辺境 一
「しばしの間、北へ行く」
盧俊義が唐突に切り出した。
晁蓋が存命だった頃、盧俊義は陰ながら梁山泊への支援をしていた。
どういった方法を取っているかは知る由もないが、決して表には出ない金の流れであった。
晁蓋の死をもって一時中断をしていたが、盧俊義自身が梁山泊に加わる事で、それを再び動かしていたのだ。
そのひとつが突然、途絶えたという。
だが宋江は難色を示す。
「あなたが行かなくてはならないのですか、盧俊義どの」
「わししか知らんのですから、仕方ありますまい」
しかも場所は遼国の支配下にある檀州密雲県の辺りだという。そんな所にまでよくも裏の拠点を築いていたものだと感心するが、それは別だ。
「こんな事を言っては非難されるかもしれないが、ひとつくらい失ったところで問題はないのでは」
「失う事はやぶさかではない。だが、わしが知りたいのは、何が起きたかなのだ。原因次第では、梁山泊に何らかの危険が及ぶ事もあり得る。そしてそこを破棄するにしても、速やかに痕跡を消さなくてはならない」
「実はもう少ししたら、公孫勝のお師匠さまに会いに行こうと思っているのだ。その時、共に参っては」
「いや、迅速に対処しなければ」
唸る宋江。
この頑固さと速さで、河北一の富豪に上りつめたのだろう。宋江の言葉で折れる気配はなかった。
現在、宋と遼との関係は、表面的には和平を保っている。梁山泊として軍を送る訳にはいかない。盟約を破棄する侵略行為と取られてしまうからだ。
どうしたものか呉用と相談しているところへ、宿元景からの使者があった。
なんと遼国へ贈る金品の護衛の依頼だった。王黼などから、梁山泊はただ飯を喰らうだけのお荷物ではないか、などと言われたというのだ。
すまないが頼まれてはくれないかという文面に、宿元景の困り顔が浮かんだ。
「丁度良いところへ便りが来たものだ。わしが護衛を務めればよかろう。任務を果たし、その帰りにわしの用事を済ませればよい」
「仕方ありません」
不承不承ではあるが、宋江は盧俊義の探査を許可することにした。宿元景の顔も立てねばならぬのだ。
数日後、幾つもの車と馬に荷物を積んだ一団が、東京開封府から到着した。
「王文斌である」
酒焼けのような声で、居丈高そうなこの男が、こたびの指揮をとる将だ。会議もそこそこに、王文斌は酒宴を開けと言う。
梁山泊の面々はもちろん文句を言い、宋江さえも苦い顔だった。
ところがそんなものは聞こえぬとばかりに、王文斌は機嫌良さげに、聞いてもいない武勇伝を語り出す始末。
ともかく、準備を整え一行は出発した。北の地に詳しい段景住が案内役となる。
朱武が軍師として随行する。また、薊州出の楊雄、石秀、時遷。段景住と北の地にも赴いた周通そして李忠。護衛の要として関勝、徐寧、張清、董平が付き従う。
驚いたのは李逵と鮑旭が、行くと言ってきた事だ。
遠いぞとか、寒いぞとか、王文斌の命令を聞かねばならんのだぞ、などと言っても考えを変えなかった。
「戴宗、頼まれてくれるか」
「王文斌はあの通りの男ですし、手綱を握る者がいなくては、鉄牛なら殺しちまいかねないですからね」
戴宗は両手を広げ、おどけたように笑った。
一行は数日かけて北京大名府、滄州を経由して、いよいよ国境に迫った。
「おい、何だいそれは」
燕青が広げていた紙を、段景住が覗き込んだ。
地図だった。目指す檀州まで克明に描かれているようだ。
「古い友から借りたものです」
「ほう、けっこう正確なようだ。足りないところは俺が補うとするか」
「その言葉に、友も喜ぶと思います」
からからと段景住は笑い、ここいらは庭のようなもんさ、と先頭に立って進んでゆく。
