武人 四
次々と上がってくる報告に、晁蓋が気を揉んでいた。
物見の兵によれば、呼延灼軍は数里先に本隊を残してきているという。
「そちらを攻めてはどうだ」
「まだ緒戦ですし、向こうも奇襲には充分警戒しているでしょう。まずは相手の力を見極めるのが良いかと」
晁蓋の提案は、やんわりとであるが呉用に却下された。
大将は悠然と構えていれば良いのです、と呉用や宋江に何度も言われてはいるのだが、やはり何かしていないと落ち着かないのだ。ましてや戦いは目の前で起きているのだ。
呼延灼軍が左右に分かれ、自軍もそれに対応。中央の呼延灼が率いる軍は、林冲ら五将の軍と激突している。
林冲と互角であるという呼延灼の実力もさることながら、副将二人の実力も侮れるものではなかった。
「大丈夫です。彼らなら、やってくれます」
呉用は自分を落ち着かせるように、そう言った。
左軍では、穆弘と呂方の騎馬隊が右に展開、左には黄信と朱仝の隊がそれぞれ展開している。その中央前方に雷横の歩兵隊が陣取っていた。
敵の騎兵が左右に分かれ、歩兵が突っ込んでくる。およそ千五百ほどか。一方、雷横の隊は六百ほどしかいない。
「怖れるんじゃねぇ、野郎ども。お前らの力を見せつけてやれ」
雷横の言葉に歩兵たちが喚声で応える。
確かに兵力差はかなりある。しかし、それは兵の質で埋められる。呉用をはじめ、林冲や秦明などの考えも同じだった。
敵歩兵に対し、雷横は踏みとどまってそれを受ける構えだ。左右の騎兵隊はすでにぶつかりあっていた。
まだだ、まだだ。まだまだだ。もっと近づいて来い。
雷横が一番前で朴刀を構え、歯を食いしばり、そう唱えていた。
敵の歩兵が武器を上げ、目の前にまで迫った。
「今だ」
雷横が叫ぶと、組んでいた隊列が割れた。
虚をつかれた敵兵は止まる事もできず、割れた歩兵の間を駆け抜けてゆく。気付いた時には遅かった。敵兵が、左右から突き出される槍や刀の餌食となってゆく。
雷横も縦横に刀を振るい、次々と敵を地に斬り伏せてゆく。
「へへ、悔しいが良く斬れやがるぜ。さすがは湯隆の打った刀だ」
敵歩兵の三分の一ほどを片付けただろうか。もう詭計は使えない。真っ向からぶち当たり、打ち勝つだけだ。
敵騎兵は算を乱していた。穆弘の隊が真っ直ぐ突撃し、隊列をぶち抜けてゆく。そして反転し、また突っ込んでゆく。騎兵は敵がやや多いくらいだ。しかし穆弘を止められる者はいなかった。
黄信と呂方も縦横に戦場を駆け回り、敵を翻弄している。青州の軍人だった黄信はもとより、呂方もそれに引けを取らない動きだった。双頭山で山賊を率いていた男だ。普段は温厚だが、いざ戦いとなると小温侯の名に恥じぬ戦いぶりだ。
雷横がちらりと見ると、朱仝が追われていた。戦場を大きく回り、引き離そうとするが、敵の騎兵もさすがというべきか、しっかりと食いついてくる。朱仝は敵を引き連れ、林の側を通りすぎた。
敵騎兵が朱仝の後を通った時、林の中から無数の矢が飛来した。そして喚声が響き、兵たちが飛び出してきた。目の前の敵騎兵を次々と討ってゆく。
梁山泊の伏兵だった。その伏兵の先頭で李逵が二丁の斧を振り回している。たとえ騎兵だろうと臆することなく、馬ごとぶった切っているようだ。
朱仝の隊が反転し、敵に反撃を開始する。一騎を片付け、朱仝が馬を急がせた。
李逵の背後に敵が迫っていた。李逵は戦闘となると目の前しか見えなくなるのだ。
刀が振り下ろされる前に、朱仝が駆け抜けた。敵の首が飛び、李逵の足元に転がった。
