異心 三
「そら見た事か。だからわしは反対だったのだ」
燕京にその声が響いた。
声の主は、統軍の兀顔光であった。
恵まれた体格である事が、甲の上からでも伺える。歴戦を経てきた鋭い眼光で、褚堅を睨みつけた。
だが褚堅も怖じることなく、堂々としたものだった。
「仕方ありません。ですが偽りとはいえ、宋江がこちらの招安を受けたことは大きな成果です。盧俊義の性格からすると、たとえ策だとしても、許せるものではないでしょう。心の奥にわだかまりを残しているはず。必ずそれが綻びとなり、梁山泊に亀裂が入る事でしょう」
兀顔光は、ふんと鼻を鳴らし、国王の前に進み出る。
「どうか出陣の許可をいただきたい。姑息な手ではなく、正々堂々と奴らを蹴散らしてご覧にいれます」
「お待ちください。鶏を殺すのに牛刀は用いないと申します。兀顔統軍どのが出張るまでもございません。まずはこの私にお任せいただけないでしょうか」
兀顔光の背後から声がした。
幽鬼のような青白い顔をした男であった。
男の名は賀重宝。副統軍であり、幽州の守備を任されてもいた。賀重宝が得意とするのは三尖両刃刀。だがそれでだけではなく、妖術まで使うのだ。
兀顔光は、この男をあまり好きではなかった。純粋な武人たる矜持もあったのだろうか。
また兀顔光は、褚堅も信用してはいなかった。燕京で挙兵できるほどの莫大な資金をもたらしたとはいえ、元は盧俊義の手駒だったのだ。
なぜ裏切ったのかは知る由もないが、いまだ盧俊義とつながっているのではないのか。兀顔光はそう考えている。
一度裏切ったものは、また寝返るものだ。密かに監視をさせている。幸い、いまはその様子はないようだが。
結局、国王は賀重宝を指名した。
不気味な笑みを浮かべ、兀顔光に視線を送る。
「お主が敗れた時は、わしが出る。もっともその時には、文句を言う首もない訳だがな」
「珍しく冗談を言うのですね。宋江の首を土産に戻るので、楽しみにしていてください」
賀重宝は再び笑みを浮かべ、場を辞した。
兀顔光は大股で王の間から出てゆくと、すぐに軍営に向かった。
兀顔光が姿を見せると、兵たちが整列した。兀顔光は、楽にしろという手振りをする。
「父上、いかがでしたか」
息子の兀顔延寿である。
「褚堅め、のらりくらりと責任逃れをしおったわ。次は賀重宝が討って出る。延寿、お前は不測の事態に備えておけ」
「私を出してくれるのですね」
「その時にならねば分からん」
「ご期待に添えるよう、頑張ります」
兀顔光が調練を見回る。どの兵も面構えが違う。兀顔光自らが鍛えた自慢の者たちだ。
いま兀顔光が仕える燕京の国王は、宋や金に対して軟弱な姿勢しか示さない上京臨潢府に対し反旗を翻した。
契丹人のための強い大遼国を取り戻すという理想に、兀顔光も賛同した。臨潢府に渡るはずの宋朝からの貢物を奪い、また褚堅からの梁山泊の資金の横流しで軍備を整え、燕京を奪った。
そして檀州、薊州と支配下に納めた。これからだった。
ここから北の臨潢府を奪うため、兵を鍛え上げたのだ。
それを梁山泊に邪魔されてなるものか。
他人の国の事に横槍を入れず、とっとと宋へ戻っていればよいものを。
「馬を持て」
胸のすくまで、草原を駆け廻りたかった。
賀重宝は覇州と薊州に兵を進軍させた。
覇州を攻めるのは賀拆、薊州は賀雲。ともに賀重宝の弟で一万ずつを率いている。
報告を受け、宋江軍と盧俊義軍が進発した。
それぞれがほどなくして遼軍とぶつかった。そして賀拆も賀雲も、少し戦っただけで退却してしまった。
両州の間辺りに陣を敷き、軍議を開いた。
盧俊義は、追撃してそのまま幽州を攻めよという意見だ。
「これだけで退却するとは、おそらく罠でしょう。我らを誘い込もうとしているのです」
呉用は静かにそう言った。朱武も同意見だった。
あくまでも盧俊義は追撃を主張する。
「宋江どのは、どう思う」
ややうつむき、宋江は眉間に皺を深く刻む。
「二人の言う通り、誘っていることも考えられる。しかし覇州を取られ、向こうも焦ってはいるはずだ」
呉用と朱武は仕方なく妥協案を探った。
遼軍を追撃する。ただし深追いはしない。危険だと察したならばすぐに引き上げること。
盧俊義は燕青を呼び、さっそく出陣の準備に向かう。
「これは罠です。宋江どのも分かっていると思いましたが」
呉用が再度告げる。
宋江は振り返ったが、何も言わず出て行った。
盧俊義が急いているように思えた。この戦が、自分が発端になっている事が関係しているのだろうか。
だが宋江も、攻めるならば今だという思いがあった。機を逃してはならぬと踏んだのだ。
