重囲 一
替天行動の旗が翻っている。
旗をしっかと棒持した郁保四が目を細め、遠くを見やる。
「童貫たちは、向こうの山の上へと逃げ込んだようです」
「よし、手を休めず追撃を」
宋江の言葉に、伝令たちがかけてゆく。横で呉用も神妙な顔をしている。童貫軍は残り三分の二といったところか。呉用と朱武が立てた十面埋伏の計も、いよいよ大詰めである。
童貫のいる山の麓あたりに土埃が見える。官軍の援軍のようだ。
李明と呉秉彝を先頭に、官軍の一団が駆けている。童貫を援護するため、後方から駆けてきたようだ。
「見ろ、向こうの山だ」
李明が示す方向の山上に、官軍の一団が固まっているのが見えた。遠目であるがどうやら童貫だと分かった。李明は大きく迂回するように、童貫のいる場所を目指そうとした。呉秉彝もそれに続くが、その視線は戦場のあちこちを彷徨わせていた。
いない。あの男はどこだ。韓滔はどこだ。斥候の報告によると、呼延灼らしき将をずっと前方で補足したという。韓滔がいるとすれば、そこに違いない。何としても、この戦のどさくさに乗じて、奴の首を叩き落とすのだ。
梁山泊を倒すためではない、そのためだけに来たのだ。
李明が何やら叫んでいる。呉秉彝が目をやると、斜め前方に梁山泊軍が待ち構えていた。
伏兵か。こちらの動きは読まれているようだ。
梁山泊軍と李明らの軍がぶつかった。
梁山泊軍は楊志と史進に率いられていた。
三尖両刃刀を縦横無尽に操り、史進が官軍をなぎ倒しながら突進してくる。史進の目は、呉秉彝を見据えている。
呉秉彝もそれに気付いた。奴の狙いは自分だと。草むらをかき分けるかのように、あっさりと史進は呉秉彝に辿り着いた。
呉秉彝は麻扎刀を構える。
「さあ、この九紋竜の史進が相手をしてやる。名前だけは聞いておいてやろう」
「韓滔という男はどこにいる」
「は、韓滔だって」
「そうだ。知っているのだろう。どこにいるのだ」
史進の顔が赤くなる。
「馬鹿にしやがって。お前の相手は、この俺だ」
三尖両刃刀が咆哮を上げる。颯々(さつさつ)と呉秉彝は刃をかわし、史進に反撃を試みる。だがやはり史進も並ではない。両刃刀を風車のように回し、呉秉彝の攻撃を阻んだ。
呉秉彝の顔に、苛立ちのようなものが浮かんだ。唾を吐き捨て、目を細めると、史進を睨んだ。
「おい若造。教えないというのなら、邪魔をしないでどこかへ失せろ」
「一体、韓滔に何の恨みがあるんだってんだ」
呉秉彝はもちろん語らない。史進は微笑んだ。ゆっくりと三尖両刃刀を突きつける。
「まあ、どうでも良いか。だがひとつ言っとくぜ」
史進が馬を飛ばす。呉秉彝がそれに応じる。
「だぶん、韓滔はあんたのことなんて覚えちゃあいないぜ」
麻扎刀が宙を舞った。呉秉彝の右肘から先が斬られていた。呉秉彝が痛みを感じるよりも早く、体が袈裟掛けに斬られた。
刃の血を振るい落し、史進は気付いた。
「しまった、名前聞いてねぇや」
まあ、仕方あるまい。
「ようし、お前たち、やるぞ」
史進は部下たちを集め、散り逃げる官軍を追った。
戦場を見回し、楊志はもう一人の兵馬都監を探した。
こちらと同じように、官軍も将を二人ずつ組ませているという報告があった。史進がひとりを討ち取った。
楊志と史進が姿を見せた時、確かに将らしき者を確認したのだ。乱戦の中で見失ったのか。
と、単騎の楊志に向かって十騎ほどの兵が向かってきた。先頭には将らしき男。こいつが兵馬都監のようだ。
十騎に向けて、怯むことなく楊志が駆けた。抜いた刀が、鋭く光る。
兵馬都監が刀を振り下ろすより早く、楊志の刀が真横に光の軌跡を描いた。胴を一文字に斬られ、兵馬都監が馬から落ちた。