それに気付いた李逵が朱仝の方を見た。李逵は礼を言うでもなく、雄叫びをあげると再び敵に突っ込んでいった。
ふう、と安堵のため息をつき、朱仝が再び馬首を返した。
梁山泊へ来た時、いや滄州で初めて会った時から、李逵との関係がぎくしゃくしていた。
朱仝は坊っちゃん、滄州知府の幼い息子、を李逵が手にかけたと思い、本気で殺そうとした。後に分かったがそれは勘違いで、坊ちゃんも一命を取り留めていたのだ。李逵が坊ちゃんの命を救ったとも言えるのだ。
朱仝は謝るべきだったのだが、怒った李逵は会いたくないと柴進の館に逗留する事になった。それから時間も経ってしまい、なんとなくうやむやになってしまった感があった。
なぜ宋江が李逵を可愛がっているのか、正直分からなかった。
だが、ほんの少しだが、分かるような気がしてきた。真っ直ぐで、でも不器用で、どことなく雷横に似ている、と朱仝は思った。
見ると、騎兵はあらかた片付いたようだ。あとは歩兵か。
朱仝は雷横の元へと駆けた。
長く美しい、自慢の髯が風にたなびいていた。
まだ両刃刀を握る手が痺れていた。
まさか、と思った。
近づいてくる女将軍は、まだ間合いに入っていなかった。槍でさえまだ届かぬ位置である。しかし、攻撃が来る、という確かな予感があった。
彭玘は困惑したが、天目将の由来ともなった、その予感を信じる事にした。
一瞬、青白い光を見た気がした。すぐに三尖両刃刀に衝撃を感じた。
本当に、あの距離から攻撃をして、しかも届かせた。相手の得物は二本あるとはいえ、刀なのである。
一体、どうやって。だが彭玘が考える間もなく、次の攻撃が襲ってきた。
分かる。攻撃がいつ来るのかも、どこに来るのかも、分かる。
だが、彭玘は苦しそうな顔をする。いつもの涼やかさは、そこにはなかった。
しかし、そんな彭玘には構わず、扈三娘はあり得ない所から刀を振るい続ける。
彭玘は必死に防ぎつつも、なんとか自分の間合いに持ち込もうと狙っていた。
彭玘の馬が駆けた。扈三娘の双刀が舞う中へ、決死の覚悟で飛び込んだ。
扈三娘も前に出た。刀を伏せ、目を細め、彭玘を見据えて駆ける。
扈三娘と彭玘が馳せ違った。
微かに扈三娘の表情が歪み、体勢が崩れた。いかに扈三娘といえど、彭玘の力にはいささか打ち負けてしまったようだ。
この機を逃すまじ、とばかりに彭玘が追いすがる。体勢の整わぬまま、扈三娘は彭玘の攻撃を何とかしのいだ。
扈三娘は両手で刀を振りつつ馬を巧みに操つり、距離を取ろうする。
しかし己の間合いに持ち込んだ彭玘の両刃刀が冴えわたっていた。扈三娘の軍装の袖が裂けた。
「貴様」
幸い皮膚は切れてはいなかった。扈三娘は、彭玘を睨むと二刀での渾身の連激を繰りだした。両刃刀が折れたのではないかという激しい音がしたが、彭玘は攻撃を受け止めた。しかし、やはり腕が痺れてしまった。
「小癪な奴め」
腕の回復を待つ瞬間の隙を狙い、扈三娘が駆けた。彭玘から離れ、逃げてゆく。
逃すものか。彭玘も馬の腹を蹴り、追った。
「待て、彭玘。勝ち急ぐな」
追う彭玘の方をちらりと扈三娘が見た。
ぞくり、と彭玘の背筋が凍った。
刀ではなかった。飛んで来たのは鈎のようなものが付いた縄だった。
斬撃だと思い身構えた彭玘は、その縄に絡み取られ、馬から落ちた。
すぐに梁山泊の兵が駆けつけ、彭玘を縛ると自陣へと連れて行ってしまった。
にこりと不敵な笑みを浮かべ、扈三娘も駆け戻った。
「待て」
呼延灼が陣から飛び出した。だが、その前に立ちはだかる男がいた。
