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逆鱗 一

 その目は優しく、深い光をたたえているようだった。

 歳は父と同じくらいだろうか、もう少し上かもしれない。しかし背筋はしゃんとしており、(りん)とした感じがした。宋江(そうこう)の父だという。

 扈三娘(こさんじょう)宋太公(そうたいこう)と向き合っていた。

 鄆城(うんじょう)宋家村(そうかそん)を治めていただけあり、老いてなお威厳が漂っていた。扈三娘はやはり父を思い浮かべた。

 父、扈太公(こたいこう)扈家荘(こかそう)を治めていたが、いつも何かに怯えるような感じがしていた。周りを祝家荘(しゅくかそう)李家荘(りかそう)に囲まれた、一番小さな荘だった事もあるのだろう。父は父なりに家を守るのに必死だったのだ。そしてその一環として祝彪(しゅくひょう)との結婚が決められた。それに不満はなかった。扈家荘のためだと、扈三娘も理解していたからだ。

「すぐに気持ちの整理がつくはずもない。性急に何か決めなければ、ということはないのだよ、扈三娘」

 宋太公が優しく微笑んだ。

「わしからしてそうだったのだ。息子が、ひょんなことからこの梁山泊(りょうざんぱく)の頭領のひとりとなったと聞いた時は、それは腰を抜かしたよ」

 おどけてみせる宋太公に、扈三娘の表情も緩んだ。

「そしてあれよという間に、わしもここへ連れてこられた」

 宋太公が茶を勧めてきた。扈三娘は、ひと口だけそれを飲んだ。喉が、そして胃がほんのり暖かくなるのが分かった。

 娘にならないか、と宋太公から告げられていた。身寄りの無くなった扈三娘に対する、宋太公の優しさだった。

 祝家荘のために戦い、囚われた。本当ならば首をはねられていてもおかしくはないのだ。扈三娘は、その提案を断れる立場ではないと考えていた。

 しかし宋太公は言った。

「お主は確かに祝家荘のために戦った。しかしそれは家同士の盟約があったからだ。お主の立場からすれば、当然の事をしたまで。だが祝家荘も李家荘もなくなり、盟約もなくなった。許婚であった祝彪の事は残念だったが、それからも解き放たれたのだ。今はお主自身の考えで決めて欲しいのだよ、扈三娘」

 宋太公の言うとおりだった。もう独りなのだ。宋太公は自分の気持ちで決めろ、と言った。

 生まれた時から扈家荘の娘という枠に入れられ、結婚相手まで決められていた。それらの(しがらみ)から解放されたいま、正直、扈三娘はどうして良いのかわからなかったのかもしれない。

 だが扈三娘も、何度言われても従わなかった、自分で貫いてきた事がある。それが武芸だった。

 女は女らしく、と裁縫や歌を無理やり習わされた。しかしどれも自分の肌には合わなかった。そして手にしたのが刀だった。

 お前が男に生まれてくれば、そう言われるほどの腕前になった。

 そんな女性はいない、と思っていたが顧大嫂(こだいそう)に会った。扈家荘では見なかった女性であった。恰幅が良く大声で話すが、その言葉に裏表がなかった。そして何より、強さを感じた。

「すまなかったねぇ、扈三娘。許婚が死んじまったんだってね。でも大丈夫さ、あんたほどの器量良しなら、掃いて捨てるほど男の方から寄ってくるってもんさ」

 豪快に笑って肩を叩かれた。痛いほどの力だったが、その痛みが何故か心地よかったのを覚えている。

 扈三娘は知らず、肩に手を当てていた。

「わかりました」

 と扈三娘が訥々(とつとつ)と話しだした。

「私は負けるわけがない、と思いあがっていたのかもしれません。でも私はすべてを失いました。家も許婚も。それでもとおっしゃってくれるならば、私は生まれ変わったと思い定める事にします。良いのですか、宋太公さま」

「もちろんだとも。さあ、いまからお前は娘だ。宋太公さまなどと堅苦しい呼び方は無しだぞ」

「はい、お義父(とう)さま」

 宋太公は嬉しそうに手を叩き、ぬるくなった茶の代わりを運ばせた。

 扈三娘が口をつけるとやはり温かく、なんだか胸に()み入るようであった。


 梁山泊はさらなる力を得た。

 楊雄(ようゆう)石秀(せきしゅう)時遷(じせん)。さらに李家壮から李応(りおう)杜興(とこう)。そして登州(とうしゅう)から孫立(そんりつ)ら八名が加わった。

 また祝家荘を倒した事で、国からの見られ方も今までとは異なるものとなるだろう。晁蓋(ちょうがい)は国との戦いという行く先を見据え、喜んでばかりもいられなかった。

 まず梁山泊の正面の大道を黄信(こうしん)燕順(えんじゅん)が担当する事になった。第一の関門は解珍(かいちん)解宝(かいほう)、第二の関門は杜遷(とせん)宋万(そうまん)、第三の関門は穆弘(ぼくこう)劉唐(りゅうとう)である。

 さらに上、聚義庁(しゅうぎちょう)の両側は楊雄と石秀が守備に当たる。向かって左の寨には花栄(かえい)秦明(しんめい)、右の寨は林冲(りんちゅう)戴宗(たいそう)、正面には李俊(りしゅん)李逵(りき)、そして裏の寨には張横(ちょうおう)張順(ちょうじゅん)が配された。

 情報収集の(かなめ)となる各地の酒店であるが、孫新と顧大嫂は元々経営していたという事もあり、西の居酒屋を任されることになり、これまでそこにいた童威(どうい)童猛(どうもう)金沙灘(きんさたん)の守備に当たる事になった。東の朱貴(しゅき)の店には楽和(がくわ)が、北の石勇(せきゆう)の下には時遷が、南の李立(りりつ)には鄭天寿(ていてんじゅ)がそれぞれ増員された。