梁山泊は軍を大小三軍に分け、進んだ。
斥候から報告が届く。前方に敵軍が待ち構えていた。呉用の視線を感じた。しかし撃破すれば問題ではない。
前軍にまで進み、敵を見やる。後方に丘を背負い、黒い旗を押し立てている。さながら黒雲のようだ。
梁山泊軍の到着を見て、敵が動きだした。黒雲の中から湧き出るように、一人の将が進み出た。
旗には大遼国副統軍、賀重宝の文字。三尖両刃刀を手にした、どこか目の鋭い男だった。
副統軍が出張ってくるとは。だがそれは敵に余裕がないという証でもある。
命令を出す前に関勝が前に出た。
宋江と盧俊義を向き、在るか無きかの微笑をたたえると赤兎馬を疾走させた。
賀重宝と関勝が激突する。
賀重宝が三尖両刃刀を閃かせ、関勝の青竜偃月刀が唸りを上げる。
打ち合いはすでに三十合。
賀重宝の動きに疲れが見え始めた。一方、関勝の技は衰えることを知らぬ勢いだ。
堪らず、賀重宝が離れて逃げだした。
それを機として、両軍が乱戦を始めた。
遼軍が賀重宝を守るように、丘に沿って駆ける。関勝は、追いついた宋江と共にそれを追う。
突如、軍鼓が鳴り響き、丘の向こうから伏兵が現れた。
「宋江どの、盧俊義どのと合流を」
襲いくる遼兵を斬り伏せながら、関勝が血路を開く。
だがそこへ賀重宝が軍を戻してきた。さらに伏兵の突撃で、後方と分断されてしまった。
呂方、郭盛が必死に宋江を守る。
「くそっ、ふざけやがって」
「おい、あれはなんだ、郭盛」
宋江と郭盛が見ると、中空の一点に黒雲が出現していた。見る間に黒雲は大きくなり、梁山泊軍めがけて勢い良く落ちてきた。
何も見えない。
あの黒雲は何なのだ。
暗闇の中、なんとか進む梁山泊軍。
「宋江どの、ご無事ですか」
「公孫勝か。この闇は一体」
「おそらく妖術。あの賀重宝という男の仕業のようです。しばしお待ちを」
公孫勝が背の宝剣を抜いた。
そして呪いを唱え、見えない天に向かって一喝した。
闇に穴が開いたように、ひと筋の光が指した。
そしてその穴が広がり、闇が四散した。
「退くぞ」
宋江軍は包囲を抜け、窮地を脱した。
賀重宝はそれ以上、追ってはこなかった。
山裾に陣を敷いた。
人員を点検し、宋江は悲痛な面持ちになった。
盧俊義はじめ十数名の頭領と、五千もの兵が忽然と姿を消していた。
前軍が、突如不気味な黒い雲に覆われ始めた。盧俊義は駆けつけようとしたが伏兵に分断された。
さらに黒雲は広がった。闇の中を、必死に突き進んだ。
どれくらい駆けたのだろうか。
黒雲が晴れたのもしばらく気がつかなかった。すでに夜だったのだ。
「盧俊義どの、ご無事ですか」
白勝である。火を灯して見ると、周囲が断崖に囲まれているようだ。
人員を確認する。十数名の頭目と五千ほどの兵が、この地に閉じ込められてしまった。
「こいつは参りましたね。出口らしきところが、塞がれちまってます。どうやらまんまとここに追い込まれちまった、ってことですかね」
鄒潤が頭の瘤を掻きながら報告した。余計なことを、と鄒淵が叱るが、その通りだった。
やはり罠だったのだ。
盧俊義は星の無い夜空を見上げ、ため息を漏らした。
わしのせいだ。呉用と朱武の言葉を退け、ここにいる者たちを危難に陥れてしまった。
目を瞑る盧俊義。憤然たる思いだったのかもしれない。
敵の招安を受けるなど、たとえ嘘であっても許せなかった。友であった晁蓋が作り上げた梁山泊なのだ。
宋江も良くやっているとは思う。だが宋江は国を倒すための戦をするのではなく、梁山泊を存続させる道を選んだ。
分からなくはない。宋江も晁蓋を慕っており、梁山泊を失いたくないのだ。
どちらが正しいのか、それは誰にも分かるまい。おそらくどちらも正しいのだ。
それに史文恭を討った自分が頭領になる道もあったのだ。だがそれをしなかった。ならば今さらどうこういっても仕方ない。
盧俊義は首を振り、目を開けた。
徐寧や索超らが兵の間に入り、元気づけているようだ。
自分がこれでは示しがつかんな。
「心配するな。いまごろ宋江どのがわしらのことを必死に探してくれている。いま少しだけ辛抱してくれ」
盧俊義の言葉に、兵たちは目を輝かせ強く頷いた。
盧俊義どの、と白勝が囁いた。
「宋江どのを待つのもいいんですが、あっしにひとつ考えがあります」
「わかった。頼んだぞ」
「へ。どんな事か聞かないんですかい」
「お主のことを信用しているよ」
白勝は何度も北京大名府を訪れていた。
晁蓋が使いに送るくらい信頼していた男なのだ。
白勝は誇らしげに笑みを浮かべた。




