布陣 二
二万五千の兵、そして李集と太真胥慶の軍を合わせた軍勢が幽州に到着した。
率いるのは兀顔延寿。
兀顔延寿は斥候の報告に眉をしかめる。
梁山泊軍はすでに、方山の麓に陣を敷いて待ち構えているという。
だが雲悌の上で、その布陣を見た延寿は口の端を歪めた。
李集が訊ねた。
「どうされたのです」
「がっかりしたのですよ。どんなに梁山泊が強いかと思っていたら、こんな陣で迎えられるとは。見くびられたものですね」
李集と太真胥慶は顔を見合わせる。
「九宮八卦の陣です。ありふれた陣ですよ」
延寿は呆れたように、両手を広げてみせた。
そして、まるで万全の構えだと言わんばかりの梁山泊軍に向かって、大声で告げた。
「梁山泊も底が知れたな。九宮八卦の陣などで我らの相手ができると思っているのか」
馬上の兀顔延寿が右手を上げ、旗を振る。
すると軍勢が生き物のように動きだし、ひとつの陣形を作り上げた。
対する宋江が雲梯にかけのぼる。
遼の敷いた陣形を見定めようとするが、分からない。
それに朱武が答えた。
「あれは太乙三才の陣です」
太乙とは太極とも言い、陰陽が混じり合った根元を表す。三才とは天地人、三つの才のことであり、易に基づいた陣形である。
よし、と宋江が雲梯を下り、馬に乗る。
「お前たちこそ、太乙三才の陣などとありきたりなものを」
ほう、と兀顔延寿が漏らした。
太乙三才の陣を見破るとは、少しは見直した。ならばこれでは、どうだ。
延寿が再び旗を振った。遼軍が陣形を変えてゆく。
宋江の目が朱武を捉えている。
「河洛四象の陣です」
そう朱武が伝えた。
朱武は唸った。
あの将、若いようだが陣形に造詣が深いようだ。
朱武は、玉田県を思い起こした。耶律得重との戦である。
相手は五虎靠山の陣を敷いた。だが戦いの最中で、陣が変化した。その変化は朱武にとって見た事のないものだった。
朱武は対応しかね、梁山泊軍は敗走した。臍を噛む思いだった。
そしていま、目の前で陣を繰り出す若い将に会った。
河洛とは河図洛書のこと。
黄河に現れた竜馬と、洛水に現れた亀の背に描かれていた図をそれぞれ河図、洛書といい、八卦の源となったとされる。
宋江には、ありきたりな、と言ったが実はそうではない。
書物には現れるものの、朱武もその目で見るのは初めての陣なのだ。
この北の辺境に、このような陣を使いこなす業が伝わっていたとは。
朱武は目の前に展開される陣を見て、興奮さえしていた。
兀顔延寿の顔から、余裕が消えつつあるのを、太真胥慶は見逃さなかった。
梁山泊軍がまたも陣形を見破ったのだ。
太真胥慶も李集も気を揉んでいた。見破られようが、このまま戦えば良いのではないか。兵力は勝り、地の利も握っている。強力とはいえ、所詮は山賊あがり。賀重宝は敗れたが、今度こそはという思いもある。
兀顔延寿が旗を三度上げた。
口を開きかけた太真胥慶を、李集が止めた。
確かに兀顔延寿という将の才能を認めている。若くして武の道でも抜きんでていたし、人望も厚い。さらに若くして兵法を極めており、古今の陣形を知り尽くしている。耶律得重をはじめとする諸将に指南したのは、兀顔延寿であった。
しかし、どうもそこに固執する癖があるようだ。こだわり過ぎて大局を見失ってもらっては困るのである。
そんな二人の思いを余所に、陣形が変化し終えた。
兀顔延寿は、どうだという顔をして梁山泊軍を睨む。
朱武は、循環八卦の陣に変化した事を宋江に告げた。
憤慨した兀顔延寿は陣をさらに動かす。
それも朱武によって喝破される。諸葛亮が考えたとされる八陣図だ。
だが朱武は宋江に静かに言う。
「向こうの一連の陣形の変化は、易経に基づくものです。辛うじて知識にありましたが、実に絶妙な陣形なのです」
うむ、と宋江も神妙に頷く。
顔を紅潮させた兀顔延寿が、指を突きつけて怒鳴った。どこか口調も荒いものとなる。
「こちらの陣形を見破ったことは素直に褒めてやろう。貴様らも、こちらが驚くような陣形を見せてみろ」
「その前に、この九宮八卦の陣を破ることはできるのか」
「ほざくな。いいだろう、そんな小陣など踏み潰してくれるわ」
宋江と朱武、呉用が頷きあう。敵が挑発に乗った。号令を発し、迎え討つ。
太真胥慶と李集に待機を命じ、兀顔延寿が飛び出してきた。麾下の将校と一千の兵が駆ける。
敵陣は文字通り、八卦を模した小陣に守られている。乾坤震巽坎離艮兌の八卦である。
延寿が指を折って数える。今日は火にあたった。火の象である南の離を避け、沢の象、兌にあたる西の方角を攻める。
雄叫びをあげ突進する兀顔延寿。そこに無数の矢が降り注いだ。なんとか半数のみが突入できたが、残りは引き返さざるを得なかった。
前に向きなおった兀顔延寿は目を疑った。
