布陣 一
その場にいる誰もが沈鬱な表情だった。
副統軍、賀重宝が討ち死にし、幽州陥落の報が届いたからだ。
梁山泊軍が、この燕京に迫る勢いである。
遼国王も、左丞相である幽西孛瑾、右丞相の褚堅も渋い顔をするばかりであった。
ただひとり、統軍兀顔光が気炎を吐く。
「起きてしまったことは仕方ありません。わしは再三、討って出ようと申しましたが、その度に邪魔が入りました。次こそ、出陣の許可をいただきたい。奴らの血をもって償わせてみせましょう」
その言葉に国王の顔も明るくなった。
「統軍の言う通りだ。よし、お主に虎牌を授ける。頼んだぞ」
去り際、兀顔光が褚堅を見た。射竦めるような視線に、褚堅は身震いをした。
兀顔光は練兵場へ行き、早速出陣の手配に取りかかる。
そこへ兀顔延寿がやってきた。兀顔光の長男で、若いが文武の道に秀でており、父親同様に兵からの信頼も厚かった
「父上、私が露払いをいたします」
兀顔光が黙って息子の顔を見る。
「父上が戦の準備をする間に、私が梁山泊の兵力を少しでも削って参ります。先の戦で逃げた太真駙馬と李金吾を使う許可を」
「うむ、よかろう。突撃隊五千と兵二万を与える。蹴散らしてこい」
「分かりました、統軍」
颯爽と身を翻す息子を見て、兀顔光は鼻頭がじんとするのを感じた。
兀顔延寿が褚堅を見つけた。延寿は褚堅のことを信用してはいなかった。もともと遼の人間ではなく、盧俊義の手の者だったからだ。
兀顔光をはじめ自分も、契丹人による強い遼国を造るという王の理想に賛同したのだ。 己の利害で遼に寝返った褚堅に対して、多くの者がそう思っていた。
しかもその褚堅が右丞相に引き立てられてから、王の様子も変わってしまった。当初の想いはどこか鳴りを潜め、慎重さが表に出るようになった。
兀顔延寿は、それを慎重さではなく臆病さだと感じていた。これでは話に聞く宋の帝と同じではないか。
兀顔延寿は褚堅の背に一瞥をくれると、足音を高らかに陣へと向かった。
気配が消えた頃に、褚堅が振り返った。首を伸ばし、兀顔延寿がいないことを確かめると、鼻の横に皺を作った。
統軍の息子だからといって正義漢ぶりおって。盧俊義を裏切ってまで、この王とやらに加担したのだ。このままでは己の立場を危うくなる。
兀顔光も兀顔延寿も、崇高な理想を持っているようだが、それだけで生きていけないのだ。戦うだけが能の軍人どもには分かるまい。
ふん、と吐き捨てるように、褚堅が鼻を鳴らした。
褚堅は自室に戻り、深く椅子に腰かけると、やおら紙と筆を取りだした。
さらさらと何かを書きつけると、厳重に封をした。そして直属の部下を呼び、それを渡した。
窓から外を眺める。
兀顔延寿が兵を率い、燕京を出てゆくところだった。
「どういう事です。これは一大事なのですぞ」
王黼に向かって、王文斌が吼える。
無事に上京臨潢府から戻った王文斌は、遼での内乱と、それに巻き込まれた梁山泊の件を奏上した。
だが王黼の答えは、宋が関わる事ではない、というにべもないものだった。
兵を出し、梁山泊に加勢すべきだと、王文斌は主張した。
それに王黼は目を剥いた。
「内乱は遼国内での問題だ。巻き込まれたのは不運だったが、勝手に報復したのは梁山泊ではないか。我らが兵を出しては、機に乗じて征服をたくらんだなどと邪推されてしまう。遼とは盟約を結んでいるのだ。それくらいお主でも知っておろう」
ぐうの音も出ない。筋は通っている。
だがこれで引き下がるわけにはいかない。
必ず援軍を送ると約束したのだ。
「分かりました。宋には関わりのない事です」
「分かれば良い」
「だから、わしは暇をいただきます。ちと北へ旅に出ることにします」
王黼の表情が険しくなる。
「自分の言っていることが分かっておるのか。ただではすまんぞ」
「どうぞお好きに」
そう笑って、王文斌は場を辞した。
肩を震わせる王黼に、楊戩や童貫も声をかけられない。しかし蔡京だけが、冷めた目でその様子を見ていた。
王文斌は次に宿元景と会った。梁山泊に協力的だと、盧俊義から聞いていたのだ。
「たしかに、王黼の言う事にも一理ある」
「しかし、宿太尉。梁山泊が危機に陥っているのですぞ」