 金沙灘で宋万と共に任についていた白勝(はくしょう)は、単独での情報収集の任に就く事になり、張り切っていたようだ。

 糧秣の担当が李応と杜興に交替した事で、穆春(ぼくしゅん)が今度は家屋や寨の増築に関わることになった。大工の腕を持つ李雲(りうん)を補佐する形となる。前回の騒動があり、不安だった宋江だったが、穆春は素直にこの異動を受け入れた。

「もう文句なんか言いませんよ、宋江どの。あの時は本当に恥ずかしい所をお見せして」

 などと照れくさそうにしていた。あの穆春が、と宋江も少し驚いた。人は変わるのだ、と宋江は自分に言い聞かせるようにしていた。

 王英(おうえい)は鄭天寿と離されて、不満げな様子だった。清風山(せいふうざん)から一緒で、ここでも鴨嘴灘(おうしたん)を守る任に就いていたのだが、祝家荘戦で加入した鄒淵(すうえん)鄒潤(すうじゅん)が後を引き継いだのだ。

「馬の世話なんてやってられっかよ。戦いてぇんだよ、俺は」

 くさくさとしている王英を、穆春がなだめるという奇妙な光景だった。しかしこれには裏があったようだ。

「まったく上の連中は鈍いったらありゃしないねぇ。仕方ない、私がひと肌脱いでやろうじゃないのさ」

 という顧大嫂の思惑が働いたようだ。

 同じ馬匹(ばひつ)の管理に、扈三娘があてられたのだ。

 祝家荘戦を終えたばかりで心の整理もついていない彼女に、実力は誰もが認める所だが、まだ武器を手にさせたくはなかったという事情も重なったのだろう。

「戦では馬も大切な役割を果たすわ。そうは思わないのかしら、王英」

「うるせぇ、分かってるよそんな事は。だいたい良家のお嬢様に馬の世話なんかできるのかよ。いままで下男どもにでもやらせてたんだろう。適当にやられちゃ困るんだよ。仕方ねぇなあ、ちゃんと俺の仕事を見とくんだぜ」

 言う事はいっぱしなくせに、王英は顔を赤らめて、まともに扈三娘の顔も見られなかったという。

 そんなある日、晁蓋と宋江に嬉しい知らせが届いた。

 ある男がこの梁山泊を訪ねてきた。その名を聞き、二人は聚義庁を文字通り飛び出し、第三の関門まで迎えに行った。

 その男が姿を見せた。跳ね上がった揉み上げと(ひげ)。それは鄆城県(うんじょうけん)の歩兵都頭である雷横(らいおう)だった。

 雷横も宋江と晁蓋を見とめ、片手を上げた。

「よう蟋蟀(こおろぎ)野郎、久しぶりじゃねぇか。何しに来たんだい、一体」

「あの時のこそ泥ではないか。あいにく今日はお前に用はないんでね」

 劉唐が挑発し、雷横がそれに笑って答える。生辰綱(せいしんこう)強奪の話を持ちかけに東渓村(とうけいそん)へ出向いた夜、劉唐は雷横に捕縛された。あの日の事が、まるで昨日の事のように甦った。

 晁蓋と宋江が石段を駆け下りてきた。

「まだ勝負はついちゃいねぇんだぜ、蟋蟀野郎」

「ふん、まあ俺の勝ちと決まってはいるがな。いつでも相手してやるぜ、首を洗って待ってるんだな」

「へ、良く言うぜ」

「ふ、お前もな」

 劉唐が牙のような歯を見せてにやりと笑い、雷横も嬉しそうに白い歯を見せた。


 東京開封府(とうけいかいほうふ)での任の後、今度はすぐさま東昌府(とうしょうふ)へ行く事になった。その帰りに梁山泊(りょうざんぱく)の近くを通ったのだ。

 雷横(らいおう)は道をふさいだ梁山泊の兵を蹴散らした。宋江(そうこう)晁蓋(ちょうがい)に会わせろと叫んでいたという

 報告を受け、朱貴(しゅき)が駆けつけた。そして店へと案内し、そこで雷横の名を聞いたのだった。

「開封府でも、もっぱらの噂でしたよ。梁山泊が祝家荘(しゅくかそう)を討ち倒し、次は都へ攻めのぼるのではないか、と。それでたまたま近くを通ったんでお二人の事を思い出したってわけです、晁蓋どの、宋江どの」

「その(せつ)は本当に世話になった、雷横。しかも我らの心配までしてくれるとは、本当にありがたい」

「本当です。私もひと目会ってお礼を言いたいところでしたが、そういう訳にもいかず。して、朱仝(しゅどう)はどうしているかね。朱仝にも会いたいものだ」

「知県さまが、東京から来た新任になったんですが、朱仝は牢詰めのまま変わりません。(ちょう)(とく)(ちょう)(のう)がいなくなったんで、復職すると思っていたんですけどね」

 雷横が意味ありげに、にやりとしてみせた。晁蓋も同じように笑ったが、宋江だけは神妙な面持ちのままだった。

 その後は鄆城や開封府の様子などの話題となる。晁蓋が興味をひいたのは、東昌府の兵馬都監の噂だった。雷横も会えずじまいだったのだが、なんでも奇妙な技をつかうというのだ。それが何なのかは分からないのだが、配下にしている二人の将も一筋縄ではいかない男たちだという。

 いずれぶつかる男たちであろう。晁蓋はそう考えていたが宋江は違った。もしその者たちを梁山泊に入れる事ができたならば、と考えていた。

 その間で呉用(ごよう)は、口を挟むでもなく羽扇を揺らし続けていた。

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