陣の内部は白く茫々としており、鉄のような銀のような壁に、延寿らが取り囲まれていたのだ。
「馬鹿な。陣の中に城だと」
思わず叫んでしまうほど奇妙だった。
引き返そうにも背後は水に閉ざされ、道が消えている。
前に進むしかない。
南へ進むと、一面火が渦を巻いている。次に東へ進めば、葉のついた木や枝が横たえており、左右も鹿角が続いており、通る事ができない。
北へ行くと黒気が辺りを覆っていた。それは日を遮っており、掌さえも見えない暗黒の地であった。
引き連れた兵たちは狼狽するばかり。兀顔延寿は必死に理性を保ち、指揮を取る。
梁山泊の妖術に違いない。賀重宝もそれに敗れたと聞く。
「怖気づくな。何としてもこの陣を突破するのだ」
「どこへ行こうというのだ」
駆けだそうとした兀顔延寿の前に、一騎が姿を現した。陣の中で初めて出会う敵だ。
その将、呼延灼が鉄鞭を振りおろす。瞬時に兀顔延寿は、方天画戟でそれを受け止めた。両手が痺れる。
反撃しようとしたが、なんと戟の柄が真っ二つに折れていた。
何という打撃だ。
呼延灼が兀顔延寿に体を寄せる。為すすべもなく、兀顔延寿は腰のあたりを抱きかかえられ、捕えられてしまった。
配下たちが、次々と馬を下りて投降する。そもそも何も見えず、どうすることもできないのだ。
雲梯上の公孫勝がさっと宝剣を振った。
次の瞬間、黒気が晴れ、日の光が一面を照らした。
兀顔延寿が捕らえられたと知り、李集が単騎飛びだした。
狼牙棒を構え、秦明が立ちはだかる。
「死にたくなければ、そこをどけい」
吼える李集。手にした槍の穂先が光る。
この戦いは、宋への復讐である。我が先祖の悲願である。
李集は李陵の後裔であった。李陵とは漢代の軍人である。
しばしば国境を脅かす匈奴と勇猛に戦ったが、ある戦に敗れて降伏。だが時の帝は李陵を、敵に寝返った逆賊とした。それ故、李陵の子孫は以降も代々の朝廷を恨み、異民族に協力をしてきたのだ。
李集にとっては今の宋朝が敵である。
軍を弱体化させた宋を、征服するならば今なのである。だから軟弱な姿勢の正当な遼に反旗を翻し、強い遼を復興させるために尽力したのだ。
兀顔延寿はそのためになくてはならない駒なのだ。
秦明が馬を飛ばす。狼牙棒を大きく振りかぶる。
「貴様こそ、どけぇい」
秦明の雷鳴のような声が轟いた。
刹那、李集は怯んでしまった。
それが手を鈍らせた。
狼牙棒に打たれた李集が飛び、地に落ちるまでに息絶えていた。
嵐のような喊声が巻き起こった。梁山泊軍が遼軍に向かって押し寄せる。
太真胥慶は一目散に逃げた。
燕京に着き、転がるように国王の前にひれ伏した。
王はもちろんだが、兀顔光の方が声を荒げた。
「何だと、延寿が。本当なのか、駙馬どの」
太真胥慶は這いつくばったまま、取れそうなほど首を上下に振った。
国王が立ちあがり、家臣に命じる。
「すぐに救出の軍を出すのだ」
「お待ちください。その必要はございません」
止めたのは、兀顔光だった。
「延寿は戦いに敗れ、捕虜となりもうした。わざわざ軍を出す必要はございません。捕らわれたからには死も同然。延寿もそれは承知しております」
毅然と言う兀顔光に、王は何も言えなかった。そして、その揺るぎない信念を誇らしく思った。
「わかった。ならば、梁山泊軍を殲滅しようではないか。今度こそ、お主が出てくれるのだな、統軍」
「はっ、我らが地を汚す賊どもを討ち払ってみせましょう」
威風堂々たる兀顔光に、王の心も震えた。
瓊妖納延と寇鎮遠ふたりの将が一万を率い、先鋒として出陣した。兀顔光も出陣のため幕舎へと向かう。
そこに耶律得重がいた。薊州を任されていたが梁山泊に敗れ、燕京に戻ってきていたのだ。
「いよいよですな、統軍」
「はい、皇弟どの」
「やめてください。いまは一人の将として、統軍に従うのです」
「うむ。頼りにしているぞ」
耶律得重も息子を梁山泊に討たれている。その怒りと悲しみは、いかほどだろうか。耶律得重は、静かに頷いた。
兀顔光が居並ぶ将たちと一人ひとり目を合わせてゆく。
兀顔光を含め十一人。十一曜の大将である。
皇弟である耶律得重は太陽星。太陰星は答里孛。公主である彼女は、女兵五千を率いる。
次に皇姪の四人、羅睺星に耶律得栄、計都星は耶律得華、紫炁星が耶律得忠、そして月孛星の耶律得信が連なる。いずれも凶星である。
続いて四方の星。東方青帝木星、只児払郎。西方太白金星、烏利可安。南方熒惑火星、洞仙文栄。檀州の侍郎、洞仙文祥の弟である。そして北方玄武水星、曲利出清。さらにこの四将がそれぞれ七宿、合わせて二十八宿将を率いる。
そして彼らを統べる兀顔光は、中央鎮星土星を司る。
兀顔光が先頭に立ち、二十余万の精兵と共に、地を揺るがしながら燕京を発った。




