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暗闘 四

 戴宗(たいそう)から渡された手紙を見て、宿元景(しゅくげんけい)が微笑んだ。

 聞煥章(ぶんかんしょう)が書いたものだ。

 すべてお前の(てのひら)の上だったとはな、と恨み節がつらつらと記されていた。そして最後に、梁山泊に招安を与えられるよう尽力して欲しいと添えられていた。

「すまなかったな、友よ」

「いま、何と」

「いや、ところで宋江(そうこう)どのは変わりはないかね」

「今はのんびり話している暇はないのです」

 戴宗の切迫した様子に、宿元景も居住まいを正した。

 戴宗が訴える。東京(とうけい)開封府(かいほうふ)に忍び込んだが、何日も留まる訳にはいかない。目的を速やかに果たし、脱出しなければならない。ここは敵の(ふところ)なのだから。

「別行動をしている燕青(えんせい)という者が、李師師(りしし)の店に向かいます。何をしようとしているか宿太尉なら、おわかりのはず」

「天子さまか」

 神妙な面持ちで戴宗が頷く。

「して、いつだ」

明日(あす)

「わかった。しかし天子さまは気まぐれ故、確約はできん。だが力は尽くそう」

 礼を言い、屋敷を辞した。

 帝と会えるかは、宿元景の首尾と、燕青の運を信じるしかあるまい。

「あとは、あの二人か」

 高俅の屋敷に連れられて行った、蕭譲(しょうじょう)楽和(がくわ)である。

 侯健(こうけん)が用意した役人の服装に着替え、屋敷へと向かった。

 高い塀がどこまでも続く、巨大な屋敷だった。正門には兵がおり、警備は厳重だ。

 裏へ回ると塀の上から、大きな柳が顔を出していた。

 ふと戴宗は気配を感じた。誰かに見られているような気を感じた。

 気のせいではない事が、ふいに流れた冷や汗で分かった。


 どうして自分が選ばれてしまったのだろうか。

 大方、宋江どのの側で書記をしていたからだろう。どうみても非力な男だから、高俅から指名されたのだ。

 高俅の屋敷、あてがわれた部屋で蕭譲がため息をついていた。

「そんな顔しないでください、蕭譲どの。我らは高俅に、招安の件をきちんと奏上させるための監視役としてきたのですよ」

 楽和が胸を張って力づけようとする。

「それは建前だ。もう何日、この部屋に閉じ込められていると思っている」

「まだ二日です」

「そうだな、その通りだよ。しかし高俅は、招安の事などいっかな奏上しようしないではないか」

「そのようですね。それに、どうも私たちの事が邪魔なので、どうにかしたいらしいですね」

「な、どうにかって。まさか。しかし、どこでそれを」

 楽和が事もなげに言う。

「ええ、話している声が聞こえましたので」

 自分はそんな話し声など聞いていない。

 蕭譲は眉根を寄せ。思い出す。

 東京開封府にもう一人行かせると言って、呉用(ごよう)が楽和を指名した。

 確かに登州(とうしゅう)での話を聞いたように、度胸が座っていて機転が利くのは確かだ。

 しかし、と蕭譲は楽和の顔を覗きこんだ。楽和はにこりと微笑んでいる。

 まあ、暗い顔をする奴よりもよっぽど良いという事か。

 しかし部屋の外には虞候(ぐこう)が常駐しており、こちらが見張られている(がわ)なのである。

 夜になった、ようだ。食事だけは運んでくるので、それだけが(とき)を知る手がかりだ。

「静かに」

 ふいに楽和が声をひそめた。何事かと蕭譲が訊ねようとするが、目で制せられた。

 楽和が目を閉じ、耳を澄ましている。

 蕭譲は息を止める寸前まで、動かぬように努めた。

 目を開けた楽和が明るい声で囁いた。

「助けが来ました。明日の夜、ここを出ます」

「本当なのか。どうして出られると」

「先ほど、外から声がしたんです。よく聞くと、梁山泊の符牒(ふちょう)でした」

「そうだったのか」

 やはり、自分には聞こえなかった。

「明日の夜、裏庭にある柳のところまで来いと」