病尉遅こと孫立である。
手にするのは竹節虎眼の鋼鞭。堂々たる騎乗に、呼延灼も唸るほどだった。
「行かせはせん」
「どけい、彭玘を返すのだ」
「返せと言われて返せるものか」
孫立が言い放ち、鞭を構えた。呼延灼も双鞭を構える。
奇しくも武器は同じ、鞭である。
互いの馬が近づいてゆく。ゆっくりと確かめあうように、近づいてゆく。不用意に打ちかかることができない相手だと、構えた瞬間から互いに分かっているのだ。
見ている韓滔の喉がひりついてくるほどだった。
ぴたり、と馬の足が止まった。一瞬の静寂の後、同時に馬が駆けた。
三本の鞭がぶつかり合った。すぐに鞭が乱れ飛ぶ。呼延灼が鞭を雷鳴の如く唸らせれば、負けじと孫立も疾風の如く鞭を叩きこむ。
梁山泊軍も、呼延灼軍も、息をのんで見守った。
呼延灼と孫立、二人の様はまさに呼延賛と尉遅敬徳の再来か、と思わせる戦いぶりだった。
「どうした、よそ見をするとはわしも舐められたものだな」
孫立が怒りを込めた一撃を放った。二本の鞭で、呼延灼が受け止めるが、大柄なその体が沈むほどの力であった。だが呼延灼は沈む反動を上手く己の力に変え、孫立の鋼鞭を弾き返した。
彭玘の行方が気になっていたのだ。しかしそれを気にして勝てる相手ではなかった。
再び呼延灼が駆けた。鞭が轟音を立てる。辛うじてかわした孫立は、冷や汗をかいた。
当たれば骨など粉々になってしまうであろう一撃だった。いや骨だけではなく、命も砕けてしまうだろう。
「呼延灼どの」
韓滔が叫ぶ声が聞こえた。その背後には、もうもうと土煙が見えた。響き渡る地響きと共に、残してきた騎兵たちが現れた。
韓滔が本陣にまで戻り、出撃命令を出したのだ。
梁山泊軍は援軍の、その姿に目を見張った。押し寄せてきた敵は、鉄の塊のようだった。兵はもちろんのこと、馬も甲で全身を覆われており、わずかに足先が見えるだけであった。
花栄が弓を引き絞り、放つ。しかし兵は避けもせず、頑丈な鎧でそれを弾いてしまった。
「ちっ、何だあれは」
「退くのだ、花栄」
後詰めにいた宋江が花栄の元へ駆け寄って来ていた。
宋江は林冲と目が合った。林冲が無言で頷いた。
「撤退、撤退せよ」
梁山泊軍の鉦が鳴らされた。応戦しようという構えだった秦明や扈三娘も、仕方ないという顔で馬を返す。
「勝負は預けておこう」
孫立が呼延灼の鞭を弾き、その場を離れてゆく。
呼延灼は追わずにそれを見つめ、呼吸を整えた。
「呼延灼どの、ご無事ですか」
「うむ。一度、本陣へ戻るぞ」
「彭玘の奴は」
「今は、目の前の戦に集中するのだ」
「はい」
呼延灼が言える事は、それだけだった。
きっと無事だ、などとは言えなかった。これは戦で、相手は強大な賊なのだ。
韓滔も、もう何も言わなかった。
気付けば、日が落ちようとしていた。
憔悴した顔で、宋江が聚義庁への石段を登っていた。
だがその顔には、どこか高揚した感じも見てとれた。
聚義庁では、待ち構えるようにして晁蓋が聞いてきた。
「まずは勝利、といって良いでしょう」
「うむ、さすがというところだな」
宋江は、ふうと息を吐き、腰をおろした。
やがて今日の戦に出陣した頭領たちも集まってきた。
裴宣が戦果を記した紙を晁蓋に渡す。
「皆のもの、今日はよく戦ってくれた。特に敵将のひとりを捕らえた扈三娘には報償を」
扈三娘が拱手で応えた。
穆弘、黄信らのいる左軍は、常に優勢だった。だが今一歩の所で、呼延灼軍は撤退をしていった。一方の欧鵬、馬麟らが率いる右軍も優勢のままで今日の戦いを終えた。
