星辰 一
梁山泊が布陣を変えていた。
九宮八卦の陣ではない。軍装が五色に整えられており、太乙混天象の陣に似ていた。しかし規模も、その精緻さもこちらに及ぶものではない。
兀顔光が不敵に笑う。
太乙混天象の陣に通底する、同じ陰陽五行の理で対抗しようというのだろう。だが急ごしらえの陣で勝てるほど甘いものではない。舐められたものだ。
だが決して油断はしない。
「進め」
兀顔光が号令を飛ばす。
両軍が徐々に近づいてゆく。
梁山泊中軍で朱武が指揮をとる。宋江、呉用がじっと遼軍を見据える。
朱武が自軍の陣形を見渡す。
九宮八卦の陣の基本を崩さずに、より凝縮させた陣であった。
八方位ではなく、木火土金水の五つの陣に分かれ、兵たちはそれぞれ象徴する色の軍装を纏っている。敵の陣に相生相克の理を用いてぶつかるためだ。
幽州を訪れた宋江が、梁山泊に援軍を求めるため戴宗を走らせた。当初はここまで大規模な戦になるとは想定していなかったからだ。
それと同時に侯健に作製を依頼していた、九宮八卦用の軍装を急がせるためでもあった。童貫戦の時、急場しのぎだったものだ。それが間に合った。
朱武は昨日の痛手を受け、陣形を組み直した。九宮八卦を活かしつつ、太乙混天象に相克する陣とした。
梁山泊の布陣を見て、手の内はすぐに露見するだろう。当然、相手はそれを防ぐよう動くはずだ。
隣の雲梯の公孫勝に合図を送る。
公孫勝が剣を抜き、天を指す。足を踏み、滔々(とうとう)と唱える。
ふいに風が吹いた。風は徐々に強くなり、砂や石まで飛び始めた。
五雷天罡の法だ。
風が遼軍に向かって一気に吹きつけた。
「進め」
宋江が檄を飛ばす。
梁山泊の陣が一斉に速度を上げた。
土は水に克ち、金は木に克つ。火は金に克ち、水は火に克つ。そして木は土に克つ。これが相克の理である。これに基づいて、太乙混天象の陣を破る。
もちろん兀顔光はこの理など熟知している。反対に遼が有利になるように動かそうとする。
だが、兀顔光は歯嚙みをしていた。
いきなり吹き始めた強風と天を覆うような黒雲に、自軍が動揺し出したのだ。
「まやかしだ。敵の動きをよく見ろ。相克を狙ってくるぞ」
そうは言うものの、風の感触はまやかしなどではない。賀重宝の術よりも強力なものだ。
朱武は祈るように戦況を見守る。
敵はその数ゆえ、前軍を動かすのに時間が必要だ。勝ちを得るには、そこを突くしかない。
追い風に乗るように、梁山泊軍が遼軍の先頭に到達した。
朱武が奥歯を強く噛む。公孫勝の風が勢いを増した。
遼軍の前軍二隊がそれを阻もうと左右から迫る。
駆ける梁山泊の先陣も二つに分かれた。
太陽星に向かうのは、花模様の刺繍の軍装を纏う、魯智深や武松を中心とする歩兵たちだった。彼らは羅睺星を模していた。羅睺星は日と逆行するという凶星だ。
太陽星の耶律得重が馬を飛ばす。目の前に怪異な僧侶がいる。その僧侶が大きな口を開けて吼えた。
「無益な殺生は好まぬ。降伏すれば命は取らぬ」
「坊主が世迷事を」
「仕方ない」
耶律得重の乗馬が、突如前のめりに倒れた。
飛びこんできた武松が、馬の脚を薙ぎ払っていた。
耶律得重もそのまま前に放り出される。
そこに魯智深の禅杖が待ち構えていた。
太陽星が討たれ、配下の兵たちは乱れた。
反対側の太陰星には銀の甲を纏う兵が向かっていた。
月と逆行するという計都星を模した扈三娘、孫二娘、顧大嫂らが率いる隊だ。
太陰星の答里孛が扈三娘に迫る。答里孛が手にするのは七星の宝剣だ。
向きあう扈三娘が刀を振るった。
さすがというべきだろう。答里孛は咄嗟に剣で体を守った。だがその顔には驚きの色がありありと浮かんでいた。
一丈ほども距離があったはずだ。なぜ届く。