一年の多くが雪に覆われた地域であるが、いまは短い草の平野が広がっている。この地も、これから春が訪れるのだ。
「何にもないな。いつになったら着くんだ」
李逵が吼えるように言った。
行った事のない土地に興味津津だったものの、いくら行っても見渡す限りの平野。さすがに飽きてしまったのだ。
その勢いに背を丸めた王文斌だったが、すぐに胸を反らす。
「なんだその口の聞き方は。目的地はまだまだ先だ。黙って荷物を見張っていろ」
「見張れといっても、誰もいないじゃないか。こんなことなら梁山泊にいるんだったわい。なあ、鮑旭よ」
「李逵の旦那の言う通りだぜ。盗賊でも出りゃあ、ぶっ殺せるのによ」
「馬鹿者、無事に着くに越したことはないではないか」
李逵と王文斌が睨みあう。
戴宗は肩をすくめた。宋江が心配した通りになってしまった。まあ李逵と行動すると、いつもなのだが。
戴宗が間に入って止めようとした時、段景住が声を上げた。
「静かに。みんな、動くな。来るぞ」
関勝、徐寧らが咄嗟に得物を構える。段景住が見ている方に向くが、先ほどと同じ地平線しか見えない。
不審がる関勝たちに、周通が言った。
「段景住を信じてくれ。こいつが、このすぐ見つかっちまうような平原で、どうして馬泥棒をこなせていたと思う」
いたずらに金毛犬と呼ばれていた訳ではないのだ。
地平線上に何かが動いた。
小さな影がひとつ、ふたつ見えた。そして見る間に数が増え、影が大きくなってくる。
騎馬の集団のようだ。五百はいるだろうか。もはや軍といっていい数だ。
李逵が二丁の斧を鳴らす。
「へへ、やっと面白くなってきたなあ」
「面白いものか。お前たち、しっかり守るのだぞ」
王文斌は刀を構えつつも、荷物の陰に隠れるような場所にいる。威勢だけは立派だった。
騎馬の関勝、徐寧、張清、董平が前方を守り、楊雄、石秀、李逵らが散開し、荷駄を守る。
関勝が張清に視線を送る。届く距離になったら礫を撃て、という合図だ。
彼我の距離が縮まる。張清の手にはすでに礫が用意されている。
「まだか」
徐寧が敵を見据えたまま聞く。
「もう少し」
顔が認識できるまでに迫った。
敵が手にした刀を上げた。
今だ。
張清の手が動いた。先頭を駆けていた男が弾き飛ばされるように、馬から落ちた。
戸惑う敵が二人、三人と落ちてゆく。
「かかれっ」
関勝が偃月刀を掲げ、梁山泊軍が飛び出した。怯んではいたが敵もすぐに体勢を整えた。
董平、徐寧の槍が舞い、襲ってきた敵を次々と屠る。しかしさらなる敵が次々と地平の彼方から現れだした。
二騎を一撃で叩き落した董平が叫ぶ。
「おい関勝、こいつは切りがないぞ」
「そのようだな。荷駄を守るぞ」
馬首を反転させようとしたが、その時、敵の矢が雨のように降り注いだ。関勝らが防いでいる間に別の一団に襲いかかられた。
どうする。周りを見渡す関勝。下手に見晴らしが良いだけに隠れられる場所もない。
荷駄を守る楊雄たちも苦戦していた。その中で李逵と鮑旭は嬉々として敵に向かって得物を振るう。
だがやはり多勢に無勢だ、徐々に包囲網を狭められてゆく。
「王文斌どの、どうする。このままでは」
「わかっておる。しかしこの数だ、いまは耐えるしか」
盧俊義が叫び、王文斌も同じように叫ぶ。
ついに最後方の荷駄が敵の手に落ちた。護衛隊が斬り伏せられ、馬もろとも奪われてゆく。
それを契機として、王文斌の気持ちが折れた。
「退け。残念だが退くのだ」
そう命じると先頭に立って敵の懐を突破する。敵は逃げる王文斌には目もくれずに、蠅のように荷駄に群がった。
盧俊義も退却を命じた。燕青が、血に酔う李逵と鮑旭を何とか引っ張ってくる。
