面めがけ頭突きを打ち込んだ。
黒っぽい血が噴き出す。鼻が折れた。いや砕けたか。
童里合は眩暈を必死でこらえるが、何度も何度も頭突きを喰らう。
ついに白目をむき、馬から落ちた。
「井木犴は二人もいらねぇだろ。へへ、郝思文に自慢してやるぜ」
そう言いながら、童里合の首を獲るため、馬を下りた。
南陣の中ほど、孔明が槍を振るっていた。一人ふたりと遼兵を倒すが、孔明は己の力不足を実感していた。
青州、白虎山の頃からそうだった。
楊志、魯智深、武松そして李忠や周通と比べても、それは如実だった。
梁山泊に来て、弟と共に李忠に教えを請うた。
「わしは大道芸上がりだぞ」
李忠はそう言ったが、照れ隠しなのは分かった。
少しは上達したつもりだった。だが、まだまだだ。
肩で息をする孔明に、張月鹿の李復が迫った。
「そんな雑魚相手に、何をしておる。どけい」
配下の遼兵を下がらせる李復。得物は奇しくも同じ槍である。
明らかに見下した表情の李復が、馬を前に出す。これまでとは違う格上の相手に、孔明は慎重に槍を構える。
李復が鼻で笑った。
焦るな。落ち付け。確かに強いのだろう。
だが楊志ほどではない。彼らは、上手く言えないが、居る場所が違う。
孔明は李復の動きに集中する。
李復の手首がぴくりと動いた。来る。
素早く、孔明が槍先を前方に向け、脇をしっかりと締めた。
孔明の持つ槍に、重い衝撃が伝わった。
向き合う李復は、茫然としていた。ゆっくりと自分に刺さっている槍を見て、事態を把握する。
孔明が背後に気配を感じた。
槍を抜き、対応しようとしたが、それは呼延灼だった。右手に鞭を握っていた。
「大丈夫か」
孔明は落ち着いた顔をしていた。
「私は大丈夫です。呼延灼どのは大将を討ち取ってください。とっとと終わらせましょう」
「そうだな。すまなかった」
呼延灼が馬を走らせる。孔明に言った言葉。正直、孔明の事を見くびっていた故に出た言葉だった。
己を叱咤するように馬に鞭を入れた。
そして熒惑火星の洞仙文栄と対峙する。
勝負は一瞬でついた。頭を打ち砕かれた洞仙文栄が、そのまま馬に揺られている。
ふいに、背後から殺気を感じた。
だが呼延灼は動かない。じっと前を見据えている。
呼延灼の背後、左右から柳土獐の雷春、翼火蛇の狄聖が襲いかかる。
その時、雷春と狄聖に向かって疾風が吹いた。
風は、韓滔と彭玘だった。
韓滔の棗木槊が雷春を貫き、彭玘の三尖両刃刀は狄聖を斬り伏せていた。
にこりとした呼延灼が、拳を天に突き上げた。
東西南北の陣が、すべて破られた。
拳を戦慄かせ、歯嚙みをする兀顔光。
「燕京にお戻りください、国王」
だがあくまでも静かに、そう告げた。
王は兀顔光を哀しそうな顔で見る。
「お主も、必ず戻るのだぞ。我らの悲願は、お主なしでは成し得んのだ」
「ありがたきお言葉。必ずや、良い報告をお持ちいたします」
ややあって、王は褚堅と幽西孛瑾に急かされるように移動をはじめた。耶律得栄以下の四将が護衛となり撤退をする。
兀顔光が梁山泊軍を見、目を細める。
兀顔光率いる中軍に攻撃を仕掛けるのは、相克である青い軍装、甲乙の木の軍。関勝が先頭となり、花栄、宣贊、郝思文らが続く。
郝思文がどこか落ち着かない様子だ。それを宣贊が咎める。
「おい、集中しろ。あらぬ方向ばかり見て、どうしたのだ」
「いや、すまない」
「敵は目の前だ。しっかりしてくれよ」
あらぬ方向ではない。郝思文はある方向を気にしていた。
南陣である。すなわち火で、そこに属する宿星の中に井宿がある。
兀顔延寿が言った言葉を気にしている自分に腹が立った。
自分の相手は土の陣で、いまは関勝のために戦わなければならないのだ。だがそんな郝思文も、否が応でも前を向かねばならなかった。
敵陣の中央にいる将軍から放たれる気が、尋常ではなかったからだ。
「よくぞ太乙混天象の陣を破った」
軍鼓よりも鉦よりも響く音声で、兀顔光が朗々と叫んだ。
「しかし、これ以上は進ませぬ。進みたくばこの鎮星土星、兀顔光を倒してみせよ」
この男が延寿の父、兀顔光。まったく統軍に相応しい将軍だ。
関勝が馬を前に出す。花栄も宣贊も、当然であるかの如く動かない。
「我が名は関勝。梁山泊五虎将が一人。いざ」
関勝が青竜偃月刀を構える。
