異心 二
侯健が顔も上げずに叫ぶ。
長い手を忙しく動かし、その度に針が生き物のように布を縫い付けてゆく。
「もう少しだから、待ってくれ。もう少しでできるから」
「もう何度も聞いたよ。分かった、だから急いでくれよ」
「突然、使うなんてどういう事だ。他の仕事を差し置いてやってるんだ。こっちの身にもなってくれよ」
「分かったよ。できたら教えてくれ、すぐに出発する」
侯健は掌を揺らし、あっちへ行けという仕草をする。
追いだされるように工房を出た戴宗がため息をついた。
気付くと足元で、女の子が戴宗を見上げていた。
「どうしたの、おじさん」
「あ、ああ、何でもないよ」
たしか、蕭譲の娘だったか。針仕事を気に入って、侯健に懐いていると聞いていた。
おや。
娘の手に旗が握られていた。替天行動と縫いつけられた、小さな旗だ。
「侯健にもらったのかい」
娘が首を横に振る。
「やっぱりここにいたのか。おや、戴宗どのまで」
蕭譲がすまなさそうに頭を下げた。
「ほら、侯健どのは忙しいのだ。私の仕事場に行こう。ご本がたくさんあるぞ」
「ええ、つまんないもん。ここがいいの」
蕭譲が苦笑いを浮かべる。戴宗も口を歪めた。
子供は正直だ。だから時に大人を傷つけたりもするものだ。
何とか説得し、蕭譲が娘を抱きかかえた。
「蕭譲どの、この旗は侯健が作ったのではないのか」
「ええ、実はこの子が作ったのです。まあ侯健どのが手伝ったのでしょうがね」
これは驚いた。
小さいが造りはしっかりしていて、装飾まで凝っている。大きさが違うだけの本物のようだ。
褒められたのが嬉しいらしく、娘が旗を振った。
そして、
「みて、みて。きれいでしょ、このもじ。おとうさんのもじなんだよ」
と言って、にっこりと笑った。
「まだ文字も読めないくせに、生意気でしょう」
そう言った蕭譲は、目が潤んでいた。
子供は正直だ。
「こっちは準備できたぜ。あとは積みこむだけだ」
「すまんな急がせて、二人とも」
戴宗が頭を下げる。
湯隆の鍛冶場である。
朱武が、かねてから依頼していた武具一式を取りに来ていた。
手伝いに駆り出されていた雷横が汗を拭いている。
「いよいよ、こいつらを使うのかい」
「いや、まだ分からん。使うかもしれないし、使わんかもしれん」
鍛冶場の人夫たちが武具を積み込むのを、湯隆が見ていた。
「梁山泊ってのは、鈎鎌鎗だとか、今回のだとか、変わったもんばかり造らされるな」
「嫌なのか」
「いや。面白い」
湯隆が真顔で言ったので、戴宗と雷横が弾けるように笑った。
翌日、侯健から荷物を受け取った。
侯健は二、三日は何にもしないからな、と言って戻って行った。
杜興が怒鳴るように、積み込みを指揮している。凌振隊の砲を何台か運ぶのだ。
出発の数刻前、李応が現れた。
「雪がないと聞いて少し安心したよ」
「少し遠いですが、頼みます」
「遼の地か。実は初めてでね」
「意外です」
「若い頃は別として、李家荘からほとんど出ることはなかったからな」
ふふ、と李応が自嘲気味に笑った。
「しかし、連中は何と言うかな」
帝や蔡京の事だ。遼と同盟を結んでいる宋としては、梁山泊の行動は好もしくない。どう見ても軍事行動だ。
いや、そもそも本当に戦に行くのだ。
「相手は本当の国王ではない。むしろ遼にとっての敵と戦うのだと言っても、信じてはくれませんよね」
「だろうな。まあ、その辺りは呉用どのが上手く考えるだろうさ」
「そう願いたいですがね」
戴宗は呉用のしたり顔を思い浮かべた。
準備ができたようだ。
呼延灼、孫立、秦明、黄信ら騎兵が先頭に立つ。
魯智深、武松、樊瑞ら歩兵がそれに続く。
李応が手を上げ、荷駄部隊が進みだす。
「では、先に戻っております。お気をつけて」
李応が首肯した。
甲馬を足に付けた戴宗が、神行法を使った。梁山泊を振り返る。
替天行動の旗が、一瞬だけ見えた。
まさに要害であった。
急峻な崖に挟まれた道を一列になって進む。
どれほど行ったか分からなくなる頃に、益津関に辿り着いた。
さらに文安県を抜け、欧陽侍郎の案内で覇州に入る。
宋江ら主だったものを、この地を預かる康里定安が迎えた。
康里定安は国王の外戚である国舅だ。どこか泰然とした人物だった。
梁山泊のために宴席が設けられた。