「しかし、問題はどうやって外へ出るかだ」

「一計があります。梁山泊の流儀でいきましょう」

「梁山泊の流儀、だと」

 思わず蕭譲が聞き返してしまった。

 楽和が頼もしげに微笑んでいた。


「ふん、まあ良い暇つぶしにはなるか」

 次の夜、楽和と蕭譲が宴会の()に呼ばれた。というよりも自分たちから、呼ばせるように仕向けたのだ。

 高俅がしばらく(ふさ)ぎこんでいるようだから、せめて歌で気を(まぎ)らわせたいと、楽和が申し出た。

 はじめは高俅も渋っていた。しかし部屋から漏れる歌声を聴いた虞候や他の部下たちがこぞって、ぜひにと薦めたのである。

 主だった部下たちも席につき、杯に酒が満たされる。

「それでは、僭越ながら」

 何度か杯が空いた頃合いを見計らい、楽和が進み出る。

 澄んだ、冬の空気のような歌声だった。

 これは、と高俅が身を乗り出した。若い頃は幇間(ほうかん)をしており、さまざまな宴席に顔を出していた。だがこれほどの歌声には出会った事がなかった。

 調子が変わり、今度は力強く、冬の嵐を思わせる歌声だ。

 場にいるもの全てが、楽和の喉に魅了されていた。

 そして次に春の陽射しの如き、優しく暖かい調べ。

 そのまま曲が終わる。楽和が一礼をして、場を辞す。

 割れんばかりの喝采、は聞こえなかった。

 高俅をはじめ聴衆は、ぐっすりと眠りこけていた。

「上手くいきましたね」

「お主の歌のおかげさ」

 宴席の端にいた蕭譲が、大きく安堵のため息を漏らした。

 皆が歌に聴き惚れている隙に、蕭譲が酒甕に眠り薬を入れたのだ。

「確かに、梁山泊流だな」

 二人は部屋をこっそりと出て、裏庭に向かう。見張りの者を避けながら、静かに進む。

 月明かりを背景に、見事な柳の木があった。

 二人が身を潜めていると塀の外から咳払いがあった。楽和も咳払いをする。すると塀を越えて二本の縄が放りこまれた。

 蕭譲と楽和は縄をよじ登り、高俅の屋敷を脱出した。

「無事でしたか」

 待っていたのは燕青、そして戴宗だった。

 蕭譲がほっと胸をなでおろしたが、戴宗が諌める。

「安心するのは早い。とっとと梁山泊へ戻るぞ」

 なるべく陰になっているところを進む。燕青が先頭に立ち、安全を確認する。急ぎたい気持ちと裏腹に、まったく進まずに焦りだけが募る。

 ぴたりと燕青が動きを止めた。

 どうした、と訊ねる戴宗を手で制する。

「三人は先へ行ってください。私が食い止めます」

「追っ手か」

 燕青が神妙な面持ちで首肯した。

 月光に照らされた燕青の顔が青ざめているように見えた。

「分かった。待っているぞ」

 燕青がそれほどまでになる追っ手とは一体。

 戴宗らは路地を曲がり、駆ける。だが進んだ道の先に凶悪な気配がした。

 楽和が叫ぶ。

「戴宗どの、前に何かが」

「うむ、こっちだ」

 しかし変えた道の先にまたも同じ気配。三人は再び違う道を選ぶ。喘ぐ蕭譲を引きずるように戴宗たちは駆け続ける。

 だが少し行くと、必ず先回りされるようで、その度に道を変える。こんな狭い路地では神行法は使えない。

「まさか、追い詰められているのでは」

 蕭譲が、誰もが思っている疑念を口にした。

 どうやらそのようだ。

 道は袋小路。禍々(まがまが)しい気配が背後からじわりじわりと迫って来ていた。

「やるしかないな」

 戴宗と楽和が刀を構える。蕭譲も二人ほどではないが、腕に覚えはある。梁山泊で手ほどきを受けてはいたのだ。

 押しつぶされそうなほどの黒い気が迫る。

 勝てない。三人は即座に感じた。

「旦那がた、こっちです。早くこっちへ」

 足元から声がした。

 見ると、背後の壁にいつの間にか穴が開いていた。

 そこから大きな目の男が覗いていた。

「お前は」

「逃げながら話します。とにかくこっちへ」

 三人が抜け穴を潜ると、(かんぬき)のような物が打ちつけられ、穴が閉じられた。

 中にはもう一人いた。

「あっしらが案内します。行くぜ、張三(ちょうさん)

「おうよ、李四(りし)