扈三娘が二度、三度と刀を振るう。答里孛は近づきたくても、それができない。
次第に苛立ってきた。
「ええい、鬱陶しい」
身が傷つくのも構わず、前へと出た。扈三娘が一旦、刀を引き、馬を駆けさせた。
扈三娘と答里孛が馬を並べ、打ち合った。
日月二刀と七星宝剣が乱れ飛ぶ。
周りの兵が見惚れてしまうほど美しく、そして激しい攻防だった。
たまりかねた答里孛が、渾身の突きを放った。扈三娘は華麗に身を捻り、答里孛の腕を抱き抱えるように取った。
懸命に抵抗する答里孛だったが、扈三娘はしっかりと脇で固めている。
もがく答里孛の視界が真っ暗になった。扈三娘の手刀が、首筋を打ったのだ。
遼の女兵が孫二娘、顧大嫂に次々と斬り伏せられてゆく。
「死にたくない奴は、武器を捨てな」
顧大嫂の言葉に、女兵たちが次々と従ってゆく。
「ちぇっ、意気地がないねぇ」
孫二娘は文句を言いながら、刀を捨てない兵を探しているようだった。
援護しようと構えていた王英が、顧大嫂に怒鳴られた。
「ほら、突っ立てないで、縄をかけるんだよ」
王英が弾かれたように走りだした。張青と孫新が顔を見合せ苦笑した。
「あんたたちもだよ」
孫二娘が怖い目をする。
はいはい、と二人も駆けだした。
兀顔光の指示で、遼の陣が動いた。
梁山泊軍も太陽太陰を抜け、本陣に迫る。
戊己の土、黄の軍装を纏う董平隊を先頭に、庚辛の金は林冲、丙丁の火が秦明、壬癸の水は呼延灼そして甲乙の木の関勝が続いて駆ける。
梁山泊は狙いの相を捉えたい。遼はそうはさせまいと、陣の位置を絶えず変える。
「天盤を旋回し続けろ。隙を見せるな」
梁山泊軍は機を伺いながら、遼軍の周囲を回る。
中軍で見守る宋江にも、付け入る隙はとても無いように思えた。
一方、朱武は冷静に戦況を見つめていた。
右手を構え、瞬きをせずにじっと見ている。
朱武の右手が上がった。合図の軍鼓が鳴らされる。朱武が、届かぬと分かっていても、叫んでいた。
「頼むぞ、凌振」
遼の周囲を回る梁山泊の外側に、いつの間にか別の部隊が陣取っていた。凌振が二十四輌の雷車を引いていた。
雷車は箱のような形で、上に鉄でできた筒が据えられている。それが陣の周囲に均等に並べられており、筒の先が遼軍に向けられていた。
朱武の指示を受け、凌振が命令を飛ばす。兵たちが側面の導火線に火を付けた。
数瞬後、筒から勢いよく炎が噴き出した。二十四の炎が、遼の陣に突き刺さるように噴き出し続ける。
太乙混天象の陣は、動きを止めざるを得なかった。
そして止まった陣と相対する梁山泊の隊は、ちょうど相克の関係となっていた。
遼軍に戦慄が走った。
兀顔光が歯嚙みをしながらも、兵たちを鼓舞した。
「怯むな、怖れるな。相克の理とて、我らの力と数には手も足も出ぬ。者ども、退くな。退いた者は、わしに斬られると思え」
乱れかけた兵の心だったが、この兀顔光の言葉で踏みとどまった。
「何という将軍だ」
宋江は畏敬を込め、そう言った。
しかし梁山泊も負ける訳にはいかない。
「お前たちも退くんじゃあないぞ」
北方玄武の陣に飛び込んだ董平の二槍が華麗に舞う。遼兵が近づく事もできずに、地に倒れ伏す。そのまま大将の曲利出清を目指す。
遼軍も必死の抵抗を示す。七門が開き、宿星将が飛び出してきた。
「やっと出て来やがったな」
三尖両刃刀を頭上で旋回させ、史進が吼える。璧水㺄(へきすいゆ)の成珠那海が繰り出した槍を弾き、一刀両断に斬って落とした。
おおお、と雄叫びを上げ、室火猪の祖興が斧を振り回しながら駆ける。その進路に燕順がいた。まさに猪の如き攻撃を燕順は、体躯に似合わぬ軽やかさでかわす。
振り返った祖興の首から血が噴き出した。燕順が避けた時、すでに斬られていたのだ。