「及時雨どのと梁山泊のお噂は、かねがね伺っておりました。こたびは大遼にお力をお貸しいただけるとの事で、大変嬉しく思っております」
「微力ではありますが、力を尽くすつもりです。それと、少し遅れて当方の軍師がこちらに向かっておりますので、彼が着いたら入れていただきたいのですが」
「ほう、梁山泊の軍師というと、あの智多星どのですかな」
「いかにも。呉用と申します。我らが一度に出立すると、怪しまれる恐れがあったもので」
康里定安と欧陽侍郎は承知し、伝達の者を益津関へと走らせた。
やがて見張りが何かを見つけた。
道の向こうで砂埃が上がっている。それが益津関へ近づいてきていた。
先頭には秀才風の男がいた。左右に僧侶と行者を引き連れている。その後ろから怒りの形相の集団が、秀才を追うように駆けていた。
門に辿り着いた秀才が叫ぶ。
「私は呉用と申す者です。先に来ている宋江どのを追ってきましたが、奴らに見つかってしまった次第。早く開けてください。この二人は私の従者です」
と僧侶と行者を指した。
門番は戸惑ったが連絡のあった呉用に違いないと判断し、門を開けた。
「助かったわい」
呉用と共に来た魯智深が、そう言って禅杖を振るった。
門番が嫌な音を立てて、吹っ飛んだ。
異変を察した兵が飛んできたが、武松の戒刀の餌食となった。
魯智深と武松が門を押さえた。そこへ呉用を追っていた楊雄、石秀、解珍、解宝といった面々がなだれ込んでくる。
梁山泊の一行は遼兵たちを相手に暴れ回っている。
それを見届け、呉用はさらに先へ駆けた。
呉用は文安県を抜け、覇州に着いた。
迎えに出た宋江に、息を切らせながら呉用が訴える。
「申し訳ありません。盧俊義に気付かれてしまいました」
驚いた康里定安は兵を出そうとする。
「お待ちください。私が説得をしてみます。戦うのはそれからでも遅くはないかと」
そうしてる間にも報告の早馬が次々と来る。
益津関に続き、文安県も突破された。
ついに盧俊義が、覇州に迫った。
甲を着こみ、騎乗の盧俊義が大喝した。
「裏切り者の宋江を出せ」
城壁に宋江が出る。
「私は大遼に帰順した。思い出すのです。宋朝は奸臣どもが権力を握り、良臣は報われぬままだ。共に梁山泊にいた誼です。あなたも大遼国に尽くそうではないか」
「わしは、お主に騙されて入山したのだ。それに宋朝に大恩ある身だろう。よもやそれを仇で返そうとはな。ご託はいいから、出てきて尋常に勝負しろ」
盧俊義の胆力に、康里定安も欧陽侍郎も怖気づき、宋江にすがるような視線を送る。
「仕方ありません」
城門が開き、林冲と花栄が飛び出す。
盧俊義が吼え、槍を頭上で回転させた。
康里定安が身を乗り出して、戦いを見守る。
林冲と花栄の猛攻を寄せ付けないほどの戦いぶりだ。
「盧俊義といったか、あ奴かなりの強さではないか」
「ええ、河北の三絶という異名は健在のようです」
宋江も固唾を飲んだ。
林冲と花栄が目配せをした。同時に馬を反し、逃げだす。
待て、と盧俊義。
花栄が弓を手にしていた。逃げると見せかけ矢を放つ、必殺の手だ。
だが矢は盧俊義の頬をかすめ、わずかに逸れた。
盧俊義が花栄に迫る。
咄嗟に林冲が戻り、吊り橋の上で盧俊義と打ち合いを再開した。
だがすぐに城内へと逃げ込んでしまう。盧俊義も林冲を追い、城内へと飛び込んだ。
違和感を覚えた康里定安が何か言おうとしたが、遅かった。
盧俊義が率いてきた梁山泊軍が、一斉に城内へとなだれ込んできたのだ。
「申し訳ありません」
宋江の左右にいた呂方と郭盛が画戟を構えていた。
呆気にとられていた康里定安と欧陽侍郎は、なすすべもなく縛りあげられてしまった。
宋江を睨みつけ、言葉を絞り出すのに精一杯だった。
「き、貴様。謀りおったのか」
「謀るもなにも、そちらの方が偽りの国王ではありませんか。はじめからこの話は破綻していたのですよ」
呉用の言葉に、欧陽侍郎が顔を歪めた。
翻る梁山泊の旗を、宋江が眺めていた。
呉用が言った言葉を思い返していた。
偽物だと知りつつ、燕京の国王に仕えた方がよいのではないかと言った。
宋江の本心を確かめるためだったのか。いや呉用の本音だったのだろう。
そして盧俊義が叫んだ言葉だ。
裏切り者の宋江を出せ。
示し合わせていたとはいえ、真に迫る勢いだった。
「晁蓋どの」
ぽつりとつぶやく宋江に、心に浮かんだ晁蓋は何も答えてはくれなかった。