 過街老鼠(かがいろうそ)の張三と、青草蛇(せいそうだ)の李四が先頭になり、駆けだした。


「頼むって言われたって、どうやるってんだよ、なあ李四よ」

「んなこたぁ、俺だって分からねぇよ。だが他ならぬ()の兄貴の頼みだ。ひと肌もふた肌も脱ごうってもんじゃねぇか、なあ張三」

 そうだな、と過街老鼠の張三が、大きな目で青草蛇の李四を見つめた。

 梁山泊の者が、数日前二人の元へやってきた。

 高俅と大きな戦をしていると聞いていたが、勝利に終わったとの事だ。喜ぶ二人に、使いの者が、魯智深(ろちしん)からの伝言を告げた。

 高俅の屋敷に蕭譲と楽和という者がいる。

 燕青と戴宗が救出に向かうから手助けをして欲しい、というものだった。

「お前たちならできる。頼んだぞ」

 と言って笑う魯智深の顔が思い浮かんだ。

 ある夜、高俅の屋敷から逃げてゆく人影を見つけた。梁山泊に違いない。うまく屋敷から出られたようだ。

 後を追う張三と李四。自分たちが助けるまでもないのではないか。

 そう考えていたが、向こうが二手に分かれた。そして三人はどんどん城門と違う方向へと走ってゆく。

「どうなってるんだ、おい」

「俺に分かるかよ。とにかく行こう」

 自慢ではないが、東京開封府の裏の裏まで知っているつもりだ。三人が追い詰められた袋小路にも、抜け道がある事を知っていた。

 戴宗が駆けながら、何者か訊ねる。

「そうか、魯智深の旦那が」

「こっちを進んでくだせぇ。ちと狭いが、知っている奴はほとんどいねぇはずです。すぐに城門へ出られます。しかし、もう一人の旦那が」

「燕青どのなら、きっと大丈夫です」

 楽和が力強く言った。

「魯の兄貴によろしくお伝えくだせぇ」

 そう言って張三と李四が、三人を見送った。

 ぞくりと二人の背に悪寒が走った。

 ゆっくり振り向くと、ひとつの影があった。

 月の光で辛うじて見えたそれは、全身黒づくめの男だった。顔も黒い布で覆っており、目だけしか窺えない。

 だがその目は、誰彼構わず噛みつく狂犬のそれに似ていた。

「ちんぴら風情が、よくも邪魔してくれたなぁ」

 ずいと男が前に出る。張三も李四も動けなかった。

「な、なんだ手前(てめえ)は」

 と虚勢を張るが、足が震えてしまっている。

 男が短刀を手にしていた。

「お前ら鼠と蛇じゃあ、竜には敵わねぇってことよ」

 また一歩、男が近づく。

「何の事だよ。お前何者(なにもん)だ」

 男の腕が動いた。

 張三と李四が目を閉じる。

 だがすぐに男の気配が消えた。

 恐る恐る目を開ける二人。確かに男の姿はなかった。

 突如、大勢の足音がした。

「今度はなんだよ」

 それは見回りの兵たちだった。彼らが来たから、黒づくめの男は去ったのだろう。

「おい、俺たちも、ここから出た方が良くないか」

「そうだな。あんな奴に狙われちゃあ、たまらねぇ」

 安堵した張三と李四が、道にへたり込んだ。


 気配が読めない。

 確かに近くにいる。だがはっきりと居場所がつかめない。

 燕青は塀を背に、構えた。

 呼吸を静め、力を抜く。

 真綿で首を絞められるように、じわじわと気配が纏わりついてくる。

 恐ろしく強い。

 史文恭(しぶんきょう)と同じくらいか、あるいは。

 来る。そう思った瞬間、別の気配が現れた。