欧鵬と馬麟が並びながら遼兵を蹴散らしてゆく。
ふいに欧鵬が馬麟を睨み、叫んだ。
「伏せろ」
馬麟は反射的に身をかがめた。
その上を欧鵬の槍が飛んだ。
背後から馬麟を狙っていた、危月燕の李益の喉に穴が空いた。
「すまねぇ、欧鵬」
そう言って馬麟が低い姿勢のまま、欧鵬に向かって駆けだした。
槍を手放した欧鵬に向かって、虚日鼠の徐威が襲いかかっていたのだ。
馬麟が乗馬のまま体を回転させた。一刀めで徐威の胴を斬り付け、二刀めで首を薙ぎ払った。
「すまんな、馬麟」
二人はにやりと笑い、再び駆けだした。
梁山泊兵が蹴散らされている。穆春が駆けつけると、周りの兵よりも大きな将が暴れ回っていた。牛金牛の薛雄であった。
穆春を見た薛雄は大刀を構え、突進してきた。駆けながら大刀を振り下ろす。それは風を巻きこみ、唸りを上げる。
穆春は受け切れぬとみて、体を捌いた。しかし穆春の体が傾いでしまい、馬から落ちてしまった。そしてごくりと唾を飲んだ。
受けなくて正解だ。薛雄の大刀が、馬の首を斬り取っていたのだ。
徒歩の穆春に向かって、今度は横薙ぎに大刀を払った。
咄嗟に後ろに飛び、それをかわす穆春。
「逃げるだけしか能がないのか。貴様が将校とは呆れたな」
薛雄が肩をすくめてみせた。
「なんだと、手前ぇ。言わせておけば」
かっとなった穆春が薛雄の間合いに飛びこんでしまった。
馬鹿め。薛雄が大刀を斜めに斬り下げる。
む、と薛雄が目を大きくした。いない。
ふいに背後から腕が伸びてきた。そして薛雄の首に絡みついてきた。
「遅いんだよ、動きがよ。兄貴ならもっと速いぜ」
いつの間にか穆春が薛雄の背後にいた。穆春が逆手に握った短刀が、薛雄の首を狙う。
「あ、兄貴って」
その答えを知ることなく薛雄は絶命した。
鄧飛が鉄鏈を振り回し、遼兵たちを薙ぎ倒している。
「行け」
できた道を董平と朱仝が駆け抜ける。
鄧飛に刀が襲いかかる。間一髪でかわす鄧飛。
女土蝠の愈得成がゆらゆらと刀を揺らしていた。
「邪魔なんだよ」
気付くと愈得成の腕に、鉄蓮が絡みついていた。
いつの間に。
振りほどこうとするが、固く絡みついてしまっていた。
鄧飛が鎖を引っ張ると、愈得成がつんめるように地面に転がされた。そこへ梁山泊兵が殺到し、愈得成は切り刻まれてしまった。
董平の前に斗木獬の蕭大観が立ちはだかる。だが朱仝がそれを押さえ、董平を先に行かせる。朱仝と蕭大観の刀が火花を散らした。
董平が北陣の大将、玄武水星の曲利出清と対峙した。
「かかってこい。王文斌どのの仇だ」
「ふん、貴様こそ奴の元へ送ってやるわ。我らに歯向ったことを後悔させてやる」
「後悔するのは、そっちだ」
「ほざけ」
怒りを滾らせ、曲利出清が馬を飛ばす。董平もそれを迎え討つ。
馬を止め、打ち合いとなる。力任せに両刃刀を繰り出す曲利出清だったが、董平の舞うような二本の槍の前に、次第に汗をかきはじめる。
梁山泊がこれほどとは。
そう思った時、馬の下方から槍の影が迫った。曲利出清は咄嗟に両刃刀で防いだ。
しかし董平のもう一槍が迫っていた。槍が曲利出清の体に深々と突き刺さる。曲利出清は白目を剥き、大量の血を吐きだした。そしてそのままずるりと鞍から落ちた。
大将が敗れた。
北方玄武陣の兵たちが次々に武器を捨て、両手を上げだした。
蕭大観は唸った。朱仝の刀で、腕を傷つけられ、すでに得物を落としていたのだ。
「殺せ。投降などせぬぞ」
「その覚悟、見事」
素早く朱仝が動いた。
朱仝は刀の柄を蕭大観の延髄に当てた。うぐと呻き、蕭大観が気を失った。
「優しすぎるぜ、あんたはよ」
鎖を巻きつけながら、鄧飛が笑った。
にこりと朱仝が微笑み、自慢の髯をなでた。