興奮している晁蓋とは対照的に、落ち着いた顔の呉用が切り出す。
「撤退間際に押し寄せてきた騎兵の詳細を、林冲」
「うむ、兵も馬も全身を鎧で包んでおり、あれでは矢は通じない。直接ぶつかるにしても、おそらく並の力では打ち負けてしまうだろう」
「しかし重装備ゆえ、素早い動きはできない。撤退の際にも、追いつかれる事はなかった。足でかき回せば、道は開けるのではないだろうか」
林冲に続き、孫立が述べる。矢が通じぬからか、花栄は険しい表情のままだった。
軍議は一刻ほど続き、頭領たちは散会した。
金沙灘で腰を下ろし、暗い湖を見つめている王英がいた。
「どうした。かみさんが戻って来てるんだろ」
鄭天寿だった。李立と共に南山酒店の担当だが、こたびの戦で梁山泊本寨へ避難してきていたのだ。
振り返った王英は、一瞬顔を明るくしたが、すぐに難しい顔になった。鄭天寿も王英の横に腰を下ろし、湖を見つめた。
「どんな顔したら良いか、分かんねえんだよ」
「どんな顔って、いつも通りでいいじゃないか」
「気楽に言いやがるなあ」
王英は少し黙りこみ、話しだした。
「明日も戦に出るんだぜ、あいつ。秦明や花栄や、あんな連中みたいに強くねぇからよ、俺は。明日も見送るだけさ。何か、怖えんだよ。今日は無事に帰ってきたけど、明日はもしかして、なんて考えちまう。俺らしくねぇよなあ」
「いいや、お前らしいじゃないか」
鄭天寿は微笑みながら、王英に手を差し出した。その手の上で何かが、きらりと光った。
それは銀でできた簪のようであった。
「それは。その簪が何だっていうんだよ」
「これはお前が作ったものだろ」
「何言ってやがる、俺はこんなもの作れるほど」
と言って、王英が思い出した。
扈三娘と夫婦になった頃だ。王英が鄭天寿の元に来て、照れくさそうに言った。
何か贈り物をしたいから、適当な物を作ってくれないか、と。
梁山泊の女性たちの間で、鄭天寿の銀細工が流行っていた。
どこかで噂を聞きつけた顧大嫂が、鄭天寿に頼んだのが始まりだった。すぐに孫立の妻である楽大娘子が鄭天寿の銀の簪をつけると、あっという間に人気が広まったのだ。
一時は南山酒店の職務よりも忙しいほどで、裴宣が禁令を発布しそうになるほどだったという。
扈三娘は興味が無いのか、身につけてはいなかった。そこで、と王英は考えたのだろう。
だが鄭天寿の答えは芳しくなかった。
「俺は作らないよ。教えてやるから、自分で作ったらどうだ」
まさか断られるとは思わなかった王英だったが、何度言っても答えは変わらなかった。仕方なく王英は、鄭天寿に教わりながら作ることにした。
だができたのはお世辞にも美しいとは言えない、簪のようなもの、であった。
王英はそれを放り投げて、叫んだ。
「だから言ったじゃねぇか。俺はお前みたいに器用じゃねぇんだよ」
鄭天寿は何も言わず、悲しそうな顔で去ってゆく王英を見ていた。
その時、投げ捨てた簪だった。
「お前が心をこめて作ったものだ。俺が作るよりも、よっぽど喜んでくれるさ」
「でもよ」
「不格好だけど芯が強くて、光ってる。まるでお前みたいじゃないか」
「鄭天寿、手前ぇ」
王英が拳を握って立ち上がると、鄭天寿は笑いながら逃げて行った。
「大丈夫、ちゃんと使えるように手直しだけはしてあるから。上手くやれよ」
鄭天寿の声が遠のいてゆく。
「馬鹿野郎」
言いながら、王英は嬉しそうに笑っていた。
翌日、出陣する扈三娘の髪には、少し不格好な簪が光っていたという。