「まあ待ちなさい。ちょうど報告があった。梁山泊から追加の軍が遼に向かうそうだ。お主の兵はわしができ得る限り手配しよう」
「ありがとうございます。すぐに出立し、梁山泊軍と合流いたします」
宿元景は目を細め、王文斌を見送った。
なかなか骨のある軍人だ。
こたびの件は、国と国の関係に大いに影響するだろう。宿元景といえど、大っぴらに協力することは難しい。
頼んだぞ。宿元景はそう願う事しかできなかった。
執務室に戻った蔡京が、静かに椅子に腰かける。そして音もなく懐から紙を取り出し、ゆっくりと開いた。
はっきりとした文章が綴られている訳ではない。一見意味のない文字が羅列されているだけだった。
「褚堅め、しくじりおって」
ぼそりと呟いた。
部屋の隅に気配があった。その気配に向けて蔡京が言う。
「放っておけ。なにも問題はない」
煙のように、気配が消えた。
蔡京は手を組み、しばし黙考を続けた。
気だるさと共に目を開けた。
ここは、どこだ。
見なれない天井だ。
「気分はどうかね、張清」
頭がまだぼんやりとする。だが声の主が安道全であると分かった。
首に矢を受けたことを思い出した。
そこからの記憶が曖昧だ。死ぬと思っていたが、生き延びたようだ。
何か言おうとして、上手く声にならなかった。
安道全が水を飲ませてくれた。
ゆっくりと起き上がる。
包帯を巻かれた首のあたりが突っ張るようだ。
楊雄と石秀が、薊州の医者に応急処置をさせたおかげだという。
「あの後、どうなったんです」
「いまだ続いておる。どうやら遼の国王と名乗る者が元凶のようだ」
龔旺と丁得孫も、遼に向かっているという。
「おい大将。丁得孫と同じになったな」
眠る張清に、龔旺が冗談を飛ばしていたという。
丁得孫も過去、首に矢を受けたのだ。
「お主は駄目だ。まだ養生が必要だ」
戦線に向かうという張清の意見は却下された。
それに抗議しようとして、寝台を下りた途端にふらついた。
安道全の診立ては、確かなようだ。
「しばらく待て。お主が治る頃には、連中が朗報を持って戻ってくるだろうて」
「わかりました」
張清はそう言って、寝台に腰かけた。
頭がすっきりとしない。怪我のせいなのか、薬のせいなのか。
眠っている間、なにか夢のようなものを見た気がするが思い出せない。
皆が寝静まった頃、夜詰めの花小妹が看病に訪れた。
花小妹が慌てて、安道全を起こした。
二人で張清の部屋に駆けこむ。
目を閉じたままの張清が、腕を振ったり、足を蹴るようにしているのだ。夜具は床に落ちてしまっていた。
額に手を当てるが熱はない。首の傷も破れてはいないようだ。
「どうやら夢を見てるようだな」
「発作が起きたのかと思いました」
花小妹がほっと胸をなでおろす。
「今日はもう休みなさい。起きてしまったし、後はわしがやろう」
「申し訳ありません。ですが、先生こそお休みになってください」
花小妹が毅然と言った。兄の花栄と同じく、意外と頑固なところもあるのだ。
「そうだな、頼んだぞ。だが無理はするな。お主が倒れては、他に頼る者がおらぬのでな」
「お弟子さんを取れば良いのに」
「わしは口うるさくて偏屈な年寄りらしいからな。弟子を取ってもみんな逃げていくのだ」
じゃあ頼んだぞ、ともう一度言って、安道全が部屋を出た。
弟子か。弟子と呼べるのは、一人くらいか。
そ奴も今は何をしているのか。
安道全は寝床で、まんじりともせず朝を迎えることになった。
張清はすでに起き上がっていた。
掌を見つめ、握ったり開いたりしている。
「どうした。手の調子がおかしいのか」
「いえ、そうではないのですが。夢を、見たようなのです」
安道全は昨夜の様子を思い出す。
「どんな、夢を」
遠くを見るような目を、張清がする。
そしてもう一度掌を見る。
「はっきりとは、覚えていないのです。ただ、誰かに礫を教えていたようです」
「夢の中で礫を、というのか」
張清が神妙な面持ちで頷き、掌を差し出してきた。
それを見た安道全が、あっと声を上げる。
張清の掌に、丸く赤い跡がついていた。
丁度、張清が使う礫と同じくらいの大きさだった。