 新手(あらて)か。しかも同じくらいの強さを感じる。

 二対一では、さすがに勝てない。

 戴宗らは無事に逃げおおせただろうか。

 燕青は覚悟を決めた。

 む、と燕青が唸った。

 追ってきた気配と、後から現れた気配とが闘っている。

 敵ではなかったのか。

 見えない戦いが繰り広げられている。

 一体何者なのかは知る由もないが、今ならばこの場を脱することができるかもしれない。

 意を決し、燕青は城門への道を駆け出した。


 帝が語気を荒げた。

 高俅および童貫(どうかん)が梁山泊に敗れた事が露見したのだ。

 蔡京(さいけい)は知らなかったふりを決め込んだ。

 しかし、どこから聞いたか。おそらく宿元景が絡んでいるのだろうが。

 その宿元景が帝へ奏上した。

 梁山泊を招安してはどうかと。

 そして帝もそれを承諾した。

 だが招安に際し、梁山泊に対して異例の待遇が与えられることになった。

 童貫、高俅を完膚なきまでに破ったその戦力は、(りょう)(きん)といった北方民族に対抗するために必要である。しかも梁山泊は東京開封府の北東に位置し、都を守るための軍事的要衝として大いに役に立つ。

 よって賊徒としての罪を赦免し、梁山泊の解体をせずに存続させることとする。

 朝議の場が騒然となった。

 当り前だ。招安するとなれば、節度使などに封じ、官軍に組み込まれるのだ。高俅が同行した王煥(おうかん)徐京(じょきょう)梅展(ばいてん)などのように。

 静粛にするように何度命じられても、ざわつきは収まらなかった。

 これも宿元景が帝に入れ知恵したのだろう。あの帝ひとりではそんな事を思いつくはずがない。

 蔡京の顔は曇るばかりだ。

(ちん)の言葉に異議があるのか」

 そう言われて、やっと静寂が戻った。蔡京も口をつぐんだ。

 珍しく気炎を吐きおって。いつもの優柔不断さはどこへ行ったのだ。

 朝議の終了が告げられた。

 ひとりの高官が、蔡京の側へやって来た。

「顔色が優れませんが、宰相どの。昨晩は眠れなかったようですね」

 ぎろりと、蔡京が皺の奥から目を剥いた。

 若くして進士になった、李綱(りこう)という男だった。

 宿元景とも仲が良いとの噂で、蔡京はもちろん気に入らない。

「これは、お気遣い痛みいる。いえこの歳なのでな。心配事が多くなるのだよ」

「私もです。近頃、物騒になってきておりましてね。夜間の警備を臨時で増やさねばならないのですよ」

「まったく不穏なことだ。まあ、そなたも無事でいられるよう、自分の心配をしていた方が良いのではないかな」

「ご忠告ありがとうございます。お互い充分に注意しなければ、夜も安心して寝られませんな、宰相どの」

 昨夜、高俅の屋敷に送りこんだ二人の刺客が失敗した。

 報告によると、突如現れた何者かに邪魔されたという。もうひとりは、予定外の夜警が来たため、やむなく撤退した。

 邪魔をしたのは李綱の子飼いの者に違いない。

 大方、宿元景も裏で糸を引いているのであろう。

 予定が狂ったが問題はない。梁山泊の連中は必ず根絶やしにしてやる。

 (くちばし)の黄色い(ひよこ)め。

 蔡京は、去る李綱の背を呪うように見つめていた。

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