まるで何も運んではいなかったかのように、綺麗に略奪されてしまった。この世の終わりのような顔をした王文斌が嘆く。
「何という事だ。何という事だ」
「聞くが、王文斌どの。このような事は今までに」
「あるはずが無いだろう」
盧俊義に噛みつくように答える王文斌。
確かにそのようだ。あればさすがにもっと厳重な警備の下で運搬するはずだ。
しかし今回はまさかの事態が起きてしまったのだ。。
「戴宗、すぐに梁山泊へ戻り、宋江どのに伝えてくれ」
「待てい。帝に知られる訳にはいかぬ。わしの首がどうなると思う。いや、お前たちもだ」
戴宗は辟易した。官軍の体質は上から下まで変わらないらしい。高俅や童貫がそうだったように、王文斌もいわんやである。
確かに盧俊義たちにも責任がない訳ではない。しかしどうするというのだ。
「おいお前、段景住といったか」
「何ですか」
「奴らがどの方向へ行ったか分かるか」
しばし地平を眺める段景住。
「檀州の方かと」
よし、と王文斌が立ち上がった。
「行くぞ。盗られたものを取り返す」
呆気にとられる梁山泊勢を振り返り、もう一度怒鳴った。
「何をぼさっとしている。手遅れにならん内に行くぞ」
盧俊義と関勝の目が合った。二人とも困惑の表情だった。
仕方なく王文斌を追う、梁山泊一行。
しかし、檀州だと。盧俊義が向かおうとしていた密雲県のある所だ。
嫌な胸騒ぎを、盧俊義は抑えられないでいた。
やはり消えていた。
密雲県に置いていた、拠点を担っていた者が消えていた。
「ですが、おかしいですね」
燕青の言う通りだった。
痕跡は分かりにくくなってるが、何者かに見つかった様子ではない。用意周到に、自ら消えた感じがするのだ。
密雲県には兵以外の人員を待機させるために来ていた。それと、荷駄を奪った連中がどこへ向かったのかを探るためである。
王文斌がいらいらしながら大声で叫ぶ。
「何をしておる。荷駄の行方は分からんのか」
探索に出ていた段景住と周通が戻ってきた。険しい顔をしている。
どうだ、という盧俊義の問いに、やはり深刻な声で言った。
盗賊たちは檀州へ入っている、と。
「馬鹿な」
唾を飛ばす王文斌。
間違いないと、段景住は言う。
「奴らの馬の蹄の跡を見た。真っ直ぐに城門に向かっていたんだ」
「なんだと。何故、盗賊どもを入れるのだ」
「そんな事、わからねぇよ。争った跡もないようだ」
馬鹿な、と王文斌が唸る。
真相を探るため、遼国側にも確認せねばならない。
檀州の城郭が見えてきた時である。城から数百の軍勢が押し寄せてくるのが見えた。
「敵襲に備えろ」
関勝のひと言で梁山泊の態勢が入れ替わる。王文斌はその様子に目を丸くした。そして盧俊義に連れられ、殿に配された。
遼兵だ。五百ほどだろうか。
大将らしき騎兵が突っ込んでくる。手には点鋼鎗。
「行かせてもらおう」
徐寧が馬を進める。鈎鎌鎗をひと振りし、馬腹を蹴った。
敵将が何かを叫びながら槍を繰り出してくる。
「すまんな。お前たちの言葉は分からんのだ」
徐寧の鈎鎌鎗を敵将が首を捻り、避けた。だが徐寧は慌てず槍を引いた。鈎鎌鎗の鎌のような刃が、敵将の首を刈ろうとする。
がばっと馬に伏せるように、敵将が咄嗟にそれをかわした。そして起き上がるやすぐに喚き出す。
ほう、この手が通じんとは。
敵将の腕は決して突出している訳ではなかった。だが馬上での体捌きは見事なもので、千変万化の鈎鎌鎗の攻撃を凌いでいるのだ。さすが契丹人は馬に長けている。
面白い、と徐寧も気合を入れ直した。
討ち合いが続いた。徐寧も敵将も、息が荒くなってきた。
「おい、大丈夫なのか」
