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貴人 四

 ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。

 秣が業火に包まれている。

 見回すと男が三人倒れている。皆、首がなかった。

 三つの首は古い廟に供えられていた。滴った血が廟の床を濡らしている。

 林冲、と呼ぶ声がする。人気(ひとけ)は無い。

 林冲。また呼ばれた。

 呼んでいるのは首、だった。

 白目のままの首が口を動かし、林冲の名を呼び続ける。

 林冲は動く事ができなかった。

 廟が炎に包まれた。三つの首は炎に焼かれながら呼び続ける。

 林冲、林冲、林冲、林冲。

 動けない林冲の体に火が移った。あっという間に全身を炎が舐めつくす。

 ひときわ大きな声で首が叫んだ。

 林冲。


「林冲」

 跳ね起きた林冲は辺りを見回す。

 どうやら部屋のようだ。自分は夢を見ていたのか。

 全身が汗にまみれていた。

 側に火が焚かれ、ぱちぱちと音を立てていた。

「よかった、林冲さま」

 見覚えのある声と顔だ。

 そうだ、居酒屋の李小二だ。小二が心配そうな顔で見ている。

「うなされていたが、もう大丈夫でしょう。後は私が」

 その後ろにいるのは後周の末裔、柴進だ。

 ゆっくり起き上がると、改めて周りを見回す。

「ここは私の東の別荘です」

 柴進が先回りして言った。

「昨晩、林冲どのは雪の中に倒れていたのです。それをこの小二が見つけ、私の元へ連れて来たという訳です」

「危ない所でした。身体中が凍傷になる間際でした。本当に良かった」

そう言う小二は目に涙を溜めているようだ。

「しかし、一体どうして」

 柴進の疑問に、今度は林冲が答えた。

 小二の居酒屋での件。秣置場への配置換え。そして雪の中での復讐。

「このままではあなたにもご迷惑をかけてしまいます。身体が回復次第、出てゆきます、柴進どの」

 柴進はにっこり微笑んで言う。

「心配めさるな、林冲どの。私に与えられた特権はこういう時のためにあるのです」

 役人さえも手出しできぬという宋の太祖からのお墨付き、丹書鉄券。

 だが林冲は知っている、過信してはならない事を。太祖から数えてすでに百五十年。奸臣たちにしてみれば、それを果たす義理などとうの昔に無いのだから。

「いえ、いつまでもお世話になる訳にはまいりません。どこか身を置く場所があればよいのですが」

「そこまで言うのなら、わかりました。良い所があります。私が一筆したためましょう」

 柴進は柔らかな笑みを浮かべた。


 すでに滄州中に手配書が貼られていた。

 殺人および軍の施設への放火。林冲は無実の罪からついに賞金三千貫の大罪人となってしまった。

 四六時中、役人が街を見回っている。この屋敷にはさすがに入って来られないが、少しでも外へ出ようものならば、確実に捕縛されてしまうだろう。

 そんな中、柴進はいつものように狩りに出かけた。

 供の者を二十人ほど連れて滄州の関所にさしかかる。

 門の横にも林冲の人相書きが高札に貼り出されてあった。

「柴大官人、いつものお楽しみですか」

 軍官が一行を止める。彼は屋敷にも来たことがある顔馴染みだった。

「大官人さまには申し訳ないが、決まりなんで調べさせていただきますよ」

 すっ、と笑みを消す柴進。

「よく調べてください。この中に噂の林冲を紛れ込ませておりますから」

 その言葉に軍官が笑った。

「ははは、大官人さまもお人が悪い。ご冗談が好きなお方だ」

 どうぞお通りください、と一行を通す軍官。

 関所を越え十四、五里あたりで一行は止まった。

「もう大丈夫でしょう」

「柴進どの、危険な橋を渡らせてしまい申し訳ありません。このご恩は必ず」

 林冲が笠を取り、顔を露わにする。柴進が軍官に言った通り、下男の恰好をさせ紛れ込ませていたのだ。

 だが本当に危険な賭けだった。

「道中、達者で。また何かあればお力になりましょう」

「かたじけない。小二にもよろしくお伝えください」

 わかった、と柴進一行は違う道へと進んで行った。

 林冲は拱手したまま見送った。やがて一行が林の中へと消えた。本当に狩りでもするのだろう。

 柴進からの手紙を確かめる。南への道をとり、新雪にその一歩を踏み出した。

 空には雲ひとつない冬晴れの朝だった。


 滄州の関所を抜け、済州(さいしゅう)へ入ってから十日あまり。

 冬の末、雪雲が厚く空を覆った。雪が舞い始めたかと思うと北風が吹き、あっという間に大雪となってしまった。

 一面の銀世界の中、林冲は歩き続けた。

 どれくらい歩いただろう。ふと見上げると、吹き荒ぶ雪の向こうに大きな山影がそびえ立っていた。

 ついに辿りついた目的の地。

 周囲に広大な水を湛えた圧倒的な偉容を誇る天然の要害。

 そこは、梁山泊と呼ばれていた。

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