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暗闘 二

 さすがは神医(しんい)だ。安道全(あんどうぜん)という名は、梅展(ばいてん)も聞いたことがあった。

 槍に貫かれた腿の傷は、すぐに(ふさ)がった。

 それには塗り薬の効果もあるらしい。薛永(せつえい)という男の家に伝わっていた製法だという。その薛永が、梅展に傷を負わせたのだから皮肉というしかない。

 捕らわれた節度使たちは縄を解かれ、梁山泊内で自由にできた。

 馬鹿な、と思ったが、常に監視の気配は感じた。それはそうだろう。

 違和感はあるが、出歩くのに不自由はない。梅展は梁山泊を散策することにした。

 戦の最中(さなか)でも感じてはいたが、こうして改めて見ると感心するほどだった。梁山泊の(よろい)戦袍(せんぽう)の造りにである。

 訳あって落草する前、梅展は織物を扱う商人だった。品物を扱う目は確かだと、いまでも自負している。

 風になびく旗を見上げる。

 梅展の横に、男が一人いた。薛永だった。

 薛永は同じように旗を見ながら、呟いた。

「これらを手掛けたのは、侯健(こうけん)という者だ」

「どれも見事だな」

「本人が聞いたら喜ぶよ」

 聞くと、その侯健は薛永の弟子だったのだそうだ。そして薛永に敗れた自分が、ここで侯健の作品に出会った。なんとも不可思議な話だ。

 薛永と共に侯健と会い、着物を数着ほど預かった。

「あんたらとは敵同士なんだぜ」

 侯健の言葉はもっともだった。

 数日中には東京開封府へ帰還できることになっている。

 王煥(おうかん)はこの戦いが終わって生き延びたなら、引退すると言っていたという。梅展もそうしようかと思い始めた。

 敵の品物を売ろうなどと、焼きが回ったものだ。

 しかし織物商だった往時を思い出し、梅展の心が疼いた。


 高俅が開封府へ帰還した。

 宋江は、招安の件を奏上するように約束させた。

 その際、高俅の目付役として蕭譲(しょうじょう)楽和(がくわ)を開封府へ送り込むことにしたのだ。

 だが呉用は、

「見たところ、あの男は蜂目(ほうもく)蛇形(だけい)(そう)です。例え恩を受けてもその場限りで忘れ、却って恨みを忘れる事がないでしょう」

 と言った。

 史進(ししん)が、王進(おうしん)から聞いた話でもそうだった。高俅は若い頃、王進の父に受けた屈辱を、ずっと覚えていたというのだ。

 なるほど呉用の読みは当たっているのだろう。

 心配する宋江に、盧俊義(ろしゅんぎ)が言う。

「やはり高俅は信用なりませんな。帝に直接、伝えるしかないでしょう」

 しかし、という宋江の前に、燕青(えんせい)が片膝をついていた。

「宋江どの、覚えていますか。李師師(りしし)のことを」

 うむ、と宋江が頷く。

「あの時、宋江どのの想いを綴った手紙を渡しております。もう一度話ができれば、必ずや上手く事を運んでみせます」

「いま開封府に行くのは、危険すぎる」

「楽和どのと蕭譲どのの事もあります」

 ううむ、と宋江が唸る。しばし悩み、燕青の策を採用した。

 そこへ聞煥章(ぶんかんしょう)が連れられてきた。楽和たちの代わりに、梁山泊に残された人質だった。

 聞煥章が宋江らと向き合う。

「呉用どのの手腕、感服いたしました」

「いえ、私などは何もしておりません。ここにいる(みな)が、自分で案を考え、検討し、実行したのです」

 と謙遜するように言ったが、顔の前で揺れる羽扇で、それを読み取ることは難しかった。

 兵書を(そら)んじ、用兵を語ったところで、呉用や朱武(しゅぶ)のように、実戦を幾たびも()なければ、何の役にも立たないのだ。生きながらえ、それを知れただけでも収穫ということか。