兀顔光は方天戟を静かに揺らす。
周囲の喧騒が嘘のように、静寂の場と化した。
両者が弾かれたように、馬を駆けさせた。瞬く間に距離が縮まり、二人がぶつかった。
一度、行き交い再びぶつかる。今度は馬を止め、打ち合いとなる。
関勝が繰り出す偃月刀の絶妙な技の間隙を抜け、兀顔光が方天戟の重厚な攻めを押し込んでくる。
十合、二十合と刃を交える関勝と兀顔光。
関勝の赤兎馬と同じくらい、兀顔光の乗馬も駿馬だ。鉄のように黒く、そしてたてがみが銀色であった。兀顔光の姿勢が攻めに良く守りにも良いように、巧みに脚の位置を変えているのだ。
主人を見事に助けている馬もそうだが、それを乗りこなす兀顔光も見事というほかない。さすがは契丹か。
赤兎馬が、相手の健闘を讃えるかのように嘶いた。
「おう、お前も嬉しいか。これほどの相手、滅多におるまいて」
「ふはは、わしらも嬉しいぞ。梁山泊、話には聞いていたがこれほどまでとは」
方天戟が急に角度を変えた。始めて見る手だ。見失った刃が、下方から飛んできた。
関勝は胸を反らし、その一撃を避けた。
はらはらと、切れた髯が舞った。
これを避けるか。兀顔光が目を見張った。
関勝が怯まず、渾身の力を込めた突きを放った。
だが受けようと出した方天戟を、偃月刀がするりとかわした。
しまった。変化だと。
兀顔光が斬られた。
だが関勝の顔は、勝利したもののそれではなかった。
確かに斬った。しかし、斬ったのは甲だったようだ。裂け目から厚い獣の皮甲、そしてその下に鎖を編み込んだ赤胴の甲が見える。関勝は一番上の黄金の甲だけを斬ったのだ。
この兀顔光、三重にも着こんでいてこの動きなのか。感服する。
関勝が驚いたのはそこだった。
兀顔光が裂け目を触り、思う。
王の楯となるための甲だった。王は燕京に戻った。もう必要はない。兀顔光が金甲を脱ぎすてた。
目つきが変わった。腿を締め、馬に指示を送る。
方天戟の連撃。速い。
防ぐ関勝。速いだけでなく、重い。
じりじりと退がってしまう。防戦一方となりながら反撃の機会を窺う関勝。
兀顔光には、それが分かった。関勝という男の目はまだ死んでいない。恐ろしい男だ。 だからこぞ、攻撃の手を緩める訳にはいかない。
さらなる気合を発し、関勝を攻め込む。
花栄が援護に飛びだそうとするが、郝思文に止められた。花栄は意外そうな顔をした。
「駄目です。私たちが行っても邪魔になるだけです」
「しかし」
「私たちにできる事をします」
兀顔光以外の、中軍の兵を倒すべしというのだ。
「わかった」
花栄は納得し、矢を雨のように放った。郝思文と宣贊も縦横に駆け回り、たちまちにして敵兵が乱れた。
関勝と兀顔光はひとつ所で、打ち合い続けている。もはや何十合になるか分からない。赤兎馬も血のような汗を流している。
攻勢だったと思われた兀顔光だったが、徐々に関勝の手数が増えてきた。
際どい一閃が兀顔光の髯をかすめた。
しかし兀顔光も並ではない。返す刀で関勝の首筋を狙う。
それをぎりぎりで受け止めた関勝が偃月刀を弾き、距離を取る。
睨みあう。
次こそ、そう思った時である。
遼軍の退却の鉦が鳴った。
まるで待っていたかのように、遼軍が逃げに転じはじめた。
誰だ。わしは命じていない。
「退くな、まだだ。まだ終わってはいない。戦え、戦うのだ」
逃げる兵たちに、兀顔光の声は届かない。いや届いたとしても、聞かなかっただろう。
ゆっくりと関勝が迫る。
一度目を閉じ、兀顔光は心を静めた。
「すまぬ。見苦しいところを見せてしまった」
「では、参ろうか」
「ああ、これで終いだ」
刹那の沈黙。
そして迅雷の如く駆ける馬。交差する関勝と兀顔光。
ゆっくりと関勝が振り向いた。
「お主のご子息は無事だ。良い若者だな」
「そうか。いや、まだ嘴の黄色いひよこさ」
微笑んだ兀顔光の口元から、大量の血が流れた。
胸には斜めに走る刃の跡。二重の甲が斬り裂かれ、じわじわと赤い染みが広がる。
「我が大遼に、栄光、あれ」
兀顔光が血飛沫と共に果てた。
関勝が馬上で背筋を伸ばし、敬意を示した。
兀顔光の愛馬は、主人を乗せたままどこかへと歩き出した。
最後に関勝の方を振り向き、悲しそうに鼻を鳴らした。
関勝はその姿が消えるまで、見送っていた。