王文斌が心配そうに言う。
裂帛の気合いが聞こえた。鈎鎌鎗が閃き、敵将の頬に赤い筋が走った。
おおっ、と喜ぶ王文斌を尻目に、盧俊義も董平も渋い顔である。
関勝が張清に視線を送った。
張清が馬を飛ばす。
徐寧が敵将を引き剥がすと、馬首を返した。
すれ違う張清に、すまん、とひと言。
敵将が吠える。逃げるのか、と言っているのだろう。
礫が飛ぶ。敵将の左目から血飛沫が飛んだ。
落馬した敵将を、副将が助けに駆け出す。だが李忠、周通が先に捕らえてしまう。
「貴様ら。無事に帰れると思うなよ」
副将が指を突きつけて叫ぶ。そして兵たちを率い、反転して去った。
その後、追撃を警戒していたが、何もなく過ぎた。
やがて盧俊義一行は檀州に着いた。周りを川に囲まれた堅牢な造りである。
待ち受けていたのは、城門から狙う無数の矢であった。
一人の文官が姿を見せた。契丹人のようだが、流暢な宋の言葉を使った。
「宋の者どもよ、刃で脅すことしかできぬのか。この城を襲おうというのなら、こちらも総力を尽くす。命があるうちに去るが良い」
「何の話だ。帝からの贈り物を臨潢府の国王へ運んでいる途中、盗賊どもに奪われたのだ。そいつらがこの檀州へ来ているのだ。何か知らぬか」
「その前に、先ほど捕らえた我が将を返してもらおうか。話はそれからだ」
「ふざけるな。そっちが襲ってきたんだろうが。お前は誰だ、この城の責任者を出せ。そ奴ならわしを知っておる」
「私がここを預かる、侍郎の洞仙文祥だ。前任からはあなたの事は聞いていない。盗賊は、我々とは何の関係もない。武器を持った宋軍が侵入してきたというので、兵を送ったまで。さあ、阿里奇将軍を返してもらおう」
先ほどの将は、阿里奇というらしい。
「返すことはできん」
「どういう事だ」
「死んだのだ」
なにっ、と洞仙文祥が怒りをあらわにした。
合図とともにすべての矢が一斉に王文斌を狙った。
阿里奇は礫の傷が思ったよりも深く、檀州に着く前に死んでいた。
「仕方あるまい。突然襲われたのだ」
「問答無用」
洞仙文祥の手が振り下ろされる。そう思われた矢先、悲鳴が聞こえた。
城壁の上で、侍郎さま侍郎さま、と慌てる声が聞こえてくる。
洞仙文祥の耳たぶが、血に濡れていた。ずきずきと痺れるような痛みが走る。
「礫だ。阿里奇将軍がやられた、奴の礫だ」
阿里奇と共に出陣していた副将、楚明玉が身を乗り出し、張清を指さした。
「退けっ」
盧俊義が叫ぶ。
雨のように矢が降り注ぐ。
辛うじて矢をかわし、充分な距離まで離れられた。
竹筒の水を浴びるように飲み、王文斌が喘いだ。
「一体、どうなってるのだ」
「それはわしらの台詞だ。何が起きているというのだ」
遥か小さくなった檀州を、盧俊義が見つめていた。
ぎりぎりと、洞仙文祥が歯嚙みをしていた。
左耳に当てている包帯が、赤く染まっている。
「くそっ、奴め絶対に許さんぞ」
叫び、飲んでいた杯を叩きつけた。
洞仙侍郎さま、と曹明済、咬児惟康が報告に現れた。阿里奇そして楚明玉を含め、檀州の主力はこの四名の将であった。
しかしいまや阿里奇はいない。それも忌々しい礫野郎のせいだ。
「どうした、曹明済」
「はっ。耶律国珍さまと国宝さまが一万の兵を率い、こちらへ向かっているとの事です」
「おお、そうか。それは良い。これで梁山泊もお終いという訳だ」
顔色を明るくした洞仙文祥が、再び杯に酒を満たした。
耶律国珍と国宝は国王の甥で、兄弟である。いずれも万夫不当の強さを誇る猛将だ。
「出迎えの準備を。失礼があってはならんぞ」
命を受け曹明済、咬児惟康が部屋を出る。
酒を啜り、洞仙文祥はにやりとした。




