表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
265/311

布陣 一

 その場にいる誰もが沈鬱な表情だった。

 副統軍、賀重宝(かちょうほう)が討ち死にし、幽州(ゆうしゅう)陥落の報が届いたからだ。

 梁山泊(りょうざんぱく)軍が、この燕京(えんけい)に迫る勢いである。

 (りょう)国王も、左丞相である幽西孛瑾(ゆうせいはいきん)、右丞相の褚堅(ちょけん)も渋い顔をするばかりであった。

 ただひとり、統軍兀顔光(こつがんこう)が気炎を吐く。

「起きてしまったことは仕方ありません。わしは再三、討って出ようと申しましたが、その度に邪魔が入りました。次こそ、出陣の許可をいただきたい。奴らの血をもって償わせてみせましょう」

 その言葉に国王の顔も明るくなった。

「統軍の言う通りだ。よし、お主に虎牌(こはい)を授ける。頼んだぞ」

 去り際、兀顔光が褚堅を見た。射竦(いすく)めるような視線に、褚堅は身震いをした。

 兀顔光は練兵場へ行き、早速出陣の手配に取りかかる。

 そこへ兀顔延寿(えんじゅ)がやってきた。兀顔光の長男で、若いが文武の道に秀でており、父親同様に兵からの信頼も厚かった

「父上、私が露払いをいたします」

 兀顔光が黙って息子の顔を見る。

「父上が戦の準備をする間に、私が梁山泊の兵力を少しでも削って参ります。先の戦で逃げた太真(たいしん)駙馬と李金吾(りきんご)を使う許可を」

「うむ、よかろう。突撃隊五千と兵二万を与える。蹴散らしてこい」

「分かりました、統軍」

 颯爽と身を翻す息子を見て、兀顔光は鼻頭がじんとするのを感じた。

 兀顔延寿が褚堅を見つけた。延寿は褚堅のことを信用してはいなかった。もともと遼の人間ではなく、盧俊義(ろしゅんぎ)の手の者だったからだ。

 兀顔光をはじめ自分も、契丹(きったん)人による強い遼国を造るという王の理想に賛同したのだ。 己の利害で遼に寝返った褚堅に対して、多くの者がそう思っていた。

 しかもその褚堅が右丞相に引き立てられてから、王の様子も変わってしまった。当初の想いはどこか鳴りを潜め、慎重さが表に出るようになった。

 兀顔延寿は、それを慎重さではなく臆病さだと感じていた。これでは話に聞く宋の帝と同じではないか。

 兀顔延寿は褚堅の背に一瞥をくれると、足音を高らかに陣へと向かった。

 気配が消えた頃に、褚堅が振り返った。首を伸ばし、兀顔延寿がいないことを確かめると、鼻の横に皺を作った。

 統軍の息子だからといって正義漢ぶりおって。盧俊義を裏切ってまで、この王とやらに加担したのだ。このままでは己の立場を危うくなる。

 兀顔光も兀顔延寿も、崇高な理想を持っているようだが、それだけで生きていけないのだ。戦うだけが能の軍人どもには分かるまい。

 ふん、と吐き捨てるように、褚堅が鼻を鳴らした。

 褚堅は自室に戻り、深く椅子に腰かけると、やおら紙と筆を取りだした。

 さらさらと何かを書きつけると、厳重に封をした。そして直属の部下を呼び、それを渡した。

 窓から外を眺める。

 兀顔延寿が兵を率い、燕京を出てゆくところだった。

 

「どういう事です。これは一大事なのですぞ」

 王黼(おうほ)に向かって、王文斌(おうぶんひん)が吼える。

 無事に上京(じょうけい)臨潢府(りんこうふ)から戻った王文斌は、遼での内乱と、それに巻き込まれた梁山泊の件を奏上した。

 だが王黼の答えは、(そう)が関わる事ではない、というにべもないものだった。

 兵を出し、梁山泊に加勢すべきだと、王文斌は主張した。

 それに王黼は目を剥いた。

「内乱は遼国内での問題だ。巻き込まれたのは不運だったが、勝手に報復したのは梁山泊ではないか。我らが兵を出しては、機に乗じて征服をたくらんだなどと邪推されてしまう。遼とは盟約を結んでいるのだ。それくらいお主でも知っておろう」