残りの兵が、楊志に斬りこんでくる。一人、二人、三人と楊志は刀を振るう。
楊志がちらりと刃を見た。四人目と五人目を矢継ぎ早に斬り、楊志は思いだした。湯隆のことである。
楊志が二竜山から参加してやや経った頃である。
「いやいや、驚いたわい。こんな事があるなんてな。御仏のめぐり合わせかのお」
目を輝かせて魯智深が言ってきた。訊ねると鍛冶屋のことだという。
魯智深が五台山にいた頃、山の麓の鍛冶屋に特注で禅杖を作らせた。その時の鍛冶屋が、梁山泊の鍛冶職人である湯隆だったというのだ。魯智深や楊志が二竜山にいた頃、李逵と出会い梁山泊に入ったという。
「わしも驚きましたよ。まさかここで再会するなんて」
「いやあ、助かったわい。こいつも結構痛んでたんでな」
新品のように補修した水磨禅杖を魯智深に渡し、湯隆はそう言って微笑んだ。
「ところで、先ほどの話だが、湯隆よ」
と魯智深が切りだした。湯隆が改まったように楊志に向きなおった。
湯隆の言葉に、楊志はやや顔をしかめ、即答した。
「それは、無理だ」
楊家の宝刀、それに迫る刀を作らせて欲しい。湯隆はそう言ったのだ。
「やってみなければ、分からんでしょう」
鍛冶職人としてより良い武器を作りだすことは、湯隆の人生そのものなのだろう。
それならば楊志の許可がなくてもよいのではと思った。違うのだ。湯隆は楊家の刀を再現したいのだ。
鉄をも断つ威力を持ち、触れただけで毛も切れる鋭さを持ち、その刃に血が残らないという滑らかさを兼ね備える刀をである。だから楊志に頭を下げているのだ。
湯隆の目は真剣そのものだった。
やってみなければ分からない。楊志の心に、湯隆のその言葉が深く突き刺さった。
目を閉じると、梁山泊に至るまでの道程が、瞼の裏に浮かんだ。湯隆の言葉の通りだと思った。
「先ほどは失礼した。こちらこそお願いしたい。ぜひ作ってくれないか」
湯隆が頬を緩め、そうこなくてはと魯智深が破顔した。
そして童貫との戦の直前、湯隆から刀を渡された。まずは使ってみて欲しい、というのだ。 その時の湯隆の真剣な顔が思い出される。
七人まで斬り伏せた。刃こぼれどころか、血もほとんど付いてはいなかった。
楊志は雄叫びを上げ、駆ける。楊志の姿に気圧されたのか、残りの兵が逃げだし始めた。
楊志は手綱を引き、それを見送った。逃げる相手を、しかもただの兵を、追うのは性分ではない。
楊志が改めて刀を見やる。楊家の宝刀までとはいかなくとも、充分に迫る刀ではないか。
楊志は童貫が拠ったという山を見た。二竜山での戦いを思い出した。
あの時とは立場が逆だ。そして楊家の宝刀を持つ畢勝がそこにいる。だが楊志はそれ以上の感情を覚えない自分自身に驚いた。
楊志は気を引き締めると、史進と合流するために駆けた。
楊志から逃げた兵のひとりが、ずる賢そうな笑みを浮かべていた。それは兵馬都監の李明だった。
転がる兵の骸を横目に、馬を飛ばす。
李明は乱戦の中、配下の兵の衣服をはぎ取り、身にまとった。そして兵馬都監の格好をさせた配下を突撃させた。
楊志を騙し討ちするつもり、ではない。最初から逃げるつもりだった。
この李明、滑狸猫というふたつ名を持っていた。狡猾な山猫、というような意味だ。
冗談じゃあない。もうこの戦、負けが決まったようなものではないか。呉秉彝も梁山泊軍に討たれた。とにかくこの場を切り抜け、やむなく敗走という体で童貫の元へ向かい、共に逃げなくては。
充分に離れたようだ。しかし方向を変えようとした馬が石に躓き、体勢を崩した。
李明は馬から放り出され、頭から地面に落ちたあと動かなくなった。
李明の目は見開かれたまま、息をしていなかった。
首がおかしな方向に捻じれていた。