 だが気になることがある。梁山泊が実は、招安を願っているという事だ。

「確か、二度も招安を断ったと聞いておりますが」

 宋江が切々と語りはじめた。

 なるほど、筋は通っている。

 梁山泊に対する勅使の態度。そして宋江を処断するための勅書の歪曲。聞煥章も諌めたが、あれは梁山泊だけではなく、天子を(ないがし)ろにする行いだ。

 聞煥章は思わず口にしていた。

「私の知己に、太尉の宿(しゅく)という者がおりまして」

「宿どの、ですと」

 宋江が飛びあがらんばかりになり、目を大きくした。

「もしかして、宿元景(しゅくげんけい)どのでは」

「そうですが、どうしてその名を」

 はたと聞煥章は思い当たった。もしかして宿元景は梁山泊と接触していたのではないのか。そして宋江とも会っていた。だから梁山泊の事を好意的に語っていたのだ。

 聞煥章は苦笑した。宿元景にうまく利用された。

 徐京(じょきょう)からの要請があったと聞いた時、こうなる事を見越して、自ら招聘に赴いたのだ。

 相変わらず一筋縄ではいかない男だ。しかしむしろ、腹の探り合いが常の政治の世界では、そうでなければ生き残れないのだろう。

 まったくこれではどちらが軍師か分からないではないか。

「私でよければ、宿太尉に一筆認(したた)めましょう。きっと力添えになってくれるはずです」

「そうですか。それは願ってもないこと」

 聞煥章の書簡は戴宗(たいそう)に渡された。

「戴宗、燕青。頼んだぞ」

 二人を送り出し、宋江は玄女(げんじょ)の書を見る。

 宿に()うは重々の喜び。

 あの言葉は、この事を指していたのか。

 そして、(こう)()うは凶ならず、か。

 高俅との戦いも、梁山泊にとっては凶事ではないという事だ。

 その言葉通りになれば良いのだが。

 宋江は天書を閉じ、梁山泊の行く末に思いを馳せた。


「どうした、()の兄貴。そんな顔をして」

 林冲(りんちゅう)にそう言われた魯智深(ろちしん)が、ぐびりと酒を呷る。

「あの時、よく高俅を手にかけなかったものだと感心しておるのだ」

 その言葉に林冲は苦笑いを浮かべた。

「いつも魯の兄貴が、仏の道を()いてくれたおかげさ。あの時、奴は丸腰だったからな」

「がはは、冗談を言うな」

 ふふ、と林冲も微笑み、窓から見える月に目をやった。

 己の運命を狂わせ、妻の命を奪った憎き高俅。必ずやその胸に槍を突き立ててみせる。そう固く誓った。

 それを果たせずに何年経()ったのだろうか。

 そしてついに訪れた、その時。

 だが目の前にいたのは、恥も外聞もなく命に必死にしがみつく、腹のたるんだ浅ましい男だった。

 俺が憎んでいた男は、そこにはいなかった。

 あの時の想いが、途端に薄れたのが分かった。殺そうとしていた男に、哀れみさえ覚えた。

 すまぬ、梅雪(ばいせつ)。弱い男だ、俺は。

 少し悲しそうな顔で、林冲が酒を干した。

 向かいの楊志(ようし)も酒をちびりとやった。

「もっとも、あそこでお主が殺していたら、招安は完全に立ち消えになっていただろうな」

「なんだ、楊志。残念そうな物言いではないか」

 魯智深がからかうように覗き込む。

「確かに招安を受けるのは(しゃく)ではある」

 だが、と楊志が外を見た。林冲と魯智深がその視線を追う。

 少し離れた広場から、えいやあ、という少年たちの掛け声が聞こえてきた。誰かがこんな夜遅くまで武芸の稽古をしている。

 それは呼延灼(こえんしゃく)徐寧(じょねい)の息子たちであった。

 まだ幼いと言ってよい二人であるが、父の血をしっかりと引いているようだ。

「あの子たちには未来がある。梁山泊として生きるのは、俺たちだけで充分だ」

 しかし、と楊志は続ける。

「あの高俅の事だ。招安はおろか、梁山泊に敗れたという報告などしないのではないか。そうなると楽和と蕭譲の事が気にかかる」

「確かにな。開封府へは燕青と戴宗が向かったというが」

 林冲も眉間に皺を刻んだ。

 ひとり魯智深だけは違った。

「心配するなでない。あいつらに頼んでおいた」

 魯智深がにんまりと笑みを浮かべた。

「まあ、少し頼りなくはあるがな」

 と、剃り上げた頭をぽりぽりと掻いた。

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