 ぐうの音も出ない。筋は通っている。

 だがこれで引き下がるわけにはいかない。

 必ず援軍を送ると約束したのだ。

「分かりました。宋には関わりのない事です」

「分かれば良い」

「だから、わしは(いとま)をいただきます。ちと北へ旅に出ることにします」

 王黼の表情が険しくなる。

「自分の言っていることが分かっておるのか。ただではすまんぞ」

「どうぞお好きに」

 そう笑って、王文斌は場を辞した。

 肩を震わせる王黼に、楊戩(ようせん)童貫(どうかん)も声をかけられない。しかし蔡京(さいけい)だけが、冷めた目でその様子を見ていた。

 王文斌は次に宿元景(しゅくげんけい)と会った。梁山泊に協力的だと、盧俊義から聞いていたのだ。

「たしかに、王黼の言う事にも一理ある」

「しかし、宿太尉。梁山泊が危機に陥っているのですぞ」

「まあ待ちなさい。ちょうど報告があった。梁山泊から追加の軍が遼に向かうそうだ。お主の兵はわしができ()る限り手配しよう」

「ありがとうございます。すぐに出立し、梁山泊軍と合流いたします」

 宿元景は目を細め、王文斌を見送った。

 なかなか骨のある軍人だ。

 こたびの件は、国と国の関係に大いに影響するだろう。宿元景といえど、大っぴらに協力することは難しい。

 頼んだぞ。宿元景はそう願う事しかできなかった。

 執務室に戻った蔡京が、静かに椅子に腰かける。そして音もなく懐から紙を取り出し、ゆっくりと開いた。

 はっきりとした文章が(つづ)られている訳ではない。一見意味のない文字が羅列されているだけだった。

「褚堅め、しくじりおって」

 ぼそりと呟いた。

 部屋の隅に気配があった。その気配に向けて蔡京が言う。

「放っておけ。なにも問題はない」

 煙のように、気配が消えた。

 蔡京は手を組み、しばし黙考を続けた。


 気だるさと共に目を開けた。

 ここは、どこだ。

 見なれない天井だ。

「気分はどうかね、張清(ちょうせい)

 頭がまだぼんやりとする。だが声の主が安道全(あんどうぜん)であると分かった。

 首に矢を受けたことを思い出した。

 そこからの記憶が曖昧だ。死ぬと思っていたが、生き延びたようだ。

 何か言おうとして、上手く声にならなかった。

 安道全が水を飲ませてくれた。

 ゆっくりと起き上がる。

 包帯を巻かれた首のあたりが突っ張るようだ。

 楊雄(ようゆう)石秀(せきしゅう)が、薊州(けいしゅう)の医者に応急処置をさせたおかげだという。

「あの後、どうなったんです」

「いまだ続いておる。どうやら遼の国王と名乗る者が元凶のようだ」

 龔旺(きょうおう)丁得孫(ていとくそん)も、遼に向かっているという。

「おい大将。丁得孫と同じになったな」

 眠る張清に、龔旺が冗談を飛ばしていたという。

 丁得孫も過去、首に矢を受けたのだ。

「お主は駄目だ。まだ養生が必要だ」

 戦線に向かうという張清の意見は却下された。

 それに抗議しようとして、寝台を下りた途端にふらついた。

 安道全の診立ては、確かなようだ。

「しばらく待て。お主が治る頃には、連中が朗報を持って戻ってくるだろうて」

「わかりました」

 張清はそう言って、寝台に腰かけた。

 頭がすっきりとしない。怪我のせいなのか、薬のせいなのか。

 眠っている間、なにか夢のようなものを見た気がするが思い出せない。

 皆が寝静まった頃、夜詰めの花小妹(かしょうまい)が看病に訪れた。

 花小妹が慌てて、安道全を起こした。

 二人で張清の部屋に駆けこむ。

 目を閉じたままの張清が、腕を振ったり、足を蹴るようにしているのだ。夜具は床に落ちてしまっていた。

 額に手を当てるが熱はない。首の傷も破れてはいないようだ。

「どうやら夢を見てるようだな」

「発作が起きたのかと思いました」

 花小妹がほっと胸をなでおろす。

「今日はもう休みなさい。起きてしまったし、後はわしがやろう」

「申し訳ありません。ですが、先生こそお休みになってください」

 花小妹が毅然と言った。兄の花栄(かえい)と同じく、意外と頑固なところもあるのだ。

「そうだな、頼んだぞ。だが無理はするな。お主が倒れては、他に頼る者がおらぬのでな」

「お弟子さんを取れば良いのに」

「わしは口うるさくて偏屈な年寄りらしいからな。弟子を取ってもみんな逃げていくのだ」

 じゃあ頼んだぞ、ともう一度言って、安道全が部屋を出た。

 弟子か。弟子と呼べるのは、一人くらいか。

 そ奴も今は何をしているのか。

 安道全は寝床で、まんじりともせず朝を迎えることになった。

 張清はすでに起き上がっていた。

 (てのひら)を見つめ、握ったり開いたりしている。

「どうした。手の調子がおかしいのか」

「いえ、そうではないのですが。夢を、見たようなのです」

 安道全は昨夜の様子を思い出す。

「どんな、夢を」

 遠くを見るような目を、張清がする。

 そしてもう一度掌を見る。

「はっきりとは、覚えていないのです。ただ、誰かに(つぶて)を教えていたようです」

「夢の中で礫を、というのか」

 張清が神妙な面持ちで頷き、掌を差し出してきた。

 それを見た安道全が、あっと声を上げる。

 張清の掌に、丸く赤い跡がついていた。

 丁度、張清が使う礫と同じくらいの大きさだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